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Story 1-Part.6-

 ある日ふと空を見上げると、いつの間にか灰色雲の群れはどこかに消え失せ、眩いばかりの日差しが照りつける青一色に覆われていた。夏の到来は僕の心の中をもクールに青くした。サトシとトモコについては、あれから何の話も聞いていなかった。僕は何となく気にはなっていたが、これから先は本人たちの問題でもあるし、あまり急かすのもよくないことだと思ったのでしばらくは様子を見ることにした。僕とアカリはと言えば、相も変わらずいつもの喫茶店を中心とした小さな世界で、他愛もない日々を過ごしていた。もっとも、少なくとも僕にとっては充足した日々であることは疑いようもなく、仕事で嫌なことがあっても、アカリの目を見つめているだけでストレスが消えていった。アカリには、フィルターのように僕の心を浄化させる神がかり的な効果があった。だから僕も、効果のほどはわからないながら、できるだけアカリのフィルターになれるように努めた。

 そんな風に時が流れた七月下旬、僕とアカリはついに一週間の夏休みを取って沖縄へと向かった。羽田から飛行機で那覇へ向かい、さらに飛行機を乗り継いで南西に向かった果てにある小さな島だったが、僕らはホテルに着くやいなや部屋に荷物を放り投げると、常夏色の空気に誘われるがままに、近くにある雪のように真っ白な砂浜に向かって思い切り飛び出した。能天気なまでの開放感が僕らをひたすらに後押ししていた。

「いい気持ちね」

「ああ、そうだな」

 僕らは砂浜を横切ってひとしきりマリンブルーの海ではしゃいだ後、日除けのパラソルが静かに見つめる下で、二人並んで仰向けに横たわりながら耳元で風の囁きを聞いていた。目の前に広がる蒼さは、確かに空と海では違っていたが、夏の蒼さという点では見事に一致していた。彼方にあるはずの水平線さえわからなかった。僕は、目に入るそういった光景に夏を体感し、隣で目を閉じて横たわるアカリを見て心に夏を感じていた。

「でも、イルカはいないみたいね」

「ああ。でも俺は、アカリさえいてくれればそれでいいんだ。俺にとっては、アカリがイルカなんだ」

「それって私、喜んでいいのかしら?」

「どうかな。でも、俺はイルカが大好きだよ」

 僕は妙に気恥ずかしくなって横にあったビールを一口飲むと、再び仰向けになって浅い眠りにその身を委ねた。パラソルのおかげで冷たさを保っていたビールが喉を伝って胃に落ちていくのを感じながら、同時に唇にアカリをしっかりと感じることができた。その行為には、不意打ちではあったが、一方で始めから決まっていたかのような必然さがあった。そう、アカリと言う名のイルカとの口づけは、僕にとって本当に忘れ難い、何よりかけがえのない大切なものだったのだ。永遠に続く二人の世界を象徴しなければならないはずだった。何しろここは、飛び魚のアーチをくぐり抜けた果てにある夢の楽園なのだから。


 それは、夕食も終わってホテルの部屋へと戻った時だった。明かりをつけようとスイッチに手を触れると、アカリはそっと僕の手を払いのけ、ゆっくりと首を左右に振った。僕は、月明かりにぼんやりと浮かび上がる空間の片隅に佇む冷蔵庫から二人分の缶ビールを取り出すと、既にベッドの隅に座って窓の外の海を眺めていたアカリに、そのうちの一本を差し出した。

「ありがとう」

 静かに呟いたアカリはプルタブを開けてビールを一口飲み、すぐ横に座った僕の肩にゆっくりともたれてきた。

「静かだな」

「ええ」

「なあ、俺、アカリと初めて会った時からずっと感じてたんだけど、アカリと俺ってさ、何か二人で一人って感じがしないか?」

「それって、お互いに不完全だっていうこと?」

「それもあるかもしれないけど、何て言うかほら、初めて会った時、俺たちよくわからなかったけど、お互いに強く惹かれ合ったよな。まるで磁石みたいに」

「確かに……そうね」

 アカリは、僕の言葉を咀嚼するようにビールを飲んだ後で軽く頷いた。その肩越しには、窓の向こうで白く浮かび上がる夜の海が広がっていた。あまりの静けさに、寄せては返す波の音さえも聞こえてきそうだった。

「それってさ、お互いがどこかで失くしてしまった自分の一部として、相手のことを探してたんじゃないかな。無意識のうちに」

「そうかもね」

「だとしたらさ、俺たちはもともとひとつだったんだよ。会うべくして会ったんだ。だからもう離れちゃいけないんだよ」

 話の運び方に我ながら感動してしまった。自己陶酔の極致だった。アカリも同調してくれることを祈った。論理的ではなく反射的に。

「相変わらず、ヒロミって不思議なこと言うけど、確かに私たち、離れちゃいけないわよね。私はヒロミの一部だし、ヒロミは私の一部だし……。そうよね?」

「ああ、だから、ずっと一緒にいような」

「ええ」

 僕は、期待どおりに理解を示して静かに目を伏せたアカリをゆっくりと抱き寄せると、その潤んだ唇に自分の唇を重ね合わせようとした。何もかもが僕のシナリオどおりに運ぶはずだった。でもそれは、部屋にかかってきた突然の電話によって叶わぬものとなった。それはアカリに向けられたものだったが、何気ないその電話がアカリの口をつぐませ、その表情から次第に生気を吸い取っていった。

「誰から?」

「叔母さんから。お母さんが……倒れたって」

 アカリの声は、かすかに震えているように思えた。僕は、受話器を置くことも忘れて呆然としているアカリの小さな肩をそっと抱き寄せると、この状況を何とかしてやりたい激しい衝動に駆られた。本来なら今すぐにでも東京に帰るべきなのだが、夜も遅かったのでそれも叶わなかった。僕が今のアカリに対してできるのは、ただその不安な想いを静かに受け止めてやることだけだった。

「どうしよう。私、どうしよう」

「大丈夫さ。明日になったら、すぐに東京に帰ろう」

 小刻みに震え続けるアカリを体全体に感じながら、僕は一晩中アカリのそばで、その一途で懸命な祈りを聞き続けるしかなかった。

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