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ball game girls  作者: 澪月 ソウ
1/6

―――キィン、カキィン

 乾いた音が壁に反響して耳に刺さる。傘を持つ位置、と一般的には言われるその位置から出されたバットがボールを叩く。大きな弧を描くかと思われたその打球は、厚く貼られた緑色のネットに憚られて勢いを失う。たった今、ボールを真芯で捉えたバットのグリップを強く握り直し次の球を待つも、残りの球数を表示するランプが消灯しているのを確認して、ゲージを出る。

 

 正味二十球のバッティングを終えた清河は、ベンチに座って汗を拭いた。スマホで時刻を確認するも、まだ朝の八時前である。左右を見回してもほとんど人は見受けられない。清河の他には、中学生と思わしき男二人組に、還暦はいってそうなおじいさんが元気にバットを振っているだけだ。   

 十あるケージのうち使われているのは4つのみであるが、それもそのはずである。四月に入ったとはいえ、朝の八時といえばまだ気温は相当低い。町のはずれにあるこの小さなバッティングセンターともなれば、人の入りがまばらなのも仕方がないというものだろう。

 

 つい先ほど自販機で買ったスポーツドリンクを口に含む。徹底的にこだわった塩分濃度のそのドリンクは、発汗で失った塩分を清河の体に取り戻させる。

 清河は再び立つと、九百六十グラムと中学を卒業したばかりの男子には少し重いそのバットを持ち、再びケージに入っていく。

 生まれながらの左利きである清河は当然、左バッターボックスに立つ。神主打法と呼ばれるそれに近いような形で腕を伸ばし、バットをベース上に構える。これが、清河が最も自分に適した構え方は何か、と九年間考えた成果だ。足をわずかに引いてタイミングを取り、ボールを長く見る。投げられたその軌道を確認して、懐に入り込んだところを全力で叩く。硬式ボール特有の快音を立てた打球は、ネットの上の方に五枚付いているホームランの的に命中した。

 

「おめでとうございます!ホームラン!ホームランでございます!」

 録音された女性の声が、清河のホームランを祝福する。清河はその音をたいして気にもせず、次のボールに集中した。

 二、一と最後のランプの点灯を見届けて、ケージを出、カウンターに向かう。カウンターで先ほどホームランを打ったことを告げると、スタンプカードにもう一つ赤色の丸が加わった。佐藤バッティングセンターと書かれたそのハンコは、今日で十個になる。十個溜まることで景品がもらえると聞いていたが、次回でいいかと思い直してその場を去ろうとした。


 しかし、清河はそこで、前から小学生と思わしき集団がやってくるのを見つける。見ると、小学校高学年だろうか、有名メーカーのジャージに身を包んだ快活そうな子が先陣を切って進み出てきて、それに続くようにわらわらと計九人の女子児童が、最後に優しい表情の女子児童の保護者と思わしき年老いたの男性が中へ入ってくる。清河はそれを見て、その子たちのために道を開ける。

 

 何があったのだろうか?清河はその子たちの後ろ姿を見てしばし呆然とした。このバッティングセンターに女子児童がたくさん来るなんて状況、三年間ここへ通いつめている清河でも見たことがない。

 しかし、その児童たちが小学生用の低速コーナーへ入っていったのを見届けると、そんなこともあるものかと思い直してその場を後にした。  



「きをつけぇ!礼!」

「あざぁしたぁー!!!」

 三年生のキャプテンの掛け声が練習の終わりを告げる。清河たち新入生はこれからグラウンド整備をしなければならない。一年生がダラダラと整備器具を取りに行こうとすると、

 「こらぁ!走れ一年!」

 こうなるわけである。どこの高校の野球部でもありえる普通の光景。清河はそれを見越して、一年生の中でも一番早く整備に取り掛かっていた。   

 イレギュラーバウンドが起きないように、というのが本当の整備の理由ではあるが、清河はどうしてもこの行為になにか儀式的な意味があると思えてならない。野球の練習後の、儀式。キリスト教でいうミサといった感じだろうか、とにかく清河は、この並んでグラウンドを整備する行為は、あまり効率的ではないと思っていた。


 全員が最後まで整備を終えたら、やっと一年生も帰宅が許される。清河は連れ立って帰路につく他の一年生部員とは別に、一人で帰ることを選んだ。一人で帰るのが好きかと問われれば、好きとは答えないだろう。野球というチームスポーツにおいてそれはどうなのかと言われてしまうかもしれないが、群れるのが嫌いなのは事実だった。

 結局はチームワークなど綺麗事であって、統率が取れているチームは強く、いかに群れようとも統率の取れていないチームは弱いのだ。

 その持論を元に、連れ立ってファストフードやらコンビニやらに向かうであろうチームメートとは別に、清河は一人、公園に向かう。高校から歩いて十分ほどのところに、あった。

 

 日も傾いた午後の公園には、ほとんど人はいなかった。人がいないからこの公園を選んだのだから、当然といえば当然ではあるが。全く整備された痕跡が見られない背の高い木々は、低くなった西日を完全に遮断してしまい、公園内に肌寒さをもたらす。五十メートル四方ほどの柵で囲まれた公園の中心部には、古さびた遊具が二つ並んでいる。

 滑り台にブランコが合体したものと、清河なら軽く足がついてしまうくらいの懸垂遊具。それらは柵につけるように設置されているため、自然とその前には空間ができるようになっている。


 西日が長い影を作り、その空間をも全て覆ってしまう。清河はそこを通り過ぎ、公園の外周をぐるりと囲むアスファルトの道へ出た。一周約四百メートルのこのコースが、清河のトレーニングコースである。そこを一周六十秒のノルマで四周走りきるのが清河の習慣だった。

  母校の中学校の野球部を全国大会ベスト八まで引き連れたエース。清河の名を知るものが、『小鳥遊清河という人間を簡潔に説明せよ』と問われたらこう答えるだろう。脚光を浴び、将来を期待され、いくつもの私立高校から誘いがかかった。その中で県立久我西高を選んだのは、清河の自主トレ好きが原因でもあるだろう。

 

 グラウンドで行うチームプレイよりも、一人でやる自主トレの方が好き。練習時間が長い私立では自主トレのためにとれる時間が少ないから、公立である久我西を選んだ。誰もが聞いて驚きそうなことだが、事実、清河は自主トレが好きなのだから仕方がない。「そんなに自主トレが好きなら個人競技でもやれば良かったのに」妹にそう言われたことがあるが、反論できなかったことにすこしへこんだ。

―――五十八、五十九、五十八、五十八。

 

 画面に四つ表示された数字を見て、清河は安堵の息をついた。無事四周をノルマ通りにクリアしきったことへの充実感。膝に手をついて呼吸を整える。

 『ピッチャーは走ることから』と小学生のときに指導者言われた言葉は高校生になった今も、清河の掲げるモットーとなっていた。

 予想以上の疲労を感じて思わずその場に腰を下ろすと、なにやら後ろから声が聞こえてきた。

 「監督ー!」

 「どうしたの?」

 「おーい!監督ー?」

 明らかにそれが女性の発する声だと断定できる声の高さ。清河が首を回すだけで、数本の木の間から柵の向こうにいる声の主が確認できた。清河はそれを見て、妙な既視感を感じた。小学校高学年くらいと思われる女子児童数人。皆、上下にスポーツメーカーのウィンドブレーカーをまとっている。

 

 そう、思い出した。数日前、バッティングセンターで出会った女子児童数人である。しかし、なにやら様子がおかしい。

 「監督大丈夫!?どうしたのかな…?」

 清河はそれを聞いて声のする方へ向かった。すると、そこにいたのはベンチで横たわる老人だった。それにも見覚えがある。その児童たちを引き連れてバッティングセンターにやってきていた老人だ。

 老人の周りには女子児童が五人、皆老人の顔を覗き込むようにしている。

それを見て清河は戦慄した。あれはなにかしらの病発作だ、と直感がそう告げた。

 それからの清河の行動は迅速だった。一瞬で老人の元へと走り、女子児童たちを退けるようにして前へ出、脈を確認。薄いながらも脈拍があるのを確認すると、携帯を取り出した。ツーコールの後、すぐに電話が繋がれる。

 「もしもし!谷之守駅第三公園!男性が倒れている!至急救急車を!」  

 「わかりました。すぐに救急車を手配しますので、できる限りその方を安静にしておいてください」

 

 清河はそれだけを伝えて通話を切る。周りを見回すと、老人を囲んでいた少女らが皆、度肝を抜かれたといった感じに口を開けたりしていた。その中で唯一、顔を真っ白に染めてガクガクと震えていた赤みがかかったショートヘア少女が、おそるおそるといった感じに口を開いた。

 「そ、その、か、監督は、だ、大丈夫、なんですか…?」

 驚きと衝撃のあまりか、少女のその言葉はかすれていてよく聞き取れなった。監督という言葉に若干の違和感を覚えたが、この老人のことだろうと頭の中で変換する。

 「ああ、心配するな。脈はちゃんとあるし、呼吸もしている。俺に病名はわからんが、死ぬことはないだろう」

 それが本当なのかはわからないが、答えとしてはこれが正しいだろう、と、自分の考えに則って答える。

「そ、そうですか…なら、良かった…。」

清河の言葉を信じたのかはわからないが、少女の震えが少し収まったようにも見えた。

 清河は、ベンチの背にだらりともたれている老人の首を左腕で支え、電話先の女性が入っていた通り、できる限り楽な姿勢になるように、老人を支えた。温厚そうなその丸顔にはシワが刻まれており、老人が還暦を迎えていることは容易に想像がつく。

 たしか日本の救急車は七分平均で到着するなどと聞いたことがあった。思い出して、開いている右手でスマホをいじると、最終通話履歴から三分が経過していた。

 老人と清河を囲むように半円の形に並んだ少女たちを見て、清河は口を開いた。

 「もうすぐ救急車が来るはずだ。誰か、救急隊員の人にこっちですって言ってくれないか?多分救急車が来るのはそっちの方だ」

 そう言って清河は、二箇所ある公園の出入り口の大きい方、道路とつながる方角を指差した。自分がその役をかって出たいのも山々だが、もしこの老人に何かあったときに、少しでもまともな対応ができるのは清河だろう。

 しかし、五人の少女は何も答えない。皆、一言も喋らずに清河と目線をそらしたり、怯えるような目で清河を見ているものもいた。

 沈黙に耐えかねて、再び口を開こうとしたとき――

 

 「わ、私が行きます!」

 先ほど清河に質問をしてきた赤髪の少女が手を挙げた。

 「ああ、よろしく頼む」

 パタパタと道のほうに向かってかけて行った少女を見送って、一息つく。

 「う、うぅ」

 すると突然老人が苦しそうな声を上げる。

 「だ、大丈夫ですか!?しっかりして!あとちょっとで救急車が!」

 こうなった場合の正しい対処法なんで知らない清河は、老人にそう強く語りかけた。

 それもつかの間、遠くからウゥーとサイレンの音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなっていき、耳を突き刺すくらいの音量になる。しばらくして、

 「こっちです!お願いします!」

 少女の声に導かれて、白服に身をまとった救急隊員三人が担架を抱えて走ってきた。

 清河は軽く隊員に会釈すると、ベンチから離れて、事の成り行きを見守ることにした。

 隊員たちの行動は迅速だった。担架を地面に置き、二人で老人を抱えて担架に乗せると、息ピッタリのテンポで救急車へと向かう。そこで、残った一人の隊員が口を開いた。

 

 「誰か、付き添いに来られる方はいらっしゃいますか?」

 隊員が清河と少女たちとを含めた六人に聞くが、誰も手を上げようとしない。部外者である自分が行くのもどうかと思ったが、

 「俺が行きます。」

 と言って清河は手を挙げた。

 隊員に誘導されるままに小走りで救急車に乗り込む。救急車の中で待機していた、白衣を着た医者らしき人が老人に話しかけたりしてる間、清河は救急車内隅でじっとしていた。なんというか、自分だけ仲間外れにされたような気分だった。

 

 線路の上に作られた陸橋を越え、この街で最も大きい大学病院までは、ものの五、六分で着いた。

 救急車専用の入り口から入り、そこでも待機していた看護師によって、手慣れた手つきで老人を乗せた担架は運ばれていった。清河は、老人の付き添いということで、看護師に案内されて長椅子に座らされた。

 座った目の前には、集中治療室と書かれたドアがある。清河は、ドアの上の、使用中と書かれたランプが灯っていることに気がつき、大きく息を吐いた。

 

 ここまでの一連の事の成り行きを思い返す。倒れる老人、それを囲む小学生と思わしき少女たち。そして、老人のことを「監督」と呼ぶ。少女たちと老人がどんな関係なのかは計り知れなかったが、少なくともなんらかの繋がりがあることはわかる。

 自分以外誰もいない病院の長い廊下を見渡して、清河は自分の運の無さに呆れた。野球帰りに公園に寄っていたことを思い出し、自分が野球の道具を置いてきたことに気がつくと、清河の気分はドン底まで落ち込んだ。

「はぁあああ…。」

 ここに誰かがいたら聞くだけでテンションが下がりそうな、長いため息をついたとき、清河のポケットが振動し始めた。それがスマホの着信だと気付いた清河は、ここが病院内だということを思い出して慌てて最寄りの出入り口から外へ出た。

 見慣れない番号に不信感を抱きながらも、通話ボタンを押す。

 

 「もしもし、小鳥遊清河さんですか?」

 そこから聞こえてきたのは、いつだったか、聞いたことがあるような声。

 「ええ、そうです」

 「久我西野球部のマネージャー、藤田です」

 どうも聞き覚えのある声だと思ったら、さっきまで清河たちの練習に付き合っていた野球部のマネージャーだった。たしか、メガネをかけた三年生のマネージャーだったはずだ。

 「突然なんですが、今日野球部内でのいじめが発覚しました」

 「えっ?」

 何を言い出すのかと思いきや、突然突飛な事を言い出したもんで、反射的に変な返しになってしまう。

 「それに当たって、本当に悲しいことなんですが…明日から十二ヶ月間、我が野球部は活動を停止となりました」

 「えっ?それって…?」

 「詳しいことは明日、部員みんなが集まったところで、部長から話します。ですが、明日の朝練はないので、そのつもりでいてください」

 マネージャーが事務的な口調で言った言葉を最後に、では、といって電話は切れた。

 清河はプープーと音を立てるスマホを見て、呆然とした。なんの冗談だ?誰がそんな嘘を?新入生を驚かせたいのか?そんな都合のいい解釈が頭の中を巡る。


 だが、高校入学が決まってからの二ヶ月間の記憶を思い返して、そんな考えは打ち砕かれた。顔に青いアザをつけた同級生に「どうした?」と聞いたときも、「なんでもない、ボールが当たったんだ。気にするな」と答えられたことがあった。

 そのときは、そんなこともあるものなのか、で済ましてしまったが、あのときすでにいじめが始まっていたとしたら…。

 

 嫌な汗が出てきた。どうしようにもない喪失感が清河の体を貫く。

 県立久我西高校。校訓『改革精神』。その校訓のとおり、新たな道を切り開いていけるような人材の育成が目標。自由で生徒主体という校風を受け、久我西の野球部は高校の野球部としては珍しい、坊主を強制しない部だった。公立ながら、過去には何度も甲子園出場経験のある強豪。部員四十人、マネージャー四人。指揮する監督は、頭脳派野球に定評のある、甲子園優勝経験もある名監督。

 全ては、甲子園に行くため。甲子園で勝ち、優勝するため。そのために選んだ高校のはずだった。

大豊作と言われている今年の久我西は、すでに県内の新聞でも県大会最優勝有力候補にあげられており、清河自身も練習を通してその強さを実感していた。全国大会でも活躍した清河は、エースにはなれないにしても二、三番手として一年目からバリバリ投げるつもりだった。

 

 だからこそ、藤田マネージャーの話は清河には信じられなかった。

 頭の中は真っ白になり、手が震える。震える手からスマホを取り落としそうになり、自分が相当動揺していることに気づく。すると、メールが一件きていた。

 碓氷凌牙。中学校時代、清河とバッテリーを組んだ相手からのそのメールは清河をドン底へと突き落とすものだった。内容は、本当に部内でいじめがあり、数ヶ月前から三年生の一部によって一年生の一部がいじめられていた。それによる長期部活動停止も事実。という簡単なものだった。

 しかし、全くと言っていいほど嘘をつかない碓氷である。これでいじめの件はほぼ確定と言っていい。そして、十二ヶ月、丸一年の部活動停止も、決定事項。

 頭の中ではその言葉を理解しているものの、清河はそのことを受け入れようとしなかった。

 

 小一で野球を始め、今日まで一度も風邪もひかず、毎日欠かさず野球をやってきた。雪の日だって、家の中でシャドウピッチングは忘れなかった。それが、突然一年も―

 清河はやり場のない苛立ちを覚え、建物の壁を何度も殴る。痛い。血が出てきた。だがその痛みよりも、清河から野球が消えるということのほうがよっぽど怖かった。

――一年くらい、自主トレを欠かさなければ――駄目だ。実戦から一年も遠ざかったら感覚は廃れる。今まで培ってきたものだって、崩れてしまうかもしれない。

 太陽は西の山に消えようとしていた。病院の外にただ一人残された清河の背を、まだ冷たさを含む春の風が撫でる。

 しばらくして、清河は自分の頬を触って、涙の跡があることに気づいた。それほどまでに野球に真剣だった、という何よりの証拠が、清河の胸に深く刺さった。


 ――ブーッ

 短い音と共に、目の前の使用中と書かれたランプが消灯した。

 もうすっかり日は沈みきり、病院の廊下も最新鋭のLEDに照らされることによって、明るさを保っていた。

 中から出てきた四十歳くらいだろうか、白衣を着た男性が清河の前に歩み出、口を開く。

 「無事に、一命は取り留めました。お孫さんでいらっしゃいますか?意識が回復するまでもう少しかかると思うのですが、待たれますか?」

 「そ、そうですか。ありがとうございました。じゃあ…意識が回復するまで待たせてもらいます。」

 老人とはさっき初めて会ったばかりの清河だったが、孫というのを否定する気力すら残っておらず、このまま家に帰るのも気が進まなかった。もう少しここに座っていたい、というのが正直な気持ちだった。

 「わかりました。では二階の二◯一号室にお祖父さんは移動させますので」

 それでは、と言って医師は清河に背を向けて去っていった。

 医師と老人を運ぶ看護師たちがいなくなって一人になった後も、清河は椅子から立とうとしなかった。

膝に力が入らない。小六のとき、全国大会を目前にして敗北したときすら、ここまでの絶望には陥らなかったと思う。

 

 明日から自分はどうすればいいのか、何を生きがいにすればいいのか。清河の人生の全てと言っても過言ではなかった、野球。それを取られた今、どうすればいいか見当もつかない。

今まで通り自主トレは続けたとして、果たして一年後、チームプレイもチームワークもゼロの状態で果たして試合になるのか――。

 その問いに答えられるものはいない。さっきメールを送ってきた碓氷だって、清河と同じようにとは言わずとも、何かしらの喪失感は味わっているはずだ。

しばらく経って、ようやく重い腰をあげる。医師に、老人の意識が回復するまでここにいる、と言った以上、指定された二◯一号室に行かなければならない。

清河は、遅くなる旨を家にいるはずの妹に伝え、幾つかのやりとりを終える。

随分と遅い足取りでたどり着いた二◯一号室に入り、老人が寝ているベッドの近くの椅子に腰掛けた。

看護師が来て、起きるまでは安静にしておくように、意識が戻ったら連絡をくれ、と清河に言って部屋を出て行った。

 清河は、未だ目を覚まさない老人の顔を見やった。シワの畳まれた顔からは、不思議と、仙人のような優しさのようなものが感じられる。それでいて頭髪はまだ健在で、若干白みかかっているものの、何かしらの施しを受けているようにも見えない、地毛である。

 寝ている老人への配慮だろう、消灯され、町明かりだけが差し込む薄暗い病室の中で清河はしばらく老人の意識が戻るのを待った。

 

 清河が何も考えずにただ惚けていると、一時間くらいたった頃だろうか、うぅ、といった呻き声を上げながら老人が目を覚ました。

 それを見て清河はあらかじめ渡されていた、看護師への連絡用のボタンを押す。

 すると、老人の意識も覚醒しきらないうちに、看護師が病室へと入ってくる。

清河が看護師に会釈して引き下がると、老人と看護師が何やら会話をし始める。二分かくらいかけて看護師が、では、と言って病室から去っていくと、清河はいよいよ目の覚めた老人と二人きりになった。

 「えと…」

 なんと言えばいいのかわからず、言葉に詰まる。

 「小鳥遊清河くん…だったかな?」

 寝たままの老人が、小さな声で尋ねてくる。

 「え?何で俺の名前を?」

 「はは、君はこの街のスターといってもいい存在じゃないか。去年の全国大会ベスト八、その一番の立役者、背番号一小鳥遊清河」

 「そんな大層なもんじゃないですよ。準々決勝は結局俺の力不足で負けちゃいましたし。碓氷が引っ張ってくれなきゃあ、全国大会すら行けなかったですよ」

 「準々決勝で敗退後、君がデッドボールを当てた勝利チームの四番を気遣って声をかけに行った話は全国紙にも載ったじゃないか」

 「あれも、デッドボールを当てたのは俺ですし、俺らに勝ったんだから優勝してくれよ、って意味も込めての行動ですよ」

 そう言って清河は苦笑いした。そのときのことをいまでも清河に言ってくる人はたまにいるが、それを言われると少々恥ずかしい。

 「はは、やはり日本でも最も人格者なエースの話は本当だったんだね」

 そんな風に呼ばれていたのか、初めて聞く呼び方に内心驚く。

 「私を助けてくれたのは本当に感謝している。なにしろあと十分遅れていたら私の命が危なかったらしいからね」

 「ええ、それも俺がたまたま、あそこで野球帰りに自主トレをしていただけですし…」

 「いやいや、今時、倒れている人を見ても見て見ぬ振りをする若者も多いらしいからね。見つけた途端に駆けつけて、救急車を呼んでくれたんだろう?本当にありがとう。今度何かお礼をしたいな。……そういえば、どうかしたのかい?浮かない顔をしているけど」


 目を覚ましたばかりにもかかわらず笑顔で話していた老人の顔が曇る。今日あったばかりの人に話すのもどうかと思ったが、誰かに話して、少し

でも楽になりたいという気持ちが勝り、清河は老人に十二ヶ月部活停止の旨を伝えた。

 「そうか、それは…残念だな。今年の久我西は最有力優勝候補と言われていたのにな…」

老人が清河に同情したかのように、うつむく。そのせいで薄暗い病室内に沈黙が流れる。

「私は昔、小学校の先生をやっていてね。…。子供が好きだったんだろうね、六十歳で定年になるまで、職は変わらなかったよ。それで最後の六年間、私はこの虹彩小学校の校長をやった」

「校長先生!?六年間ってことは俺が小学校のとき…!?」

「いやいや、私は今、六十七だよ。君が小学校六年のときはもう退職していたはずだ」

「そうですか…では今は何をされて?」


 清河はさっきから気になっていたことを聞いた。小学生と一緒にいた老人である。はたから見れば不審者と思われてもおかしくない構図ではあった。

「あの公園に小学生の女の子が数人いたろう?あの子達は実はこの街に二つあるうち一つの野球部のメンバーでね」

「野球部?」

清河は反射的に聞き返した。

 「そう、女子だけの野球部だ」

 「でも小学生の野球部っていうと、この街にあるのは俺も入っていた谷之守のスポ少だけのはずじゃ…」

 「ちょっと前まではね。でもここ最近やっと、その女子チームが公式大会への参加が認められたんだ」

 「公式大会っていうと、四月と七月の全国学生野球杯…?」

 「そう。そしてその大会に出場するために必要な監督が、私名義なんだ」

老人は、さっきまで手術室にいたとは信じられないくらいの饒舌さで語る。

 「じゃああそこにいた小学生たちは、その女子チームのメンバーだと」

 「その通りだ。あと六人、本当はいるんだけどね。今日は集まりが悪かったのかね」

 「他にコーチとかは?」

 「いないよ、私一人だけだ。といっても私も大して野球のことは教えられないんだけれどね」

 「そう、なんですか…」

 清河はそう言って口籠った。もしこの老人がこのまま入院、ということになれば、二週間後くらいに迫っている学童杯に少女たちが出場できないということになる。それはいささか不憫だった。

 「その、体の方は大丈夫なんですか?俺が駆けつけたときは意識もなくて相当ヤバい状態だったみたいですけど…」

 「さっきちょっと看護婦さんに聞いたところだとね、四ヶ月入院だそうだ」

 「それって、学童杯には出れないってことじゃ……」

 「そうなるね…。監督不在じゃあ試合はさせてもらえないだろう」

 老人が俯きがちにそう答える。清河もなんて答えればいいのかわからず、病室内にふたたび沈黙が訪れた。


 数十秒の静寂の後、老人が切り出した。

 「清河君、君、十二か月野球ができなくなって、その間どうするんだい?まさか野球をやめるとは言わないだろう?」

 「自主トレくらいしかできませんね…バッティングセンターに行ったり、碓氷とピッチングしたりくらいならできるかもしれないですけど……」

 「うむ……それじゃあ時間的にはすごく暇になるんだろう?」

 「え?ええ…まぁ走るといっても足には限界がありますし、まさかずっと球を投げ続けるなんてできませんしね。暇には、なると思います」

老人の予想外の質問に戸惑いながらも、答える。

 「じゃあ、君が私の代わりに女子チームを指導してくれないかね?」

 「え、ええっ?俺が?女子チームを?」

 「いや、無理にとは言わないんだ。ただ、私が監督業をやれない四ヶ月間だけでもいい、監督代行としてやってくれはしないかな?」


 清河は、一瞬老人が冗談を言っているのかとも思ったが、老人の真剣そのものの目を見て思い直す。

 「いやでも高校生ですよ?それも高一だなんて、親の信頼のこととかいろいろまずいんじゃ……」

 至極当然な疑問。

 「団員の保護者には私から事情を話す。君のことは町中が知ってるだろうから、なんとか説得できるかもしれん」

 「でも、こんなどこの馬の骨ともわからん俺を、あの少女たちは受け入れてくれますか?」

 「それは、わからんな」

 そう言って老人は苦笑した。

 しばしの間、清河は熟考した。確かに今から十二ヶ月間、自主トレだけでは有り余る一日の時間を潰すことは難しい。勉強に力を注ぐということもあるが、清河自身勉強が好きではない。きっと長続きしないだろう。

 「すぐに決める必要はないよ。やりたくなかったら断ってもらって大丈夫だ。私が強制できるはずもないのだしね」

 「そうですね…少し考えさせてもらって良いですか?」

老人が頷くのを見て、清河はポケットからスマホを取り出した。時刻を確認すると、八時半。病院の面会時間はとうに過ぎてしまっている時間である。

 老人に頭を下げて、では、と言って清河は病室を後にした。

 

 消灯後の病院の廊下を抜けて外に出ると、朝夕の気温差が激しい春の夜特有の冷風が、清河の頬をなでた。

街の中心とも言える大学病院の敷地を抜けて、清河は忘れてきたカバンを取りに公園へと足を向けた。

会社帰りと見られるサラリーマンと並んで駅の陸橋を抜け、街灯に照らされた歩道を歩く。住宅街のはずれにある交番を右折すると、ほどなくしてその公園は見えてくる。公園内は誰もいなく、閑散としていた。電球の切れかけている街灯を頼りに公園の外周路で、草木に隠しておいた野球カバンを見つけて、ホッとする。

しかしそのカバンもこれから一年間使わないということを思い出し、本日何度目かわからないため息をついた。


 憂鬱な気持ちでカバンを抱え夜の街を歩いていると、わずか一分ほどで清河は家に着いた。線路沿いに作られた住宅街の一角、隣家を挟んですぐに線路が見える場所に建てられた自宅に足を踏み入れる。

ただいま、と言うと中からどたどたと走ってくる足音が聞こえる。

 「おかえり!兄さん!」

 そう、近所に迷惑になっていないか怪しくなる大音量で迎えられる。

 「ああ、ただいま紅葉もみじ。悪かったな遅くなって。飯、食ったか?」

 「いいや!食べてない!」

 「なんでやねん。」

 清河が手のひらをパーにして頭にチョップを入れると、鼻息を荒くした紅葉が答える。

 「兄さんの料理が食べたかったから!」

 「そ、そうか。と言ってもな…今から作れるとなると、チャーハンくらいしか…。」

 清河が靴を脱ぎキッチンに向かいながら言うと、後ろから紅葉がついてくる。

 「……チャーハン!!いやぁ兄さんの作るチャーハンは絶品だからね!チャーハンでお願いしますぅ!」

 やけに芝居かがった声で紅葉が言う。

 「……お、おぉ、そうか。わかった。じゃあ二十分だな、待っててくれ。」

 うん、と言って紅葉はリビングへ駆けていく。清河は荷物を整理すると、手を洗い、腕をまくって料理に取り掛かるとことにした。

 リビングと隣接したキッチンに、ネギを切る規則的な音と紅葉の見ているテレビの音だけが響き渡る。

 三ヶ月前、仕事の都合で米国へ三年間の単身赴任に出た清河の父。それだけでなく、父と離れるのが嫌、なんて理由で母も父についていってしまったので、清河はこの家に残されることとなった。そのとき両親からはアメリカに留学するよう勧められたが、久我西で甲子園を目指すと決めていた清河はその誘いを蹴った。

 せめて妹は連れて行こうと紅葉の説得を試みた両親だったが、紅葉が「兄さんと一緒がいい!」と言って断固としてついて行こうとしなかったので、こうして妹と二人、一軒家に住んでいるのだった。

よく考えてみれば、高校一年生と小学五年生の兄妹だけで住むとはおかしな話である。普通、親戚の家に世話になるだとか、何かしら保護者がつくはずだ。

 そこを兄妹二人での生活をあっさり認めてしまうあたり、清河の両親はいい加減なのだろう。

清河は長身の父の顔を思い出す。世界レベルでは歯が立たなかったとはいえ、日本では名の知れたテニスプレイヤーだった父、薫。その遺伝子を引き継いだからこそ、清河もこうして野球で顕著な成績を残せた訳なのだが。


 そういえば、部活動が一年間停止になったことはさすがに父に報告しなければならないな、と思い、またため息をついてしまう。

 清河が簡単に作れる料理の代表として挙げたチャーハンと、野菜炒めを作り終え食卓に並べる。

何も言わずに配膳を手伝ってくれる紅葉のおかげもあって、すぐにいただきますができた。

 「ん~おいしぃ~!!」

 と、本当に美味しそうに紅葉が食べるので、一緒に食べている清河も美味しく食べられる。食事のときはいつも、紅葉がいてよかったなと思う。

 「そういえばさ紅葉、俺野球できなくなっちゃったんだよね……」

 いつかは話さなければならないとわかっていたものの、いざ話すとなると気が重い。

 「えっ!なんでっ!?」

 清河は先ほど老人にしたのと同じ説明を、紅葉にする。

 「そうなんだ…兄さんあんなに甲子園目指すって言ってたのに……」

 紅葉が、まるで自分のことのように悲しそうな顔をするため、なんだか清河は申し訳ない気持ちになってしまった。

 流れているバラエティー番組の笑い声がやけに虚しく聞こえる。なんとか空気を入れ替えたいと思い、清河は努めて明るく切り出した。

 「そうだ、紅葉!この町に女子だけの野球チームがあるって知ってっか?なんか遠藤とかいうじいさんが監督をやってるっていう、小学生の女子チームなんだけど」

 「え?え、あ、ああ知ってるよ!もちろん!たしか十一人くらいの少ない部員だったはずだけどね!うちの学校の生徒なんだ!みんな」

 なぜか紅葉がよそよそしく、驚いたような口調でそう答える。

 「ほう?なんだかやけに詳しいんだな。そこの部員と仲よかったりするのか?」

 「う、うん、そ、そんな感じ…かな?」

 紅葉は、やはりやけにソワソワしている。

 「どうした?トイレ行きたいなら行ってもいいぞ?」

 「い、いやぁそんなんじゃないの。な、なんでもないっ!」

 そう言って、紅葉は思い出したようにスプーンを持ってチャーハンをかき込み始めた。

 「けほっ、けほっ」

 案の定、チャーハンをたくさん口に含んだ紅葉がむせ始める。

 「おいおい、大丈夫か?」

 清河が紅葉の背中をさすってやると、しばらくして紅葉は平静を取り戻した。

 「ごちそうさまっ!」

 そしてなぜだか今日だけ早く食べ終えた紅葉が、自分の食器をキッチンへ運んで急ぎ足で自室へ向かう。

 「変なやつ」

 紅葉の奇行に疑問を抱きながらも、一人残された清河はチャーハンを平らげた。


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