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土曜日。一般的な高校生なら、部活組は早起き、部活がない人間は遅く起きるのが定石だろう。しかし、そのどちらにも属さない、部活はやっているが停止中、という珍しい立場に立たされた清河の朝は早かった。
六時半起床。起きたらまず洗面所で顔を洗い、日課であるストレッチをする。
体が柔らかいに越したことはないので、このストレッチはスポーツやるやらないに関わらず、意味があると言える。
まだ紅葉は起きていないようだったので、メモとともに朝食であるパンとサラダを作り置き、七時十分、ランニングシューズとウィンドブレーカーをまとって、財布とスマホを持って家を出る。
四月も中旬に入ろうとしていたが、比較的高緯度かつ標高も高めであるこの地域の朝はまだ寒い。白い息を撒き散らしながら、だんだんとペースを上げて走っていく。
昨日とは違う道を走りたいと思い、駅の方角へと足を進める。駅までは走れば三分とかからず着く。町の一番の中心である駅を越え、線路と並走するような形になると、駅の駐車場には休日だからだろうか、車がたくさん止まっている。その駅の敷地を抜けると、線路を挟んだ向かいに清河の通う高校が見えてくる。
そのグラウンドでは、サッカー部が試合の準備をしているのが見て取れる。野球部が使わない分、さらにグラウンドは広く使える。サッカーが二面とれてもおかしくはないほどに、久我西のグラウンドは広い。視線を戻して前を向くと、ほどなくして右側、距離にして一キロはあるのだろうか、巨大な工場らしきものが見える。否、それは間違いなく工場だ。
敷地面積、千八百メートル×八百メートル。隣町とこの町にかけて作られた巨大な半導体生産工場。谷之森町が属する真華市の政策として、六年前の合併時に作られ、最新鋭の設備を兼ね備えたこの町のシンボルともいえる建物。
その工場の前には、輸送用のために新たな道も建設された。
清河は、その先端技術の英知である工場を快く思ってはいなかったが、この町がその工場おかけで過疎化を免れているのもまた事実だった。
その新しく作られた道を挟んで線路沿い、清河が今走っている道沿いには工業団地があるのだが、清河が一目見てわかる通り、その工場の多くがすでに使われていない。
そして駅から二キロほど、工業団地の入り口あたりにある踏切を渡る。
バーが廃れてしまい酷く汚れてしまっているその踏切を渡り、今度はまた駅方面へと向かう。清河の背中側には陸上競技場兼サッカー場と、一年に一度プロ野球の試合が行われる野球場がある。右手に新しい住宅街を見据えながら、高校の前まで来る。そこから一本、右に道を逸れた場所に、例の大学病院があった。
県立昇華大学付属病院。大学の官舎はここから五キロほど行った隣町にあるのだが、その付属病院があるのがこの町。
半導体生産工場には及ばないものの、五百メートル四方ほどの面積を持つこの病院も、やはりこの町の象徴と言えるだろう。
四つある門のうち、二つ目に大きい門から病院の敷地に入る。敷地入ったらまず、有名なチェーン喫茶店が目にとまる。そこを通り過ぎて奥に進むと、もう一つの道と合流し、外来受付窓口がある建物へと入っていく。
午前八時を回ったあたり。土日の面会時間は八時から午後五時と定められているが、朝早くから面会に来る人は少ないようで、受付前のロビーは人がまばらだった。
受付の人に軽く会釈すると、そのままエレベーターの隣の階段を上る。エレベーターがちょうど使えるタイミングではあったものの、やはり若者がエレベーターを使うのは背徳感に駆られざるを得ない。
二○二号室には、朝の日差しが目一杯注ぎ込んでいた。カーテンが全開に開け放たれたそこに、遠藤尊彦はいた。
失礼します、と言って入ると、すぐに返事が返ってくる。
「おお、小鳥遊くんか、こっちへどうぞきたまえ」
老人に促されて、ベットの脇のパイプ椅子に腰掛ける。
「ここに来てくれたってことは、もしかしてやる気になってくれたのかな?」
「ええ、昨日一日考えたんですが、やっぱりこの一年暇になりそうです。監督が戻るまでの数ヶ月間、俺がその子たちを見てもいいですか?」
清河は、昨日の夜考えて出した答えを尊彦に伝えた。
「ああ、実はもう昨日のうちに保護者には連絡を取ってあるんだ」
「えっ?昨日?」
「君はやってくれる、となぜかそう思ったんだよ。まあ保護者たちも高校生だってことを伝えると半信半疑だったがな。小鳥遊くん、君なら大丈夫だろう」
「はい、期待に応えられるかはわからないですけど、精一杯やるつもりではいます」
うむ、といった風に尊彦が頷く。そして、満足そうな笑みのまま口を開く。
「それで、何が決め手となったんだい?紅葉ちゃんになんか言われたのかい?」
「って、やっぱり紅葉の兄ってこと知ってたんですか!まぁ、それもありますけど…」
清河は昨日出会った日依梨のことを話した。プロ野球選手の父をもち、あれほどの才能。彼女に見惚れたというわけではないが、なんらかの魅力を彼女に感じてしまったのは事実だ。
「日依梨ちゃんねぇ……やっぱり。うんそうかそうか、日依梨ちゃんの才能はやはりそれほどのものだったのか。私は野球に詳しくないからねぇ…。君に教えてもらえる間になにか掴めるといいな」
「いえ、俺に人に教える才能なんてないですよ、多分。それでも、まぁやれるだけやってみます。あと紅葉も含めて十人いるんですよね?その子たちのこともできる限りサポートしてやりたいです」
「君がそこまで熱意を持って言ってくれるなら安心だな。じゃあそれと…」
尊彦から大会のスケジュールが書き込まれたカレンダーと部員の名簿が渡される。
「実は今日も練習があるんだ。一時から、あの公園でね。ぜひその練習から付き合って欲しいんだが…」
「了解です」
こうして、簡単に監督業引き継ぎのようなものを終え、病室を後にする。倒れたばかりだというのに、尊彦は嬉しそうに笑って清河を送り出してくれた。
四月十五日午前十時、谷之守スポーツ公園内真華野球場
監督、主将は試合開始の一時間前に野球場内バックネット裏の管理室に集合。
手に持った大会トーナメント表の裏にある大会日程を見て、清河は目を点にしていた。
大会が近いことは知っていた。だが、まさか今日を含めて三日後に試合があるなど聞かされていない。確か清河が小学校のときは、大会初日でも二十日以降だった。
そのはずが、まさか明々後日に最初の公式大会。
「どうかしたのー?」
そこに、自室から降りてきた紅葉が口を挟む。
清河は、紅葉に監督業を引き受けたことを伝え、試合のことについて尋ねる。
「やっぱり兄さん引き受けてくれたんだー。ふふふ。あー、試合ね、知ってるよ。明々後日でしょ?確かあのおっきな野球場で」
「いや知ってるって紅葉、大丈夫なのか?この前見たけどほぼ野球らしきことはしてなかったじゃ…」
「んー?大丈夫なんじゃない?よくわからないけど」
「紅葉、一つ聞くぞ…。その、ポジュションとかって決まってるのか?」
「ポジション?わからないけど……」
こりゃダメだ、清河は頭を抱えた。尊彦は自分は野球に詳しくないと言っていたが、まさか守備位置すら決まっていないとは。
「それで兄さん、今日の午後から来るんでしょー?多分今日はたくさん人集まると思うけど」
「ああ、行くよ。大会までもうすぐ。監督業を引き継いだ以上試合にも俺が………」
「やった!やった!」
そう言って紅葉がはしゃぎだす。清河の表情が冴えないのに気づくそぶりもない。
ハァ、とため息をつきながらキッチンに向かう。
適当に有り合わせでおかずを作り、主食としてライスに半熟卵をかける。
基本紅葉は好き嫌いしないし、何を作っても美味しそうに食べてくれるので、作る方としては非常に気が楽だ。
わずか十数分の調理を終え、食卓に料理を並べる。いただきますをして一緒に食べる間、紅葉は終始嬉しそうだった。
食器を片づけ皿を洗い、自分の部屋へ向かう。野球をするための服装に着替え、試合用ではないサブのグローブを持つ。
守備の練習をする可能性もあるかと考えて、いつも使っているバットを右肩に下げる。
すると今度は白地にピンクのラインが入ったウィンドブレーカーをまとった紅葉が、グローブを入れているであろう袋を下げてやって来る。
「そういえば紅葉、グローブ買ったのか?」
「げ…、そ、その兄さんの昔使ってた……」
しまった、という顔をして紅葉が恐る恐る袋の中をこちらへ見せる。それを取り出すも、
「ってやっぱ左利き用じゃん。俺が使ってたんだから、まぁ当たり前なんだけどさ。紅葉、お前右利きだろ?」
「う、うん右利きだけど……あんまり関係ないかなって。ほ、ほらまだ始めたばっかだし?」
「ちょっと待ってろ」
そう言って二階に向かう。大会の賞状等色々置いてある棚の下を漁ると、あった。
中学一年のときだったか、多分同学年だとは思うのだが、名も知らない女子から、「受け取ってください!」と言われてもらったものだ。グローブなんてそんな安価なものじゃないし、断ろうと思ったのだが、その女生徒は何も言う前に走り去ってしまった。しかも清河も慌てて、その生徒の顔を覚えていなかった。
今となっては苦い思い出でしかないが、そのときにもらったグローブだ。しかも右利き用、左利きの清河はもちろん使わない。
少し大きいかもしれないそのグローブを紅葉に渡して、同時に家を出る。
家から徒歩数分で着くその公園には、すでに多くのメンバーが集まっていた。まだ集合時間五分前ではあるが、時間にはきっちりしているらしい。
紅葉の隣に見知らぬ人が立っていることに驚いたのか、話などをしていた女子たちが一斉に黙る。その中に入って紅葉が何かを話すと、こちらを一瞥した後、会話を再開した。
「清河…さん?ですよね…?」
後ろを振り向くと、そこには日依梨がいた。
「ああ、そうだよ」
驚いた表情の短髪少女を見て、答える。
「な、なんでここに……?」
「そういえば言ってなかったっけな」
日依梨に一連の出来事と、監督業を尊彦の退院までの間引き継ぐことを伝える。
「えっ……!?清河さんが監督…?」
驚いたような嬉しいような、なんとも複雑な表情をした日依梨が言う。
「監督っていっても大したことはできないと思うけどな。一応遠藤監督は、試合のとき俺がベンチに入れるようにはしてくれたみたいだけど」
「本当に……清河さんが、監督っ!?」
「あ、ああ、本当だよ」
「嬉しい、ですっ」
「そうなのか?ん、まぁ、うん」
後ろから妙な視線を感じて振り返ると、他のメンバーが清河と日依梨のことをじっと見ていた。
日依梨が慌ててそっちに向かう。さっきより人が増えたのではないかと思い数えると、そこには計十一人の女子児童達が集まっていた。清河は紅葉を手招きだけで呼び寄せると
「これで全員か?」
「うん、今日は全員集まったみたいだねー」
「よし、わかった」
そしてベンチの方へと向かい、女子児童達に向く。
「みんな聞いてくれ。知ってると思うけど、みんなの面倒を見てくれていた遠藤監督は、今入院中だ。明々後日にある大会にも遠藤監督は来ることができない。そこで俺、小鳥遊清河が遠藤監督の代わりとして少しの間、監督代行を行うことになった」
意識的にゆっくりと、聞きやすいようにはっきり言ったつもりだった。しかし、そこにいる女子児童達は日依梨と紅葉を除いて皆、きょとんとした表情をしている。
「えーっと…そのだな、せっかく全員集まったんだから自己紹介をしてくれると…」
白けた雰囲気になってしまい、清河の言葉に覇気がなくなる。誰もが口を閉ざし、沈黙が訪れる。その中、口を開いたのは日依梨だった。
「えーっと、私は天月日依梨です。好きなことはプロ野球を見たり、ドラマとか…」
日依梨が口を開いたことに驚いたのか、その他のメンバーは日依梨に視線を釘付けにしていた。すると日依梨がオドオドと下を向き始めたので、慌てて清河は誰ともなしに拍手を送る。するとその拍手はやがてチーム全体に伝染した。
その拍手が途切れて再び沈黙が訪れるのかと思ったとき、紅葉が手を上げて自己紹介を始める。淀みも緊張感も感じられない語りで自己紹介を終える。すると順々にノってきたメンバーが次々に手を上げて自己紹介をする。
清河はそれを聞きながら、手元の名簿を見て名前を覚えようと努力した。すると八人目、順調にことが進んでいた中で、異変は起きた。
「我の名は夜神月奈。<夜を司りし神>、<漆黒の(・)女王>、人々はそう呼び、時代ごとに我を畏怖と恐怖の対象としてきた……。だがそれも、夜の力が無限であり、全てを照らす太陽を覆す唯一の力であるからだ。それを持つ我が恐れられても無理もないだろう?
さて…我の目的は、唯一つ。全ての世界を夜の力で支配し、<明けない(ミッド)夜の(イ)国>を創り出すことだ。球をボールで打つ程度の競技なぞ、我からすれば、遊びにしかすぎない。でも……人々の営みを理解するのも神の務めだ。神の名を持つ我がココにいるのはそういう理由があってのことだ、誤解はするなよ」
噛むそぶりも見せず、堂々とした態度でそう告げた。
「えっ…」
清河は思わず声を上げた。
これは俗に言う「中二病」というやつではないか?という疑問が頭の中に浮かぶ。
しかし唖然としている清河とは裏腹に、月奈と名乗った少女に視線を向けていたメンバーたちは、その言動がさも当然といった風に月奈に拍手を送っていた。
清河もつられて拍手をしたが、名簿の月奈の欄には何も書けなかった。そして、すぐに次の自己紹介が始まる。
玲、怜と名乗った双子、小四の最年少の二人が、まさに二人で一人といった息ピッタリの自己紹介を終え、十一人すべてが終了した。
初対面である清河を前にしたためか、手間取った子もいたが、周りのメンバーが声をかけることによってどうにか全員乗り切った。
十分ほどの自己紹介を終えて清河が得た情報は、それぞれの好きな食べ物や趣味、それとチーム全体の雰囲気というか仲は良好である、ということだ。
「じゃあ最後に俺の自己紹介だな。さっきも言ったけど、俺の名前は小鳥遊清河。久我西高校に通う高校一年で、野球部。だけど訳あって今部活ができないんだ。趣味は野球観戦、ランニングなどの自主トレ、好きなことは野球。特技は野球。好きな食べ物は…基本何でも好きだな。
えー、俺のことはまぁなんて呼んでもらっても構わない。あと…聞きたいことはあるか?」
すると、八重歯とロングの赤髪が特徴的な、米良彩と名乗った少女が手を挙げる。
「はーい、小鳥遊監督!彼女はいますか?」
「いや、彼女はいない。今まで一人もいたことはない…」
事実であることを口にする。しかし、改めて言葉にしてみると、想像以上の虚しさが込み上げてくる。
中学校時代、幾度となく告白やら本命チョコやらを貰ったりもしていたが、思考の余地もなくその答えはノーだった。
「じゃー好きな人はいるんですか?」
今度は短めの栗色の髪をした、明野智夜と名乗った生徒が口を開く。
「いや、好きな人とかは特にいないけど・・・ってそんな質問ばっかかよ!」
すると、最初に手を挙げた彩が口を押さえて笑い出す。さらに智夜も肩を揺すらせて笑い出し、なぜかチーム全体に笑いが広まる。
「………」
どう対応すれば良いかわからなくなり、呆然とする。
すると突然、
「清河監督は妹のことをどう思いますかっ!?」
紅葉が元気よく手を上げながら叫ぶ。
「どうもこうもあるのか?妹なのに」
「可愛いとは思いますかっ!?」
続けて紅葉が言う。
「え、いや、まぁ普通に……」
なぜこんな質問をされてるのか理解できずに、返答に窮すると、満足そうな顔をした紅葉がふふっと笑って口を閉ざす。
最初こそ白けた反応だったが、徐々にメンバーの緊張もほぐれてきたようだった。紅葉の兄ということもそれを手伝ったのかもしれない。
それぞれが隣同士でモソモソと何かを話し始めたところで、清河は再び口を開いた。
「えー、まぁ変な自己紹介になっちゃったけど、早速野球をやっていきたいと思う。知ってのとおり、学童大会は明々後日に迫っている。とりあえず早くポジションを決めてしまいたいから、キャッチボールをしてくれ。それを見てポジションを判断する」
するとメンバーは、はーいと言ってのそのそとボールを取りに歩き始める。
どこから金が出てるかは知らないが、バットが二本、ボールが十個、ベンチの上に置いてある。
それぞれが仲良い同士で二人組を作り、ボールを持って散る。
「そうだ、十一人だから一人、誰か俺とキャッチボールをしてくれないか?」
余ったボールを持ちながら、清河は言った。硬式を普段使ってたからだろう、小学生基準の軟式ボールは相当小さく感じられる。
紅葉はもうペアを組んでしまったのだろう、誰も手を上げずに微妙な空気になりかけたとき、日依梨が恐る恐る手を挙げた。
「じゃあ日依梨、よろしく」
そう言ってキャッチボールが始まる。皆各々がバラバラの方向でキャッチボールを始めてしまったが、日依梨の指示によって南北方向に統一される。聞いてはいないが、日依梨がキャプテンなんだろうとこのとき確信した。
昨日シャドウピッチングを見ていたときから思っていたが、日依梨は野球が相当上手い。
玄人はキャッチボールを見ただけでその選手の守備の技術がわかると言われるが、日依梨は良い選手であると一目でわかる。
捕ってから投げるまでの一連の動作がしなやかに、無駄なく行われる。当然、手足の長さは身長に比例するだろうから、日依梨の手は長いわけではない。それでも、あるだけの体重が全て乗っかったストレートは、綺麗な回転で清河の構えた位置に真っ直ぐやってくる。
さっきは、日依梨がキャッチボールのペアを作ってなかったことに疑問も抱いたが、それも無理もない。球速以上に速く感じるその球は、捕る方にもある程度の技術が求められる。
日依梨の投球動作にしばし見とれてしまい、ハッと気づいて横を見ると、そこは悲惨だった。
五組のペアはまともにキャッチボールというものになっていない。投げたボールは明後日の方向に飛び、たまに捕りやすい場所に行くと、グローブはそのボールを落とす。ボールが怖いのか、飛んできたボールから逃げる者までいて、清河は言葉を失った。
清河が呆然としている意味を察したのか、日依梨は肩をすくめてみせた。
十五分ほど、そのキャッチボールとも呼べない何かを続けたが、飽きてしまったのだろう、メンバーの半数近くが座りこんでしまったところで、休憩、と言う。
すると、自販機へ向かう者、ベンチに座って話す者、バットを振り出す者に分かれる。清河はバットを振り出した月奈に「周りの人に当たらないように気をつけろよ」声をかけた。
そして、自分のグローブを見つめていた日依梨の肩を叩く。
「日依梨、キャッチャーとかって、決まってるのか?」
「いえ…決まってません」
「打順もポジションも?」
「ええ…決まってないです…」
申し訳なさそうに言う日依梨に笑ってみせるが、正直頭を抱えたい。
試合は三日後、試合まで練習はほとんどできない状況だ。相手がどこであろうと、必敗。
昨日のうちに察せなかった清河も悪いのだが、予想以上に厳しい戦いになりそうだった。
その後、軽いノックなどをしたが、当然、まともな練習になるはずもなく、午後二時半、実質一時間もやれずに、今日は解散となった 。
百六十センチを超えているだろう、茶髪ボブカットの土谷萌と名乗った高身長女子が、さっき清河に真っ先に質問をしてきた彩に誘われてどこかへ向かう。
日依梨も用事があるのだろうか、すでにその姿はなかった。紅葉は仲の良いという辻紗枝とともにどこかへ行ってしまった。
グラウンドにはもう誰もいないな、と思い公園を後にしようとしたとき、清河の視界に何かが映った。
そのなにか、の方を向くとそこには、上下を黒地に金とも黄色ともわからない派手な色が入ったウィンドブレーカーでまとい、夜を思わせる綺麗な黒髪の左右を紅葉と似たようにツインテールでまとめ、月の形を模した髪留めで留めた月奈がいた。
そして月奈の手にはバット。それにも何やらスポーツメーカーのものとは思えない紋様が入っており、よく見るとそれが三日月の形をしたものだとわかる。
一言で言うと、月奈はそのバットを使って素振りをしていた。
公園のグラウンド部分の一番端、入り口から最も見えにくい場所でバットを振るその姿は、努力しているのを見られたくない、といったような思いが感じられる。振り返ったが最後、そこから目をそらして帰るのが許されない気がして、清河は素振りをする月奈の元へ近づいて行った。
百五十センチに満たないであろう身長、軽く押しただけで倒れてしまいそうな体。そしてその体が振り回すバットも決して高速ではなく、バッティングフォームも日依梨と比べれば、いささか不恰好だ。
清河は自分に背を向けて素振りをする月奈の元へ近づいて、声をかける。
「月奈?ちゃん?」
「ひゃっ!?」
比較的優しく声をかけたつもりだったが、月奈は可愛らしいソプラノの声で純粋に驚いた。そして素振りをしていたバットを地面につき、ゆっくりとこちらを向く。
「素振り、してたのか?」
愚問だ。誰がどう見ても、月奈は素振りをしていた。しかし、月奈は目を見開いてブンブンと大きく首を振り、慌てるようにして口を開く。
「ふ、ふんッ!完璧な私が、そんなことするわけ無いでしょ……あ、違う!えっと………か、完璧な我が、そんなことする筈無かろう?」
「そ、そうか…。まぁいいけど…なんなら俺がスイング見るぞ?大した指導できないかもしれないけど」
すると月奈は顔を赤くしながら、
「ぬ、主なんぞに、教えを乞うことなど、あ、有り得ないわ!」
と言って再び清河に背を向けてしまった。清河と同じ左打ち。さっきキャッチボールのときにも見たが、投げる方も左で清河と一緒。
しかし、数回スイングを見ただけでそのスイングに改善の余地がある、と判断した清河はもう一度月奈に声をかけていた。一人残って練習をするその姿が、部活を停止させられ一人でトレーニングをするしかなくなった清河と重なったから、なのかもしれない。いずれにせよ清河は、この小さな中二病少女に親近感を抱いてしまった。
「なぁ、月奈、って呼んでいいか?」
「はへ?……ぬ、主は我を愚弄する気か!つ、月の女神の名を持つ我に敬意を見せるどころか、呼び捨てなど…………」
「よし、じゃあ月奈でいいな」
月奈の言う意味は全く理解できなかったが、嫌悪感を示したようにも思えなかったので、ひとまずそれが了解だととっておく。
月奈のスイングには、単純に二つの欠点があった。力がないせいか、バットの振りがドアスイングになってしまっている、というのが一つだ。
ドアスイングというのは、ボールとバットが当たるときに、リードする腕(右打ちなら左腕、左打ちなら右腕)が折り曲がって開いてしまうという状態のことをいう。こうなってしまうと、打球に力はなくなり、空振りも増えてしまう。
そして、バットが重すぎる、という点。確認したわけではないが、月奈の力は決して強くない。それは、その華奢な体を見ればわかることだ。自分に合っていない重いバットは、体に負担をかけ、スイングを悪い形にしてしまう。結果、そのバットを使い続けることがドアスイングにつながる。いわば連鎖障害、といったことろか。
「月奈、ちょっとバット貸してくれないか?」
すると月奈は驚いたような顔になり、清河の目を見ると下を見て俯いてしまった。
「ダメか……?」
すると、恐る恐る、月奈は清河にそのバットを差し出してきた。清河がそのバットを受け取ると、月奈はさらに俯いてしまう。首を傾げながらそのバットを見ると―――そこにはさっき見た通りの十五センチほどの三日月の紋様。
それも初めから印刷されていた模様ではなく、明らかに手書きだとわかる。元々のメーカーのマークは黒ペンで消してあり、バットの塗装と若干光の反射の仕方が違うため、違和感を覚える。
そしてバットの根元、野球連盟による大会使用許可のロゴの上に、『★RUNA★』と書いてある。清河はそのバットと俯く月奈を見比べ、気がつかないふりを装おう、と決めた。無論、気づいていると月奈もわかっているのだろうが。
そのバットを一周させ、それを見つけた。バットの重量が書いてある場所、そこには80㎝/620gと書いてある。六百二十グラムといえば、小学生にしては少々重めである。それをこの華奢な月奈が振るというのには多少無理があるだろう。そして、八十センチメートル、これも小学生にしては長めに分類されるはずだ。
清河は月奈にそのバットを返すと、もっと軽いバットを使うべきだ、と理由も含めてなるべく柔らかい表現で伝えた。しかし、月奈は
「嫌だ。我は、そんなに弱弱しくない!それに、このバットはただのバットではない!神である我にのみ使用が許された武具の一つ<月の文様の宝器>(ムーン・ジュエル)だ。そう簡単に手放せるものか!」
「そのバット、そんなに好きなのか?」
「うむ!私のお気に入りなんだ」
そう言って初めて、にっこりと笑った。
「なんだ、笑うと可愛いじゃんか」
なぜか、こんな言葉が出てしまった。すると、顔を赤くした月奈が顔をブンブンと振って縮こまる。清河もなんだか照れくさくなってしまい、急いで次の言葉を紡いだ。
「野球、好きなんだろ?どうせ好きなことやるんじゃ、たくさん打てたほうがいいし、活躍できたほうが楽しいに決まってる。だから、そのバットが振れるくらい上手くなるために、今はこれを使って練習しようぜ」
そう言って傍らに置いてあった軽い方のバットを渡す。すると、中二病言葉も忘れてしまったのか、顔を上げた月奈が二回頷く。清河はそれを見ると、月奈にバットを持たせ、少しでもドアスイングが改善されるようにアトバイスした。
およそ三十分、マンツーマンでの自主トレが終わった後、月奈の打撃フォームは見違えるほど良くなっていた。
それは清河の教えが良かったからではない。他ならぬ月奈自身が、飽きず、向上心を持って取り組んだからだ。
満足そうに黒のウィンドブレーカーをはためかせて去っていった月奈を見届けて、今度こそ清河は家を目指した。




