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Story 2-Part.5-

 九月に入ると、僕の仕事もようやく峠を越えつつあった。その日は明け方まで会社で働いていたので、僕はアパートに帰ると、そのまま死んだようにぐっすりと寝てしまっていた。そんな僕の眠りを妨げたのは、部屋の外から聞こえたチャイムの音だった。枕元の時計は午後七時を指していて、僕がその執拗さにうんざりしながらドアを開けると、そこには両手一杯にビニール袋を下げたトウコが立っていた。

「ごめんね。寝てた?」

「まあな。でも、どうしてここに?」

「最近、ウチダくん働きづめで疲れてるでしょ? だから、何かパワーの出る食事でも作ろうかなと思って。迷惑だった?」

「いや、そんなことないけど」

 僕は混乱し始めた頭を横に置くと、ひとまずトウコを中に入れた。トウコはもの珍しそうに部屋中を見回すと、両手に持っていた袋をテーブルの上に置き、そのままキッチンの前に立って洗いものを始めた。トウコは白いTシャツにデニムのショートパンツ姿で、キッチンを左右に移動するのに合わせてポニーテール風にまとめ上げた髪も揺れた。

「でも、何でわざわざ俺に料理なんか」

「同じ会社で働いてるよしみよ。何か戦友みたいな感じがしてほっとけないのよ」

 僕はトウコから「戦友」という言葉が出てきたことに少し違和感を覚えたが、いずれにしてもせっかくの好意なのだからと自分を無理矢理納得させて、その後ろ姿を黙って見続けた。

 とその時、その日二度目のチャイムが耳に届いたので、僕は玄関に向かってゆっくりと歩き出した。ドアの前に誰がいるかなんて考えてもいなかった。

「来ちゃった」

 そこに立っていたのはアカリだった。三ヶ月前のドレス姿とはうって変わり、カジュアルな水色のワンピースを着てはいたが、それはまぎれもなくアカリそのものだった。

「どうして……」

「何か、急にヒロミに会いたくなっちゃって。だって、仕事が忙しいからって、先月も帰ってきてくれなかったし、いつ電話しても気のない答えしか返ってこないし……。誰かいるの?」

 話している途中で気がついたらしく、アカリは足元にあった女物のサンダルに視線を留めながら僕に尋ねた。

「ああ、会社の友達が来てるんだ」

「女の人ね」

 返事を躊躇っていると、アカリはその場にバッグを置き去リにして目の前から姿を消していた。僕は一瞬何が起こったのかよくわからなかったが、程なく全速力でアカリを追いかけていた。

「待ってくれ、アカリ!」

 そこはアパートのすぐ近くにある小さな公園だった。僕はそう叫んで何とかアカリの腕を掴むと、彼女を、何より僕自身の気持ちを落ち着かせるために、すぐそばに佇むベンチに並んで座った。夜とはいえ暑さの残るこの時季、ひとしきり走った僕らの服は汗でしっとりと濡れていた。アカリは肩で息をしながら、僕の隣で真っ暗な地面をただ眺めていた。

「会社の同僚なんだ」

 しばらくして、僕はそう話を切り出した。どう見ても言い訳だったが、僕はアカリの誤解を解こうと、ただそれだけで頭の中が一杯だった。

「いつも、ヒロミのところに来てるの?」

「今日が初めてだよ。それに、向こうから急にやってきたんだ」

「その子と付き合ってるの?」

「そんなわけないだろ」

 自分で言いながら、でも自分の声ではないような気がした。どこか遠くからフィルターをかけられたように聞こえるその声に、僕は本当の自分が別の場所にいるような錯覚に襲われた。

「でも、その子はヒロミのことを好きだと思うわ」

「何でそんなことがわかるんだ?」

「ただ何となくよ。女の勘かな」

 その後しばらくは死んだような時間が流れた。僕は今、アカリに何を言っても言い訳になると思うあまり、言葉を発することができなかった。アカリに会えたことの喜びも、札幌に来てくれたことへの感謝の気持ちさえも言うことができなかった。

「会いたかったの。寂しくて切なくて、とにかく会いたかったの」

 アカリは僕のほうを見ずに、ただ自分の足元を見つめながら呟いた。

「よく来てくれたね」

「さっきはごめんなさい。急に走り出したりして。やっと会えたと思ったら、足元に女物のサンダルが見えて、女の人がいるんだとわかって、それだけで何だか急に舞い上がっちゃって」

「俺も悪かったよ。これからは不用意に女性を家に入れないようにするよ。アカリ以外はね」

「それはもういいのよ。私が勝手に誤解しただけなんだから」

 ようやくこちらに顔を向けてくれたアカリは、ゆっくりと僕の肩にその身を任せてきた。僕はさりげなくアカリの肩に手を回すと、その潤んだ唇を見て思わず呟いた。

「イチゴみたいだな」

「えっ?」

「後でイチゴのショートケーキを食べよう」

「ショートケーキじゃなくて、大きいのがいいな」

 僕はそんなアカリがどうしようもなくいとおしくて、イチゴのように甘く酸っぱい唇を求めた。まぎれもないアカリの味をゆっくりと噛み締めながら、僕は二人だけの夜がどこまでも続いていくことを頑なに信じて疑わなかった。

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