Story 2-Part.2-
でもその夜、トウコたちと別れてアパートへ戻った僕は、スーツを着替える間も惜しんで真っ先にアカリに電話をかけた。少し前のトウコとのやり取りで、僕は否が応にもアカリのことを思い出してしまい、その声が無性に聞きたくなったからだ。
「もしもし、ヒロミだけど」
「ああ、どうしたの? 声が浮ついてるように聞こえるけど、何かあったの?」
昨日電話したにもかかわらず、アカリの声は何年も聞いていないような懐かしさに満ちていた。不覚にも目頭が熱くなったが、涙声を聞かせる恥ずかしさから一呼吸置くと、妙にテンションを上げながら話を続けた。
「いや、別に何もないんだけど、何か無性にアカリの声が聞きたくなってさ」
「毎日のように話してるじゃない。やっぱり何かあったんでしょ?」
陽だまりのようなアカリの優しさに触れたような気がして、僕は無性にトウコが投げかけた質問をしてみたくなった。たとえ無意味でも、わかりきっていてもアカリの口から答えを聞きたかった。
「アカリ、遠距離恋愛って難しいのかな?」
「急に何を言い出すかと思えば、改まってどうしたのよ」
「まあ、俺とアカリは大丈夫だよな。たとえ離れていても、心はひとつだもんな」
「ヒロミ、今日は何か変よ。今度は自分で勝手に納得して。一体私に何が言いたいのよ?」
アカリの疑問はもっともだった。相手の答えを聞く前に自分で納得してしまう不自然さはもちろん承知していた。結局のところ、僕はアカリと話したいだけだったのだ。だから内容なんてどうでもよかったのだ。
「いや、別にいいんだ。ところで、アカリのほうはどうだった?」
「どうって、相変わらずの一日だったけど」
「そうか。なあ、近いうちに会わないか? 俺、何とか暇見つけてそっちに行くから」
「私はいいけど、仕事は大丈夫なの?」
「何とかするさ」
僕は自分を納得させるようにアカリを誘うと、そのまま満足して電話を切った。でも次の瞬間、僕はこの自分勝手な電話の内容に早くも後悔し始めていた。会話は言葉のキャッチボールなのだから、アカリの投げたボールもきちんと受け止めてやらなければいけなかったのだ。僕はアカリに対する贖罪の念に満たされたが、何より一刻も早く声を聞くことでアカリとの愛を確かめたかったのだ。そして電話だけではなく、実際に会ってお互いの瞳を見ながらわかり合いたかったのだ。この手でアカリをきつく抱き締めながら。
もっとも、物事はそううまくはいかなかった。三月を越えて四月になっても仕事に追われる毎日が続き、僕はアカリに会うどころかまともに電話をすることすらままならなくなっていた。毎日のように夜遅くまで残業が続き、自分の部屋に戻って寝るやいなや、すぐに新聞配達の自転車のブレーキ音で目が覚めるといった状況が続いた。アカリから電話がかかってきても、僕にはその声に応える気力が残っていなかった。とにかく僕は、そうして馬車馬のようにひたすら働き続けるしかなかった。
僕がそんな地獄のような生活から抜け出した時には、街は風薫る五月の蒼さに包まれていた。そしてその時、僕の横には新緑の若葉のように爽やかなトウコの笑顔があった。
「ウチダくん、今度の日曜日空いてる?」
ゴールデンウィーク狭間のある日、僕とトウコは、会社近くの鄙びたそば屋で昼飯をともにしていた。食欲のなかった僕はざるそばを啜り、トウコは息を吹きかけながら天ぷらそばの熱を必死に冷ましていた。僕は、トウコからの突然の誘いに少し驚いたが、取り立てて予定があるわけでもなく、空いていることを示すように首を縦に振ると、トウコの口から出る次の言葉を待った。
「ドライブにでも行かない?」
「まあ、いいけど」
僕は、トウコが何故急にそんなことを言うのかがわからなかったので言葉の語尾を濁すと、それを察したのか、トウコは足りない言葉を補うかのように早口で説明を始めた。
「ほら、ウチダくん最近仕事大変だったでしょ? だから、息抜きでもしたほうがいいんじゃないかなと思って。仕事のほうは、もう大丈夫なんでしょ?」
「ああ、まあ何とか」
「じゃあ行きましょうよ。私もちょっと息抜きしたかったんだ」
「でも、どこに行くんだ?」
「街から南のほうに行くと綺麗な湖があるのよ。車で行けば、それほど時間はかからないわ」
トウコは僕ににっこりと微笑みかけると、再び天ぷらそばとの格闘を始めた。その笑顔には相変わらず透き通った青空のような爽快感があり、僕も思わず微笑み返してしまったが、その表情の裏側にあるものが何なのか、その時の僕にはよくわかっていなかった。