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4:立てない豚

 いきなり海に入るのかと思っていたら、朝比奈さんから陸の上で基本的なレクチャーがあった。

 そりゃそうだ。

 やってごらんと言うのだから、何も話からない俺に手乗り足取り教えてくれるのは当然だろう。


 よく使われる用語を簡単に教えて貰ってから、実際に陸の上でセイルに風を入れる感覚を掴まされた。

 セイルってのは帆の事だけど、そんな用語の半分も頭には入っていない。


 不用意にセイルに風を入れたら耐えきれなくて風下側にバタリと倒れてしまったり、まあ始める前に色々あったけど、なんとか基本動作だけを教えて貰って海に出ることになった。


「じゃあ後は解らない事があったら聞きに来て下さい」


 海の上でも朝比奈さんがマンツーマンで教えてくれるのかと思っていたら、それだけ言ってボードを置いてある場所に戻って行ってしまった。

 正直なところ海岸に放置されて戸惑ってしまったが、教えられた通りにやれば良いのだろうと思って海に浮かべたボードに乗るところから始めてみた。


 こんなもの楽勝だと思っていたが、そんなに現実は甘くなかった。

 まず、ボードの上に立つことが出来ないのだ。


 なんとかボードに乗ろうとするけれど、揺れるボードが不安定で立つこともできない。

 だから、すぐに海に落ちてしてしまうのだ。


 ちなみに、海に落ちる事を『ちんする』と言うらしい。

 風もよそ風レベルで、波と呼べる程の揺れも殆ど無い夏の平水面だと言うのに、まったく立つ事が出来ない。


 海の中に背中から突っ込んで派手に水飛沫を上げる俺。

 必死に頭を水面に出して立ち上がると、濡れた髪の毛から滴り落ちる海水が顔を伝わってきて目に入るのだけど、これがまた目に沁みる。


 無防備な鼻から海水が入って口から逆流してくるから、塩辛い海水が喉にも少し入りそうになって、ゲホゲホと喉の奥から咽せてしまう。

 こんなはずじゃ…… という想いで無様な自分に呆然とするけど、その反面で何だか訳も判らずワクワクしている自分が居た。


 上手くいかないのに、それを面白いと感じる理不尽な感情は俺だけかもしれない。

 だけど、何でも結果が初めから判っているような世界に生きている俺にとって、どうやっても上手くいかないという体験は、何だかとても新鮮なものに感じられたのだ。


 うまく行かないのが、なんだか悔しい。

 悔しいのだけれど、それがまた嬉しいという変な感覚。


 そんなものに俺は取り憑かれたかのように、必死にボードの上に乗ることだけを考えてちんを繰り返していた。


「はぁはぁはぁはぁ…… 」


 ボードの上に乗ろうとして落ちる、たったそれだけの単純な動作の繰り返しだけど、運動不足な俺の息は絶え絶えになっている。

 周囲に見知った人が居ない事も俺の執着に拍車を掛けていたのかもしれないけど、とにかく俺はボードの上に立つことだけに専念していた。


 必死で考えて、答えを見つけても次の問題が立ちはだかって、全然うまくいかない。

 元から運動不足だった俺は、何度も何度も何度も海に落ちて息も絶え絶えで死にそうだ。


 チラッ、チラッと横目で朝比奈さんを見るが、麦わら帽子を被って日陰で本を読んでいる姿が見えるだけだった。

 こちらの悪戦苦闘には気付いていないというか、まったく俺のことを気にしていない様子が見て取れる。


 密かに、助言をしに来てくれる事を期待していたけれど、俺の甘い期待は大いに裏切られてしまった。


「別にお金を払っているわけじゃ無いから『教えろ』とは言わないけど、自分からやってみないかと誘っておいて、これは無いよなぁ~…… 」


 思わず、そんな愚痴も零れてしまうと言うものだ。

 世の中ってのはもっと、困っている人や知らない人に対して親切であるべき物じゃ無いんだろうか?


 気が付けば、何時の間にか昼になっていた。

 これには、自分でも驚いた。


 ほぼぶっ続けで体を動かしていたと言うのに、まったく腹が減っている事に気付いていなかった自分自身に驚いたのだ。

 時間を忘れるくらい何かに熱中した事なんて、本当にどれくらいぶりなんだろう……


 今朝までは憂鬱でどうにもならない気持ちを抱えていて、学校に行きたく無い気持ちのあまり、いつもと違う電車に乗って海まで来てしまったというのに、これは何という事だろう。

 おれは、そんな自分自身に気付いて驚いていた。


 だけどもっと驚いたのは、いつの間にか俺を呼びに来た朝比奈さんの隣に綺麗な女性が立っている事だった。

 緩くウェーブの掛かったロングヘアで身長160cmくらいの女性は、少し色を落とした栗色の髪の毛が似合っている。


「朝比奈さんも、リア充なんすね…… 」


 お愛想半分で羨ましそうな顔をして見せると、多少は照れてくれるかなと思った朝比奈さんは余裕の表情で隣の女性に視線を移して笑顔になった。

 やはり、このリア充を体現しているような人には、俺の悩みなんて馬鹿馬鹿しくて興味の欠片も無いんだろうなと、俺は少しばかり僻んだ味方をしてしまう。


「こいつは幼馴染みの奈子なこって言うんだ。 地元の観光協会に勤めていて、この仕事もこいつの紹介なんだよ」


 朝比奈さんがそう言って隣の女性を紹介すると、奈子さんと言う優しそうな女性は大きな目をクリクリさせて俺に笑顔を向けてくれた。

 なんというか綺麗なんだけど、それよりも可愛いという表現がピッタリ来る素敵な女性だった。


南央樹なおきくんって言うんだってね、多めに持ってきたから一緒に食べよっか?」


 そう言って奈子さんは、手にした蜜柑色のエコバッグを持ち上げて俺に見せた。

 きっとその中には奈子さん手作りの、朝比奈さんと二人分で食べるための昼食が入っているんだろう。


「あ、ありがとうございます。 でも弁当は持ってます」


 俺は、遠慮がちにそう答える。

 当然だ、今日は学校へ行く格好のまま海に来たのだから、弁当だって持ってきている。

 それに、朝比奈さんのために作ってきたんだろう昼食を俺が食べる訳には行かないじゃないか。


「ボードの上に乗るだけで、こんなに苦労するなんて思ってもいませんでしたよ」


 食事の合間に、つい本音で弱音を吐いてしまった。

 でもそれは本当に参ってしまった訳では無くて、暗に自力で乗れるようになったことを言いたかっただけなのだ。


 その後もすぐに海に入ってボードの上に立とうとするんだけれど、やはり先程と同じようにバランスを保てずに背中からちんしてしまうばかりだった。


 情けないんだけれど、なんだかここで止められない。

 そんな、不思議な気持ちになっていた。


 なんだか失敗続きで凹むような状態なのに、逆に楽しい気持ちが消えないのだ。

 他人の目を意識せず一心に何かに打ち込んだ経験は、とても新鮮で気持ちの良いものだった。


 ようやく安定してボードの上に立てるようになった時には太陽がずいぶんと傾いていて、もう夕暮れが近い時刻になっていた。

 それを見て、ずいぶん長い事ボードの上に立つだけで悪戦苦闘していたんだなと実感させられる。


「朝比奈さんは、乗らなくて良いんですか?」


 ずっと日陰で本を読んでいた朝比奈さんに対して、思っていた疑問をぶつけてみる。

 ウィンドサーフィンが得意そうでこの仕事を任されてやっているみたいだし、自分のボードも置いているというのに海に入らないのかと聞いてみたのだ。


「う~ん、風が吹いたら、真っ先に居なくなっちゃうかもね」


 今日の濡れた頬に感じる風は心地よかったけれど、朝比奈さんが待っている風というのはまだまだ物足りないという事らしい。

 いったい、どういうレベルの風を待っているのだろうかと俺は思った。


「次も道具を自由に使って良いから、ちゃんと学校をサボらずにおいで」


 別れ際に、朝比奈さんはそういって軽く手を振ってくれた。

 当たり前だけど、やっぱり学校をサボっていた事はバレていたようだ……


「あんた、学校行かないで何処へ行ってたの? そんなに日焼けまでしてぇ…… 」


 家に帰ると、予想通り学校から連絡が行っていたらしく、待っていた母親にしっかり怒られた。

 連絡無しの行方不明だっただけに相当心配したらしく、俺の帰りがもう少し遅かったら警察に届けるつもりだったらしい。


 だけど、学校で虐められているとは恥ずかしくて親にも言えやしない。

 家では我が儘な態度を取っている俺が、学校では理不尽な扱いに対して言い返すことも出来ないなんて、どうやったって格好悪すぎて言える訳が無い。


 心配してくれているのは判るけど、だからこと何も言えなかった。

 ただただウザいという態度で、その場は逃げ切った。


 その後に帰ってきた親父の説教も振り切って、俺は風呂に逃げた。

 しかし、風呂に入ると何時の間にか日焼けして真っ赤になっていた体に、お湯がヒリヒリと沁みて激痛い。


 全身に塗ったつもりの日焼け止めも、何度も海に落ちているうちに取れてしまったようだ。


 俺はそれに懲りて「もう止めようと」は思わずに、何故か「次は自前の日焼け止めを持っていこう」と思っていた。

 自分でも不思議なんだけれど、乗れるようになるまで続ける気持ちで満々だったのだ。


 失敗しても、上手く行かなくても誰も笑わないし馬鹿にされる事も無い。

 ただ海に浮かんでいるボードを相手に悪戦苦闘しているだけなのに、それが不思議と気持ちよかった。


 相手の思惑や自分を評価しようとする視線を気にしなくて良いというだけで、こんなにも気持ちが自由で楽になれるなんて思ってもいなかったのだ。

 その気持ちよかったと言う感覚が、俺に「もっとあの単純で爽やかな気持ちを味わい続けたい」と思わせていた。


 寝る前迄はそう思っていた俺だったが、次の朝起きると体中が筋肉痛で痛くて少しだけ海に行った事を後悔した。


 ただボードによじ登って海に落ちる事を繰り返していただけなのに、体中が引き攣ったような痛痒いような感じだ。

 俺は久しく経験していない心地よい疲労感に包まれて、ベッドに横になるとすぐに耐えがたい睡魔に襲われていた。


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