3:白いボードと初夏の海
俺の住む新港市は、菱川島重工という世界的な複合企業の本社がある企業城下町として山を切り崩して作られた人工的な街で、市内のあちこちに菱川島重工グループの企業や研究所、関連施設などが点在している。
いくつもの小さな行政区分に分かれていた村や町を統合して作られたために面積も割と広くて、この電車が向かっている郊外には広大な空港施設なんて物も建設中だったりする。
そして、新港市と言うその名の通り、市の西側は広く海に面しているのだ。
だから市の北部平野にある俺の住む町からだって、その気になれば平地を自転車で1時間ほど走るだけで海にだって出られるのだ。
尤も、今日は新都市交通システムと呼ばれている無人軌道車に乗って海まで来ただけなので、自転車とかそういうものは話の綾だと思って欲しい。
これは、東京の「ゆりかもめ」とか横浜のシーサイドラインとか、神戸のポートライナーなどのようなシステムの事で、新港市では菱川島グループからの莫大な税収を背景にして、バスの代わりに新都市交通システムの軌道を積極的に市内に多数張り巡らせているのだ。
電車が西浜臨海公園駅に到着してドアが開き、発車を告げる自動アナウンスの後でドアが閉まり始める寸前に、俺は慌ててホームに飛び降りた。
なんだか、急に広い海が見たくなってしまっただけで、さしあたって目的があった訳じゃあ無い。
駅から川沿いの遊歩道を歩き、臨海公園へと向かう頃には、俺はすっかり学校へ向かう気持ちが失せていた。
後がどうなろうと、今日は学校をサボると決めていた。
と言うか、今更戻っても絶対に間に合わないし、これから学校へと行くのは更にハードルが高いというだけで、積極的な判断じゃあない。
それはただの、成り行き任せの結果でしか無かった。
臨海公園と名付けられているだけあって、その公園は西浜海水浴場と高い防潮堤で仕切られているだけで、防潮堤の階段を上れば目の前に海が広がっている。
既に海水浴シーズンを目前にして、海岸では海の家の造成が急ピッチで行われているのだろう、砂浜の至る所で建設工事が行われていた。
「ふぅ…… 」
海に面した高さ2mほどの防潮堤の上に腰掛けて目の前の海を眺めていた俺は、訳も無く溜息を漏らしてみた。
朝の海は凪いでいて波も無く、ただ静かに太陽を映して光っているから、,眩しくてつい目を細めてしまう。
遠く水平線の辺りにはヨットなのだろうか、白い大きな帆が見えた。
それから南にある新港へ向かっているのか、貨物船のような大きな船体もいくつか見えた。
俺の腰掛けている場所は全長2km程ある細長い砂浜の北端で、防潮堤と砂浜との境界には幅10m程の芝生帯が防潮堤沿いに延びている。
「子供の頃は夏と言えば海水浴に家族でこの浜へ来たよなぁ…… 」
そんなプチ回想に浸っていると、ずいぶんと自分が遠い場所に居るような気になって訳の判らない不安がこみ上げてきた。
そもそも岡田和泉が思わせぶりな態度を取らなければ、俺が多田につけ込まれる事なんて無かった筈なのに、みんな岡田和泉が悪いんだ!そうに違いない。
そう思う事で俺は自分を正当化しようとしてみるが、結局それも自己矛盾である事に気付いてしまえば、責任転嫁を続ける事も出来なかった。
俺は目の前にある芝生の先に、工事用の鉄パイプを組み合わせて作られた檻のような物がある事に気付いた。
その中には、ブルーシートを掛けられて紐で縛って固定してある大きな物が幾つも入っていた。
「なんだろう、ずいぶん大きな物だけど何を置いてあるんだ? 」
ブルーシートに包まれている物は、4m前後の幅広くて厚い板のような何かだった。
それが2列に積み重ねて置いてある。
シートの隙間から垣間見える謎の物体の色は白だった。
下には纏めてパイプのような物も置かれているのが見える。
「いったい、なんだろう?」
逃げるように海に来たのは良いけれど、やることも無くて手持ち無沙汰だった俺は、すぐ近くにある階段から防潮堤を降りて保護用の檻に近付いてみた。
そして鉄パイプの隙間から、そっとブル-シートをめくって中を覗いてみる。
そこに隠してあった物は、幅が60cmくらいで厚さが15cmくらいだろうか? プラスチック製(?)のような白くて細長い板が2列で4段に積み重ねられたものだった。
「ウィンドサーフィンに興味があるの?」
突然、後ろから声を掛けられて飛び上がるように後ろを振り向くと、防潮堤の上に20代前半くらいで背は170cmあるか無いかくらいの逞しい男の人が立っていた。
「あ、いや、あの何が置いてあるのかなと思って…… 」
俺は、悪いことを見咎められたかのようにオドオドしながら、その男の人の問いかけに答えた。
「この夏から客寄せの為に観光協会でウィンドサーフィンのレンタルを始めようかって話になってね、それで経験者の僕が試験的に管理を任されてるんだよ。 良かったらやってみない?」
朝比奈真琴と名乗る男の人は、そう言うと手に持っていた小さなオレンジ色のバッグと肩に掛けていた大きな白い保冷バッグを芝生に置くと、保護用の檻に掛けられていた鍵を開けて、中に入っていたウィンドサーフィンとか言う物に使うらしい道具を砂浜に並べ始めた。
「ウィンドサーフィンって、夏に海の上でゆらゆらと漂っているアレですか? 」
正直、俺のイメージはそういうものだった。
何が楽しいのだろう?
俺には、海の上でカラフルな帆を広げてゆったりと漂っているだけの遊びをしている人が理解できなかった。
だから、多田もそれをやっていると言う事とも併せて、お金持ちの優雅な遊びなんだろうと思っていたのだ。
「ゆらゆらって(笑)… まあある意味間違ってないけど、やってみると印象が変わると思うよ」
俺の感想に朝比奈さんは苦笑していたが、一度やってみないか?と再び誘ってきた。
夏休みが近いとは言え、平日の朝から海に居る俺の制服姿に疑問をもたない方が不思議なんだけど、朝比奈さんはそれについて何も触れてこない。
気を遣っていると言うよりも、まったく気にしていない様子に戸惑う俺。
少しぐらい話題として触れてくれた方が、俺も何故此処に居るのかという理由を説明しやすいのだけれど、聞かれないと逆に居心地が悪いのはどういう心理なんだろう……
ブルーシートを取り払って朝比奈さんが浜辺に並べたウィンドサーフィン用のボードは、初心者用のポリエチレン製だそうだ。
修理はしにくいけれど、ぶつかっても壊れにくいし、何より幅広で安定しているから初心者向けにはピッタリなのだと言っていた。
なにやら、今回の企画のために中古で掻き集めてきた年式の古いものらしい白いボードは、全長が3m80cmあるそうだ。
「あ、ちょっとそれ取ってもらえる?」
朝比奈さんが指差しているのは、彼が持ってきた小さな色褪せたオレンジ色のナイロン製バッグだった。
持ち上げると中に何か固い物が複数入っているのか、カチャカチャと固い物が当たる音がした。
「これって、何が入っているんですか?」
そのバッグを朝比奈さんに渡しながら、俺は尋ねてみた。
「これはね、スケッグっていう物が入っているんだよ」
そう言って取り出された物は、イルカの背びれのような形をした長さが30cm程あるグラスファイバー製のパーツだった。
バッグの中を覗いてみると、バッグの中には同じような物が沢山入っている。
「このイルカの背びれみたいなのって、スケッグって言うんですか…… 」
「そうだよ、これをボードの後ろに取り付けないと真っ直ぐ走れないんだ」
「へぇ… 案外と大事な物なんですね」
俺は、スケッグを1つ手に取って観察してみた。
そのイルカの背びれのようなパーツは茶色っぽい透明な樹脂で出来ていて、その中に白っぽい布ぎれのような粗い繊維が見える。
「中古だからパーツが揃ってなくてね。 その分安かったんだけど、一つだけ付いていたスケッグからシリコンで型を取って残りはエポキシ樹脂とグラスファイバーで自作したんだよ」
自慢するでもなく、当たり前のようにそんな事を話す朝比奈さんに俺は驚いた。
パーツを自作するなんて、そんなに当たり前の事なんだろうか?
必要な物があるなら専門店でも行って買うしかないと思い込んでいた俺と比べれば、目の前に居る朝比奈さんは違う世界に生きている人のような気がしてしまう。
「あ、ちょっとそっちを動かないように押さえてくれる?」
朝比奈さんが指差していたのは、ボードの先端部分だった。
「すんません、助かりま~す」
そう言うと朝比奈さんは、ボードの先端が上に反り返っているためにひっくり返すと不安定なボードの底部を上にする。
先端と後端だけが地面に着いて、ぐらぐらと揺れるボードを俺が押さえている間に、朝比奈さんはスケッグと呼ばれるパーツをボードのお尻にある溝に差し込んでネジ止めを始めた。
気が付けば、俺は朝比奈さんが全部のボードにスケッグを取り付ける手伝いをしていただけでなく、ボードとマストの運搬からセイルの取り付けまで手伝わされていた。
「ありがとう! おかげで準備が捗ったよ。 ところで君の名前をまだ聞いていなかったね」
朝比奈さんは人の良さそうな笑顔を浮かべると、ここで初めて俺の名前を聞いてきたのだった。
お互いに名乗り終わってしまうと、今までより少しだけ親密になった気持ちになるのは不思議なものだ。
「朝比奈さんって、ほんとマイペースですよね」
俺も、海に来るまでの鬱な気持ちは何処へ行ってしまったのか、思わず笑顔になっていた。
「じゃあさ、手伝って貰ったお礼にボードを使って良いからウィンドサーフィンやってみない?」
そんな誘いの言葉を掛けられて、一瞬迷ってしまう俺。
だけど慌てて、顔の前で右手を振って断った。
正直言えば興味が無い訳では無いけれど、それはあまりに唐突過ぎる提案だった。
それに、ただ海に浮かんでふらふらしているだけの事が、それほど面白いとは思えなかったのも事実だった。
それに俺は泳ぎに来た訳では無いから、当たり前だけど海に入る支度もしていない。
当然海パンだって持っていないのだ。
俺は、それを口実にして朝比奈さんの誘いを断ることにした。
しかし、なまじ具体的な理由を付けたばかりに、それは俺の墓穴を掘る結果となる。
「いや、やってみたいんですけど海パン持ってきてないんですよね、残念ながら」
「海パンなら有るよ、南央樹くんのサイズに合うと良いんだけど…… 」
朝比奈さんは、オレンジ色のバッグからビニール袋に入ったトランクスタイプの海パンを取り出すと俺に差し出した。
海パンが無いから出来ないと言ってしまった手前、それを目の前に差し出されてしまえば、それを受け取らないわけにはいかない。
「ちょっ、なんで海パンなんかいくつも持ってるんですか? ふつう持ち歩く物じゃないでしょ」
予期せず海パンが出てきて、俺は慌ててその事を突っ込む。
それを受けて、事も無げに朝比奈さんは答えた。
「今年は初めての試みだから色々とデータ取りも兼ねていてね、海パンを無料で貸してあげれば泳ぐつもりじゃ無かった人にもウィンドサーフィンをやってもらえるのかなと思ってさ」
あーなる程、それなら判ります…… って、そうじゃない!
ニコリと笑う朝比奈さんから受け取った海パンを、議論とか自分の意見を通す事の苦手な俺は全てを諦めて、素直に身に着ける事にした。
「あ、日焼け止め忘れると悲惨なことになるよ」
朝比奈さんが俺に差し出してきたのは、日焼け止めのクリームだった。
制服や下着類は全部朝比奈さんに預かって貰うことにして海パンだけになった俺は、海開きを目前にした初夏の海に、真っ白でだるだるな己の体を晒す事になってしまったのだった。