7:セイルアップと水飛沫
待ちに待った日曜日がやってきた。
俺は全身筋肉痛の体を引きずって、母親に作って貰った弁当とタオルと海パンを持って朝から海に出掛けた。
「水から上がる直前に急に軽くなるから気をつけてね。 沈する時は道具から手を離しちゃ駄目だよ」
そう言われていたのだが当然のように自分でやってみて経験しないと、言われた事の真の意味は理解出来ない。
それを身を以て理解したのは、思い切り力を入れて後ろ方向に引っ張っていたセイルが急に軽くなって、足を掬われたように背中から海中に沈した後だった。
水面に貼り付いているときのセイルは重い。
それを引き上げようとするのは、俺がまだ慣れていないせいもあってセイルの上に乗っている何百kgもの海水を押しのける力が必要になる。
そうやって力を込めて引っ張っていると、横になって海面に貼り付いていたセイルが徐々に角度を変えて垂直になってくる。
そのタイミングを見誤って力を抜かないと水の抵抗が減ったセイルが一気に軽くなってしまい、綱引きの綱を急に放されたようにバランスを崩してしまうのだ。
見事に俺は背中からと言うよりも後頭部から海中に突っ込んでいた。
きっと激しい水しぶきが上がったのは間違いが無いと思う。
水圧で鼻から海水が入ってくると口へと抜けて鼻がツーンと痛む。
必死で水を掻いて自分の足の付け根程度の水深から水面に顔を出すと、大きな衝撃と共に文字通り目から火花が散った。
髪の毛から流れる海水が入った目が痛くて前が見えない状況なのに、いきなり何か堅い物が俺の額を直撃したのだ。
「ぶはっ!」
いきなり何が起きたのか判らない俺は、何かに上から覆われて再び水中に没した。
息を止めて海上に顔を出そうとすると、何かが海面を覆っていて顔を出せない。
立ち上がれば足の付け根ほどまでしか水深が無い場所なのに、俺は予想外の出来事に軽いパニックになっていた。
何かが自分の上を広く覆っていて水面に出られないまま、息を止めてそれを退けようと足掻く俺。
広くて滑らかな感触と縫い目の僅かな段差に触れた感触で、自分の上に覆い被さっているそれがセイルだと言う事に俺はようやく気が付いた。
そのセイルに当てた手を頼りに横へと移動して、何とかセイルの下から抜け出す事が出来て大きく息をつく俺。
「はぁはぁはぁはぁ…… 」
長い間息を止めていただけに、中々荒い呼吸が収まらない。
「痛ってぇ…… マジ、死ぬかと思った」
たった今、何が起きたのかと言えば、セイルを持ち上げたところで急に軽くなったセイルにバランスを崩した俺はセイルを手放して身一つで海に沈したのだが、そこへ俺が手放したセイルが上から降ってきて頭に直撃したのだ。
そうとしか考えられない。
「大丈夫ですか?」
声を掛けられた方を見ると、臙脂色をした上下揃いのジャージ姿の女の子が二人立っている。
彼女たちは、海に突き出した俺から近い位置にある小さな突堤の上に立って心配そうにこちらを見ていた。
俺が居るこのビーチは、北を上にした一般的な地図で言うと左側(西)が海で右側(東側)に陸地がある南北に長い砂浜の海岸線が延びている海水浴場でもある。
その砂浜は弧を描くように半円形に南側まで全長で2kmも続いているのだ。
俺がウィンドサーフィンをやっているのは遊泳区域から外れた北側の端になる。
そのビーチの砂浜の途中には、いくつか小さな突堤が遊泳エリアと遊泳禁止エリアを区分けするように海に延びていた。
彼女たちは、そこに座っていつの間にか俺が必死に足掻いている姿を見ていたらしい。
気が付けば、最初にセイルアップを始めた場所からバチャバチャと沈を繰り返しているうちに、少し海岸に沿って南側へと移動して(流されて)いたようだった。
元居た場所を見れば、朝比奈さんが立ち上がってこちらを見ているのが判った。
心配を掛けちゃったかなと思って軽く会釈すると、朝比奈さんは安心したのか軽く片手を振って座り直すと、また読書を再開したようだった。
俺は朝比奈さんがこちらを見ていないことを確認してから、次に堤防の上にいる女の子達の方に向き直って声を掛けてみた。
「あの、もし水飛沫が飛んじゃってたらゴメンね」
例えマシュマロマンと普段から揶揄されている俺だって、このシチュエーションで声を掛けてきた女の子と話をしないなんて有り得ない。
よく見れば、二人とも超絶美人とまでは言わないけれどかなり可愛い部類の女の子たちだった。
特に左側にいる子が凄く可愛かった。
たぶん、年齢も俺と同じくらいなんじゃないかな?
下だとしても中学三年か、行っても高校二年くらいまでだろう。
特に向かって右側にいるショートヘアで眼鏡の女の子よりも、左側に立っている緩い二つの三つ編みを鎖骨の前辺りに垂らしている細身の女の子の方が俺の好みのタイプで、ちょっと大人っぽい感じもする。
そして、その女の子の心配そうな少し垂れ気味で大きな瞳が特に印象的だった。
「水は大丈夫だけど、頭痛くないんですか?」
その、緩い三つ編みの子が俺の頭を見て心配そうに聞いてきた。
隣の眼鏡の子も頷いている。
5m近いマストが頭に直撃する処を間近で目撃したのだとすれば、彼女たちがそう尋ねてくるのは当然かもしれないと俺も思った。
しかも水没した俺がセイルに邪魔されてしばらく海面に顔を出せ無かったのだから、無関係な通りすがりだとしても心配するのは無理も無いだろう……
そう思いながら、水中からの脱出にドタバタしていて痛みを忘れていた額に手を当ててみた。
手で触れた部位が軽くズキリと痛むが、大したことは無い。
「なんか、そう言われると痛いのを思い出したかも…… 」
マストが直撃した額は、幸いにも少し押さえると痛む程度だった。
直撃した部分に当てた手を確認してみても、血が出ている様子も無い。
「あはは、忘れちゃうんだ」
ゆるふわ三つ編みの女の子は、頭に触れて痛みを思い出した風の俺を見て笑っている。
「見た目通り、衝撃には強いからね」
まだ心配そうな顔をしていた眼鏡の子の顔も、俺のマシュマロ体型をネタにした自虐セリフを聞くと笑顔になっていた。
見知らぬ同年齢くらいの女の子と話をするなんて、俺にとって奇跡に近いくらい滅多に無い事なので話を繋ごうとして、ちょっとネタに走ってしまった。
海中にいるときから額はズキズキと痛かったのだが、この状況で正直な事を言ったって受ける訳が無いから、つい出来心でボケてみたのだ。
ふと笑っている彼女たちの目線が、時折俺の顔より下に来る事に気付く。
自虐ネタにしたのは自分だけど、俺は太った体を隠す為にボードを押す振りをして海中に首まで沈み、だぶついた体を隠してボードの向こう側へと回る事にした。
こうして女の子と楽しく話していると、つい自分が自虐ネタにしたマシュマロ体型だと言う事も忘れてしまうが、気にしていない訳じゃない。
遠浅の海岸なので立ち上がれば足の付け根ほどしか水深は無いのだけれど、首まで海中に浸かったままでボードに両肘を乗せてもたれかかるポーズを作り、あらためて内心ではドキドキしながらも自己紹介をしてみた。
「俺は下野 南央樹。 先週からウィンドサーフィンを始めたんだけど、見た通りまだ全然乗れないんだよね」
彼女たち(いや、緩い三つ編みの彼女)の名前が知りたくて、自分が下手なこともネタにして先に自己紹介をしてみる。
「私は… 矢吹 遥香、この子は…… 」
とりあえず、眼鏡の子には悪いけどセミロングの子が遥香と言う名前だと言う事だけは把握した。
二人は地元の高校2年生だそうで、俺と同じ年齢だった。
今日は朝練の帰りにたまたま海へ寄ったら俺の撃沈シーンを目撃してしまい、思わず声を掛けてしまったのだそうだ。
もっと話しかけようとした俺の下心を知ってか知らずか、二人はそのまま帰って行ったのは残念だったが仕方ない……
これで会話が盛り上がって楽しく話が続けられるような俺だったら、きっともっと違う人生を送れているだろう。
ガッカリして、ふと朝比奈さんに視線を振ると慌てて顔を手元の本に向ける処だった。
「うわっ、やっぱり見られてた」
見られた! あれは女の子二人を前にして平常心を忘れている俺の空回りぶりを見ていたに違いないと、その時に確信した。
まあ、そうそう「夏の出会い」なんてドラマみたいなものが俺にあるとは思ってなかったけど、ちょっとなんか恥ずかしかった。
午前中は腰が痛くなるまで、セイルアップと沈を繰り返した。
引き上げたセイルに風を入れようとすると、風の力でバランスを崩して何度も何度も海に落ちてしまうのだ。
流石に頭にマストが直撃しないように、あれから道具を持ったまま沈したので頭は無事だ。
そうして腰も腕もパンパンになって握力も無くなったところで、一旦岸に上がって昼食を摂ることを朝比奈さんに提案された。
朝日奈さんの方を見れば、今日も奈子さんがお弁当を差し入れに持って来た処だった。
海から陸に上がると水の中に居る時には判らなかったが、足も腰も腕もフラフラになっている。
俺は、自前のオニギリを握る手にも震えが来るくらいの疲労を感じていた。
腰は張っているのが判るし、両腕も皮下脂肪で隠れて判りにくいが疲労で充血して膨れあがっているのが自覚できる。
当然のように息も荒くて肺は酸素を求めて呼吸も速いのだが、それが何故か気持ち良い。
「朝比奈さん、もう腰がもちません…… 」
聞きようによってはとってもエロい台詞を、それと気付かずに吐いていた。
腕だけでは無く、腰全体が重くて張っている。
浮力の無い陸の上では体が予想以上に重く感じてしまい、芝生の上に横になって弱音を吐いてしまう俺だった。
「あはは、疲れて余分な力が入らない方が、もしかしたら疲れないコツのようなものを掴めるかもしれないよ」
疲れてオニギリを食べる気にもなれずに、2リットルのスポーツドリンクが入ったペットボトルを直接口にして飲んでいると、朝比奈さんにそんな事を言われた。
「え~、でも力一杯引かないとセイルが重いから持ち上がらないでしょ? 」
当然の疑問をぶつける俺。
あんなに重たいものを思い切り引かないで、どうやって持ち上げられると言うのか言っている意味が判らなかったのだ。
「うーん、これは自分で経験してみるのが一番なんだけどねぇ…… 」
そう言って、言うべきか言わざるべきかと悩んでいた朝比奈さんが何かに気付いたように海の方を見た。
つられて俺も海を見るけど、何もさっきまでと変わっていない。
「ごめん、ちょっと風が来るみたいだから行ってくるね」
そう言うと、朝比奈さんは自分の道具を手にして海に出て行った。
海岸には、奈子さんと俺が取り残されることになる。
どちらにしろ、しばらくは動く気になれない俺は芝生に腰を降ろしたまま海に出て行く朝比奈さんを見ているしか無い。
風がそれほど無いと言うのに、俺が使っているボードと比べればとっても小さな朝比奈さん個人のボードを海に浮かべると右足を軽く上に乗せている。
セイルは頭の上にして左手から吹いている風に合わせてマストを風上(左側)に向けて何かを待っていた。
俺の頬に感じる風は、さっきより少しだけ南寄りになったかなくらいで、それほど強くない。
それほどお腹も減った感じがしないけど、食べないと午後から力が出ないかなと思って義務的に口に入れていると、突然「バンッ!」とセイルに風の入る大きな音がした。
その方向を見れば、朝比奈さんが頭の上に置いていたセイルを立てて風を入れ、片足を乗せていたボードに飛び乗るところだった。
風を入れたセイルに体を引っ張り上げられるように、ボードに乗せた足を支点にして左足を水中から引き上げて次の瞬間にはボードが走り出している。
「えっ?」
風もそんなに無いのに、と思っていると朝比奈さんが動き出すのから少し遅れてやや強い南風が砂埃と共に俺のところにもやってきた。
思わぬ南風からオニギリが入った弁当箱を守ろうとして慌てて蓋をするのと、シャババババッっという朝比奈さんのボードが水を切って軽快に走り出す音が聞こえるのは、ほぼ同時くらいだった。
真横からの南風を受けて、朝比奈さんのボードが水しぶきをボードの後ろ側だけから立てて沖に走り去って行く。
「うわっ、速っ…… 」
それは俺にとって、ゆっくりと漂うウィンドサーフィンのイメージを覆すだけのインパクトを持った、異次元の速さに見えた。
海の色も、先程までキラキラと太陽を反射していた明るい青とは違って少しさざ波が立っているのか表面の反射が減って少しだけ黒っぽく見える気がする。
よく見れば、沖の方は海面に白いものがあちらこちらに見えている。
しばらくすると、朝比奈さんが沖から岸へと戻ってくるのが見えた。
しかも、ブームから片手を離して俺に手を振っている。
それに、さっき出た場所よりもだいぶ風上側から戻って来ると言う事は、朝比奈さんが風上に向かってボードを走らせたと言う事だ。
軽く海面で跳ねるように軽快に走ってくる朝比奈さんのボードは、海岸に近付くとググッと方向を少し風下側に向けたのが判る。
一気に速度が増したボードは海岸の20mくらい沖で水しぶきを派手に上げながら風下側に高速でターンした。
さっきまで岸に向かっていたボードの向きが速度をあまり落とすこと無く再び沖に向くと、ふわりとセイルが裏側へと反転する。
そのセイル(に取り付けられたブーム)をキャッチした朝比奈さんは、再び沖へと向かって水しぶきを上げて走り去っていった。
「かっけぇ~! 俺もあんなに走れるようになれるのかなぁ…… 」
セイルに風を入れただけで沈しているようじゃ、まだまだ遠いよなあと思いながら沖に去って行く朝比奈さんを見ている俺は、その時だけ体の疲れを忘れていた。
奈子さんの方を見ると、沖に走り去って行く朝日奈さんを少し心配そうな顔で見ているようだった。