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Story 3-Part.1-

 気がつくと、僕は自分のアパートの部屋で、飲みかけの缶ビールと食べかけのイチゴのショートケーキを目の前に見ていた。そう、今日はクリスマスイブ、つまり僕の二十九歳の誕生日、そしてアカリの命日だった。僕は、イチゴのような甘酸っぱい記憶の渦からそうして舞い戻ってきた。三年前の今日、アカリがいなくなってしまったあの日から、僕は凍てつくような心の寒さに震え続け、失われた自分の一部をあてもなく探し続けてきたが、その心が温かみを取り戻し、損なわれた自分を手に入れることは叶わなかった。僕はこの三年間本当に孤独で、そして何よりも寂しかった。自分自身を共有できる人間の存在がこれほどまでに大切だということを、僕はこの三年間で痛いほどに味わった。僕はもう二度と、アカリのような女性にはめぐり逢えないような気がしていた。イチゴのように鮮やかで、その味のように繊細な心の持ち主は、アカリ以外には全く考えられなかった。僕は改めてアカリという人間の大きさを感じ、目の前のイチゴのショートケーキを再び食べ始めた。もう二度とは戻らない一人の女性を想いながら。

 でも一方で僕の心の片隅では、未来に対するかすかだが揺るぎない希望が宿っていた。過去に捉われ続けることのない、新しい運命、新しい出会いへの飽くなき欲望が。僕は、ともすればアカリという過去の呪縛から逃れられなくなる自分を必死に建て直し、これまでの自分からの決別にその全精力を傾けた。その試みは必ずしもうまくはいかなかったが、それでも僕は、来るべき人生の新しい局面の到来を信じ続けた。


 それは、年も改まった四月初めのある朝だった。その日は冷たい雨がしっとりと街角を濡らしていて、僕は会社に出勤する道すがらふと灰色の空を眺め、その向こうにこれまでの自分を見つめていた。僕は三年余りの札幌での転勤生活の後、二年前の四月から東京の本社に戻っていた。札幌での生活は僕に様々な経験をもたらし、自分自身の不用意な行動から最も大切なものをも失う結果となったが、それでも僕は今となっては後悔していなかった。というより後悔したくなかった。過去からの決別と将来への飽くなき探究心だけが、今の僕を支えていた。過去の経験は確かに大切な教訓で、決して忘れてはいけないことだが、かといっていつまでも捉われ続けてはいけないのだ。その想いを胸に抱きながらも、これからの新しい未来を求めていかなければいけないのだ。僕はそうして損なわれた自分自身の一部を癒し、別の新しい一部を求めようとしていた。

 始業時刻間際に会社に着き、職場の自分の机に腰を下ろしたが、一息もつかないうちに僕の周囲にいた全員が課長に呼び寄せられ、おもむろに朝の挨拶が始まった。課長の隣には新入社員らしき男女が三人並んで立っていて、皆一様に緊張した表情を浮かべていたが、一人一人の紹介に及んだ瞬間、僕はその中の一人の女性の名前を聞いて我が耳を疑った。

「みなさん、初めまして。オオタ アカリといいます」

 こちらに向かって不器用に頭を下げるその女性の顔など、僕は全く見ていなかった。アカリという名前だけが、僕の頭の中をひたすらに駆けめぐっていた。そう、僕はその名前を聞いただけで自分の記憶に混乱をきたしていたのだ。ただ名前が同じだというだけで、目の前の女性と記憶の底に眠るアカリとを重ね合わせてしまっていた。

「アカリ……」

 僕の呟きに、隣に立っていた同僚が怪訝な表情を浮かべたように見えたが、僕はそんなことなど少しも気にならなかった。それよりも、自分の中にまだアカリが生き続けていることを改めて思い知らされたようで、むしろそのことに少なからずショックを受けていた。

 しかも、あろうことか、僕とオオタ アカリは同じプロジェクトの一員としてともに仕事をすることになったのだ。僕は、更に混乱していく自分を隠すように努めて冷静に振舞いながらも、ただ運命の悪戯に驚くばかりだった。もっともよく見ると、彼女はアカリとは全く似ていなかった。顔の造作や髪型はもちろんだったが、活発で物怖じしない性格は明らかに別の女性のものであり、僕は彼女とアカリとを重ね合わせたことを恥じた。と同時に、彼女が時折見せる子悪魔的な表情に危うさを感じ、次第に惹き込まれていく自分を抑えることができずにいた。


 彼女と一緒に仕事を始めてから一週間ほどが過ぎたある日の夕方、久しぶりに仕事が早く終わった僕は、そのまま家に帰ってゆっくり休もうと会社の玄関から足早に駅に向かおうとしていた。とその時、突然の背後からの声に僕は反射的に振り返った。

「ウチダさん、ちょっとその辺でお茶でもしていきませんか?」

 僕は、そこから始まるものが何なのかまだよく掴めていなかった。それが必ずしもいい方向へ向かうとは思えなかったが、僕はただ事実の積み重ねと時間の流れに従うしかなかった。

「私の名前、ひらがなで書くんですよ」

 彼女……あかりは人なつこそうな表情を浮かべながら、目の前にあるレモンティーを口に含んだ。僕はあかりに誘われて会社近くの喫茶店に来ていた。そう、それはまさに、かつて僕とアカリがよく訪れた店だった。僕らは通り沿いの窓際の席に座り、テーブルの上には僕のコーヒーとあかりのレモンティー、そして二人分のイチゴのショートケーキが置かれていた。夜の七時を過ぎてはいたが、通りのイルミネーションと行き交う車のライトで外は眩いくらいに明るかった。

「イチゴのショートケーキ好きなの?」

「ええ、大好きです。小さい頃からよく食べてました」

「それって、お母さんが買ってきてくれてたの?」

 訊いた内容に自分でも驚いていた。何とかしてあかりとアカリを結びつけようとしている自分が情けなかった。たとえあかりが頷いてくれたとしても、それでどうなるものでもないのだ。

「いえ、お父さんが会社帰りに毎日のように買ってきてくれました」

「へえ、あっ確か兄弟いるんだよね?」

「ええ、お兄ちゃんがいます」

「じゃあ、お兄さんに可愛がってもらってたんじゃないの?」

「そんなことないですよ。いつも喧嘩ばかりしてたし」

 でも、あかりの言葉の端々には兄と喧嘩をしていたような雰囲気は感じられなかった。むしろ、両親や兄から十分過ぎるほどの愛を受け取っているように見えた。僕は、ここでもアカリの薄幸な人生を思い出して言いようのない切なさを覚えたが、いずれにしても今目の前にいる女性はアカリではないのだからと、そう自分自身を納得させた。

 程なく、店内の音楽が聞き覚えのある懐かしいものに変わった。気がつくと僕は、あかりに聞こえるかどうかも気にせずに呟いていた。

「アトランティック・スターの『オールウェイズ』だな」

「これって、そういう曲なんですか?」

 当然のこととはいえ、あかりの反応に僕は愕然とし、やるせなさすら覚えたが、次の瞬間昔の記憶を無理矢理封印し、なおかつ十分に切り離してから改めてあかりに話しかけた。

「ところで、誕生日いつなの?」

「五月五日なんです。もうすぐですけど」

「本当に五月五日なの?」

「ええ。それが何か?」

「いや、親友の誕生日と同じだったから」

 僕は努めて冷静に答えたが、内心は荒れ狂う海のような動揺で一杯だった。思えば一週間前に、あかりがこの会社にやってきてから、僕の心には波風が立ち通しだった。名前が同じだったことに始まり、イチゴのショートケーキが好きだったり、今度は誕生日まで同じだったり……。そう、僕は無意識のうちにアカリとあかりとを比較し、その度に驚きと落胆を繰り返していたのだ。僕は、そんな自分の割り切れない想いにうんざりしながらも、同時に自分の中でのアカリの大きさを改めて感じないわけにはいかなかった。

「ウチダさんの誕生日は?」

「ああ、十二月二十四日なんだ」

「それって、クリスマスイブじゃないですか。ロマンティックでいいですね」

 あかりは嬉しそうに、ショートケーキのイチゴを口に運んだ。それは素直というよりも、無邪気といったほうが適切だった。もっとも考えてみれば、あかりは大学を卒業したばかりの二十二歳で、その年齢にしてはやや幼さが残るものの、自分と同年代の女性と比べて異なることは当然だったが、それを差し引いても僕は、彼女との言葉のやり取りに不満が残った。でも一方で、あかりのあどけなさが、僕にある種の新鮮なイメージをもたらしたこともまた事実だった。すっかり温くなったコーヒーを飲みながら、僕はそんなあかりの笑顔を複雑な想いで見ていた。

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