8:ワン・ツー・スリー!
ペットボトルのスポーツドリンクと言う物は、疲れた体の何処に入って行くのか判らないくらいに、いくらでも飲めてしまう。
「疲れて汗をかいて電解質を失うと筋肉が痙攣を起こすから、スポーツドリンクの2リットル入りを持って来た方が良いよ」
そんなアドバイスをもらっていたので駅の近くにあるコンビニで買ってきたのだけれど、それを聞いていなければ俺はコーラを持ってきたかもしれない。
朝比奈さんが出て行ってから20分から30分くらい経った頃だろうか、ペットボトルを半分ほど飲み干した処で頬に感じる風に時折弱いものが混じりだした気がした。
そうしてしばらくすると、風がパッタリと落ちて元のそよ風くらいになってしまった。
朝比奈さんはと海を見ると、風が止むことまで知っていたかのように近くまで来ていた。
もうさっきまでのスピードでは無くて、のろのろと漂っている感じに近いが、もう岸まではあと数十メートルと言ったところだった。
正直言うと風も少ししか無いのに、どうやって岸まで辿り着くのかなと思っていた。
しかし、朝比奈さんが大きく扇ぐようにパン!パン!と大きな音をさせてセイルを動かしだすと、風が無くなって止まりかけていたボードが再び航跡を描いて進み出す。
そしてそれを見て安心したのか、奈子さんは帰っていった。
「いやぁ~危ない危ない、風が止まる前に戻るつもりだったけど楽しくてつい長居をしちゃったよ」
岸の間際まで来た朝比奈さんは、そう言いながら足が着くあたりまで来るとセイルを片手に持ったままボードから飛び降りた。
「どうして風が吹くって判ったんですか?」
俺はさっきから思っていた疑問を、ボードとセイルを海から引き上げている朝比奈さんにぶつけてみた。
どう考えても、風が吹くかどうかなんて寸分の狂いも無く判るとは思えないから、何か仕掛けというかタネがあるはずだと思ったのだ。
俺は、その理由を知りたかった。
「えーとね、仕掛けって言う程のものじゃないんだけど、この季節は時々ああやって南風が入るときがあるんだよ」
「でもそれだけじゃあ、あのタイミングで風が来るなんて判らないですよね?」
あれは風が吹くタイミングを判って出て行ったんだと、俺は確信していた。
しかも、セイルの大きさもあらかじめ風の強さが判っていたかのように、張ってあったものを持ち出していたのだから、何か根拠があるのだと思ったのだ。
そもそも時々吹くというだけの理由では、あのタイミングで出て行く言い訳にはならないはずだ。
俺は、朝比奈さんの返事を待った。
「うーん、最初に風が変わったでしょ、あれが一つ目の理由」
「南西の風が南東っぽくなった時ですか?」
「そうそう、山を崩して新港市が都市開発を始めてから、海と陸の温度差で吹く風が時々こんな悪戯をするんだよ」
朝比奈さんが言う理由は、他にも気圧計付きの時計に現れた気圧の低下だとか、天気図に乗らないくらい局地的な寒冷前線が通過したんだとか、そんな話だった。
「それから、沖を見たら黒っぽく変色した海面が少しずつ近付いて来ていたから、これは吹くぞと…… 」
「風が吹くと、色が変わるんですか?」
今まで海を漠然とみていたけど、風が見えるなんて事を言われたのははじめてだった。
「風ってさ、広い場所へ一気に同じ強さの風が吹いてくる訳じゃないんだよ」
「え、違うんですか? だって広い場所を一気に空気が移動するのが風なんじゃないですか?」
俺のこの疑問は誰でも思う事だと思う。
「暇があるときで良いから、海を見ていてごらん。 海面の色が濃い場所が徐々に移動してるのが判るから」
朝比奈さんが言うには、それが突風というやつらしかった。
「海じゃ無くてもね、稲が植えてある田圃とかグラウンドとかでも見ていると風が部分的に作物を揺らしたり土を巻き上げたりするのが判ると思うよ」
もう、新港市でも都市化が進んでいて、相当郊外か南の方へ行かなければ農業をやっている処は見えないけど、グラウンドなら風が強いときに見えるかなと俺は思った。
「ちょっと高い場所から稲とか麦とかの畑を見ているとね、透明な小さな何かが暴れているように色んな方向から作物が揺らされていて、そこに強い風が吹き込んでいるのが透明な妖精の乱舞のように見えると思うよ」
そう言われてしまうとグラウンドの土埃よりは、それを見てみたいなと思ってしまう。
「でもね、このビーチの場合は本格的な寒冷前線が通過するときは天気の良い緩い南風から、地形の影響もあって急に東寄りの強風が吹くから海に居たら注意が必要だよ」
そう言って朝比奈さんは説明を終えたけど、俺は半分も理解できなかった。
どうやらウィンドサーフィンを楽しむには、出来るなら天気図まで見られるようになったほうが良いらしい事だけは判ったけど、まだ自分には早いと思っていたので記憶には残らなかったかもしれない。
そんな話をしているうちに、また緩い南西の風が吹いてきたので俺は海に出ることにした。
せっかく立てるようになったんだから、なんとしても風を掴んで走れるようにならないと海まで来た甲斐が無いじゃないか。
「南央樹くん、セイルに風を入れるタイミングはワン・ツー・スリーだから、覚えておいて」
「ワンツースリーって、なんですか?」
陸の上で教えて貰ったのは、セイルを引き上げたら落ち着いて「ワン」で一旦ボードの向きとセイルの方向を直角の位置にして、風を背中から受ける体勢を作る事、これがニュートラルポジションなのだそうだ。
それが出来たら「ツー」でアップホールラインの根元、マスト寄りを両手で持ったままマストごと体をボードの進行方向(前方)に捻る事。
これでマストが体の前位置のまま進行方向側に移動すると、同時にセイルの風上側が反動で自分の体に近付いてくる。
最後に「スリー」で腰を少し落としてからマスト側と反対のセイル手をアップホールラインから離して、近付いて来たセイルに取り付けられたブームを掴んで手元に引き寄せる。
この三つの動作で走れるはずだと朝比奈さんは言っていた。
だが俺を待っていたのは、海水に浸かって重いセイルとの格闘だった。
相変わらずセイルを引き上げるのが重くて、力を使い果たした俺は手抜きをしていた。
軽く曲げた右手の指にアップホールラインを引っかけたまま、腕一本で重いセイルに体重を預けて後傾姿勢になり休憩をしていたのだ。
アップホールラインをギュッと握っている訳では無いから握力もそれほど使わないし、体重を預けて後ろに体を傾けているだけなので腕力も使っていない。
膝も伸ばし気味で力を入れていないし、空いている方の手は体の後側にだらりと下げているだけだ。
するとあれほど重かったセイルがゆっくりと角度を変えて持ち上がり、水面に対して真っ直ぐ垂直になると急に軽くなって一気に引き上げられてしまったのだ。
当然、準備をしていない俺はそのまま後ろに倒れて、またしても激しい水飛沫を上げて沈をしてしまった。
落ちながらもアップホールラインを持っていない方の左手で頭を庇いながら背中から海に落ちる。
二度とマストの直撃を喰らいたくないから、俺も必死だ。
頭上に覆い被さるセイルを避けて海中から立ち上がった俺は、セイルアップに力を使っていないのに軽く持ち上がったことに戸惑っていた。
何度か試してみた結果、セイルアップには余計な力は必要が無かった。
結局、軽く体重をかけて待っていれば自然に上がるものだったのだ。
力一杯引っ張り上げるのと、たいして時間は変わらなかったのは少しだけショックだった。
俺の筋肉痛は、俺の腰の疲れと痛みは何だったんだろう。
そんな俺の内心の戸惑いもあったが、セイルアップに全精力を注がなくても良くなって、俺はようやくワンツースリーの練習に安心して取り組むことができた。
まずは「ワン」でニュートラルポジション。
ボードが回転しないように両手で持ち直したアップホールラインを左右に小さく振りながら、背中から風を受けるポジションと風向きに対して直角になるボードの角度を維持して次の動きに備えた体勢を整える。
次に「ツー」で、アップホールラインの根元近くを両手で持ったまま体を進行方向に捻ると、一緒にマストが体の正面位置のまま進行方向に移動するので次の動作に備えて軽く膝を曲げて少し腰を落とす。
最後に「スリー」で近付いて来たブームを握りマスト側の手もブームに掛けて少し前に押し出すようにする。
足は、前足をマストの付け根横付近に引き寄せて、後ろ足はそのまま腰と一緒に進行方向に向けて捻る。
すると、グイッと一気に引っ張られる感覚を感じて体を風下側に持って行かれそうになるが、それに耐えているとボードは風を掴んでスルスルと動き出した。
(うわぁぁぁ、やったあぁぁぁぁ!)
顔は少し嬉しそうになっている程度だと思うけれど、内心では大声を上げていた。
セイルに引っ張られそうになる体を必死で後ろに傾向けて、セイルに自分の体重を預けて踏ん張る。
後ろへの体重のかけ方は、小学校の頃に鉄棒でやった斜め懸垂の感じに近い。
その斜め懸垂の体勢のまま、上半身を右か左のどちらかに捻って居る姿勢が一番近いかもしれないと思う。
しかし、踏ん張れば踏ん張る程、ボードのノーズは風上方向へとターンして行く。
そうして、最後にはボードが風上を向いてしまった。
そうなればセイルをどう操作しても風を入れられる角度を作る事が出来なくなって、俺はまたセイルに体重を預けたまま海に沈をしてしまう事になった。
だけど、そこには今までとは違う感動があった。
俺は風を掴んで走ることが出来たのだ、例え僅かな時間でも……
朝比奈さんに今のシーンを見ていて欲しくて、後ろを振り向いた俺は驚いた。
乗っていたのは僅かな時間だと思っていたのに、俺が立っているる場所はスタートした地点から15m以上も離れていたのだ。
(凄い!凄い凄い凄い…… )
俺は海中に首まで浸かって、海の中で誰からも見えないように小さくガッツポーズをした。
「めっちゃ気持ちいい! 凄く良い! 良い!良い!良い!」
そして、何食わぬ顔で立ち上がりボードを反対向きにすると、再び手抜き方式の疲れにくいセイルアップから始めるのだが、やはり走り出すと風上側へと回ろうとするボードには為す術も無かった。