13:プレーニングとパンピング
夏休みも後半に入る頃には俺もそこそこ乗れるようになっていたが、まだプレーニングというものを経験していなかった。
プレーニングとは、ウィンドサーフィンをやる以上これが出来ないと意味が無いというくらい基本的な滑走状態の事を言うのだが、それをまだ俺は経験していなかったのだ。
車のタイヤが雨水に乗ってグリップを失い、スリップする現象にハイドロプレーニングと言うものがある。
ウィンドサーフィンのプレーニングもこれと同じ滑走現象の事だ。
速度が上がってくると、何処かの段階で一気に水の抵抗が激減し水面滑走状態に入るのだが、焦ってボードのバランスを崩してしまうとすぐに水の抵抗が増してプレーニングには至らない。
とにかく、ウィンドサーフィンの雑誌を見てもWEBサイトを見ても、プレーニングはウィンドサーフィンの醍醐味だとか、知らない奴はモグリだくらいの勢いで書かれている。
なんとかして、その段階に移行しようと俺はいつものように悪戦苦闘していた。
風を掴んでボードが海面を掻き分けて走り出す。
シャバシャバとボードが海水を掻き分けて両サイドから飛沫が上がり出せば、もうあと一息でプレーニングに入るところまで来ているのだ。
勢いよく水を切って走り出せば少しずつボードのノーズが浮いて、接水している部分が後ろだけになってくる。
それに合わせて、ボードの側面抵抗の釣り合う場所も後ろにズレるから、ボードの回転中心も後ろにズレる事になる。
後ろへ移動するボードの回転中心に合わせてセイルの風圧中心も後ろにズラすために、進行方向の後ろ側へとセイルも傾けて行く。
そして、それに合わせてボードの上に乗せている足も後ろに移動させて行く。
ここで後ろに移動するのが早すぎると、ボードのテイルが沈みすぎて水の抵抗が一気に増えて失速するし、遅すぎるとノーズが浮き上がらずにそれ以上速度が上がりにくくなる。
俺が嵌まっているポイントが、ここだった。
その日は天気図を見ても、日本列島がずっぽりと大きな高気圧に覆われていて、陸と海の温度差による風くらいしか吹きそうに無かった。
緩い南風が吹いているその日は、沖に出るのには丁度良い、岸から見て左サイドからの南風が緩く吹いているクルージング日和の日だった。
俺は朝比奈さんから譲って貰った、浮力のある全長280cmで可動式ダガーの付いたボードで海に出た。
セイルは借り物の7.0平米と大きな物だから、それなりに体を預けてのんびり走るのには最適なチョイスのはずだった。
ビーチスタートして、のんびりと沖へ出て行く。
風下へ流されることを考慮して、可動式のダガーを下ろして少しだけ風上寄りに進路を取り直す。
振り返って見ると、出てきたビーチが小さく見えた。
程なく、俺は湾の先端付近まで来た。
外海は目と鼻の先にある。
左を見れば、以前流されて救助された岬の突端も見える。
湾を出てからは、すこし波の周期がゆっくりになって高さも大きくなってきた。
それは『波』と言うよりも『うねり』と言う方が相応しい物だったかもしれない。
『うねり』の背(波の後ろ側)に乗って滑り落ちる感覚を味わい、『うねり』の腹(波の前側)に乗って押し上げられる感覚を味わう。
『うねり』の底はマストよりも高低差があって、風が『うねり』に遮られてセイルに届きにくくなる。
気が付けば相当沖に出ていた。
振り返っても『うねり』の最上部に出なければ、岸の様子は窺えなくなって来たので、引き返すことにした。
沈しないように、慎重に『うねり』の背から滑り降りながら風上へとタッキングを仕掛ける。
『うねり』の腹に押し上げられながら方向転換した俺は、今度は波の腹に乗って元来たビーチへと向かう事になる。
『うねり』の背を追い越しながら腹に乗ると、永遠に斜面を滑り落ちるような錯覚に囚われる。
物理的には斜面を下っているのに、自分の前に次から次へと新しい斜面が出来上がって永遠の下り坂を滑り降りているような感覚に陥るのだ。
斜面を滑り始めたボードは風の推進力を借りて速度を増して行き、やがて水の抵抗が消えて行く変な感覚が襲ってくる。
ボードがプレーニングを始めたのだった。
尤も、プレーニングと言ってもボードの後部だけが接水して走るような完全な物では無かったが、サーフィンで波を滑り落ちる感覚に近いのでは無いかと思った。
初めて感じるプレーニングの滑るような感覚に驚きながらも、押し上げられつつも滑り降りるボードの速度を利用して風上方向へと切れ上がって行く。
『うねり』のボトムで少し風下へと向きを変えて『うねり』のトップを目指して斜面を駆け上がる。
そんな繰り返しをしているうちに、湾の入り口が見えてきた。
『うねり』も、ここまで来ると殆ど無くなってしまう。
湾の中に少しだけ入った処で、急に風が止んだ。
バランスを崩して沈しそうになるのを、しゃがみ込むように重心を落としてやり過ごす。
周囲の地形を見て自艇の位置を確認すると、だいぶ真南の風に押されて湾の入り口北寄りに自分が位置している事が判る。
「さて、どうするか…… 」
頬にほんの少しだけ感じる南風でも、適切な仰角で風を受けてやればボードが進まない訳では無いが、些かしんどい。
その時、頬に感じる風の向きに違和感を感じた。
少し向きが変わったような気がしたのだ。
以前流された東風では無く、それは南西の風だった。
ボードの上に立ちながら南西方向の沖を注視して観察すると、遠く俺が救助された湾の南端あたりに、何か海面の反射を打ち消す黒い滲みのようなものが見えた。
「突風が来る!」
そう確信した俺は、不意を突かれてセイルを吹き飛ばされないように腰を落としてブームを握り直す。
朝比奈さんと帰りに寄る銭湯で聞いた、毎年夏に1~2度やってくる強い南西風の話を聞いたことを思い出したのだ。
地形の影響なのか、気圧配置だけでは吹くはずの無い強い南西風が突然吹く日があるのだと言う、その風が来たのだと俺は直感したのだった。
その黒い滲みは見る見るうちに南西方向の海面に広がり、こちらに迫ってくる。
その、海面の反射を遮る黒い滲みの正体は、強い風で海面が吹き飛ばされて出来る細波だった。
ざわざわと波立つ海面を吹き飛ばしながら細波のトップを更に風が掻き回して、空気の混ざった白い部分が所々に出来上がり迫ってくる。
これが『ウサギ』と朝比奈さんたちが呼んでいる風波のトップに出来る白く見える物の正体だ。
黒い滲みの一つがボードに届くよりも1テンポ遅れて、突風が襲ってきた。
バン!と音を立ててセイルが風を孕みブームを掴む両手が一瞬引き千切られそうになる。
一瞬セイルを開いて風を逃がし、そこから尻餅をつく程に腰を落として綱引きをするようにセイルを引き込むと同時に、前足を突っ張って引っ張られる力に抵抗する。
その瞬間、堰を切ったようにボードが凄い勢いで走り出した。
ボードは強引に風下へと向こうとしている。
足下を見れば、水しぶきが上がっている部分がボードの半分程より後ろになっていた。
ボードの回転中心が後ろに移動しているのに合わせてセイルの風圧中心を後ろに持ってこようとして、自分自身も後ろに一歩二歩と移動する。
すると、更にボードは加速して接水している部分が後ろに移動してくる。
それに追いつかれないように更に自分も後ろへと移動すると、すぐ足下にフットストラップがあった。
それは今まで意識して足を入れようとしても、そこまでボードの重心を移動する事が出来なかった夢のフットストラップだ。
俺は、そこへ足先を突っ込んでみる。
まずは加重を掛け過ぎないようにそっと前足から、そして軽く後ろ足も……
フットストラップに足が入るとセイルは更に後ろに傾いて、下部がボードの上面に擦り付くようになる。
ボードはそこから更に加速を始めた。
水しぶきはもうボードの後ろから20cm~30cm程の部分からしか上がっていない。
ボードの大部分が海面から浮き上がっているのだ。
時折水面に叩きつけられるボードの下面がリズミカルな打楽器の音を奏で始めると、馬が軽快に走る効果音にも似た音を立ててボードが矢のように爆走を始めた。
ここまでの時間は、おそらく数秒の事だろうが俺にはスローモーションのように後からでも思い出せるくらい印象的な出来事だった。
これがプレーニング!
波の背を滑り落ちる時に感じた物は、プレーニングなんて呼べるものでは無かった。
これこそがプレーニングの世界だ!
ギシギシと音を立てて風に耐えるマストとセイル、そして俺の手とセイルを繋ぐブームと命綱のハーネスライン、このボードを構成する全ての道具と俺自身、そのどれが欠けてもこの状態を維持することは出来ないだろう。
俺は、そのとき初めてプレーニングという天国を知った。
頭の中が真っ白に漂白されて行くような、自分自身を初期化されるような、痺れる程の快感。
余計な悩みとかストレスが吹き飛んで行く。
俺は思わず、海の上で意味の無い大声を上げていた。
前方から高速で接近してくる水しぶきを一つ見つけた。
朝比奈さんだ!
朝比奈さんが風を見て海に出てきたのだった。
俺は堪らずに嬉しさを隠せなかった。
俺が、あのボードの上に立てなかった俺が、今は朝比奈さんと同じ海面でプレーニングをしているのだ。
これが嬉しくない訳が無い!
朝比奈さんから聞いた知識、本を読んで知った事、WEBサイトで仕入れた事を総動員して、セイルの面積に対して強めの風に対処する。
幸いにも、俺の重めの体重が良い方向に働いている。
体重の軽い人は、強い風に対抗するためにライフジャケットに2~3kgの重りを入れたウェイトジャケットという物を使って大きなセイルを使う事もあるらしいが、俺は生身の体がウェイトジャケットのような物だ。
だから俺のライフジャケットには何も重りが入っていないけれど、以前より痩せたと言ってもまだ80kg近い体重がある。
俺はお尻が水面に付く程に沈み込み、セイルを風上方向にも傾けてセイルの風に対する前面投影面積を小さくする。
カイトセイリングと呼ばれる風に対して傾いたセイルは、風上から見た見かけ上のセイル面積が減少するから、オーバーセイルと呼ばれるセイルの面積にたいして風が強すぎる時の対処法になるのだ。
セイルをボードの後方へと傾けて(アフターレイキ)ストラップに足を入れたポジションでは、ブームの位置が相対的に下がるので肩の位置にセットしたブームが俺の腹の辺りに位置する。
そのせいか近くに来たブームによってハーネスラインが若干長く感じるし、そのブームの位置もハンドリングするには下過ぎるようだ。
この時初めて、俺は朝比奈さんのセッティングが俺と違って肩より少し高めにブームをセットしてハーネスラインも短めにしてある理由を理解した。
すべてが腑に落ちた。
すべてはプレーニングの為にあったのだ。
強い南西風の突風が時折途切れるようになってきた時に、朝比奈さんが俺に風上から並びかけてきた。
朝比奈さんの陰に入って、ガクンとボードの速度が落ちる。
朝比奈さんのセイルが俺のセイルに入る風を遮ったのだ。
失速して沈しそうになるのを必死で腰を落として耐える。
「南央樹くん、上手になったね」
悪戯っぽく笑いながら朝比奈さんが俺を追い抜くと、俺のセイルに入る風が復活して再びボードは爆走を始める。
風が多少落ちてきたから、セイルサイズが大きい俺の方がパワーでは有利なはずなのに、中々朝比奈さんには追いつかない。
風が弱くなってボードの速度が落ちてゆく。
かなり失速してプレーニングするかしないかギリギリの感じなのに、むしろジリジリと朝比奈さんに引き離されて行く。
前からパン!パン!とリズミカルに何か妙な破裂音のようなものが連続して聞こえる。
前を行く朝比奈さんを観察していると、セイルが波打つような妙な動きをしていた。
朝比奈さんはセイルを引く手を小刻みに動かして、リズミカルにセイルで空気を扇いでいたのだ。
観察しているとパン!と言う音は、一気にセイルを引き込んだときにセイルを構成するフィルム素材が空気を孕んで音を立てているのだと判った。
そう、あの音はビーチからスタートするときにセイルに風を入れて、セイルの素材が空気を孕んで張り詰める時の音だった。
自分も真似て、セイルを引く手を緩めてから一気に引いてみた。
パン!と言う同じような音がして、ボードは風上を向いて失速する。
慌ててセイルを操作してボードを風下に向ける事で勢いを取り戻したが、何かが違うらしい。
どうやっても、セイルを引き込む時の反動でボードを横に蹴り込んでしまうのだ。
結果的に、足を置いているボード後部を横(風下)方向に蹴り込まれたボードはノーズが逆に風上を向いてしまうのだ。
再び朝比奈さんのセイル操作とボード操作を観察してみる。
いったい俺と何が違うのか?
朝比奈さんがセイルを引き込むのと同じタイミングで俺もセイルを引き込んでみると、違いが判った。
朝比奈さんはボードを前足で進行方向に蹴り込んでいるけど、俺は後ろ足で横(風下)方向に蹴り込んでいた。
パン!パン!パン! 前足でボードのノーズを風下方向へと向けるように意識して蹴り込んでやると、蹴り込む度にボードが勢いを増して行く。
「これか!」
俺は調子に乗って、パン!パン!パン!パン!パン!とリズムが崩れないようにセイルを扇ぐように動かした。
元々セイルサイズが朝比奈さんよりも1平米ほど大きい事もあって、浮力のある俺のボードは朝比奈さんに近付いて行く。
俺のセイルが奏でるリズミカルな音に、朝比奈さんが気付いて振り返った。
追いつかれそうだと言うのに、嬉しそうに笑っている。
あと少しで追いつくという処で、俺のなけなしの体力が尽きた……
全身を使ってボードを動かすこの操作は、俺の想像以上に体力を使う。
幸いにも、風向きは南西のままだから、多少風下に流されても出艇場所に帰ることが容易いのは幸運だった。
出艇場所が見えてくると、防潮堤の上に誰かが立っているのが見えた。
人が居るだけなら、色んな人が散歩していたりウォーキングをしているから珍しくは無いのだけれど、その人影が居る場所は朝比奈さんがボードを置いてある場所の上だったのだ。
「奈子さんかな?」
その人影が女性のフォルムをしていると感じて、まずそう思った。
確かに背格好は似ているけど、髪型が違う……
「遥香ちゃん!?」
申し訳無いけど、俺は脳内で勝手に『ちゃん』付けにして彼女の事を呼んでいた。
救助して貰ったときのお礼を言わなくてはと思い、ブームから片手を離して思い切り振った。
そりゃあもう、ブンブンと音がするくらいに振った。
感動の対面が出来ると思い、何を話そうかと脳内シミュレーションを始めた俺の気持ちをサックリと裏切って、彼女は遠くからでも判るくらいに大袈裟にプイと横を向くと防潮堤の向こう側へと降りていった。
彼女の素っ気ない態度に失望半分で岸に上がる。
朝比奈さんに、さっきの技の名前を『パンピング』だと教えて貰ったが、俺はガックリしてそれどころでは無かった。
とは言え、他に気を紛らわせる事も無いので俺はしばらくパンピングの練習に明け暮れる事にした。
そうして数日が経過してお盆も過ぎた頃、楽しかった夏休みも残り1週間程になっていた。




