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翌朝、今まで通りなら朝練に行っていたはずの清河は、癖で早起きしてしまい手持ち無沙汰だったため、ランニングをしていた。
朝練のため六時五十分には家を出るはずだったので、その時間を埋めるために四キロのランニング。恵まれた快晴だというのに野球ができないことに苛立ちを覚えながらも、ペースを落とさないように気を引き締める。
学校までの通学路とは反対方向、町の外れの方角へ向かって走る。線路と並走しているこのコースは、春休み中ずっと使っていたコースだったため少々飽きが来ているが、代わりのコースが思いつかなかったので仕方がない。住宅地をぐるりと囲むように走りながら、道行く人に頭を下げる。
OLと思わしき犬の散歩をしている女性は、清河に笑顔で挨拶を返してくれた。
文字通り、爽やかな朝である。
しかし、清河の心はその晴天とは裏腹に、どんよりと曇っていた。
もちろん、部活動停止の件である。
学校で野球部の仲間に会ったらなんと言えば良いのだろうか。いじめの実行犯に清河は何か文句を言うべきなのか。
十四分ほどでランニングを終え、帰宅。同時に紅葉が二階から降りてきて、朝から元気な顔で清河におはよう、と言う。
出かける前に焼いていったパンはいささか冷めてしまっていたが、火照った体にはちょうど良かった。ニュースを見ながらの朝食を終え、シャワーで汗を流す。
それでも暇になった時間を新聞を読むことによって潰し、七時五十分、清河は久しぶりに紅葉と一緒に家を出た。
「行ってきます!じゃまた放課後!」
紅葉が元気な声を張り上げて駆けていくのを見届けた後、清河は一人学生カバンを肩に下げて学校へ向かった。
家からは一キロと少しのところにある、県立久我西高校。生徒数七百二十八人、部活動全体として顕著な成績を残し、県内公立校最強の名を欲しいままにしている。そのため、部活をやるために町外からも多数の生徒がこの学校にやって来ている。かといって、学校全体としての偏差値も五十五と、高いとは言わずとも決して低いわけではない。
あまりに運動しかせず、全く勉強ができませんという者は、この学校にはいない。その他にも、普通科とは別に設置された英語科では、有名大学に多数の生徒を輩出し、県内の先端を行く高校でもあった。そしてその野球部は、ベスト八、ベスト四には常連、年によっては甲子園に出場することもある、いわば強豪。公立で最も甲子園に近いと言われてるこの高校に清河が入学を決めたのも、過去の実績があったからだった。
それが今や部内暴力で活動中止。学校内でも一目置かれている野球部の失態は、すでに全校生徒の知るところだろう。
十分ちょっとの通学が終わりに差しかかり、清河はその三階建の校舎を見上げた。その隣のグランドに野球部の姿がないのを確認して、またため息をつく。
憂鬱な気持ちを隠そうともせずに下駄箱で靴を履き替える。
下っ端は多く歩け、という意味なのかは知らないが、三階に配置された一年生の教室へと向かう。
階段を上りきり、教室へと足を踏み入れようとしたとき、後ろから肩に手が置かれた。反射的に振り返ると、そこには中学時代の清河の女房役、碓氷が立っていた。百八十センチをゆうに超えてるだろう背丈に、がっしりと筋肉がついた肢体。初めて見た人なら圧倒されるだろう。その碓氷に連れてかれるがままに、並んだ普通教室のとなりにある鍵が開け放たれていた空き教室に入る。
切り出したのは碓氷だった。
「まぁ知ってると思うが、確認だ。俺らがここに合格してから二ヶ月、野球部の練習に来ていたな?その間に一年生十七人のうち数人が、三年から暴力を受けていた」
「三年から?」
「ああ、さっき他の奴に聞いた話だと、二年は全く関与していないらしい。まあ知っていた奴もいるかもしれんが、実際に暴力をしていたのは三年という話だ」
清河は目を見開いた。てっきり自分たちより下の立場の人間できた二年が暴行をしていたと考えていたのだが、どうやら違ったようだ。
「全く馬鹿らしい話だぜ。それで一年間野球ができないなんてな。ふざけんなよって」
碓氷がいらだった様子で机を叩く。
「この決定が覆ることはないのか?」
一縷の望みを託して問う。
「だめだな、この決定は高校野球連盟からだ。俺らが何したところで決定は覆らねえだろうな」
さも悔しそうな顔で、碓氷が言う。
希望はないとわかっていたものの、改めて信頼の置ける碓氷にそう言われると、塞ぎ込んでいた絶望感が湧き上がってくる。
しばしの間、二人とも無言になる。ちょうどそのとき始業のチャイムが鳴り、たまには一緒に自主トレをしよう、という話になってその場は解散となった。
その後、授業はいつも通り行われたが、授業中も全く集中できず、ただただ時間を浪費していくだけだった。名前も知らないような女子生徒が清河に事情を聞いてきたときは、さすがにうんざりした。
学校中が、今年最も注目を集めていた部活動であった野球部の話題でひっきりなしの中、清河は心に溜まる憂鬱を、ため息をつくことによって逃がしながら一日を終えた。
野球の道具がないことによって圧倒的に軽くなった通学カバンを持ち、清河は学校の校門を出た。砂が取り除かれた上質な土のグラウンドには、もちろん野球部の姿はない。いつもはグラウンドを半分ずつ分け合っているサッカー部が、野球部の使用面積に入り込んでいる。もともと公立校としては広大な面積を誇るグラウンドを目一杯使えて、サッカー部はさも満足といったところだろうか。
家への道のりの途中、清河は先ほど行われた野球部会議を思い出していた。
暴力を行っていた生徒は、碓氷の言っていた通り三年で、数は四。名前すら覚えていない生徒だったから、間違いなくレギュラーメンバーではないだろう。いじめられた生徒は二人で清河と同じ一年生。顔には傷は見受けられなかったものの、後で個人的に見せてもらった背中には、痛々しい痣がいくつも見受けられた。これを全部やられたのか、と聞くと、その生徒二人は黙って首肯した。
そのことを多くの部員が知らなかったというのもまた事実なようで、最後の一年、甲子園出場を絶対目標としていたエースは、怒りを隠そうともせず、壁に拳を打ち付けていた。
責任問題を問われるだろう名将、小野田監督はおそらく監督辞任。四人いた女子マネージャーも二人は退部を決めたようで、清河は野球部が崩壊していく様子をただ見ていることしかできなかった。
足取りの重さは朝よりも悪化していたが、トレーニングだけは欠かさずやろうと思い、昨日の公園に向かう。
昨日と同じ位置にカバンを置き、上着を脱いでジャージになる。すると清河は公園の中心、土になっている部分に女子の集団がいるのを見つけた。
目を凝らすと、それが昨日の女子野球チームのメンバーだということがわかる。全員がジャージに身を包んでいて、スポーツがしやすそうな服装をしている。
清河は、昨日の老人との会話を思い出し、どんな練習をするのかしばらく窺うことにした。怪しまれないよう、さも自然体を装ってその集団を見やる。
しかし、あろうことか一向に練習は進まない。ベンチに座り込んで話をする者もいれば、木の枝を持って地面に絵を描きだす者もいる。
そしてなぜだか全身に真っ黒のジャージを纏い、フードをかぶり、ブツブツと何かつぶやいている者までいた。
見たところ野球らしき行動をしているのは一人だけ。昨日、救急隊員を誘導するように頼んだ際、引き受けてくれた赤髪ショートヘアの少女だった。
肩口で髪を切りそろえたその少女は、右手に持ったロングタオルを使って、シャドウピッチングを行っていた。百五十センチに満たないであろうその身体全体を使った投球フォームは、遠くから見ている清河でもわかる。彼女には才能がある、と。しばしその練習姿に見惚れていた清河は首を移動して固まった。
なんと、そこに紅葉がいたのだ。同学年だろうか、同じくらいの背の少女と一緒に木の根元に座り込んでいる。
一昨日だかに清河が洗濯をした黒地にピンクのウィンドブレーカー。両サイドで髪を結ぶその後ろ姿は、間違いなく紅葉であった。なんでここに紅葉がいるのかと、清河は声をかけようとして、踏み止まる。ここで出て行ったら不審者だと思われるだろうか、とにかく周りの少女たちに疑念の目を向けられるのは間違いない。
それから十数分が経ち、太陽がだいぶ西に傾いた頃、三々五々少女たちは散っていった。紅葉の姿も見えなくなり、あたりには街灯が灯り始める。だいぶ長い時間その集団を見ていた清河は、自分もそろそろ四周走って商店街に買い物に行こうか、と思って踏みとどまった。
さっきシャドウピッチングをしていた少女が、今度は素振りをしていたのだ。
決してスイングが速い、というわけではない。あの少女が打ったところで打球が遠くへ飛ぶとも思わなかったが、そのスイングはピタリと平行運動を行っており、まるで野球雑誌の見本スイングを見ているかのようだった。
清河はその少女の事が気になってしまい、走るのも忘れて少女の近くへと向かった。
すると少女もこちらに気がついたのだろうか、振っていたバットを立て、こちらを見た。思わず立ち止まるが、少女が怯えているようには見えない。清河は意を決して少女の近くまで歩みを進めた。
「えっと…き、君は女子野球チームのメンバー、でいいのかな?」
近づいたのはいいものの、なんと言えばいいかわからずにそんなことを口走る。
「はい、そうです」
清河よりもはっきりとした、礼儀正しいといった態度で少女が答える。
会って早々の小学生に使う言葉ではないのかもしれないが、どこか、大人っぽさを感じる。
「そ、そうか。今、君の素振りを見ていたんだけどな、すごく綺麗なスイングですげえなって思ってたんだ。あ、俺は…」
「小鳥遊清河…さん?」
自己紹介をしようとした清河に被せるように少女が言う。
「えっ、なんで俺の名前を?」
「谷之守中でエースだった小鳥遊投手ですよね?全国ベスト8まで上り詰めたあの…」
初対面だというのに人見知りする様子もなく、清河の目を見て喋るため、清河の方が少したじろいでしまう。
「ああ、そう、その小鳥遊清河で間違いない。ってまさか知ってるとはなぁ…」
この町内だけではあるが、自分の知名度の高さに今更ながら驚く。
「もちろん知ってますよ!全国大会でMAX百三十キロ。ストレートと投げ方の区別がつかない変化球にバッターは驚いて手が出ないって!更には朝練の前にも走り込むような努力家で、野球の練習を全く苦に思わないらしいですし!準準決勝後にデッドボールを当てた相手チームの選手に声をかけに行った話はすごく話題に…!」
と、少女はそこまで言って頬を赤らめて俯いた。正直清河も、面食らった。まさか初対面で自分のことについてここまで語られるとは。しかもまだ語り足りてないといった様子だ。
自己紹介以前にこれほど自分のことについて語られてしまったため、思うように次の言葉が出てこない。少女はまだ俯いたままだった。
「そ、そうか・・・。え、えと…君の名前は?」
意を決してそう口を開く。
「わ、わたしですか?わ、わたしは天月日依梨って言います……」
さっきに比べて幾分おどおどした声で日依梨と名乗った少女が答える。
「天月…日依梨ちゃん、ね」
はい、と言ってまた日依梨は俯いてしまう。清河も続く言葉につまり、二人の間に微妙な空気が流れる。
日は西の空に沈みきり、気温は更に低くなっていく。
「うちへは帰らなくていいの?もうこんな時間だけど」
「うちには、その、お姉ちゃんはまだ帰っていないはずですし…。家にいても一人じゃつまらないんです……」
「お姉さん?両親は?」
「いえ、お母さんは九年前に死んでいます…。私はそのときの記憶があんまりないんですけど……」
触れてはいけないことに触れてしまった気がして、清河は軽率な自分を恥じた。
天月…妻が他界…清河はその二つの言葉に聞き覚えがあった気がして、思い出そうとする。
「言いたくなかったらいいんだけど、お父さんの名前って…?」
「天月、大成です」
「やっぱり!あの天月選手!」
聞き覚えの正体がはっきりして、清河は大声を上げた。天月大成、ピッチャー、プロ野球選手。決して知名度の高い選手ではないが、その投球術と野球に対する姿勢は清河も学ぶものがあったので、覚えている。
「お父さんのことを知っているんですか…!?」
日依梨が顔を驚いた、という表情に変えて言う。
「ああ、知ってるさ。個人的には好きな選手でもあるしな」
さも当然、といった清河の反応に日依梨は驚いたようだった。口を開け、呆然としている。
「どうかした?そんなに驚いたような顔して」
「いっ、いぇっ!あの、その、お父さんのことについて知ってたのは清河さんが初めてだったので…」
「そう…なんだ。あの体躯であれだけの球が投げられる選手は天月選手一人だけだと思うけどなぁ…」
「そ、そんなことは…」
家族代表としてだろうか、日依梨が謙遜を込めて言う。
「じゃあ野球は、大好き?」
「もちろんですっ!やるのも見るのも全部好きです!」
さっきまでとは打って変わって、日依梨が満面の笑みで答える。
「そうか」
日依梨の笑顔に思わず清河も自然が笑みがこぼれてれしまう。
「じゃあそろそろ帰るとするかな。日依梨ちゃん…?でいいのかな」
「日依梨で大丈夫ですよ」
「そうか、時間取らせちゃって悪かったな。またな、日依梨。気をつけて帰れよ?」
「いえいえ、清河さんこそ、気をつけて」
教科書通り、といった日依梨の回答にやはり大人っぽさを感じながら、清河は公園を後にした。その足で商店街へと向かう途中、トレーニングをしなかったことを思い出したが、今更戻るのもどうかと思い諦めた。
公園から数分で着く商店街は一番混み合う時間こそ過ぎ去ったものの、まだたくさんの人で賑わっていた。最近、線路を挟んで町の北側に中規模のショッピングモールができた影響を多少受けてはいるが、古くからの固定客は未だにこの商店街を活用している。
清河もその一人であった。精肉、成果、雑貨など生活に必要なものは一通りここで揃えられる。
夕食の準備担当が清河である以上、買い物をするのも必然的に清河となる。もちろん、まだ小学生である紅葉に買い物に行かせるのは忍びないという気持ちもあるが。
夕飯のメニューを考えながらいくつかの店を歩いて回る。
「清河くん!ほら、持ってけ!」
「はい、これおまけね」
ここにも全国ベスト八の影響がでているのか、商店街では清河にサービスをしてくれる人が多い。いくたびにサービスしてくれる精肉店については、清河という客から儲けが出ているのか怪しいほどだ。
すると、ちょいちょい、と手招きしている八百屋の姿が目にとまる。
「清河くん、息子から聞いたんだけどさ、高校の野球部内で暴力沙汰があったんだって?それで一年間部活停止って本当かい?」
「ええ、残念ですけど本当です。今日から一年間部活はできないんですよ」
あちゃー、といった風に八百屋の親父が頭を抱える。もう商店街にも知れ渡っているのか、頭を抱えたいのは清河の方だ。気の毒だな、と言った親父から離れて、そのまま家へ向かう。
商店街からも徒歩数分で着く清河の家は、良い立地条件にあるのかもしれない。二人で住むのには少々広い一軒家の玄関に鍵を差す。
「ただいまー」
返事がない。いつもなら紅葉が走って迎えてくれるはずなのだが。
「おーい紅葉ー」
エコバックを持ったままリビングに入ると、そこに紅葉の姿はない。不思議に思って二階の紅葉の部屋をノックする。
「紅葉?いる?」
「あ、兄さん。その、おかえり」
「どうかした?」
言いながら部屋のドアを開ける。
「そ、その兄さん、怒ってない?」
なぜか部屋の中心で正座をした紅葉が清河を見上げる。
「怒る?なんで?」
「いや…だからその野球…」
「ああ、女子野球チームのことね。あれ?紅葉気付いてたの?」
「う、うん……あれ兄さんだよなぁーって」
「バレてたのか…って、まぁ一言言っては欲しかったけど、運動するぶんには何も言わんよ俺は」
「だよねっ!やっぱり兄さんだーいすきっ!」
と言っていきなり紅葉が清河に抱きついてくる。
「お、おう。でもまさか紅葉が野球をやるなんてな。昔は父さんとテニスしてたじゃないか、てっきり俺はテニスをするものかと」
「テニスも考えたんだけどねー。友達に誘われてチームの練習にいってみたら思ったよりも楽しくて!そのまま入ることを決めちゃった!」
「保護者の承認もなくチームに入れるのか?」
「ううん、お母さんには連絡とった!」
そう満面の笑みで言う紅葉を見て、theおおざっぱな母親の顔を思い浮かべる。いい加減な人だとは思っていたが、息子にくらい連絡をくれないものか。
「そ、そうか」
「んで、兄さん!昨日言ってたでしょ?うちのチームのコーチをしてくれるって!」
「いやまだやるって決めたわけじゃないけど」
「だめっ!兄さんに拒否権はないっ!絶対にやりなさい!」
清河より三十センチほど下から、上から目線で、まだ清河に抱きついたままの紅葉が言う。
「もうちょっと考えさせてくれ。まだ俺の中でも整理がついてないんだ……」
「うん、わかった。でもきっと兄さんはやってくれるよねっ!」
「う、うん……」
半強制的な紅葉の態度に困惑したものの、紅葉が野球をやり始めたということは素直に嬉しかった。
抱きついていた紅葉を引き剥がし、気分が最高潮になった紅葉と連れ立って下へ降りていく。
今日は楽しい夕食になりそうだ。




