10:ジャイブとタックとツンデレ
月曜日の朝は、いつも世界が滅んでしまえば良いのにと思ってしまうのは俺だけだろうか?
そんな俺の気持ちとは裏腹に、情け容赦なく日は昇り、そしていつもの憂鬱な月曜日の朝がやって来た。
全身の筋肉痛は相変わらずで、それが収まる頃には自動的に週末になっているという始末で、休まる暇が無い。
そうして次の筋肉痛の原因を自分で好き好んで必死に掻き集めてくるのだから自業自得って奴だ。
特に腕の筋肉痛と疲労でシャーペンを握るのも億劫なんだが、この一週間を乗り切らないと週末はやって来ない。
誰かと口を聞くわけでも無い孤独な教室で、俺はひたすら頭の中で朝比奈さんに借りたDVDの映像を脳内再生していた。
それはセイルメーカーのプロモーションビデオだったが、強風で荒れた海面を爆走するウィンドサーフィンのボードとセイルを空撮したシーンが印象的なものだった。
俺は、その中にあった華麗なターンのやり方をイメージトレーニングする事で、退屈な時間が過ぎるのをひたすら待っていた。
期末テストさえ終わって休みになれば、週末にしか出来なかったウィンドサーフィンが毎日だって出来るのだ。
早く一週間が終われと、俺は祈った。
隣の岡田和泉は、時々俺の方をチラチラと見ているが、基本俺が居ないかのように振る舞っているのは変わりが無い。
もしも、仮に良心が痛むのなら、あんな事をしなければ良かったのだ。
こいつの気持ちが現在どうであろうと、岡田和泉という同級生は、もう俺には関係無い隣の席の女と言う物理的な位置関係の存在でしかない。
こいつらは俺を無視して反応を伺っているのかもしれないけど、俺がお前らの存在を無視しているとは思っても居ないだろう。
そう考え方を変えるだけで、気持ちはとても楽になる。
イジメ首謀者の多田が時々すれ違い様に悪口を言ってくるくらいで、とくに大きな実害も無かったのが幸いして一週間は無事に過ごせた。
俺が全員から無視をされているというのに、平気な顔をしているのが気に入らないのだろう。
多田は時々俺の方を見て、仲間と何やら話をしているようだった。
正直こんな状況で俺が孤独に押しつぶされなかったのは、学校以外の世界を知って、そこに知り合いまで出来たからだとも思う。
それを知ったからこそ、学校は俺の世界の大部分を占めるものでは無くなった。
世界の一部分でしか無い事を知った学園生活だからこそ、俺は考えを切り替えて自分から無視する事が出来たのかもしれない。
朝比奈さんと知り合ってから2週間しか経っていないけれど、直接暴力などの被害が及ばなければ、なんとか卒業までの1年半くらいを耐えられるかなとも思い始めていたのだ。
期待さえしなければ、どうという事は無い……
俺は、そういう風に思うことにしていた。
それに、クラスの殆どの奴らが知らないだろうウィンドサーフィンと言うスポーツを俺がやっていて、しかももう乗れるようになってきた事が俺の自尊心を保つ支えにもなってくれていた。
例えそれが、他人から見たら只の「勘違い」であったとしてもだ……
その週末は、午前中からずっとタックとジャイブの練習を飽きるまで繰り返した(結局、自分の理想に近付くまで何度でも繰り返したので、飽きることは無かった)。
少し走らせてから風上へとラフしながら風上旋回する。
次は最初のスタート地点まで戻ってから風下へとベアしながら風下旋回をする繰り返しだ。
こうやって、同じ位置をキープしつつグルグルと回り続ける練習方法は朝比奈さんから提案された。
やってみると、ただ同じ位置をキープし続ける事も簡単では無かった。
普通に真っ直ぐ走っているだけでも少しずつボードが風下側に流されている事は、対象物を見つけて走ってみると良く判る。
だから、風上に走ったり風下に戻したりするボードコントロールが出来ないと同じ位置をキープできないのだ。
俺が今まで色々と考えて実行してきた色々な事が、ここでとても役に立っていた。
やってみると、風下側へターンする「ジャイブ」よりも風上側へターンする「タック」の方がバランスを取るのは難しく無かった。
真っ直ぐに走っている勢いを利用してセイルを後ろに傾けて行くと、大きな弧を描いてボードは風上へと方向転換して行く。
バランス優先で落ちないようにして、体の位置をマストの前(ノーズ側)に移動する。
セイルから風を逃さないように引いてゆくと、自然とボードは滑らかに風上を向いてゆく。
そこからマストを挟んでボードの反対側へと移動しながら、セイルを落とさないようにワンツースリーのワンの姿勢でセイルをキープして、足を使って更にボードをターンさせてやるのだ。
タイトに回りたいときは、足を使ってボードを強制的に回してやれば良い。
ボードが回りきったことを確認してから、ワンツースリーのツーの動作でブームを掴みスリー・ゴー!の動作へと繋げて行けば良いのだ。
ボードの前側、マストの前辺りに移動する時と、ボードの反対側に回ってからブームを掴む時が一番沈しやすいかもしれない。
事実、俺は何度もブームを掴み損ねて沈を繰り返した。
タックで沈する一番の原因は、俺の場合ターンが終わってからセイルを持ち替えても風を充分に入れられずに、体を支えられなくて海に落ちてしまう事だった。
これは苦し紛れでセイルに風を入れる時に思い切りセイルを前に突き出したら、思っていたよりも風を掴んで耐えることが出来て解決した。
自分で思っているよりも、動作は大きい方が結果的に良かったようだ。
それに比べて風下回りのターンである「ジャイブ」はバランスを取るのが難しかった。
10回やって、1回出来れば良い方だ。
とにかく、風下にボードが向くとバランスが取りにくい。
結局、午前中はジャイブはマスターする事ができなかったけど、どちらもタックで回ってみたら「8の字」を描いて同じ場所を行ったり来たいする事になった。
朝比奈さんが言うには、俺のやっていたタックの繰り返しは「フィギュアエイト」と言うらしかった。
「まあ、タックができれば沖に出ても帰って来られるから…… 」
朝比奈さんは軽くそう言うけれど、やっぱり納得が行かない俺は午後からジャイブを繰り返すことに決めた。
そんな決心を心に秘めてオニギリを食べていると、唐突に朝比奈さんが話題を変えた。
「南央樹君も、だいぶ黒くなってきたね」
俺の肌の色は朝比奈さんほどじゃないけれど、これで海に来るのも3週目ともなれば、だいぶ黒くなっている。
最初は真っ赤になって風呂に入るのも辛かったけど、今は赤いんだか黒いんだか良く判らないくらいになっている。
鼻の頭とか耳の上とか頬とかは特に念入りに日焼け止めを塗っているおかげなのか、まだ皮が剥ける程には焼けていないが、二の腕とか肩や背中は既に皮が剥けている。
クラスの中でも、野球とかサッカーとかテニスとか屋外でやる運動部の奴なんかには敵わないけれど、相当黒い方に分類されるだろう。
もっとも、今のクラスの中での立場では話題にされる事もないけれど、俺の肌の色が急に黒くなった事をみんなが陰で気にしているのは知っている。
それでも今の状況を続けている限り、俺に理由を聞きたくても聞けないはずだから、ざまあ見ろって処だ。
多田も俺が全然へこたれないからなのか、ずいぶんとイライラしているのが手に取るように判って、それはそれで嬉しい。
まあ、そのうち何かやってくるかもしれないだろうな、とは思っている。
午後はずっと練習していて、ジャイブ成功率が10回中2回くらいまでになったけど、相変わらずボードから落ちる落ちる……
もう、はぁはぁ息は切れるし腕は充血してパンパンに張っていて握力も無くなり掛けているし、相変わらず腰は疲れて重いし……
もう何度目のチャレンジなのか判らないくらいのジャイブで、バランスを崩しかけて耐えていたんだけど、なんか気分を変えたくなった俺は自分から海に倒れ込んでみた。
「きゃっ!」
海中に没するときの水しぶきの音に重なって、気のせいか小さな悲鳴のような音が聞こえた気がした。
俺は誰かに海水を掛けてしまったのかと気になり、すぐに海面に顔を出して辺りを見回してみたが、髪の毛から滴り落ちる海水で目が塞がれていてよく見えない。
そんな俺の姿が可笑しかったのか、今度は「プッ…… 」という吹き出したのか笑いを堪えるような女の子の声が後ろから確かに聞こえた。
海水が沁みて目を開けられないままで後ろを振り向くと、聞き間違いでは無くて、確かに女の子の声がした。
「ふふっ、いつも海に落ちてばっかりなんだね」
目を塞いでいる海水を右手で拭って目を開けると、目の前にある小さな突堤の上に、ゆるふわ三つ編みの女の子が立っていた。
確か、名前は……
「えっと…… たしか、あの」
目の前にある突堤の上に居る女の子を見上げながら俺は名前を必死に思いだそうとしていた。
一発で覚えたはずの名前が、喉元まで来ているのに何故だか出て来ない。
自分の名前を俺が覚えていない事に気付いたのか、ゆるふわ三つ編みの女の子は、ちょっと頬を膨らませて口を尖らせている。
薄い若草色に染められた小さな麦わら帽子をちょこんと頭に乗せて、第二ボタンまで開けた清楚な白の半袖ブラウスに七分丈のスリムな薄い若草色のチノパンというスタイルは、彼女が俺と違ってスタイルの良い女の子だという事を見せつけてくれる。
頬を膨らませてプイッと横を向いた時に緩い三つ編みを纏めているリボンの緋色が目に焼き付くように印象的だった。
髪の毛はあの時と同じで、セミロング程の長さの髪の毛を緩く両耳の下辺りから二本の三つ編みにして緋色のリボンで纏めている。
あの時は地味な紫紺色のリボンだったと思うけど、クラブ活動モードではない私服モードの彼女は、印象がまったく違って見える。
なんというか、私服の彼女はジャージで化粧っ気の無いあの時よりも妙に大人っぽくて綺麗に見えた。
下に位置する俺を見る彼女の大きな二重の瞼が、大きな瞳と相まってとても印象的だ。
その黒く大きな瞳に映っている海面の光の煌めきがキラキラと揺れ動いているように見える。
俺は、その時彼女に一目惚れをした。
「ひどぉ~い! 私の名前忘れてるでしょ、し・も・の・さん」
その核心を突いた問いかけと、彼女が俺の名前を当てつけるように一文字ずつ呼んだ事に、女性慣れしていない俺の脳は軽いパニックを起こして機能が更に低下してしまったようだ。
「いや、えっと…… あの、名前何だっけ?」
焦れば焦る程、覚えていたはずの名前が出て来ない。
照れ隠しに愛想笑いをして見るが、効果は無かったみたいだ。
「自己紹介しておいて女の子の名前を忘れるなんて、男の子としてどうなの?」
俺にとってまだ名前を思い出せない名無しの彼女は、内股気味に少し曲げた膝に左手を突き、上体を下に位置する俺に向けて屈むと、悪戯っぽい笑顔で人差し指を俺に突き出した。
その時俺は、彼女の人差し指の先端でもなく、彼女の魅力的な瞳でもなく、ましてや可愛い顔でもなく、第二ボタンまで外れているブラウスの隙間から垣間見える陰影というか、正直言って深い谷間に吸い寄せられるように視線を奪われていた。
「ちょっと! 下野くんエロ過ぎ」
俺の視線に1ミリ秒で気付いた彼女は、すぐに突き出していた右手で胸元を隠すと上体を起こして軽蔑の眼差しを俺に向ける。
「ほんと男って最っ低! 何度も何度も海に落ちても諦めないで頑張ってるから少しは応援してたのに…… 」
なんか、俺は彼女の中の押してはいけない何かのスイッチを押してしまったらしい……
俺は自分の中の正常な男の欲求に負けて、選択すべきルートを間違えた事に気付いた。
「今日だって午前中に通りかかったらまた頑張ってたから、午後も様子を見に…… じゃなくって、通りかかったらまだやってるから頑張ってるなぁって関心してたのにぃ、もぉ~私の小さな感動を返してよ」
その言葉を聞いて、間違い無く俺はルートを間違えてしまった事を確信すると同時に、深く自分のスケベ目線を止められなかった事を後悔した。
おそらく俺が別のルートを選択していれば、きっと彼女ともっと仲良くなれるフラグが立っていた事は間違いが無い。
だけど、あそこで気付きにくいフラグと第二ボタンまで空いたブラウスの胸元があれば、男なら無意識に胸元を選択するんじゃないだろうか(しかも、あれは推定でDはありそう)。
いやいや、女の子慣れしている男なら飢えている俺と違ってフラグにもきっと気付いて別のルートで攻略を……
今更何を言っても虚しい言い訳に過ぎない。
(もう返す言葉もありません、僕のライフは既にゼロです…… )
彼女の反応に押されて、俺は心の中で全てを観念した。
俺の一目惚れは、発動から僅か十数秒で脆くも破れ去ってしまったのだ、そうに決まっている。
「ごめん、つい反射的に…… 」
みんな、女性に対する免疫が無いのが悪いんだ、俺なんかが夢を見ちゃいけないんだよなと、そう思って一目惚れの妄想から覚めた俺は素直に謝った。
「遥香よ、は・る・か!」
「へ?」
突然自分の名前を言い出した彼女を見て、たぶん俺は素っ頓狂な顔をしていたと思う。
「矢吹 遥香、や・ぶ・き・は・る・か、よ もう二度と会わないと思うけど、名前くらい覚えときなさいよね、し・も・の・な・お・き君!」
そう言うと、彼女は編み込みの白っぽい手提げバッグからペットボトルを取り出して、それを俺に投げて寄越す。
俺がキャッチしたそれは、白い乳酸飲料のスポーツドリンクだった。
「駅で間違えて買っちゃったけど、このまま持って帰るのも重たいからあげるわ」
そう言うと、彼女は振り返って後ろも見ずにスタスタと帰って行った。
ここから歩いて15分ほど掛かる駅で間違えて買ったにしては、まだ冷たいそれを手にしたまま、俺は彼女に大きな声でお礼を言った。
「ありがとぉ~! はぁ・るぅ・かぁ・さぁ~ん」
離れて行った彼女が立ち止まると、振り返って再び突堤の先端までツカツカと歩いてくる。
「恥ずかしいから、大きな声で名前を呼ばないでくれるかしら」
「あ、ゴメン…… 」
静かに、声を抑え気味に言う彼女の顔は耳まで真っ赤になっていたが、日焼けとかのせいでは無いと思う。
(これは、結果的に正解ルートだったのか? )
再び去って行く彼女の後ろ姿を目で追いながら、ふと気になって朝比奈さんの方を見ると、慌てて手元の本に顔を戻す処だった。
なんだか、いつか見た白日夢のような気がしたが、一目惚れから即失恋したはずなのに、何だか最終的に心がほんわかとした変な感じだった。




