Story 3-Part.8-&エピローグ
気がつくと僕は、右手にイチゴのショートケーキの入った箱を、左手には数本の缶ビールが入ったビニール袋を持って、アパートの部屋のドアの前に立っていた。中に入ると僕はまず明かりをつけ、テーブルの上にケーキの箱と缶ビールを置いて座った。真冬の部屋は凍りつくほどに寒いはずだったが、僕は不思議とその寒さを感じなかった。あたりは物音ひとつせず、ただ奇妙に歪んだ空間だけがそこにあった。僕はそうした雰囲気の中で缶ビールのプルタブを開け、息をつくこともなく一気に飲み干した。目の前の景色が一瞬揺らいだような気がしたが、僕はそれを気にすることもなく、次に箱からイチゴのショートケーキを取り出して、フォークも使わずに一口で食べ切った。イチゴの甘酸っぱさが口の中に広がって、僕はアカリとの甘酸っぱい記憶の中に吸い込まれた。でも同時に、アカリに対する切なくやるせない想いも蘇り、僕は居ても立ってもいられなくなった。そして、二本目の缶ビールを一口飲んだところで、僕はおもむろに便箋とボールペンを取り出し、アカリへの気持ちを言葉にしようと試みた。文章にして形に残すことで、僕は自分の想いを確固たるものにしたかったからだ。
アカリへ
お前のいない今となっては、もうこんなことを書いても意味がないかもしれない。無駄なだけかもしれない。でも、言わせてほしい。書かせてほしい。俺は、今さらながらにお前を失くしてしまったことを悔いている。もとはと言えば、俺が他の女を好きになってしまったことが原因だったけれど、自分が今同じことをされてみて、やっとお前の苦しみや心の痛みがわかったような気がする。そしてお前と築き上げた、お互いが自分の一部であったような関係が、もう二度と他の女との間では叶わぬことが改めてわかった。本当に、お前が死んでから四年も経って、俺はやっと全てを理解できたんだ。アカリ、俺を笑ってほしい。こんなにも愚かで無様な俺を。
ほんの数時間前、俺はある女を殺した。一年近く付き合って、俺は自分なりにその女との間に何か確かなものを築き上げようとしてきた。少なくとも、お互いを信じることのできる関係を望んでいた。でも、結果としてそれは虚しい試みだった。彼女は俺を裏切ったばかりか、こともあろうにお前のことを馬鹿にしたんだ。お前とのことを話し出した俺も悪かったけれど、あんな愚かな女にだけは、お前のことをとやかく言われたくなかったんだ。でも、考えてみればそういう俺自身もかつては愚かだったんだよな。お前を裏切って他の女を選んだんだから。
今さら言う意味も資格もないけど、許されなくても当然だけど、俺を信じてくれたお前には感謝している。今俺は全てを失い、自分自身をも失おうとしている。でもアカリ、お前だけは、お前と過ごした時間だけは、俺にとっては何より充実した真実の瞬間だった。そして、改めて言わせてほしい。
Always Love Youと。
それだけを書いてしまうと、もう心の中には何も残っていなかった。僕はゆっくりと缶ビールを飲み干し、その揺れ動く空間と記憶の流れの中で自分の素直な気持ちと向き合っていた。そう、今こそ僕は決断しなければいけないのだ。僕自身が取るべき最期の、そして最善の選択を。
僕はその場を立ち上がると、部屋の隅で埃を被っていた薬箱を持ってきて、中から小瓶に入った錠剤を取り出した。表面には睡眠薬の文字が書かれていて、僕はその蓋を開けると、目の前のテーブルに中身を全部出してみた。五十ほどのその白い粒は、僕にある決断を迫っているように思えた。かつて四年前にアカリを失った時も、その錠剤は僕に決断を迫っていた。その時は自分自身を失うことに躊躇いを感じ、その苦痛を想像した果てに踏みとどまったが、今日の僕の頭の中は晴れた秋の空のように澄みきっていて、躊躇いや恐怖に思いを馳せることもなかった。僕はその白い粒を一掴み手に取ると、自分の人生の全てとともに口の中に押し込め、三本目の缶ビールでそれを一気に流し込んだ。薬とビールが流れ込む感触は、喉元を伝ってやがて胃の中へと持ち込まれた。次第に朦朧としていく意識の中で、僕は自分の人生の終焉を憂い、最後のビールを必死に飲み干そうとした。でもそれは叶わぬものとなった。僕が最後の一滴を飲む前に、完全にビールの缶が見えなくなっていたからだ。そう、三十歳のクリスマスを迎えて、僕は今ここに染み入るような暗黒の世界に身を置くことになったのだ。
目の前は本当に真っ暗だった。生まれてから、これほどの暗闇を経験したことはなかった。僕は手探りで出口を、いやせめて何かの手がかりを見つけようと試みたが、その両手は虚しく空中を彷徨うだけだった。僕は恐る恐る歩き始めたが、どこまで行ってもその暗闇から解放されることはなかった。でも僕は漠然とした恐怖と不安の中で、いつか一筋の希望がもたらされるものと信じて疑わなかった。根拠は何もなかったが、この状況が永久に続くとはどうしても思えなかったからだ。
案の定、僕の目の前にはぼんやりとした光のかけらが現れて、次第にそれははっきりとした一本の光の矢となった。ゆっくりとその光源に近づくと、彼方からかすかに音楽が流れてくるのが聞こえた。それが、アトランティック・スターの「オールウェイズ」だとわかるのにそう時間はかからなかった。急いでその光が漏れる隙間を両手でこじ開けると、一面が春の草原のような緑の大地となり、あたりは麗かな日の光で満ち溢れた。それは、僕がこれまで見たこともないような温かな優しい世界であり、まさにユートピアと呼ぶに相応しいものだった。草原を渡る風に誘われるままに歩いていくと、遠く彼方からこちらに向かってくる何かが見えた。始めのうちはそれが何なのか全くわからなかったが、五十メートルほどに近づいてきた時、僕はその叫び声からはっきりと認識することができた。
「アカリ!」
僕は自分の感情のままに叫び、前に向かって思いきり走り出した。アカリは真っ白なワンピースを身にまとい、その姿はさながら緑の大地を司る妖精のようだった。
「アカリ……」
僕は、すぐ目の前まで来ていたアカリを、その体がちぎれるくらいに強く抱き締めた。もう離したくなかった。何があっても、一瞬たりともこの胸の中から手放したくなかった。
「ヒロミ、会いたかった」
「もう二度と離さないからな。いつまでも一緒にいような」
それが夢幻の世界であったとしても、今の僕にとってはもうどうでもよかった。少なくとも目の前にはアカリがいて、僕はその存在を体と心の全部で感じていたからだ。『Always Love You』という言葉をお互いの心で唱えながら、そして僕ら二人だけの世界が永遠に続いていくことを願いながら。