Story 3-Part.7-
「ちょっと、何する気?」
そのただならぬ気配を察したのか、動揺を隠しきれずにたじろぐあかりにゆっくりと近づくと、僕はその髪を優しくかき上げて、あらわになった耳元に向かってそっと語りかけた。
「大好きだったよ。もっとお前のことを信じたかったし、わかり合いたかった。もっとも今にして思えば、それも俺の独りよがりの願望に過ぎなかったんだよな……。さようなら」
恐怖のためか凍りついたように動かないあかりの、その瞳の奥に何も確認できなかった僕は彼女を正面に見据えながら、両手でその首をゆっくりと包み込んだ。
「やめて……」
あかりの懇願するようなうめき声も、僕の耳には全く届かなかった。あかりの表情が苦痛に歪むにつれて、僕が両手に伝える力も強められていったが、僕は決してあかりから視線を外そうとはしなかった。その最後の瞬間をこの目で見届け、自分の記憶の底にしっかりと焼きつけたかったからだ。程なくあかりの表情は平板なものになり、体全体に漲っていた力みがなくなっていった。その首はうなだれて、僕が両手を外すと、あかりは体全体から地面へと崩れ落ちた。あたりは物音ひとつせず、人が来る気配も全くなかった。ただ頭上に輝く数少ない星たちだけが、僕を、そしてもう蘇ることのないあかりを優しく見つめているだけだった。時はその瞬間に凍りつき、僕の足元は宙に浮いているかのように地面の感触を失っていたが、頭の中は自分のしてしまったことに比べてみれば驚くほどに冷静だった。僕はまず、鉛のように重たくなったあかりの体を抱きかかえ、目の前に過ぎっていた手すりを越えてその体を海面上の空中にさらすと、次の瞬間両手を離して真下の水面に落とした。水しぶきがあかりの涙のように上がり、その体はもう二度と僕の目の前に姿を見せなかった。僕は、静まり返った暗闇の中で何とか一筋の光明を見出そうとしたが、それは虚しい願いだった。そう、今ここに全ては終わってしまったのだ。僕は今、完全に空洞になってしまった自分の心を嘆き、その哀しさを涙に変えることを試みたが、不思議なことにそれは一滴も流れなかった。僕は足取りも重くその場を離れて歩き出し、どこへ行くともなく彷徨い続けたが、歩けば歩くほどに自分の心が虚しく孤独になることを感じたので、その想いを打ち消そうと携帯電話を取り出し、一番最初に頭の中に浮かんだ一人の男に電話をかけた。
「何だヒロミか。一体何の用だ?」
その声はまぎれもなくサトシだった。僕は電話の向こうにある、今の自分とは異なる世界の平穏な雰囲気に急に懐かしさを感じ、とめどなく溢れ出る涙を抑えられなかったが、何とか平静さを取り戻すと努めて明るく話しかけた。
「いやさ、今日はクリスマスイブだろ? メリークリスマスって言おうと思ってさ」
「何だよ、それ。そんなことを言うためにわざわざ電話してきたのか?」
「まあ、いいじゃないか。それよりお前、今何してるんだ?」
「今何時だと思ってるんだよ。これから寝るところだよ」
苛立ちを伴ったサトシの答えに、時間の流れを忘れていた僕はとっさに腕時計を見た。その針は既に夜中の十二時を指そうとしていた。
「こんな遅い時間に悪かったな。いや、お前の声が急に聞きたくなってな」
「毎日のように会社で会ってるだろ。声だって聞き飽きるほど聞いてるじゃないか」
「まあ、そうだな」
「お前……何かあったのか?」
「いや、本当に何でもないんだ。じゃあ、またな。トモコによろしく」
「おいっ、ちょっと待てよ」
続けて何かを言おうとしていたサトシの声を遮るようにして、僕は一方的に電話を切った。そうすると僕の周囲を再び静寂が支配したが、今度は不思議と孤独に苛まれることはなかった。わずかの時間ではあったが、サトシと話せたことで、僕の心は安らぎに満たされ虚しさは薄らいだ。でも今度は、アカリに対するどうしようもない懐かしさと切ない想いが胸に溢れてきて、息苦しいほどの感情の高ぶりに、僕はその場に倒れ込み蹲った。今の正直な気持ちのままに動けたらどんなに気が楽になるだろう、どんなに心が解放されるだろうと思いながらも、僕はその想いに押し流される自分を留めることができなかった。
『こんな場所で倒れていてはいけないんだ。立ち上がるんだ。立ち上がって、しっかりと歩き出すんだ』
どれほどの時間が流れたのだろう、やがてどこからか聞こえてきた声に促されるように立ち上がった僕は、再び前に向かって歩き出した。思えばそれは、僕自身の心の底からの叫びだったのかもしれなかったが、いずれにしても僕はここで倒れるわけにはいかなかった。しかるべき場所までは、たとえ這い蹲ってでも歩き続けなければならなかった。