表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

イロニーアイス 6 (完)




 アイス、出ておいで。外は明るいよ。

 少年のその言葉に、アイスは意を決し、隙間から光が漏れる扉を開き、足を一歩踏み出した。

 けれど、そのとたん、踏み出したアイスの右足が、光の中に掻き消えてしまった。

 びっくりしてアイスは足を元に戻した。絵本の世界では、アイスの足はちゃんとあった。シマシマの靴下を履いた、かわいらしい少女の足だ。

 こんどは恐る恐る、手を差し伸べてみた。すると、手も消えた。

 扉の外に出ると、アイスは虚無だった。

 アイスは、絵本の外、現実の世界では、存在できなかったのだ。

 ――あたしは、絵本の住人。

 あたしは嘘の女の子。

 アイスはようやく、その事実に気が付いた。




   *  




 あれから僕たちは何度も住まいを変えた。

 都内の入り組んだ裏道の狭苦しいアパートに住むこともあれば、人里離れた一軒屋を借りることもあった。大差ない家賃だったので、僕はどちらでも構わなかった。

 同居人の愛栖は公園の木々の木漏れ陽の陰が揺れるのを見ながら延々と歩くのが好きだと言い、アパートは隣と壁が薄いしトイレが汚い、階段で人とすれちがうのが嫌だと不平不満を漏らし、今は都心から少し離れた場所に木作りの家に落ち着いた。

 越してもう半年になるが、新しい物件情報の話題は一度も出ない。ずっとここにいたい、と愛栖はよく言っている。過疎化した土地で、流行に乗り遅れたようにマンションの建設予定地の看板が立っているが、今のところは人口密度が低い。近所で付き合いのある家もなく、愛栖と同じ年くらいの子供もいない、取り残されたような流行らない町だ。

 カラオケもゲームセンターもなく、夜になると、小さなスナックがぽつんぽつんと紫色の明かりを灯している。だから誰に怪しまれることもなく、僕は小さな子と一緒に住むことができる。

 ふたりで暮らし始めたころは、年を取らないバンパネラのきょうだいが人目を隠すように、転々と引越しをした。まるで萩尾望都の少女漫画みたいで素敵ね、と愛栖はうっとりとつぶやいたものだ。

 愛栖は僕より読書家で、ずいぶんたくさんの本を読んでいた。昔の少女漫画も愛好していて、作家のくせに勉強不足の僕をドブネズミでも見るような目で一瞥して、黙って文庫版をつきつけてきた。彼女に遅れる形で僕は、『赤毛のアン』や『秘密の花園』、『小公女』といった児童文学や、吉屋信子や氷室冴子といった少女小説や、三十年前の少女漫画の大島弓子や竹宮惠子、おおよそロマンチックなジャンルのものを多く読むようになった。冷めた大人である僕にはこの華やかで儚い薔薇の世界のことはよく分からなかった。

 僕は毎年、年齢を重ねて皺を増やし疲れが取れにくくなって腰が痛くなって目に見えて老けていくけれど、愛栖は見た目だけはかわいらしい気取った少女のままだ。瞳の暗さや言動は相変わらずに冷めているけれど、不毛だった子供時代に還るかのように幼稚なものをわざと好んだ。

 奇妙な共同生活ではあるけれど、しばらく平穏な日々は続いていた。





 僕はその日、割と興奮した頭のまま玄関の戸を明けた。なじみの編集者と打ち合わせを重ね、僕が二年間かけて暖めてきた絵本を世に出版する流れになった。それは僕の挑戦と離別の作品だった。僕が胸を張って代表作といえるたったひとつのシリーズ、『アイス』の最終巻だ。

 編集者は僕の描いた企画書を目の端を痙攣させて飛びついてくれた。彼なら分かってくれると僕は思っていた。たとえこれで作家生命を失うことになっても、もともと、死のうとして生きながらえた身体だ、悔いはない。

 僕は今日ゆっくりと前祝いをするつもりだった。

「ただいま」

 居間にはアメリカンチェリーのような濃い赤色のワンピースを着た愛栖がいて、暖炉に薪をくべているところだった。嫌なものは嫌な顔をしながらやり続けるのが彼女だった。熱そうに眉根を寄せながら愛栖は薪を四本ほど放り込んだ。

 愛栖は僕に気付くと顔を上げて、煤のついた肩を手で払った。

「先生」

 愛栖はめったに笑わない。けれど、僕の姿を半日ぶりに目にしたときだけは、違う。

「おかえりなさい」

 愛栖は口元をほんの少し重力に逆らって緩める。これでも出会った頃は、おじさん、とかロリコン、とか呼ばれていた。まったく見下した冷徹な表情で、見上げながらあざ笑われていたものだ。一度僕のもとを去って、戻ってきた時には、もう、おじさんとは呼ばなかった。彼女の目には最初から、僕はただのおじさんではなかった。今はただ素直に僕を先生と呼ぶ。

 十二歳の頃、彼女からもらったファンレターには、「先生、先生」と幾度も連なって記されていた。サイン会でも僕をそう呼んだ。僕は愛栖にとっていつまでも、絵本『アイス』を生み出した雨野三朗先生だった。

「嬉しそうね。どうしたの」

「ワインを飲まない?」

 僕は質問を無視して床下に保存してある葡萄酒を取り出して見せた。

「今日は鯵とほうれん草の胡麻和えだから、日本茶にしたら」

 愛栖がつくった夕食がテーブルクロスの上に並べられ、丁寧にラップが被せてあった。

「いや、飲みたい気分なんだ」

「じゃあ、お好きにどうぞ、先生」

 愛栖は白い顔でエプロンをつけて台所に向かった。ほどなく食事の準備が整い、僕らは向かい合ってグラスを傾けた。僕はお酒で、愛栖はホットカルピスだ。お腹が弱い愛栖は、つめたいものは一切口にしない。夏でもアイスを決して食べないし、いつも熱湯で入れた日本茶かミルクティを飲んだ。

「出版が決まりそうなんだ」

「そう、それはよかった」

「せんぜん嬉しそうじゃないね」

「わたしは、他人の幸福を喜べない女なの。知っているでしょ。例えそれが愛する人であろうとも、じぶんと無関係な幸福なんてどうでもいいの」

「無関係じゃないさ。『アイス』の絵本が出版されるんだよ」

「いちばんに読ませてくれる?」

「もちろん」

 僕はなにかおかしいと思いながら微笑んだ。いつもなら愛栖は、感情を表には出さないまでも、ご飯も後回しにして、率先して僕の完成した作品をじっくり読むのだ。

 部屋に戻って理由に気付いた。僕の原稿が、記憶にないテーブルの上に放置されていた。

「愛栖、勝手に見たね」

 僕は居間に戻って、ドビュッシーの前奏曲をオーディオで流しながら編み物をしている愛栖に詰め寄った。この家にテレビはない。愛栖とテレビ、同時に存在してはいけないもののような気がする。

「いちばんに読ませてくれるんでしょう」

「それは約束してある。けど、黙って見ていいわけじゃない」

「悪かったわ。でも嫌な予感がしていたの」

 愛栖は手を止めて、センスの悪い濁流のような色のマフラーの編みかけをソファの上に置いた。

「今度の本、最終巻なんでしょう」

「そうだよ」

「もう『アイス』は書かないのね」

「そうなるね」

「先生のなかに棲んでいるその子のことは、どうするつもり」

 静謐な瞳で愛栖は尋ねた。十二歳の少女が出せる色ではない。愛栖は今年で二十二歳になった。

「どうって、どうしもしないよ。もう書かないんだし」

「動き回ったりしないの、先生のなかで」

 愛栖が真面目な顔をして聞くので、僕は可笑しくて笑いをかみ締めた。

「僕の中で整理がついたんだよ。だから最終巻を書けた」

「先生、お願いがあるの。あの本を出版しないで」

 僕は笑いを止めた。こちらが笑い飛ばしきれないほどに、愛栖の目が真剣だったからだ。

「なにを言っているんだ」

「あの内容はひどいわ。インチキよ。仮にも絵本作家が描いていいものじゃない。わたしはさっきから気分が悪いわ。あんなもの読んでしまったからよ。先生にこの気持ちがわかる?」

 よく見ると愛栖は目の下に隈をつくっていた。彼女は立ち上がり、視線を逸らすことなく、真摯に続けた。

「先生が新しい道に行こうとしてるのは知ってる。よくわかってるわ。もう姪っ子さんのことは吹っ切れたし、わたしのことも愛していない。迷いごとも言わない。隠居してはいるけど、定期的に作品を書き続けて、印税も貰ってる。すっかり真人間よ」

「ちょっと、愛栖……」

 僕は混乱し、愛栖をとめようと手をあたふたと上下させたが、なんの意味もなさなかった。

「でも、だからといって、これまでの夢を否定するなんて、許せない。確かに先生はこれまで、世間に顔向けできないようなダメな人間だった。けど、急にまともになったからって、これまで先生のファンだった人たちを裏切るようなことをしていいの? 先生を好きな人たちは、まだ過去に棲んでいるのよ。抜け出せていない。それも、一生、抜け出さないのを覚悟しているの。あんな最終巻を出すくらいなら、『アイス』は永遠に未完でいいわ。終わらせなくていいの。アイスちゃんは絵本の住人で、存在しない人物でした――なんて、そんな結末を、世に出しちゃだめ」

 言い切ると、愛栖は、ふっと重心を失った。

「愛栖!」

 少女の頬は蒼白になっていた。僕は愛栖を背負って、町に一件しかない内科医の深夜診療の門を叩いた。






 越した当初から世話になっているなじみの、初老の内科医は、蒼白の愛栖を見てもほとんど顔色を変えなかった。

 親子ではない僕と愛栖についても妙な詮索をすることもなく、噂を広めるでもなく、ただ淡々と工場の流れ作業を行うように、愛栖の未発達な身体の病気を診療してくれた。

 愛栖が今の住まいを気に入っている理由も、ひとえにはこの医者のおかげだった。これまでも幾度か病院にかかっている愛栖だが、奇異な目で見られて気分を害することが多かったようだ。長い間通院をせずに、自分で判断した市販の薬品を飲んで済ませていた時期もあったという。

 今の愛栖は、出会った頃に比べるとずいぶんと顔色がよくなったし、健康的な肉が少しついたようにも感じられる。少なくとも死線をくぐりそうな気迫はもう抜け落ちていた。

 この日の診療時は、僕は診察室まで付き添った。深夜なので看護士は帰宅していたし、少女と男性の医者のふたりきりになることは避けたほうが良かった。もちろんこの医師のことは信用しているが、愛栖の気持ちの問題だった。

 愛栖は服を肩から腰まで脱いで、白いベッドに横になった。ワンピースの下に着ていた白いブラウスの下に、愛栖はなにも身につけていなかった。彼女の特殊な病気によってホルモンのバランスが崩れた身体だ。哀れなほどに透けるような白い肌に、第二次性徴期以前の、まっ平らな胸があった。

 老医師の皴のきざまれた手で愛栖は触診を受けた。僕は目を逸らし、その様子を見ないように努めた。ひとつしかない狭い診療室には他に目にするものもなく、窓の外の暗闇をぼんやりと見た。

 愛栖が調子を悪くすることは三ヶ月に一回ほどのペースで起こった。そんな時、僕は仕事もせず眠りもせずに一晩中、愛栖が眠るベッドの側に付き添った。診療を終える頃には、愛栖はうとうとと眠り始めていた。小さな子供の愛栖、それでも僕の目には、中年である自分よりも年嵩にさえ見えた。

 二、三日は安静に、という老医師のいつもの言葉を聞いて安心し、僕は愛栖を負ぶって帰り道を歩いた。

 愛栖はとうぶんの間、死ぬことはなさそうだ。それは僕にとって嬉しいことでもあり、同時に面倒なことでもあった。もう僕は、大きな子供の愛栖が手に負えなくなっていたから。





「先生」

 愛栖はベッドに寝かされてから、しばらくして目を覚ました。

「寝ていなさい」

 僕は傍らから愛栖の肩をそっと撫でた。

「さっきの話、終わってないわ」

「また今度話そう」

 愛栖はわずかに首を横に振った。

「だめ。今話さないと、先生はすぐにでもあれを出版してしまうでしょ」

 実際そのつもりだった。愛栖に止められようとどうしようと、僕はあの本の出版を止めるつもりなど毛頭なかった。『アイス』の最終巻は、僕のこれまでの人生への断罪となっている。絵本の世界に執着してきた僕が、たどり着いた答えだ。

 夢の世界から脱却して、僕はどんな風当たりにあっても、嵐にあっても、雷にあっても、それでも、現実を見据えていくことに決めた。

 それは愛栖と出会ったからだ。

 彼女は夢の世界の住人ではない。誰よりも、すりきれるほどに痛い現実そのもの。

「ねえ、先生。わたしのこと、捨てていいのよ」

 僕は目を見開いて愛栖を見た。愛栖の目はなにも映してはいなかった。

「知ってるわ。先生が現実に向かえば向かうほど、わたしの存在が邪魔になるんでしょう。先生は明るい世界に行っていいわ、わたしなんか置いていっていいの。ずっとひとりだった、ひとりで死んでいくなんて構わない。これまで、一緒にいてくれただけで、いいの。でもその代わり、あの本だけは、やめて。あれは先生の自己満足なのよ。作品としては最低よ。子供たちの『夢』が幻だったと種明かしをして、現実を見ていきなさいっていう内容でしょう。種明かしは、してはいけない。絵本は偽りを偽りのままで閉じ込めることができるから、絵本なの。それがどんなに暗いことなのだとしても、その偽りによって、救われる人が大勢いるの。わたしもそのひとりだった。現実に気付くアイスちゃんなんて見たくない。先生がもう絵本を描かなくなっても、そんなことはどうでもいいわ。でも、ひとりで変わっていくなんて、ずるい。わたしを、『アイス』の世界から追い出さないで」

 愛栖は喋りながら、汗をかき、そのたびに僕は何度もぬれタオルで額を拭いた。

「もう、寝なさい。身体に障る」

 僕はその場にいることがいたたまれなくなって、愛栖の具合が悪いのに、部屋から出ることにした。後ろ髪を引かれるように椅子を立った。こんなことは初めてだった。

「先生」

 愛栖の声がする。

 僕は足を止める。頼むよ、愛栖。もう僕をそんなふうに呼ばないで。

 先生と呼ばれるたびに、サイン会に来ていた子供たちの笑顔が反射的に思い浮かぶ。あの子たちの夢を壊すのだとしても、僕はアイスを捨てなければならない。もう、夢物語の世界に、僕は住んでいないのだから。

 物語に嘘をついてはいけない。つきたくてついた嘘ではない、素直な思いをゆがめて描いた嘘を、作家は発表してはいけない。

「……なんだい」

 愛栖は消え入りそうな光を細くした瞳にたたえていた。

「先生、キスして」

 愛栖は囁いた。

 彼女はこれまで、幾度も僕の身体を求めた。だいたいは調子を崩してベッドに横たわっている時、付き添う僕に甘えるように求めてきた。でも僕は一度たりともその希望に応えたことがない。

 愛栖は大人だ、それは分かっている。

 でも、愛栖をこの腕に抱くということは、僕の世界を狭く小さな黒い球に閉じ込めることだった。

 僕はいつもなら笑い飛ばして去るところを、思わず引き返して、愛栖の側に行った。人形のように横たわる小さな身体、硬質の躰。偽りの永遠の少女。僕はもうそんなもの、求めてはいなかった。

 それでも僕は愛栖の黒髪を撫でて、腰をかがめて、愛栖の頬に唇を落とした。血の気のない冷たい感触に、僕の心がとたんに哀しくなった。

 愛栖は腕を伸ばして、僕の首筋のあたりを掴んで引き寄せ、唇を重ねてきた。ゆっくり時をときほぐすように、キスは何度も繰りかえされた。僕はおとなしくそれに応え、愛栖の自由にさせた。でも許したのはそれだけで、身体ごと愛栖のベッドに倒れこむことはしなかった。愛栖が愛撫に疲れた頃、力が緩まったのを見計らって、僕は身体を離した。そのまま部屋を後にした。

 冷たい感触と、哀しみの余韻が胸に残って、僕はいつまでも眠れなかった。






 僕は愛栖の希望を聞き入れず、『アイス』の最終巻を出版した。

 読者の反応は賛否両論で、見事に意見が分かれた。僕のように脱却できた人、愛栖のように裏切られたと思った人。そのどちらも間違いではない。

 毎日大量に送られてくる読者カードや手紙を読みながら、時には封入されているカミソリに、ほんとうにこういうのって送るんだ、とひとりで笑った。僕は雪どけを待つように、いつかこれを送った子がこの最終巻を受け入れてくれる日が来ればいいと、静かに願った。それが十年、二十年先であったとしても、必ず来ると信じた。

 それは愛栖のいうとおり、僕の自己満足であり、過去と離別できた数少ない人間の思い上がりなのかもしれなかった。それでも、僕はこれで、ようやく、『アイス』を消化することができた。

 まっさらな気分でいると、愛栖がマグカップをふたつもってソファにやってきた。湯気がたっているテディベアのペアマグカップの、青いほうを僕に手渡した。彼女は僕と少し離れた椅子に腰かけ、ピンクのマグカップに砂糖をたっぷりと入れた。

 愛栖はここ数日、僕と口を聞いていない。すっかりへそを曲げているのだ。

「ありがとう」

 お礼を言ってシナモンミルクティに口をつけても、愛栖はそっぽを向いたままだ。

「愛栖」

 僕は穏やかな気持ちで言った。

「きみの願いをきけなくて悪かったよ。けど、どんなことがあったとしても、僕はきみと一緒にいる。置いていったりなんかしないよ。だから、もうあんなこと言わないで」

「先生」

 愛栖の頭に巻きつけられた赤いリボンを僕は見ていた。髪に絡まってゆらゆらと落ちてゆく赤いリボン。

「先生、愛してるわ」

 さらりとそう言って、愛栖はミルクティを飲んだ。そのとたん、あつい、と顔をしかめた。

「愛栖、それは多分、錯覚だと思うよ」

 いつか耳にしたことのある醒めた言葉を、僕は口にした。

 やけに静かだと思ったら、窓の外には白い粉がぱらぱらと舞っていた。僕は人工のような雪を見てため息をついた。

「そんなの分かってる」

 愛栖もまた、雪を見ていた。それから僕の隣に座って、肩をもたれかけてきた。

「でも、愛してるの」

 そんなことを真摯に言われて、僕はまた哀しくなったけれど、態度に出さないように心がけて、僕の小さな可愛い女の子の肩を抱き寄せた。愛栖は子犬みたいに僕にしがみついてきた。

 僕は言葉ではなにも答えなかった。僕は正直に言って、もう以前のようには愛栖を想っていなかった。

 あのとき愛栖に諭されたように、本当に、あれは錯覚に過ぎなかったのだ。

 だからこう願う。

 愛栖の今のこの言葉も、想いも、きっとまた冷めて、錯覚だったと気付くときが来ますように。

 そうでなければ、例え錯覚だとしても、愛は残酷だ。

 愛栖は過去に棲み、僕は未来に棲んでいる。ともに過ごす時間は二本の線がクロスしたほんの一瞬に過ぎないだろう。

 僕たちはその日、いつまでも寄り添いながら積もりそうで積もらない雪の滴を眺めていた。








ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ