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18/21

18:西風と土下座

 秋になると、南海上に張り出していた太平洋高気圧が南に下がり、大陸から移動性の高気圧が日本列島を覆い始める。


 その高気圧から南海上に発生した熱帯性の低気圧に風が吹き込み始めると、夏の弱い温度差による風がウソのように強い東風に変わり、安定して吹き始める。


 そうなれば、平水面となる俺のホームゲレンデたるこの湾は絶好のプレーニング天国となる。


 俺は思い切って、お年玉貯金を注ぎ込んで中古のショートボードを買った。

 朝比奈さんの見立てで、ノーズ付近のデッキにBHと書いてある245cmで容積100リッターのショートボードが俺の物になった。

 相変わらずセイルやマストなどの道具類は朝比奈さんの物を借りているが、そこまで高校生の俺に手は回らない。


 ショートボードでの完プレ(完全なプレーニング)は大きなボードと何が違うかと言えば、その速度と軽快さが一番だろうか。

 何処までも伸びて行くような、僅かな恐怖感をも引き起こす圧倒的なスピードは俺を虜にした。


 接水面積は本当に小さくなり、下向きの薄い垂直尾翼スケッグ一枚だけが水に着いて水中翼船のようにボード全体が浮いているような走りをしてしまうと、もうダガー付きのロングボードには戻れない。


 ちょっとしたアクシデントでプレーニング中に転倒すれば、平たい石を水面に投げた時のように何度も水面をゴロゴロと跳ね回る俺の体。

 必死でボードが風に流される前に泳ぎ着き、再びウオータースタートで水中から一気にセイルの揚力を利用してボードの上に引き上げてもらい同時に走り出す。


 朝比奈さんが教えてくれたウォータースタートの練習方は他でどういう風に教えているのか知らないけれど、ちょっと変わっていると思った。


 それは膝ぐらいの水深の場所でお尻を水底に着けてやるものだった。

 お尻を水底に着けて、前足でも後ろ足でも片足をボードに乗せた状態でセイルに風を入れてボードを風上や風下に自由に向ける練習から始まったそれは、最後に両足をボードのストラップに差し込んでも同じ事ができるようになるまで続いた。


 ウォータースタートで大事なのはボードコントロールなのだと朝比奈さんは言う。

 足が着かない場所で、自由にボードの向きを操れないとウオータースタートは出来ないと言われてやり始めたのだが、これが考えているよりも難しかった。


 それは最初に苦労したラフとベアのボードコントロールと基本的には同じだが、お尻を水底に着けた状態でやるのは遙かに高度なボードコントロールが必要になる。


 それが出来るようになって沖に出た俺は、一発で足が着かない場所でもウォータースタートを決めることが出来た。


 ウオータースタートは応用幅が広い。

 強風下だけでなく、慣れてしまえば微風下でも可能な技でもある。

 俺は、よほどの事が無い限りセイルアップをしなくても済むようになって初めての冬を迎える事が出来た。


 冬は西高東低の気圧配置となり、西から東へと強風が吹く。

 当然このビーチでも沖から岸へと強風が吹くので、海は荒れ放題に荒れる。


 本当はボードだけでは無くセイルも自分で一枚くらい買いたかったけど、朝比奈さんが本気でやるならドライスーツを買った方が良いと言うので取り止めて買ったのが俺の着ているドライスーツだ。


 ドライスーツってのは、真冬用のボディスーツで基本的に水が中に入らないように出来てるから真冬でも寒さに耐えてウィンドサーフィンを楽しむことが出来る。

 風の弱い夏よりも、秋から冬にかけての方がウィンドサーフィンにとってはオンシーズンなのだろう。


 今日も休みになるのを待って海に来た。

 朝比奈さんの家に置かせて貰っているボードを、キャリーカーに乗せて海まで運んでウィンドをするのが俺の休日の、午前中の日課になっている。


 朝比奈さんは、色々と忙しいらしく昼にならないと出て来ない。

 來斗さんが、ついさっき俺の様子を見に来て帰って行ったところだ。


 昼間は暇だからと言っているが、一人でやっている俺を心配してくれているのが判るだけに嬉しい。

 俺も沖には出るつもりは無いし、オンショアのこの風では沖に流されるよりは波に巻かれることの方が怖い。


 海を見てセイルの面積を選び、セイルのスリーブにマストを通して行く。

 マストの基部に薄いスペーサーごとエクステンションパイプを差し込み、セイルのダウンホールと滑車の間をナイロンシートで二重に通して留めクリートに固定する。

 その後はエクステンションパイプに足を掛けて更にシートを思い切り引くと、セイルに天地方向のテンションが掛かり綺麗な翼形を描く。


 セイルからマストが覗いているスリーブの切れ目に薄いジュラルミン製のプロテクターを当てた上にブームを固定して、こちらもシートをマストに回してロックする。

 そのままブーム後端エンドをマスト下部からセイルの後方へと回して行けば、テコの原理でガッチリとマストに固定される。


 骨組み(バテン)にテンションを掛けてセッティングを終えたセイルをチェックする。

 ひび割れや亀裂は命に関わるトラブルになりかねないから、慎重に各部をチェックして下部のエクステンションパイプにジョイント金具を取り付けて道具リグのセットアップは終わりだ。


 ジョイント部分はラバー製を使っていて破損した事があったので、樹脂製ではなくステンレス製のメカニカルな物を使っている。

 これも大事な俺の購入した数少ない道具の一つになるから、ここを借り物で済ませるのは、出来れば避けたい。


「おはよー南央樹」

 その声に振り返ると、遥香が防潮堤の上に立っていた。

 鮮やかなローズレッドのダウンジャケットを羽織り、クロムイエローのミニスカートの下には残念ながらスリムなインディゴのジーンズを穿いている。


「おはよー遥香」

 あれから休日の午前中はウィンド、午後からは彼女とデートという生活パターンに変わった。

 一番変わったのは、互いの呼び名から『ちゃん』と『くん』が消えた事だろう。


「風が吹いて嬉しいのは判るけど、無茶しないでよ」

 遥香はそう言いながら、俺にホットのレモンティーを出し出す。

「サンキュー!」

 それを受け取る右手に暖かさがジンと伝わってくる。


「つかさぁ遥香… お前、その格好にミニスカートって穿く意味あるの?」

 あぁ… 本当はメッチャ可愛いと思うんだけど、俺の口から出るのは別の言葉だ。

 照れくさくて、思わず突っ込みを入れずにはいられないのだった。


「なに言ってるの南央樹、ミニスカートは女子高生のアイコンでしょ。 例え下がグレーのダサいジャージでもミニスカートだけは穿くわよ」

 変な例えだが、力強く自信ありげに言われると妙に説得力がある。


 まあ、可愛ければそれが正義だ。

 俺は遥香の言い分に納得せざるを得なかった。


 彼女ならば、きっと何を着ても似合うだろうし、俺はファッションにあまり興味が無いから、彼女が身につける物に本当は文句など無い。

 好きな子を、ちょっとからかってみたいというだけの事だ。


「ねえ南央樹、進路は決めた?」

 遥香が、突然そんな事を聞いてきた。

 もうあと3ヶ月で高校三年になるし、受験を考えるならもう遅いくらいだ。


「お前と同じ大学に行きたいんだけど、ちょっと偏差値が足りないんだよな」

 遥香が目指しているのは新港市立中央大学で、新港市中心部から10kmほど東に離れた場所にある学園都市でも一番の難関大学だ。


 広大な土地を占めている菱川島重工業(株)とその関連企業群から莫大な税収が入る新港市は、山を切り崩して平地にした広大な緑地公園内に学園都市を造り、様々な企業の研究施設や公立私立を含む学校など誘致して集約している。


 遥香が目指している新港市立中央大学も、歴史が新しい割にはレベルが高くて学費も安い公立と言う事もあり、付近の優秀な学生が集まる難関校となっている。


 俺も、多田やクラスの連中を勉強で見返してやろうと頑張っていたけれど、それでもまだ市立中央大学は敷居が高い。


「じゃあさ、一緒に勉強しようよ! 南央樹は遺伝子工学を勉強したいんでしょ?」

 確かに時代はマイクロマシンを使った医療がナノマシンレベルへと進化して難病というものは減っているけれど、まだまだ遺伝病で苦しんでいる人は多い。


 俺の数少ない親友だった友長は、遺伝病の発症で入院してからずっと闘病生活を続けている。

 あいつのような人間を救うためにも、俺は遺伝子の勉強をしたいと思ったのだ。


「だけど、今からで間に合うかなぁ…… 」

 つい不安が口に出る。


「南央樹が本気なら、力になるわよ! 尤も私だって絶対大丈夫って訳じゃ無いんだから一緒に来年まで頑張ろうよ」

 遥香はレモンイエローとサーモンピンクの模様が入った毛糸の手袋をはめた両手で俺の右手をしっかり包み込むと、大きな瞳で真剣な顔をして言った。


 その大きな黒い瞳に、俺は吸い込まれそうな目眩にも似た錯覚を覚える。

 近くに居る遥香の体温が俺の頬に感じられるような気もする程に顔が近い。


「もしさ…… 」

「ん?」

 目を逸らしながら小声で呟く俺の声に、遥香が短く応える。


「もし合格したら、キスしても良いか?」

 言える!この流れなら言えると思って、俺はその願望を口に出してみた。


「ブッブゥーー!」

 突然俺の右手を離して俺から逃げるように離れた遥香。

 右手の親指を下に向けて、ブーイングをしている。


「なんだよ、俺変なこと言ったか?」

 思わず不満が口に出る。


 夏休みの終わりからもう5ヶ月近くが過ぎて休みの度に逢ってるし、お互いを呼び捨てに呼ぶのが普通になっていて、そろそろキスしたいって思うのがおかしいのだろうか?


「さて、下野 南央樹への質問です」

 遥香が真面目な顔をして、可愛いその顔の前で人差し指を一本だけ立てて俺に言った。

 クイズ番組かよ!…… とは突っ込まずに、俺は次の言葉を待つ。


「いつ、あなたは矢吹 遥香に『付き合ってくれ』と告白しましたか?」

「え?」

 その質問は意外だった。


「それは…… 」

 何時だったかと記憶の底を浚って思い返してみても、俺は遥香に『もっと逢いたい』と言いはしたが明確な言葉で『付き合ってくれ』とは言っていなかった。


 いつの間にか一緒に話をする事が当たり前になり、いつの間にか名前を呼び捨てで呼び合うようになり、いつの間にか俺は遥香と付き合っていると思い込んでいた。


「わたし、矢吹 遥香は付き合ってもいない男の子と軽々しくキスをするような緩い女でしょうか?」

 遥香は勝ち誇ったように微笑んでいるが、その大きな瞳は笑っていないように俺には思えた。


「すみませ~ん!どうか俺と付き合って下さい遥香さん」

 俺は、その場で遥香に向かって土下座した。

 彼草色の芝生が額に当たる感触がちょっと痛いけれど、ここは謝り通すしか無いと俺は判断した。


「調子に乗ってました、浮かれてました、大好きです遥香さん」

 俺はドサクサに紛れて『付き合う』の先にある『大好き』まで告白して一気に遥香を攻めた。


「ちょっと、大きい声だしたら恥ずかしいじゃない」

 遥香は思った通りに慌てて、小声で囁くような声で俺に土下座と告白は止めろと言う。


「誰が聞いていたって構うものか、俺は遥香が大好きなんだ!」

 俺は顔を上げて、遥香の顔をジッと見つめながら繰り返した。

 少しの沈黙が、風の音をより大きく俺の耳に運んでくる。


「そういう告白は、もうちょっとロマンチックな場所で言うべきだと思わないの? 」

 気温が低い事もあってか顔全体を紅色に薄く染めた遥香が、腰に両手を当てて何かを諦めたように大きく溜息を吐く。


 しまった、冗談めかしてやらかしたか? と一瞬不安になり目を瞑った俺だが、そうでは無かった。


 両の頬に当てられた毛糸のふわりとした感触の後、俺の唇に温かくて柔らかいものが軽く触れて離れた。


 驚いて目を開けると、俺の目の前に遥香の愛らしい顔がある。

「こちらこそ、宜しくお願いします。 わたしも南央樹が好きよ」


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