Story 1-Part.7-
次の日、僕らは朝一番の飛行機で東京に戻った。アカリは精神的にかなり参っていたので、僕はその肩を抱き支えながら、彼女の母親が入院している病院へと急いだ。受付で聞いた番号の病室に入ると、そこには点滴を腕にしながら静かに眠っている病人の姿があった。アカリはその病人の体を激しく揺さぶり、その高ぶった気持ちそのままに、何度もお母さんと叫び続けた。そして、傍らに座っていた叔母さんに、訴えかけるようにその病状を尋ねた。幸いにもただの過労とのことで、数日で退院できるということだった。アカリはそれを聞いてほっとしたのか、その場に崩れるように倒れ込んだ。僕はその体を後ろから支えると、叔母さんに一言挨拶をしてからアカリを病室から外に出し、廊下に並んだくすんだ緑色の長椅子に座らせた。
「ごめんね」
「大丈夫か?」
「うん、ほっとしたら、急に体の力が抜けちゃって」
「でも、たいしたことないみたいで本当によかったな」
「そうなんだけど。お母さん、やっぱり相当無理してたのね」
アカリは、病室の中にいる母親に向かって語りかけるかのように呟くと、そのうつろな瞳を宙に投げかけた。
「アカリ……」
「お母さん、一人でがむしゃらに働き続けて、頑張って私を育ててくれて、大学にも行かせてくれて。私が働くようになったら仕事も辞めてもらって、精一杯親孝行しようと思ってたのに」
「これからすればいいじゃないか、親孝行。アカリだって、まだ働き始めたばかりだし、これから時間をかけて、ゆっくりとすればいいんだよ」
「そうね、そうよね」
アカリは自分に言い聞かせるように二度頷くと、こちらを向いてかすかに微笑んだ。そのあまりの脆弱さに僕の胸は鈍く痛んだ。
「でも、アカリは偉いよ。俺なんか親に迷惑かけっぱなしだし、満足に親孝行なんかしてないし」
「私の家族、お母さんしかいないから。今までもたった二人だけでずっと生きてきたし、普通の母子と違って特別なのかも」
アカリの声は、次第にその潤いを取り戻し始めていた。僕は、少しずつ元気になっていくアカリを横で見ながら、その人間的な奥深さに圧倒されていた。アカリが僕よりも様々な人生経験を積んできたことは明らかで、その意味で僕は自分の浅薄さを痛切に感じ、改めてアカリのことを大切に想った。それは、憧れや尊敬にも似た想いを加味していた。
一週間が過ぎ、アカリの母親は退院した。しばらくは自宅での安静が必要だったが、アカリの安心した姿を見て僕自身も本当によかったと胸を撫で下ろしていた。サトシからの急な誘いは、そんな穏やかになりかけた状況を再び乱す予感を抱かせたが、ともあれアカリとトモコを含めた僕ら同期四人は、久しぶりにまた顔を合わせることになった。
「何だよ、重大発表って」
「まあ、そう焦るなって。それより、まずはビールで乾杯といこうぜ」
僕の問いかけを軽く交わしたサトシはそばにいた店員を呼び止めて、四人分のビールを注文した。八月半ばのその日は朝からうだるような暑さで、夜になっても一向に気温は下がらず、僕らが一角を占めるビアレストランの盛況ぶりがその状況を端的に表していた。
程なく四人分のビールが運ばれてきたので、僕らはお決まりながら今日一日の仕事に対する労いと、久しぶりの四人での再会に乾杯した。ジョッキを重ね合わせる澄んだ音が、周囲の喧騒にかき消されることなく響き渡った。
「でも、この間四人で会ったのっていつだったかな?」
「おいおい、いつまで勿体つけてる気だよ。話したいことがあるんなら早く言えよ」
サトシの惚けた口ぶりに、さすがに我慢できなくなった僕が強い口調で尋ねると、サトシは少し憮然とした表情を浮かべたがすぐにまた笑顔に戻り、僕らに向かって意気揚揚と言い放った。
「では、発表します。私ことナカダ サトシは、ここにいるキノシタ トモコとめでたく結婚することになりました」
「えっ?」
僕とアカリはほとんど同時に聞き返していた。その瞬間、一切の物音が途絶えた。手に持っていたジョッキの重さすら感じなかった。
「おい、俺とトモコが結婚するって言ってるんだぞ。お前たち、おめでとうの一言くらいないのか?」
「あ、そうだな。おめでとう」
「ほら、アカリちゃんも」
「おめでとう」
取りあえずそうは言ってみたものの、僕とアカリは、その事実をどう受け止めたらいいものかと、しばらくの間はそれ以上の言葉が出てこなかった。満足げに深く頷いた後でトモコと親密そうに話し始めたサトシを見ても、まだ実感が湧いてこなかった。
「何、二人とも黙ってんだよ。ビール、飲まないのか?」
焦れたようなサトシの言葉で僕とアカリはようやく我に返ったが、僕はサトシに何を言えばいいのかがわからなかった。と言うより、聞きたいことは山のようにあったのだが、言葉がうまく出てこなかったのだ。でも、そんな僕の想いを察知したのか、代わりにアカリがトモコに尋ねてくれた。
「それで、いつ結婚するの?」
「来年の夏くらいにはと思ってるんだけど」
「そう、でもびっくりしたわ。だって、まさか二人が結婚するなんて」
「私だって、自分でまだ信じられないんだから」
恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむくトモコは、でも羨ましいくらいに幸せそうだった。そして僕は、そんなトモコを手に入れるサトシに少なからず嫉妬した。
「まあ、そういうことだから、ヒロミも、鳩が豆鉄砲食らったような顔してないで、もっとちゃんと祝ってくれよな」
「失礼なこと言うなよ。でもサトシ、本当によかったな」
「ああ、まあな」
僕の言葉に、サトシは恥ずかしそうに頭の後ろに手をやった。結局その日は四人で夜遅くまで飲み続け、僕とアカリは幸せそうなサトシとヨウコの姿に、将来の自分たちの姿を重ね合わせようとしていた。と同時に、僕は男と女の神秘さを改めて感じていた。ほんの少し前には話もしていなかったような二人が、来年の夏には結婚するという事実は、やはりあまりにも唐突で信じられないことだったが、振り返れば僕とアカリも似たようなものなのだ。あの入社式での出会いがなかったら、僕らはそれこそ死ぬまで互いの存在に気がつかなかったかもしれないのだ。めくるめく時の流れの中で、僕は人間の運命の偶然と必然に想いを馳せ、たとえ気まぐれにせよ二人の運命の糸を結びつけた神様に深く感謝していた。