Story 1-Part.8-
それは僕の誕生日、つまりクリスマスイブを翌日に控えた日の午後だった。僕は会社で課長に会議室へと呼び出されると、穏やかな日差しが降り注ぐ窓際でその突然の通告を受けた。
「ウチダ、入社して一年目のお前には酷なことかもしれないけど、来月から札幌の支社に行ってくれないか?」
「えっ……それは、どういうことですか?」
青天の霹靂とは、まさにこのことを言うのだろうと思ったが、そんなことを考えている場合ではなかった。とにかく理由を聞かなければと、課長に聞き返すだけで精一杯だった。
「実はな、この間お前が提案した企画がえらい反響でな、新人としては異例なことなんだが、ぜひお前を中心にプロジェクトを組んでやってもらおうということになってな」
自分の仕事が評価されたことは素直に嬉しかったが、それと札幌とがうまく結びつかなかった。というより、何故東京でやらせてもらえないのかが納得いかなかった。ただ、島流しや左遷といった陰鬱なイメージだけが頭を掠めていた。
「でも、何で札幌なんですか?」
「まず地方の札幌で試行的にやってみて、うまくいったら東京で本格的にということになってな」
「そうですか。それで、何年くらい行っていなければいけないんでしょうか?」
「プロジェクトの進行状況にもよるが、おおむね三年くらいは行ってもらうことになるだろうな」
「三年……ですか」
愕然としていた。郊外とはいえ東京で育った僕にとって、札幌という厳寒の地で三年も過ごす現実は、到底受け入れ難いものだった。やり場のないやるせなさにその場を逃げ出したくなったが、もちろんそれは叶うはずもなかった。
「まあ、そういうことだから、入社一年目のお前にとっては大変かもしれないけど、みんなお前に期待してるから、よろしく頼むよ」
課長は他人事のように僕の肩を二度叩くと、そのまま静かに部屋を出て行った。一人取り残された僕は、頭の中が真っ白になり、しばらくの間呆然と目の前の白い壁を見つめ続けた。とにかく自分の仕事が認められたのだからと、その事実を肯定的に受け止めることに必死だった。と同時に、その間アカリと離れ離れになることに少なからず寂しさを覚えた。何もかもが底なしの闇に吸い込まれていくようで、哀しみに胸が打ち震えた。ふと部屋の窓から外を見ると、聳え立つビルの群れの間から、ほんのわずかではあったが日差しを浴びて優しく光る海の姿が見えた。でもそれは、物理的な距離以上に果てしなく遠く儚い存在だった。僕は涙を堪えるだけで精一杯だった。
「ねえ、何を考えてるの?」
アカリは不思議そうに、焦点のぼやけた僕の目をじっと覗き込んだ。二十四日の夜、僕らはとあるレストランで洗練された南欧風の料理と向かい合っていた。店内には、デビー・ギブソンの「ロスト・イン・ユア・アイズ」がクラシック音楽のように静かに流れていて、ゆったりとしたイブの夜に見事にマッチしていた。アカリはシンプルな白いワンピースを身にまとっていて、それは僕にたった今天空から舞い降りてきたばかりの雪の妖精を思い起こさせた。アカリは僕の誕生日を心の底から祝福してくれて、品のいい高級ブランドの腕時計をプレゼントしてくれた。でも僕は、その腕時計のことよりも、アカリに対していつ札幌転勤の話を切り出そうかと、ただそれだけで頭の中が一杯だった。
「今日のヒロミ、ちょっと変よ」
「そうかな?」
「何か、ぼおっとしてる感じで……。何かあったの?」
その時決心した僕は、今まさに目の前に佇むアカリに向かって、勇気を振り絞って言い出そうとしていた。その澄んだ瞳に自分の姿が映っていることを確かめながら、僕は必死になってアカリの心に語りかけようとしていた。
「実は俺、来月から……」
とその時、どこからともなくアトランティック・スターの「オールウェイズ」が流れ出した。なおもじっと耳を澄ませていると、それはアカリのバッグの中から聞こえてきた。
「あっ、ちょっと待って。携帯が鳴ってる」
アカリはバッグから携帯電話を取り出すと、急いでその耳に電話をあてた。でもそれは、アカリにとっていい内容のものではなかったらしく、その表情は見る見るうちに強張っていった。
「どうした? 何かあったのか?」
僕の問いかけに、アカリは携帯電話をそっとテーブルに置くと、その視線をこちらに向けながら呟いた。いや正確に言うと、視線は僕を素通りしてどこか別の物に向けられていた。
「お母さんが、倒れたって」
「何だって、じゃあ早く病院に行かないと。何ぼおっとしてるんだよ、さあ行くぞ」
茫然自失のアカリの目を覚まさせるように叫んだ僕は、その勢いのままにアカリの手を取って、レストランを後に急いで街の中に飛び出した。
クリスマスイブの夜というだけあって人通りは多く、タクシーはなかなか掴まらなかったが、僕らは近くでタクシーに乗ろうとしていた二人連れを強引に撥ね退けて乗り込むと、運転手をひたすら急かしながらアカリの母親が運ばれた病院へと急いだ。ほんのわずかな時間が、果てしなく長く感じた。病院に着くと、僕らは案内されるがままに集中治療室に向かった。ガラス越しには、医者と看護婦に囲まれながら、酸素マスクで顔を覆われて横たわる一人の女性の姿が見えた。
「お母さん!」
アカリは目に溢れるほどの涙を溜めながら叫び、そのまま治療室の扉の前に崩れ落ちた。僕は、そんなアカリの震える肩を抱え上げると、すぐ近くにあった長椅子へと導いた。
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
「お母さん……」
それきり、アカリは何も言わなかった。ただ小さく蹲り、時の流れの中にその身を委ねていた。医者でもない僕はその肩をそっと抱きながら、ひたすらにアカリの母親の回復を祈り続けるしかなかった。
でも、そんな二人のささやかな願いはついに天には届かなかった。次の日の朝早く、アカリの母親はそのまま静かに息を引き取った。僕とアカリは、目の前にあるそのシーツに包まれた体と、白い布で覆われた顔をただじっと眺めていた。アカリの目にもう涙はなかった。僕は、そんなアカリの健気な姿に胸が締めつけられるようなやるせなさを感じ、また目の前にあるその白い体に人間の命の儚さをひしひしと感じた。振り返れば僕自身、こうして人の死と向かい合うのは、中学生の時に祖母を亡くして以来だった。異様に白いまでのその治療室の空間の中で、僕はその時の祖母のことを想い、目の前の状況をただ受容するしかなかった。