Story 3-Part.6-
「昔、好きだった女性がいたんだ」
「えっ?」
急に話を変えた僕を、あかりは唖然とした表情で見ていた。前の女の話をしても意味のないことは十分にわかっていた。でも、僕は言わずにはいられなかった。アカリのことに触れずには、今の自分の気持ちを正確に、正直に伝えることができないように思えたからだ。
「俺は、その女のことを愛していた。いや、愛なんて陳腐な言葉じゃ言い表せないくらいに、お互いを求め合っていたんだ。偶然だけどアカリっていう名前だった」
「本当に偶然ね」
あかりの言葉には、精一杯の皮肉が込められていた。さらにその表情には、『だからどうしたのよ?』という言葉が刻まれていた。僕はそんなアカリの反応をまとめて交わすと、あえてゆっくりと話を続けた。そうすることが逆に、あかりに理解を促すための最短距離だと思ったからだ。
「僕とアカリは会社の同期で、入社式の時にお互いの存在を認めて、それから付き合い始めたんだ。そこに理由なんかなかった。僕らは本当に自然な気持ちで、でも激しくお互いを求め合った」
「それで?」
「付き合い始めてから一年近く経った頃、急に彼女の母親が亡くなって、彼女は一人ぼっちになった。父親も兄弟もいなかったから、本当なら俺が支えになってあげるべきだったんだけど、札幌に転勤することが決まってたから、俺はやむなく彼女を一人残して北へ向かった」
「ドラマみたいな話ね」
あかりの平板な受け答えなど、僕の耳には届いていなかった。僕はただ純粋に、今の自分の気持ちを伝えたかったのだ。それが婉曲的で不器用な表現でしかなかったとしても。
「でも、俺は札幌で一人の同僚の女性と仲よくなって、結局彼女を手放してしまった。いつも会えなかった彼女ではなく、いつも一緒だった同僚のほうを選んだんだ。でも、彼女と別れてみて初めてわかったんだ。俺がどれだけ彼女を必要としていたのか、彼女を求めていたのかってことが。もっとも、そう気づいた時にはもう遅かった。彼女は結局、俺の前から永遠にその姿を消してしまった」
「家出でもしたの?」
「死んだんだ。俺は後悔したよ、生まれてからあれほど後悔したことはなかった。でも仕方ないよな。どんなに悔いたところで、もう元には戻らないんだから。それからの俺は人を全く愛せなくなった。いや、愛することが怖かったのかもしれない。心の震えや切ない想いを感じることもなくなった。俺は、もう二度と人を愛せないんじゃないかとも思った。でもやっと、やっとめぐり合えたんだ。あかりと出会ってから俺は生き返った。体中に生気が漲ったみたいだった。だから、俺はもう二度と同じ過ちは繰り返したくないんだ。お前を心の底から信じたいんだ。ずっと一緒にやっていきたいんだ」
僕は、精一杯の気持ちを込めてあかりに言葉をぶつけた。あかりには嘘をついてほしくなかったのだ。たとえそこに彼女の過ちがあったとしても、僕はお互いをわかり合うことで乗り越えたかったのだ。あかりはその場でうつむいたまま、僕と顔を合わせようとはしなかった。僕は想いの全てを吐き出したことで頭の中が空っぽになり、意識も朦朧としていた。もうこれ以上、言葉を発することは不可能だった。後はあかりからの言葉を待つしかなかった。
「誰も信じることなんてできないのよ」
「えっ?」
「人を信じることなんて不可能よ」
いつしか顔を上げて海を見ていたあかりは、やがて僕のほうを刺すような視線で見ながら言葉を続けた。
「現にあなたは今、私のことを信じてないでしょ?」
「信じたいんだ。今も、そしてこれからも。だから、本当のことが聞きたいんだ」
「本当のことを聞いてどうするの?」
「そこからまた始めればいいさ」
「本当にそう思ってるの?」
「ああ」
「綺麗事ね。じゃあ、お望みどおり本当のことを言ってあげるわ。あなたと付き合い始めて少し経った頃、仕事がうまくいかなくて落ち込んでた時に、課長が優しい言葉をかけて慰めてくれたの。私、それでずいぶん救われて、それからも何回か外で会って食事したりしているうちに……」
「寝たのか?」
「自然な成り行きだったわ。私は課長に癒され、課長も私で癒されて、お互いに相手を求め合ってたわ」
「それって、よくないだろ?」
「課長に奥さんがいるから? 不倫だから? そんなこと関係ないわ。お互いが相手のことを必要としてるんだから、それでいいじゃない」
「ホリウチとのことは?」
「同い年だったし、会社の同期だったから、友達みたいな感じで遊んでたんだけど、ある時に彼から好きだって言われて……」
「じゃあ、俺がホテルの前で見たのは」
「まさか見られてたなんてね」
「俺は……俺とのことは何だったんだ?」
「もちろん、好きだったから付き合ったのよ。もっとも、あなたが私のことを信じられなくなったのなら別れましょうか?」
あかりの言葉に、僕はもはや何も言うことはできなかった。少し前まであかりを信じようと思っていたことの愚かさだけを、僕は今さらながらに痛感していた。
「俺が馬鹿だったよ。お前を信じようとした俺が」
「だから言ったじゃない。人のことなんか信じられないって、信じちゃいけないって。あなた自身だって、昔彼女を裏切ったんでしょ? もっとも、彼女だってあなたを裏切って他の男と付き合ってたかもしれないけど」
「おい、ちょっと待てよ。俺のことはいいけど、彼女の、アカリの悪口は言うな」
「いいじゃない、もう死んじゃった人なんだから」
あかりの口から出た言葉を、僕は黙ってやり過ごすわけにはいかなかった。少なくともあかりのような女から、アカリのことを言われることだけは嫌だった。どうしても許すことができなかった。だから僕は、その想いのままに行動することを憚らなかった。最後まで、僕が僕自身を裏切らないためにも。