イロニーアイス 4
ここで暮らし始めてから何度目かの熱いお茶が入った湯飲みを受け取る。その時初めて三朗は、感謝の気持ちを込めてなにか言葉をかけようと思った。
「きみは強いね」
礼を言う代わりに、感嘆を込めて伝えた。三朗の正直な気持ちだ。
「話の前後が見えないわ。なんの話?」
曖栖は一昔前の主婦のように、テーブルに座る時もエプロンを取らない。うさぎの絵が模してある自分の湯飲みに顔を近づけ、猫舌らしく息を吹きかけている。
「ただそう思っただけだよ。きみは護られるだけの少女じゃないね。だから、なぜか心配にはならないんだ」
少女というのはとても儚く美しく、少女であるだけで単純な三朗はすぐに心を奪われてしまうのに、なぜか曖栖にだけは理性を失うことがない。改めて考えると不思議だ。
「わたしは強いのかな。そんなことない。あなたが弱すぎるだけだわ」
「そうかも知れないけどね」
時刻は既に丑三つ時だが、三朗に眠気は全く訪れなかった。この頃は昼夜逆転生活をしているせいで、すっかり夜型になってしまった。しかしそれでも、未だに曖栖の寝顔を見たことがない。三朗が眠る時には起きていて、目覚めた時にも起きている。警戒して、三朗に寝顔は見せないことにしているのかも知れない。
「眠くないの?」
「わたし? 全然」
お茶の表面に映った蛍光灯の明かりに視線を落としている曖栖が、さすがに眠そうに見えるのは、気のせいなのだろうか。
「一体きみって、いつ寝てるの?」
「だから、曖栖よ」
「さすがに恥ずかしくて、その名前では呼べないよ」
「だからこの名前にしたの」
切り返しが早い。三朗はくじけずに会話を続ける努力をした。何事も努力は必要だ。
「じゃあ本名はなんていうの?」
「そんなの知らない」
「なんだって? きみさえも、知らないとでも言うの?」
「詮索しないで欲しいわ。おじさんだって、本名を名乗ってないじゃない。お互い様でしょ」
「別に隠してるわけじゃない。ぼくの名前は……」
空気が白けていくのがわかった。曖栖は目線をさらに落とし、不機嫌を露にして三朗を制した。三朗はそのまま押し黙る。
この曖栖という可愛げのない女の子。この子が心から笑うことはない。でも、まだ子供だ。パトロンに養わせて生活を立てながらも本当は、普通の子供のように生きることを心のどこかで望んでいるはずだ。家族に愛でられ、同級生の友人と笑い合うような、平凡だが暖かい幸福。そう、かの子のように。
「――そうだ」
三朗はなにかに導かれるように、恍惚とした目で立ち上がった。曖栖がいつもより疲れた目で、ちらりと見てくる。
「ちょっと出てくる」
曖栖は軽く相槌を打つだけだった。
玄関の扉を引くと、針が突き刺すような痛みの寒風が素肌に吹いた。三朗は守られるサナギの囲いから、外の世界へと飛び出していった。
戻った時には、また夜になっていた。
夕餉の匂いが鼻をくすぐる帰り道を、三朗はぶらぶらと寄り道しながら歩いた。
少し前まで、その香りは遥か遠くにある蜃気楼のようなものだった。その憧憬は幼い頃に見ていた輝く世界にどこか似ている。手が届かないが、仕方のないことだ。ずっと諦めていた。
でも今、自分には家族がいる。
「ただいま」
鍵を下ろして玄関の扉を開けると、返事が返ってくる。
「おかえりなさい」
曖栖はベッドを背にしてカーペットに座り、本を広げていた。
それを見た三朗は、噴き出しそうになる口もとを覆っていた。曖栖はあずき色のジャージを全身に包んでいた。あまりの似合わなさに加え、曖栖が平然としているのがさらに笑いを誘う。
「なにかおかしい?」
「どうしたの? それ。そのジャージ」
「寒い時は、家の中でこれを着てるの。他に服もないし」
「そ、そうなんだ」
本当に彼女は、着るものにはこだわりがないらしい。
狭い室内にはカレーの芳香がわずかに漂っていて、バニラの香りはかき消されている。曖栖は本に栞を挟むと、立ち上がった。
「じゃあ、ご飯食べましょうか」
「あ、ちょっと待って。これを」
三朗は大きな紙袋を差し出した。
真っ赤なセーターとグレーのスカートに着替えた曖栖が、風呂場の脱衣所の扉を開けて姿を見せた。シンプルなデザインが、落ち着いている曖栖にはよく似合っていた。三朗は笑って手を叩く。
「よかった。サイズぴったりだね」
「これは……?」
「昔、かの子が着ていた服だよ。これでもほんの一部なんだ」
かの子の祖父――三朗の父親はかれこれ七年ほど前まで、かの子のためにたくさんの子供服を買い与えていた。かの子が成長し、着られなくなったそれらの服を、今でも彼は自分の手もとに大切に保管している。三朗でさえ呆れるほどの溺愛ぶりだった。
「おやじとは顔を合わせたくなかったから、わざわざ居ない時を見計らって、こっそり実家に行って取ってきたんだ。泥棒だね、ほとんど」
「……そう」
かの子の服を紙袋から取り出し、曖栖は一着一着を不思議そうに観察しながらクローゼットに収めていった。
「ありがとう、おじさん。ちょうど服がなかったの。助かるわ」
そう形式的に言う曖栖は嬉しそうではなかったが、三朗は満足していた。
前のパトロンのせいであのような服ばかり着ていた、着せ替え人形のようだった曖栖が、どこにでもいそうな少女になっていた。きっとかの子の服を着ることで、曖栖は、少女の心を取り戻していけるだろう。そんな風に思い、三朗は大きく頷いた。
こんなふうに過ぎた。なんてことはない、特筆すべきものがない平穏な日々は過ぎていった。
三朗はやっと面接に通った。パソコンの入力事務のアルバイトを手に入れ、毎日のように仕事に出た。バイトといえども久しぶりに社会というものに出て仕事をしていると、自然と働く意欲がわいてくる。同時に、本来の彼の職だったものへの想いも芽生えてきた。創作意欲が沸いて来たのだ。
夕食後、テレビもラジオもゲームもない居間で、三朗と曖栖はおのおのの時間を過ごした。音楽すら流さずに、時たま電車が通過する音だけをバックに響かせ、ただ流れる時間に対してひどく鈍感でいた。
曖栖は図書館で借りた本を読み、三朗は大学ノートに思い付いたことを片っぱしからメモしていった。それは大晦日だろうと変わらずに行われた。
年が明けるか明けないかの時刻、机に向かって一心にペンを動かす三朗に、曖栖が声をかけた。
「また、遺書でも書いてるの?」
三朗が顔を上げる。曖栖が読んでいる本を表紙の挿絵で判断すると、それはエーリヒ・ケストナーの原書だった。最初は冗談かと思ったのだが、曖栖は本当にドイツ語が読めるらしい。
「いや、物語のメモ書きだよ。今、アイデアを集めているところなんだ」
「絵本の?」
「ああ」
「……おじさんは、絵本作家は廃業したんじゃなかったの?」
それは皮肉でも嘲笑でもない、ただの静かな問いだった。
三朗は、うん、そのつもりだったんだけどね――と素直に答えていた。
「今は十二月だろ。それで、街の風景や冬服で歩く人たち、子供たちを見ていたら、クリスマスを題材にしたものを書きたいと思うようになったんだ。昔世話になっていた出版社の人たちとは、すっかり連絡を取ってないんだけど……ある程度イメージが固まったら、話を持ちかけてみようと思う。だめもとでもいいからさ、また、やりたいことをやってみたいんだ。やっぱり、子供のために絵本を書くことが、ぼくの少女への想いが生かされる唯一の仕事だと思うから」
「そうなの。それは良かったわ」
「きみのおかげだよ」
「なんですって?」
曖栖は驚いた様子なく、そう聞き返してきた。未だに柔らかさがない小さな同居人の心をどう開かせようか、三朗は思案している最中だった。
「ほら、ぼくはずっと悩んでいただろう、小さな女の子を殺してしまうんじゃないかって。だからかの子にも会いにいけなかったんだ。とても怖くて。会いたいとは思うんだけど、でも、成長しているあの子を見るのが恐ろしくてね。理性を保つ自信もなかったし……。だけど、なんだか今なら、幸せそうにしている、大人になっていくあの子を見守れる気がするんだ。なんでか、荒れていた心が最近は休まってきた。きみと暮らしていて、どんどん穏やかな気分になっていくのがわかったんだ。なんていうか、つまり、きみには……殺意を抱くことがない」
世にも稀な、へんてこな告白だ。でもこれは、三朗がどうしても伝えておきたいことだった。
「きみのような女の子もいるんだってことを、知った気がする。少女の首を絞める悪夢も見なくなった。どんどん、自分の中の憎しみが削がれていって……」
曖栖はなにも言わない。
三朗は言葉がまとまらないままで、ただ微笑んだ。まどろっこしい説明は省き、結論だけを口にする。
「この絵本が完成したら、かの子に会いに行くよ。いちばんに見せたい」
三朗は想いを馳せた。今頃かの子は、友達と連れ立って初詣に出掛けているかも知れない。たぶん、そういう子だから、出掛けているだろう。希望ある未来に向け、どんな願いをかけるのだろうか。彼女の人生を手に入れたいなんて、もう思わない。ただ幸せになってくれればそれでいい。大人になれば不幸になるなんて、決まったわけじゃない。
かの子だったら、世界一幸せな大人になれる。
夢を忘れない、子供心を忘れない素敵な大人に。
だって、ぼくが愛した子供だもの。
三朗は今日も、自分の心に住んでいるかわいいアイスを、野原で自由に遊ばせていた。さあ、今日はなにして遊ぶ? アイス。
「わたしも……」
曖栖がなにかつぶやくのを、三朗は夢心地の中で聞いていた。まぶたは重くなり、心地よい眠気が襲ってくる。
「わたしも、おじさんの絵本、読みたいわ。いい?」
「もちろんだよ」
三朗はまだ白いノートの上に顔を伏せた。
これからそこになにが書き込まれていくのか、期待に心を弾ませながら。
*
まだ寒い日が続くある日のことだ。
三朗はいつものようにバイトから帰り、家のインターホンを押した。しかし、人の気配がない。
曖栖は外出中かと思って鞄の中を探り、キーケースを取り出した。合鍵は持っていたものの、使うのは初めてだった。帰ってくるといつも夕食時で、曖栖は木綿豆腐を手のひらに乗せて切ったり、鍋の中のシチューをかき混ぜたりして、大きなリボンが付いた背中をこちらに向けていた。
「お嬢ちゃん、いないの?」
三朗はドアを開けて曖栖を呼ぶ。
ベッドサイドに並んだテディベアだけが三朗の帰りを出迎えた。主である曖栖がいないと、この部屋はただ現実から目を逸らしているだけの、根暗で悪趣味な部屋だった。三朗はそれを目の当りにし、ぼうぜんとした。
あまりに静かで心地よい場所だったので、疑問に思うことがなかった。
非現実的なかわいらしいこの部屋で……自分たちはふたりで、一体なにをしていたのだろう。
思えばとてもおかしな話だった。なんの縁があって、自分と曖栖が同居するのだ?
とりあえず三朗は、駅構内の洋菓子屋で買ってきたショートケーキの箱を保存しようと冷蔵庫を開けた。薄切り豚肉の残りが目に留まる。長年の独り暮らしの目が見抜いた。賞味期限が近い。早く火を通さなくては。
「今日は、ぼくがつくるか……」
三朗はコートを脱ぐことなくそのまま買い物に出た。ジャガイモと白滝を買ってきて、肉じゃがをつくった。味噌汁に味噌を溶かしながら、彼は苦笑していた。
「なんか、変な感じ」
ふたり分の料理をつくっていると、恋人でもできたような気分になった。相手があの子なのが役不足だけどさ、と三朗は冗談めかして独りごちる。
テーブルにふたり分の食事を並べてしばらく眺めていると、気が抜けたのか欠伸が何度も漏れてきた。腕時計をちらりと見る。部屋中を彩るベビーピンクの柔らかな色に包まれていると、どうも時間感覚が狂う。
「遅いなあ……」
結局三朗はひとりで食事をし、もう曖栖の分はラップをかけて冷蔵庫に入れた。
風呂を出たあと、ベッドに横たわる。三朗はなかなか寝付けずに、寝返りを何度も打った。曖栖の気配が傍にないというだけで、もう少しで妄想の雲に腕をつかまれるところだった。
次の日、手付かずのケーキが冷蔵庫にまだあったことを思い出したので、三朗は暇そうな人物を呼び出した。ルミ太は一時間足らずでやって来て、なんの疑問も持たずに、喜んで苺ショートケーキをぺろりと2ピース平らげてくれた。
三朗がここで曖栖と住むようになったのを知っているのは、後にも先にもルミ太だけだ。
永島瑠美絵の一件以来、ルミ太は以前より頻繁に外に出るようになったらしい。心境の変化があったのかも知れない。
彼はあのとき、自分のハンドルネームを変えると決めた。
「ルミ太。お前、新しい名前は決まった?」
〈まだ考え中。だから『ルミ太』って呼ぶなバカ。〉
彼はテーブルの下で、向かいにいる三朗の足の脛を蹴った。
〈なにかを模した名前はもう嫌だから、そう簡単には決まらないんだよ。〉
少しずつでも、彼なりに自立しようとしていることがわかる。喜ばしいことなのに、三朗は取り残されたような気分だった。
食後の紅茶の二杯目をカップに注いだあと、ルミ太は特に興味もなさそうに愛機に会話文を打ち込んだ。
〈そういえば三朗さん、あの女の子は?〉
「……ちょっとな」
言葉を濁す三朗を、行儀悪くスプーンを口にくわえながらルミ太は不思議そうに見ていた。彼はわざと人差し指だけを使い、いちいち改行を加えながら、のんびりと文字を打った。
〈ねえ〉
〈三朗さんは、〉
〈なんでずっと家に帰ってないの?〉
〈あの子だれ?〉
〈三朗さんの好みの女の子には、思えないよ。〉
――あの子だれ?
その何気ない活字が三朗の目に留まり、頭に貼り付いた。
〈三朗さんは、〉
〈自分のキャラの、アイスが〉
〈理想の女の子なんだよね?〉
〈あの子、〉
〈アイスとは、ほど遠いと思うけど。〉
三日目。
三朗は律儀に曖栖の家へと帰宅した。正確に言うと、曖栖のもとの飼い主である、見知らぬ男の家だ。
この薄桃色で統一してある家具も、壁に貼られたアップルパイを切り分けた写真のポストカードも、すべてひとりの女の子のために用意されたに違いない。そこまで思い入れていたのに、なぜ彼は曖栖を捨てたのか。
いや、逆なのではないか?
曖栖が捨てたのだとしたら。
盲目的な愛でお金を曖栖につぎ込みすぎたご主人様は、生活費もままならないほどになってしまった。そうしたら曖栖は男を見限り、部屋を追いやった。
夜にひとり、大学ノートの白いページを見つめていても、躍り出す心はない。なんのアイデアも浮かんでこない。夢遊病に似た色とりどりの世界を、三朗は想像できなくなっていた。あるのはただ、目の前に拡散している、ほの暗いばかりの現実だけだ。アイスは主人に共感でもしているのか、すっかり顔色を悪くして沈んでいた。
曖栖の帰らない家に、三朗は毎日帰った。少し遠出をしているだけだろうと希望を込めて扉を開いても、中には誰もいない。
「なにやってんだ」
三朗はドアを開け放したまま、風通しのいい部屋の中に佇み、自問した。
――ぼくは一体なにをしている。
なににすがろうとしているのか、自分でもよくわからなかった。
曖栖は新しいパトロンを見つけるまでに、三ヶ月もかからなかったということだ。さすがだ寄生少女、きみの狡猾さに拍手を送る。別れの挨拶もなにもかも、彼女にとっては意味を持たないことだ。そして三朗はケーキの銀紙だ。使い捨てのアルミ箔はこうして無慈悲に棄てられた。
間もなく、業者の手によって部屋からは荷物はすべて運び出された。曖栖と以前ここに住んでいたという男が、やっと部屋を引き払おうと腰を上げたらしい。その一室は、すぐに空き室となって売り出されることになった。
もう一度ここを借りたとしても、決して元には戻らない。同じように部屋を飾り立て、少女趣味で埋め尽くしてみたとしても無理だ。きっとそこには現実がある。
三朗は暖かい絵本の中から現実に放り出された。
誰も護ってくれないこの世界では、自分の身体に膜を張るしかない。ずっとそうやって彼は生きてきた。だけど、どうやって自分が傷つかないように護ればいいのだか、すっかり記憶が抜け落ちてしまった。
あの部屋は彼の巣だった。
誰も入り込めない。彼の弱さがそっと包まれる、外界から隔離された巣箱。その巣箱から、寝床の藁や、食料として貯めていた木の実が消えうせた。取り残された雛は三朗だ。ぼくは、どこへいけばいい?
――なにを、寝ぼけたことを。ただ帰ればいいだけだ。ずっとそうしてきたように。もとのアパートへ。ひとりで暮らしていたあの灰色の部屋へと。
三朗は熱中症のように朦朧とした頭で、アパートに背を向ける。自宅へ帰るために最寄り駅へと向かった。
ただ息を吹きかけて蝋燭の灯りを消すように単純なことだ、曖栖は三朗の前から消えた。