Story 2-Part.6-
アカリはその後、しばらく僕のところに留まった。僕らは空白の九ヶ月を埋め合わせるようにお互いの想いを確かめ合い、その体と心の隅々までを貪欲に求め合った。僕はそうしていつまでもアカリと一緒に過ごす日々を求め続けた。それはあたかも、アカリへの愛を確認するかのような行為だったが、とにかく僕はそうせずにはいられなかった。アカリと一瞬でも離れることによって、二人の間に決して埋まることのない深い溝ができてしまうように思えた。そう、僕は既にアカリを愛していたのではなく、ただ愛そうと努力しているだけに過ぎなかったのかもしれなかった。
アカリが東京へ帰ってからも、僕の心は激しく揺れ続けた。秋が深まるにつれて再び仕事が忙しくなったが、僕はむしろそのことを喜んでもいた。できるだけアカリのことを考えないようにすることで、自分の真の想いを誤魔化したかったのだ。だから僕は、自ら進んで仕事を引き受け、深夜になるとアパートに帰って死んだように眠る日々を続けた。そう、僕の心は既に別のところにあったのだ。いや今にして思えば、この札幌に来た時から僕の心は既に変わり始めていたのだ。そして僕は、ただそのことをアカリという隠れ蓑を使って誤魔化してきたのだ。もっともそんな小手先ばかりの言い訳が長続きするはずもなく、季節が秋から冬になったことを偶然の契機にして、僕の周囲は大きく転換していった。
それはクリスマスイブ、つまり僕の二十五回目の誕生日の夜だった。その日は珍しく仕事も早く終わり、僕は煌びやかな街のイルミネーションを見ることもなく、足早に自分のアパートに帰ってきた。僕は理屈抜きで疲れていて、とにかく柔らかいベッドで眠りにつきたかったのだ。僕はカバンを放り投げて素早く服を着替えると、そのまま冷たいベッドの中に潜り込んだ。『ああ、これでやっと眠れる……』でも、僕のそのささやかな願いは、ある一人の訪問者によって脆くも崩れ去ってしまった。
玄関の戸を開けると、そこにはケーキとワインを持ったトウコが立っていた。トウコはサンタクロースと見まがうばかりの真赤なワンピースの上に、雪のように白いコートを羽織っていた。
「メリークリスマス、いや、誕生日おめでとうかな?」
屈託のない笑みを浮かべるトウコに、僕は今夜こそ自分の気持ちに素直になることを誓いながら、そのまま黙って部屋に招き入れた。
「外は寒いね」
手のひらに息を吹きかけるトウコを、僕はその勢いのままに抱き締めていた。もはやそこに迷いはなかった。
「ウチダくん、どうしたの?」
「俺、前からトウコのことが好きだったんだ。今になってやっとわかったんだ。やっと気がついたんだ」
「……私も」
僕はトウコと互いの唇を求め合った。部屋の寒さも気にならなかった。ただトウコの温かい唇の感触に酔いしれていた。
「嘘、よね」
その掠れた声を背中で聞いた僕が振り返ると、そこには焦点の定まらない視線でこちらを見ながら立ちすくむアカリの姿があった。
「どうしてここに」
「今日はクリスマスイブだから、ヒロミの二十五回目の誕生日だから、ベランダに隠れて帰ってきたら思いきり脅かそうと思ったのよ。でも、どうして……」
その後どれほどの時間が経過したのか、僕には皆目見当もつかなかった。僕ら三人はその場で押し黙ったまま、誰一人として言葉を発しなかった。奇妙に歪んだ時の流れと重苦しい雰囲気の中で、心臓の鼓動だけが高らかに響き渡り、僕は緊張のあまり喉がからからに渇いた。
「私、帰ろうか?」
ようやく放たれたトウコの言葉に僕は意を決すると、精一杯の勇気を振り絞って今のありのままの気持ちを二人に、そしてアカリに伝えようとした。
「いや、トウコもここにいてくれ。アカリ、今の俺はトウコが好きなんだ。もちろん、アカリと過ごした日々は忘れることができないし、この世界でアカリが一番だと思ってきた。いや、思うまでもなく一番だったんだ。でも、札幌に来てから少しずつ変わってきたんだ。アカリが一番だった自分の気持ちが、いつの間にかトウコに移っていたんだ。理不尽だとも思うし、とんでもないことを言ってることはよくわかってる。でも、俺の心はもう決まってしまったんだ。もうアカリのことを、前みたいに想えなくなったんだ……。すまない」
僕の必死の訴えがアカリに届いたのは明らかだった。でも、それをアカリが理解したかどうかはわからなかった。もちろん理解はできないだろうとも思った。誰がどう考えても、僕の言っていることは理不尽で筋が通っていなかったからだ。でも、やはり僕は言わなければならなかった。アカリには最後まで嘘をつきたくなかったのだ。
「せっかくイチゴのケーキ買ってきたのに、食べられなかった」
アカリは消え入りそうな声で呟くと、そのまま僕のすぐ脇を通って外に出ていった。そうしてアカリのいなくなった空間には、その移り香とともに小さな箱が落とされていた。僕は、トウコの哀しげな視線も気にせずに箱の中身を見た。そこには甘い香りを生み出す赤いコロンの小瓶とともに、一片のバースデイカードが入っていた。そして僕は、そこに書かれていた言葉を見て、激しい心の震えが涙となって溢れ出てくるのを止めることができなかった。『Always Love You』と書かれたその文字に。
「私、やっぱり帰るね」
トウコはそう言うと、物音ひとつ立てずに僕のもとを去っていった。いや、トウコがいなくなったのを僕が認識したのは、その声が聞こえてかなり経ってからだった。僕はその間、バースデイカードを握り締めながらただうめくように泣いていたのだ。頭の中では、アカリと過ごした日々が映画の回想シーンのように次々と映し出され、そのバックにはアトランティック・スターの「オールウェイズ」がエンドレスで流れていた。未だ元に戻らない奇妙な時間の流れの中で、僕は自分の想いを見失いそうになっていた。僕は台所で立て続けに水を三杯飲むと、ベッドに座ってアカリが持ってきたイチゴのケーキを食べながら、トウコの買ってきたワインをひたすらに飲み続けた。どれだけ飲んだところで酔いは回らなかったが、それでもいつの間にか眠ってしまったらしく、気がついた時には窓のカーテンを通して、まるでルーベンスの絵画にあったような朝の柔らかな日差しが優しく僕を包み込んでいた。僕は、目の前に廃墟と化したケーキと空になったワインのボトルをぼんやりと見ながら、石のように硬くなった自分の意識を少しずつほぐし始めた。そう、何はともあれ僕は前に歩き出さなければならなかった。全ては起こるべくして起き、アカリは僕のもとを去っていった。覆水は盆には返らないのだ。たとえ行く手に無限の荒野が広がっていたとしても、血反吐を吐いてでも僕は自分の幸せを掴まなければならなかった。そうするしか、今の僕に生きる術はないのだから。