プロローグ&Story 1-Part.1-
その日は、何を隠そう僕の二十九歳の誕生日だった。僕は、いつものように会社での残業を終わらせると、イルミネーションが煌く夜の街並みの中を駅へ向かって家路を急いでいた。通りの街灯はこの一ヶ月の間完璧にライトアップされていて、行き交う人々の多くは二人で肩を寄せ合いながら、それぞれのかけがえのない瞬間を過ごしていた。そう、今日は世間で言うクリスマスイブ……僕の誕生日は、そうしていつも否応なく周囲から祝福されるのだ。でも僕は、そんなクリスマスイブの、二十九歳の誕生日の夜をたった独りで過ごそうとしていた。駅から電車に乗って三十分、さらに十分ほど歩いて、僕は自分の住む安アパートの、その冷え切った部屋のドアを開けた。
中に入って部屋の明かりをつけると、その勢いのままに急いでエアコンのスイッチを入れた。そうしないことには、どうにも耐えられない底なしの寒さに襲われていたからだ。もっとも寒さの原因は、何より僕自身の心の中にあるのかもしれなかった。僕はこの三年間というもの、ただその心の寒さと向かい合って生きてきたのだ。三年前の今日、彼女がいなくなってしまったあの日からずっと。
やがて、部屋が少しずつ暖まっていくにつれて僕の心も少しずつ温まり、次第に優しい気持ちになっていった。僕は、駅前で安売りしていたイチゴのショートケーキをテーブルの上に出すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してきて、そのプルタブをゆっくりと開けた。ケーキにビールというのも妙な取り合わせだったが、僕は今日どうしてもケーキが食べたかったのだ。いや、ケーキを食べなければならなかったのだ。そう、僕にとって今日のケーキは、砂漠の中のオアシスであると同時に、ある重要な儀式に必要不可欠なものだったのだ。僕は、缶ビールを目の前に掲げて乾杯し、それからゆっくりと噛んで含めるようにケーキを食べ始めた。イチゴの甘酸っぱさが次第に口の中に広がっていくにつれて、僕の脳裏にもそんな甘酸っぱい記憶が蘇ってきた。最初のうちは、それは本当に小さな記憶の断片だったが、しばらくすると、それは僕自身をも包み込んでしまいかねないほどに大きなものになっていった。そしてその記憶は、僕を否応なく六年近く前のある春の日に誘っていった。
僕はその日、四月初めの冷たい雨が街角をしっとりと濡らす中を、会社に向かって足早に歩を進めていた。あいにくの空模様になってしまったが、それでも僕は、これから始まる社会人としての生活に想いを馳せていたためか、その足取りは意外に軽かった。確かに、それが大学生の時のような気楽なものではないことは十分にわかっていたが、僕にとってはその不安よりも、新しい生活や仕事に対する純粋な興味や期待のほうが大きかったのだ。
やがて会社のビルが見えてきたので、僕は改めて地味な紺のネクタイを締め直し、おもむろにその入口から中に足を踏み入れた。目に入った案内板の指示に従って階段を上り、入社式の行われる会場に向かうと、そこには既に百人位の新入社員たちが、身じろぎひとつせずに静かに式の始まりを待っていた。僕はそんな張りつめた雰囲気に少しうんざりしながらも、決められた席に座ってひとしきり周囲を見回してみた。誰もが神妙な面持ちでうつむき加減に座っていたが、僕はその同じような顔の中に、ある一人の女性の姿を見つけた。彼女は、周囲の新入社員たちと同様に紺のスーツを身に着け、顔立ちに際立った特徴もなく、後ろで束ねられた髪型もいたって平凡だった。どう贔屓目に見ても好みのタイプではなく、たとえ街中で偶然すれ違っても、その存在すら認識しないだろうと思った。だから僕が、大勢の中で彼女にだけ目を止めたこと自体不思議だった。しかもあろうことか、彼女から発せられる引力によって、僕はその瞳の中に引き込まれそうになった。僕は、これまでそんな感覚を体験したことは一度もなかったのだが、何か重大なことを考えているかのように一点を見据えた彼女の眼差しや、芯の強そうな引き締まった表情は僕の視線を、何より僕の心を目に見えない糸で捉えて離さなかったのだ。程なく式が始まったことで、その不可思議な感覚は一旦途切れたが、僕は彼女の存在が頭から離れなくなってしまい、その後もずっと彼女を見続けることになった。
そして、その感覚の正体を僕自身も掴めないままに、翌日から二泊三日での新入社員研修の合宿が始まった。僕ら新入社員は、朝一番に会社のビルの前に止まっていた三台のバスに乗り込むと、高速道路を西へ走って長野にある会社の保養所に向かった。窓の外は、昨日とはうって変わった春の麗かな日差しに包まれていたが、僕はそんな景色を見る余裕もなく、バスの中に昨日の彼女を探したが、他のバスに乗っているらしく、残念ながらその姿を捉えることはできなかった。
「さっきから、何をきょろきょろしてるんだ?」
「えっ?」
突然の言葉に思わず横を見ると、そこには不思議そうに、でも笑顔で僕を見つめる一人の男の姿があった。
「俺、ナカダ サトシっていうんだ。よろしくな」
「あ、ああ。よろしく」
「で、お前は?」
「えっ?」
「お前の名前だよ」
「ああ、ウチダ ヒロミ」
「ヒロミ? 女みたいな名前だな」
「余計なお世話だ」
「いや、今のは俺が悪かった。言い過ぎたな。ところで、さっきから何探してんだ?」
「いや、別に」
「そうか、ならいいんだけど」
その男……サトシはその後、しばらく何かを考え込んでいるようだったが、やがておもむろにその口を開いて僕にそっと話しかけてきた。
「ウチダ、俺たちの同期の中で、どの女が一番だと思う?」
「えっ?」
「だからさ、どの女がお前の好みだ?」
「さあな」
「俺はさ、今斜め前に座ってる、キノシタ トモコがいいな」
「何で名前知ってるんだ?」
「そんなの調べりゃ一発だろ。で、お前は?」
「よくわからないな」
「あっ、さてはお前もトモコちゃんか?」
「違うって」
「まあ、どうだかな」
サトシは悪戯っぽく笑いながら、程なくシートにもたれるようにして目を閉じた。サトシには悪かったが、僕にとってはキノシタ トモコのことなどどうでもよかった。昨日の彼女だけが、今の僕にとっての全てだったからだ。春の柔らかい日差しが、バスの窓を通して僕を優しく包み込むのとは対照的に、僕はとにかく彼女と会って話がしたい欲求だけで突き動かされていた。