Story 3-Part.4-
やがて秋の深まりとともに、僕の目の前にも十一月がしっかりと腰を下ろした。舗道の街路樹は初夏の緑の衣を脱ぎ捨て、その寒さの中に裸の体をさらしていた。道行く人々の背中にもどことなく哀しみが宿っているようで、僕はそんな光景を見ているうちに、いつの間にか同じ哀しみを共有するようになっていた。
「ウチダ、実は話したいことがあるんだけど、近いうちに時間作れないか?」
十一月も半ばを過ぎたある日、会社の食堂で少し遅い昼飯を食べていた時に、サトシが神妙な顔つきで僕に尋ねてきた。
「何だよ、話したいことって」
「まあ、それはその時にな」
意味深に口ごもると、サトシは僕のそれ以上の追求を遮るように目の前にあったカレーをかき込んだ。サトシの話は見当がつかなかったが、その表情からあまりよくない話であることだけは容易に想像がついた。僕は何気なく天井を見上げながら話の内容に思いをめぐらせ、自分だけにしかわからないような小さなため息をつくしかなかった。
その三日後、僕とサトシは会社近くの居酒屋で居心地の悪い時間を共有していた。サトシは、僕が何度尋ねてもなかなか言いたいことを口にせず、ただ気を紛らわすかのようにビールを何杯も飲んでいた。二人が話をしないことで、普段は気にもしないような周囲の客や店員の取り留めのない声が容赦なく耳に入ってきて、僕は底知れぬ嫌悪感に苛まれた。僕は、次第に顔を赤らめていくサトシを正面に見据えながら、それでも我慢強く最初の一言を待った。やがて意を決したのか、サトシは僕の目の奥を見るような鋭い眼差しで話を切り出してきた。
「お前に話そうかどうかずっと迷ってたんだけど、まあ知らせないのも友達としてどうかと思ってな」
「だから、何が言いたいんだよ」
「実はな、風の噂で耳に入ったんだけど、あかりちゃん、お前のところの課長と付き合ってるらしいぜ」
「えっ……嘘だろ?」
辛うじて口から出てきたのはそれだけだった。一体サトシは何を言っているのか、その後の話の展開はおろか、たった今放たれた話の中身すら理解できなかった。何より、唐突に結びついたあかりと課長を、頭の中で隣り合わせること自体が至難の業だった。
「少し前に、二人がホテルから出てくるのを見た奴がいるらしい。他にも夜の公園で抱き合ってたとか、いろいろな話を耳にしてな。まあ、俺が実際に見たわけじゃないからわからないけどな」
サトシは言い辛かったのか、語尾を濁した後、僕のほうを見ずに目の前の枝豆を齧った。
「多分、人違いだろう。あかりに限ってそんなことはないと思うし」
「まあな。でも、女はわからないからな。脅しで言うわけじゃないけど、一度確かめてみたほうがいいぜ」
「ああ、でも……」
「なあ、俺はお前のことが心配で言ってるんだぜ。お前がアカリちゃんのことを忘れられないのはよくわかるし、あかりちゃんと新しい人生を始めたいのもわかる。でも、もう忘れるしかないんだぜ。アカリちゃんは戻ってこないんだから」
「お前に何がわかるんだよ」
僕の突然の物言いに、あっけにとられて目を丸くするサトシがいた。何だか無性に腹が立っていた。サトシの心配はありがたかったが、それがあまりに的を射ていたので、素直に受け入れることができなかったのだ。
「お前に俺とアカリの何がわかるっていうんだ。俺が誰を好きになろうと、お前には関係ないだろ。余計なお世話なんだよ。放って置いてくれ」
僕は、その捨て台詞に唖然とするサトシをその場に残して居酒屋を出ると、夜の街の喧騒の中をただ闇雲に歩き回った。サトシに自分の気持ちを見透かされていることがたまらなく嫌だったが、同時にサトシの言っていることが正しいこともまたよくわかっていた。そう思うと僕の頭の中は、寄せては返す波のような不安で一杯になっていた。あかりが課長と一緒にいる姿を想像することは困難だったが、かといってそれを否定するほどの根拠も自信もなかった。確かにサトシの言うとおり、人間というものは、とりわけ女はサルガッソーの底なし沼のように奥深く、その全てを知ることは不可能に近かった。僕も、仕方のないことながらあかりの全てを知っているわけではなかった。その意味で、僕はアカリといたときのような一体感や安心感を、あかりに対して感じてはいなかった。そう、僕とあかりの世界は、自分たちが感じているよりもはるかに儚く、砂上の楼閣のように脆弱なものだったのだ。
それは季節が冬に改まり、街中にクリスマスのイルミネーションが溢れ出した十二月の始めだった。その日の夜遅く、会社の同僚たちとの忘年会を終えて、一人駅に向かって歩いていると、ほんの十メートルほど先の目の前を一組の男女が通り過ぎた。それはホテルを出てタクシーに乗ろうとしていた二人連れで、それ自体は珍しいものでもないのだが、その二人の顔をはっきりと見た瞬間、僕は背筋が凍りつくほどの寒さに襲われた。それが真冬の寒さのせいだったらどれほどよかっただろうと思いながらも、僕はその現実から逃れるわけにはいかなかった。
女のほうがあかりであることに間違いはなかった。あかりは黒いロングコートを身にまとっていて、いつもとは明らかに違う大人の女性の雰囲気を醸し出していた。僕は普段目の当たりにしている姿とのギャップに驚き、少なからず戸惑いを覚えたが、隣にいた男のほうに目を移した瞬間、僕は自分の予想とは異なる人物であることに気づき唖然とした。その男は同じ職場で、しかも僕の隣の席に座っている後輩のホリウチだった。二人は足早にタクシーに乗り込むと、そのまま僕の視界から夜の闇の向こうに消えていった。僕は抑え切れない感情の高ぶりを持て余しながらも、懸命に目の前に起こった事実を理解しようとした。短時間の記憶を巻き戻して、もう一度脳裏に蘇らせようとした。でも、それは無駄というものだった。あかりが後輩とホテルから出てきたという事実は、既に僕の認識の限界をはるかに超えてしまっていたからだ。以前サトシから聞いた課長とのことも頭を掠め、僕はそこから何を考え、何を導き出すかがよくわからなくなってしまった。算数が苦手だったこともあり、この難解な多元方程式は一晩かかっても解き明かせそうになかった。僕は割れるように痛み出した頭を激しく左右に振りながら、ただ寒風の吹きすさぶ舗道を再び歩き始めた。今はとにかく、一刻も早く家に帰って、熱いシャワーを浴びることしか思い浮かばなかった。
その後僕は、あかりに会う度にそのことを問いただそうと試みたが、いつも寸前で言葉を飲み込んでしまった。そう、ここに至って僕は単純に聞くのが怖かったのだ。あかりに事実を認められ、僕自身が果てしなく傷つくのが嫌だったのだ。そして、そんなどこまでも優柔不断で勇気のない自分にもまた嫌気がさしていた。でも、いつまでもそこから逃れているわけにはいかなかった。結局のところ、それは来るべくして訪れ、僕は台風に巻き込まれるような一日になることを予感しながらその瞬間を迎えた。