12:オフショアと離岸流
やや西寄りの緩い南風が吹く、そんないつもと変わらない晴れた夏の日。
ハーネスがなんとか使えるようになった俺は、いつもより沖へ出ていた。
沖と行っても、ビーチからはせいぜい100m~150mくらいしか離れていないが、俺には初めての大冒険だ。
風向きを考えれば、ビーチから見て少しだけ右斜めの航路を取って沖に出て出艇した場所に戻る事の繰り返しだが、海に落ちないでボードに乗っていられることが実に楽しい。
朝比奈さんが「今日は奈子が来られないから」と言ってコンビニに昼飯を買いに行っている時に、運悪く風向きが東(岸から沖へ)に変わった。
その直前に一瞬無風になってバランスを崩しそうになったけれど、とっさに尻餅を突く程に腰を落として、鉄棒にぶら下がるような格好で重心を下げて沈をなんとか免れた。
しかし、その後に岸から沖に向かって吹き出した風への対応が追いつかず焦ってしまった。
まず最初に水面がざわついてから、岸から沖へ吹く風に海面が押されて小さな波が沖へ向かって動き始める。
風の強さそのものよりも、岸から沖へと向かって吹く初めての陸風に対応を焦った俺は、セイルを手元にキープ出来ず海に落としてしまった。
一緒に海に落ちるくらいならと一瞬の判断でセイルを手放したのだが、いつもより強い風の中でのセイルアップは勝手が違っていて戸惑ってしまう。
岸から沖に向かって吹く、いつもよりやや強い東風は、水面に浮いている俺のボードを静かに沖に向かって押し流して行くのだ。
これは慣れていれば何ともない事なのだが、初体験だけに実に怖い……
しかも、沖に向かって流れ始めた表層の海水がボードを沖へと押し流し始める。
そうなると風下側(沖側)の水中にあるセイルが流れに対して抵抗となる。
やがて、風上側にあったボードが抵抗となっているセイルよりも先に風下へと流れて行こうとして、ボードとセイルの位置関係が逆転し始めたのだった。
ボードは少しずつ風下側へ移動しようと、その場でセイルを中心に回転を始めてしまうのだ。
慌ててセイルアップをしようとするが、背中から風を受けていない中途半端な位置で引き上げたセイルに横から風が入る。
そうなると、今度は横から風を受けたセイルが風下へと押されて今までとは逆にボードが風上側へと回転を始めてしまう。
なんとかボードコントロールを思い出し、アップホールラインを握ったままボードの向きを整えようと足でボードを強引に回す。
ボードとセイルをニュートラルポジションに持っていった処で、ボードのノーズ方向には湾曲しているビーチの南側にある大きな岩と、その手前に赤い浮標が見えた。
反対側を振り返ると、ビーチの北側にある大きな堤防が遠くに見える。
どちらへ退避しようかと考えて、目測でも近くに見えた南側の岩を目指すことに迷う余地は無かった。
近いというその安心感は、それ以外の選択肢を無意味に感じさせる。
あの岩の東(左)側にある砂浜へ行ければラッキーだし、多少西に流されても岩の西(右)側にはまだ砂浜も小型船の係留施設もあるから安心感が違う。
逆に距離が離れて見える北側の堤防は、その向こう側が漁港になっていて上陸が大変だ。
その上、漁港の向こう側にある海岸までは更に遠いだけでなく、そこは砂浜では無く岩の連なる磯浜でもあったのだ。
少しでも早く岸に辿り着きたい俺にとって、距離以上の魅力的な誘惑は無かった。
早く近くの岸に辿り着く事を焦った俺は、基本を忘れて最初からボードの向きを風上に向けてセイルに風を受けてしまう事になる。
当然ボードは走り出さないで、風に負けて横流れをし始める。
だけど、焦っている俺には前に進まない理由が解らなかった。
セイルに受ける風に負けないようにハーネスを使って風圧に耐えるが、前に進んでいないボードは、それだけ横流れの速度が上がるだけだった。
みるみるうちに、右斜め前方向にあった大きな岩と赤い浮標が左へと移動して行くように見える。
つまりは、俺が右(湾の外側)へと流されている事に他ならない。
大きな目印の岩と赤い浮標は、やがてボードの正面に見えるようになり、そしてゆっくりと左へと位置を変えてゆく。
俺は一向に前に進んでいないボードに、基本的な事を間違えていたと気付いた。
風に耐えながらもセイルをノーズ方向に傾けて、左前足でボードを押すようにして風下方向にノーズを向けると、ようやくボードは前へと進み出した(ような気がした)。
あの大きな岩の西(右)側にある砂地なら、岩に東の風を遮られて流されることも無いだろうと気持ちを切り替えて、そこを目指す事にした。
しかし、大きな岩を通り過ぎて少し風が弱くなったと言うのに一向に岸が近くならないのだ。
弱まった風を最大限に受けて、やや風上方向を目指してボードを進めてゆく事しか、俺には出来なかった。
この状況で更に風下(湾の外)へとノーズを向ける勇気は、俺には無い。
それよりも、目の前に見えている砂浜の位置が更に速度を増して左へと流れて行く事をヤバイなとは認識していたが、焦らないように気持ちを切り替えようともしていた。
あと100m~200m程の距離にある、港湾施設と海岸が中々近づかないで景色は右から左へと速い速度で流れて行く。
それでも、焦らないように湾から外海に出るまでには何処かの岸にたどり着けるだろうと考えるが、直ぐ其処にある陸地に近付くことが出来ない。
やがて目の前をずっと右にあったはずの大きなマリーナが通り過ぎ、釣り客で賑わう突堤を通り過ぎ、小さな砂浜を通り過ぎて岩や石で形成された磯場が見えたときに、広い外海が視界に入ってきた。
ここで、いくら楽観的に考えようとしても流石に駄目かも知れないと俺も思い始めた。
そして、これはボードを捨てて泳ごうかと思った時に、後ろからエンジン音と朝比奈さんの呼ぶ声が聞こえた。
「お~い!南央樹く~ん! 」
振り返って見れば、左後方から近づいてくるジェットスキーに乗った朝比奈さんが手を振っているのが見える。
「ごめんごめん、こいつを借りて来るのに手間取っちゃって…… 」
そう言いながら、ジェットスキーを俺の乗っているボードに寄せてきた。
それを見て俺も一気に緊張が解ける。
俺はセイルから風を抜くと迷惑を掛けたお詫びをした。
「すみません、岸は目の前なのに全然近づかなくて…… 」
「離岸流に乗っちゃったんだね」
そう言うと、朝比奈さんは俺にロープを投げて寄越した。
俺の乗ったボードに横付けした朝比奈さんのジェットスキーは二人乗りで、俺は指示されたとおりにボードをジェットスキー後部に結びつけられたロープを受け取って固定した。
「自分で言うのも何ですけど、冷静に一番近い岸に辿り着こうとしていたつもりなんですよねぇ……」
ボードに取り付けられたセイルの根元にロープを縛り付けながら、そう言って流された言い訳をする。
それを聞いていた朝比奈さんは、静かに俺の行動の矛盾点を指摘した。
「南央樹くんの気持ちはそうでも、実際は風上にボードが向き過ぎて前に進んでいない事にも気付いていなかったくらい平常心じゃ無かったんだろうね」
「う…… 」
俺は何も言い返せなかった。
気持ちの上では冷静に色々考えていたつもりだったけど、確かに走り出しから風下へ行きたくなくて風上へノーズが向いていたのかもしれない。
だとすると、あの時風下へとノーズを向けて動き出したと思ったのは、焦った俺の錯覚だったのかもしれない……
そうだとすればセイルは前に進む為に必要な揚力を発生することも無く、ただの風を受け止める抵抗板でしかなくなってしまう。
俺はセイルが揚力を効率よく発生させる事の出来る仰角(翼が風を受け流す角度)を深くし過ぎて、結果的に風に押し流されていたのだと気付いた。
そう、俺はセイルに効率よく風を流すのでは無く、セイル全体で風を受け止めていたのだ。
なまじハーネスが使えるようになったからこそ、風に耐える事が出来て気付かなかったのだろう。
「じゃあ、いったん離岸流から離れるよ」
俺が朝比奈さんの後ろの座席に座ると、そう言ってジェットスキーのエンジンを吹かして移動を始める。
気が付けば湾の先端部分を通り過ぎていて、もうボードは外海に出る寸前だった。
「弱いけどオフショアになってたから慌てて戻って来たらさ、南央樹くんが流されて見えなくなっちゃった~!って言ってくる女の子が居てね…… 」
そう言えば思い出したという感じで、朝比奈さんが救助に来てくれた切っ掛けを話し出した。
「へ? 誰ですか??」
何も根拠なんて無いのに、一瞬チラリと遥香と言う名の緩い三つ編をした女の子の事が俺の頭を過ぎった。
だけど世の中はそう上手く行く物では無いと思い返して、どんな人だったのか聞いてみる事にした。
なんだか、少しだけ胸がドキドキしてくる。
いやいや…… その人が誰であってもお礼を言わなければならないだろう。
俺は自分自身の心の動揺を自分でも気付かない振りをして、自分はお礼をするためにその人の情報が欲しいのだと思い込もうとしていた。
「最近、ちょくちょく通りかかる子で…… ちょっと可愛い子なんだけど、名前は何て言ったかなぁ… 」
その言葉を聞いて、俺の押し隠していた心の底がドキリと揺れた。
「もしかして、緩い三つ編みだったりします?」
もう半ば遥香という子だと確信していたのにも関わらず、俺は尚もそう聞き直す。
「そうそう、それ! 以前突堤で南央樹くんと何かトラブってた子」
アッサリと朝比奈さんは俺の願望を肯定してくれた。
「あ、やっぱり見てたんすね!」
もう縁が無いかなと思っていた女の子と、また話が出来る切っ掛けが出来たと俺は心の底で喜ぶ。
そして、それを気付かれないように朝比奈さんに突っ込んでおいた。
「あはは、その子が偶々(たまたま)通りかかったら南央樹くんが双子岩からどんどん沖に流れて行ったって言って、かなり焦ってたよ」
俺の指摘を笑って誤魔化した朝比奈さんは、そう言ってアクセルを開けるとボードごと俺を出艇場所であるビーチへと運んでくれた。
お腹に響くジェットスキーのエンジン音の中、何にしてもお礼を言わなければならないと俺は思っていた。
そう、これは口を聞く丁度良い切っ掛けなんかじゃ無くて、純粋に助けて貰ったお礼なのだ!
そう自分に言い聞かせる。
きっとビーチで心配しているだろう彼女に何て言おうか、そんな事を俺は考えていた。
結果を先に言うと、俺が期待していた緩い三つ編みの彼女…矢吹 遥香は俺を心配してビーチで待っていた、というような俺の願望丸出しの展開にはならなかった。
レンタル用のボードを置いてある海岸で俺を待っていたのは、奈子さんと漁師の來斗さんに美容師の洋介さんだけだったのだ。
「洋介、サンキュー!」
岸に着いた朝比奈さんは、そう言って岸で待っている洋介さんに合図を返す。
「おう少年、無事だったか!」
來斗さんが、面白いネタを見つけたというような満面の笑みで俺を迎えてくれた。
「どこまで流れてたんだ?」
朝比奈さんに訊ねてきたのは美容師の洋介さん。
この人も何だか嬉しそうな顔をしている。
唯一、奈子さんだけが険しい顔をしていた。
「二人とも、笑い事じゃないでしょ!」
奈子さんはそう言って、俺の遭難未遂をネタにしようとしている來斗さんと洋介さんを叱っている。
「いやあ、思ってるように出来ないもんなんですね」
変に深刻に心配されるよりも、逆に笑ってくれた方が当事者としては気が楽というものだ。
俺は心配してくれている三人に、何でも無い振りをして見せた。
それに、この三人の遠慮の無い関係に俺を組み入れて貰えている事が何よりも嬉しかったりする。
「悪いな、最初は俺んちの漁船を出せないかって真琴が言ってきたんだけど、ちょうど整備中でさ。 んで奈子が洋介がジェットスキーを持ってるからって言って借りに行ってたから救助が遅れちゃったんだよ」
どうやら來斗さんが事情を説明してくれたように、岸では相当大騒ぎになっていたようだ。
「そうそう、俺なんか指名のお客さんを他の奴に任せて…… 」
「何言ってんのよ、鍵だけ貸してくれれば勝手に借りてくのに野次馬根性出して、南央樹くんに託けてお店をサボって来たのは洋介でしょ」
とぼけた洋介さんの言い分に、すかさず突っ込む奈子さんだけは真剣な顔をしている。
朝比奈さんは、二人の遣り取りを聞いて笑っている。
同じように洋介さんと奈子さんの会話を聞いて笑っていた來斗さんが、突然思い出したように俺の方を向いた。
「ところで少年、一番最初に流されてるって騒いでた女の子は少年の彼女か何かなのか?」
「おお、ローレイヤーのゆるふわ風ルーズ三つ編みの子か、あれは良い美容師が付いてるな」
來斗さんが矢吹遥香の事を俺に訊ねると、すかさず洋介さんが髪型の感想を被せてきた。
「いやあ、知り合いという程じゃ無いし… 」
どう聞かれても、俺だってそれ以上の答えは持ち合わせていない。
(でも、なんでその彼女はこの場に居ないのだろう? )
そう思って、さり気ない風を装って辺りを見回してたけど姿は見えなかった。
「その子なら、真琴の後ろに南央樹くんが乗ってるのを確認してすぐに帰っていったわよ」
奈子さんが俺の矢吹 遥香を探す素振りに鋭く気付いたのか、俺にそう言ってきた。
「そうそう、なんか逃げるみたいに帰って行ったよな」
洋介さんも、それをフォローするように聞きたくない言葉を付け加えた。
「逃げるって…… 」
思わず俺は呟いた。
「少年、何やっちゃったんだ?」
「いや、何もしてないし…… 」
そんな事を言われるなら、せめて何かしてからにして欲しいくらいだと、心の中でそっと呟く。
「あ~、あのゆるふわ三つ編みを俺に弄らせて欲しかったなぁ」
洋介さんは、残念そうに言っていた。
俺だって、あのふわっとした髪の毛に触ってみたいですよと、声に出せない願望を再び心の中で呟くしか出来ない俺。
「あれじゃない? 胸元覗き込み事件とか」
いきなり朝比奈さんが爆弾を落としてくれた。
「おいおい、少年見かけによらずやるな」
來斗さんが、俺の言い訳も聞かずに右の握り拳の親指を立てて突き出した。
「いや、來斗さんグッドジョブじゃないですから、それ違いますから」
「奈子さん、その見下すような冷たい目は止めて下さいって」
「洋介さん、なんで腕を組んで頷いているんですか!」
俺は必死で言い訳をするけど、三人三様に朝比奈さんの爆弾発言から俺の事をエロい奴と想像しているようだ。
「ちょっと、朝比奈さん見てたんなら誤解の無いようにちゃんと説明して下さいよ」
俺は朝比奈さんに当然の要求をしたけれど、結局あのときの事を事細かく説明する事になったのは逆に俺の方だった。
「まあ、男なら当然だな」
と言ってくれたのは來斗さん。
「女性相手の商売をしている立場からあえて肯定はしないけど、男として理解は出来るな」
そう言うのは洋介さん。
「ふーん、なんか少しは脈がありそうな感じだね」
これは奈子さん。
本当に、そうなんでしょうか?
「でも、脈があるなら逃げないじゃないか?」
結局、火付け役の朝比奈さんが言った言葉が一番キツかったかも……
「あの頃は、ちょっと意識してる自分に気付いちゃうと、慣れてない子ほど恥ずかしくて逆に近寄れなくなっちゃうもんなのよ」
奈子さんは、そう言って俺に微笑んでくれた。
マジ天使です、奈子さん。
「え~小学生かよ」
そう言うのは來斗さん。
「だから來斗には彼女が出来ないのよ!」
言い返すのは奈子さんだ。
頑張って奈子さん!
実際の処、俺自身だって碌に話した事も無い訳だから少し気になっている子という程度の事だったし、朝比奈さん達だって話のネタにして盛り上がっていただけなので、彼女の話はそこで終わった。
「南央樹くん、怖い思いをしたから海に入るのはもう嫌になっちゃったんじゃない?」
唐突に、朝比奈さんが俺にそう聞いてくる。
「え? このまま終わったら帰れないままだから、やりますよ」
そう答えると、俺は引き上げたボードとセイルを再び手にして海に向かった。
そう、ここで終わったら負けたままになると思って、少し意地を張ってみたのだ。
「なんだかんだ言っても、男の子だね~」
振り返ると、奈子さんがそう言って帰り支度を始めていた。
「ご心配をお掛けして、すみませんでした」
俺は振り返って、四人に頭を下げる。
「その意気、その意気、流されたら今度は俺が引き上げてやるよ」
「じゃあな、上手くいったらゆるふわ三つ編みの子を紹介しろよ」
「南央樹くん、気をつけてね」
そう言って、三人は帰って行った。
朝比奈さんは、また日陰に移動して芝生に置いたビーチベッドに寝そべっている。
小さな寒冷前線が通り過ぎたのか、風は再び緩い南西の風に戻っていた。
俺は再びセイルアップをするために、アップホールラインを握り締めた。




