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DOOR  作者: 一真 シン
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第一章 「漆黒の森」

「……困ったな」

 枯れ葉のジュータンを踏みしめる音。頭上から聞こえてくる、不気味なカラスの声。どこからか聞こえてくる獣の遠吠え――。

 “漆黒しっこくの森”に迷い込んでしまったジークハイドは、ボリボリ……と、まずい表情で後頭部を掻いて辺りを見回した。

 十六歳の彼は、この一帯の土地を管理しているシュレル・キングダムの王子だ。外見は気品溢れる少年だが、一度ひとたび“監視の目”がなくなればやんちゃ坊主その者。そんな彼は、城内でも人気者だ。

 ……そりゃ、漆黒の森には近付いちゃいけないってことは聞いていたさ。一度足を踏み入れると、なかなか抜け出すことができない樹海になっているって。聞いてはいたけれど、まさかこんなことになるなんて。

 こりゃ……

「ホントにヤバイな……」

 どこを見ても、木、木、木。漆黒の森と言われるだけあって、高々と生え渡る木々によって太陽の光は遮断され、薄暗く、なんとも言えず寂しい場所だ。大声で助けを求めたところで誰にも聞こえはしないだろう。

 ジークハイドは、すでに歩き疲れた足にムチ打って、ため息を吐き再び前へと進み出した。

 ――愛馬に乗っていたのだ。真っ白で艶のある愛馬・オーリンに。ただ普段と違ったのは、その時、ちょっと遠出をしたくなり……。

 軽い気持ちだった。興味半分で噂の漆黒の森に近寄ってみただけだった。入ろうとは思わなかった。……そう。あの“黒猫”に会うまでは。

 オーリンに股がったまま、彼は漆黒の森の手前で中を窺っていた。「なんだ、ただの森じゃないか」、そんなことを思いながら。興味があった場所だけに残念な気持ちでいると、森の中、低木の下から黒猫が現れたのだ。

 森から完全に出てこようとはせず、彼をじっと見上げ、そして、その黒猫がとった行動は、

「ニャオー……ン」

 誘うような、少し低い声。

 黒猫は一声鳴くと、森の方へ体を曲げ、お尻を向けて戻って行った。

 獣たちが巣くうこの漆黒の森に、小さな黒猫が生きているなんて。

 不思議に感じたジークハイドは、「……ちょっとだけ」とオーリンを降りて、この森の中に足を踏み入れた。もちろん、黒猫を追いかけていたつもりだった。だが、お世辞にも視界良好とは言えない。木々の影に黒猫は溶け込んでしまった。追いかけることを諦めた彼はすぐ来た道を逆戻りしたのだが、その時はすでに迷子だったのだ。

「はぁ……。帰ったらまたこっぴどく怒られるな……」

 白髪の父親の顔を思い出して、肩の力を抜く。――けど、その前にここから出られるのか?

「……」

 ここから抜け出すことができなかったら、どうしようか。

「……」

 明日になったら捜索隊が探しに来てくれるだろうか……。

「……」

 【大国、シュレル・キングダムの王子。愛馬と共に行方不明】なんて号外が各国に撒かれるのかな……。

「ギャアギャア!」

 ドキッ、と肩をビクつかせて、ジークハイドは顔を上げた。バサバサッ……と、頭上を数羽のカラスが飛んでいく。これが白い鳩なら気持ちもホッとするのだが。

 一瞬、頭の中で「獣の餌になってしまうのか?」と考えてしまった。迷子の状況で一番考えてはいけないことを考えてしまい、サッと顔色を変え、焦った。

 ジ、ジョーダンじゃないぞ!!

 どちらに進むか、なんてことを探る余裕もなく、ただ、進めそうな地面を選んで、懸命になって森の出口を探した。

 このまま死ぬなんてイヤだ! 今までした悪いことは謝るから誰か助けて!!

 長く成長した雑草を蹴り、湿った木の表面に手を付き、何か求めるように足早に歩きながら、過去、自分がしてきた悪行の反省会を頭の中で開催しだす。

 全部オレが悪かったよ! カーチス先生のイスに果実を置いてスカートを汚させたのも、ベンの料理に香辛料を大量に流し込んで夜会をブチ壊したのも、トラの剥製で馬達を脅かして暴れさせたのも、父さんの王冠に接着剤を付けて頭と一体化させてしまったことも、下町のみんなと朝まで呑み明かして支払いを城に持っていったのも、……ああ! たくさんありすぎて全部吐き出せないけど、でもオレが悪かった! 謝るよ! もう悪さはしない! だから神様、オレを助けてくれ!!

 心の中で半べそを掻いた。いや、なんなら、もうこの場で座り込んで大泣きしても構わない状態だった。不安と恐怖が足の爪先から頭の天辺までを支配していた。

 ここで助けてくれたら、オレ、絶対償うよ! なんでもする! なんでも……――

「……」

 ジークハイドは息を切らしながら足を止め、ゆっくりと顔を上げた。焦りで縛られていた心が、一瞬にして真っ白になった。

 低木を掻き分け、無我夢中で歩いていた彼の目前に大きな城が現れた。周りを森で囲まれ、広く空いたその場所。その中央に、太陽のスポットライトを浴びて鎮座している。

 立派なものではない。外壁は蔓草に絡まれ、小動物達の姿があちらこちらで見られる。廃墟だろう。――にしても、漆黒の森の中に城があったなんて。

 ジークハイドは恐る恐る、城へと近寄った。

 城の周りは湖になっていて、一本の石橋が架けられている。橋のほとんどが蔓草に支配され、湖には水草が浮き、水花が至るところでつぼみを広げている。城の周囲に木々がないためか、この場所だけが明るく、湖の水もキラキラと輝いている。――なんとも不思議な場所だ。

 ジークハイドは、夢見心地な気分に包まれながらも注意を怠らず、辺りを窺いながら城門まで足を進めた。

 戦いが行われたような跡はない。きっと、城主が捨ててしまったのだろう。

 ひっそりと佇む城を見上げ、彼は大きな木の城門を開けようと手を当てた。心臓をギュッと締め付けるほどの冷たさに肩を震わせたが、大きく息を吸って「よいっ……しょ」と、力一杯押し開いた。長い間、人の出入りがなかったのだろう、扉はギギギ……と耳障りな音を鳴らしながら、彼へ城内をさらけ出した。

 ――敷き詰められた真っ赤な絨毯の上に割れたガラス窓の欠片。動物の死骸。草が生え、木々の枝が窓から入り込み……。

 ジークハイドは荒れ果てた城内を見回し、深く息を吐いた。

「こりゃあヒドいなぁ……」

 入ろうかどうしようかと悩んだが、しかし、そろそろ日も暮れる。このまま森を出られなかったときのことを考えると、獣たちが行動する夜、森の中を歩くのは非常に危険だ。せめて夜間だけでも安心して眠れる場所があれば……。そんなことを考えながら、ためらいつつも足を城の中へと踏み入れた。それでも、突然何が飛び出してくるかはわからないので、愛刀を抜き、構えながら進む。

 安全な寝床を見つけることができたら、あとは木の実でも集めてそれで飢えを凌ごう……。

 手近な部屋をひとつひとつ覗き、目で物色しながら城内を彷徨った。

 それにしても、いったい誰が住んでいたのか。漆黒の森にこんな城があるなんて、今まで一度も聞いたことがなかった。所々施されている宝飾や模様を見る限り、古い時代に建築されたのだろうということはわかった。これだけの城だ。裕福な生活も営んでいただろう。

 辺りを注意深く見回していたジークハイドの目が、ふと、留まった。

 窓から差し込んでくる微かな太陽の光の中、廊下の壁に飾られた大きな絵画に少女の笑顔が――。

 ジークハイドは引き寄せられるように近寄ると、その絵をじっと見つめた。

 城主の娘か? それとも后か? どちらにしても、かわいらしい少女だ。

 屈託のないあどけない笑顔。色褪せてはいるが、彼女の表情は素朴で、穏やかで。今にも笑い声が聞こえてきそうだ。

「……オレの周りにはいないタイプの子だな」

 そう呟いた脳裏で、会食で同席する姫君達のことを思い出していた。

 ジークハイドも、あと二、三年すれば結婚適齢期だ。そのことを知ってる各国は、「是非我が姫君を」と躍起になっている。大国、シュレル・キングダムに嫁いで国交が盛んになれば将来安泰だ。ジークハイドもそのことは理解している。政略、国益、様々な要因が絡み合うだろうということも。

 紹介された姫君達に落ち度はない。皆、見た目も美しく、教養もあり、自分にはもったいないくらいだと感じる。しかし、ふとした瞬間に思うのだ。「獣のような目をしている」と――。

「……キミも同じ、か?」

 問いかけても、もちろん返事はない。ただ、彼女は笑っている。

 ジークハイドは間を置いて苦笑した。……こんな子と出会いたいな。そう思うが、現実と理想はかけ離れている。望みはそう簡単に叶えられるものじゃない。願望はほどほどにしておこう、と、ため息混じりに再び足を進めた。

 時折、小動物達が足下を通り過ぎ、いきなり現れた“客人”を物陰から窺う。ジークハイドは、「邪魔してごめんよ」と声をかけながら、二階へと続く螺旋階段の下で立ち止まった。

「二階か……」

 まだまだ一階の全てを見回っていないが、行き当たった“ついで”だ。階段が崩れないか、足下に注意しながらゆっくりと登った。

 登り切って見渡すと二階も部屋が連なっていて、左右どちらに行こうか、と一瞬迷ったが、綺麗に装飾された部屋のドアが目に留まり、その時点で心が決まった。

 ……城主の部屋、か――。

 そんなところだろう。城主というのは、そういう輩が多い。

 自分の部屋は豪勢に見せたがるんだ。盗賊に「ココが私の部屋なんです」って教えてるようなモンだよ。呆れるようにそんなことを思いながら、迷いなく足を向けた。

 ひょっとしたら、あの部屋だったらまだ眠れるかも知れない。家具も良い品を集めていただろうから、きっと、ベッドもまだ使えるだろう。二階だから窓の外から獣が入り込んでくることはないし。なんたって、ここは湖に囲まれてるからな。なかなか守備固めな城だ。

 ジークハイドは他には見向きもせず、その部屋へと向かい、そしてドアノブを掴むとためらいもなく一気に開けた。ヒンヤリとした冷たい空気が顔を撫で、ブルッ……と身震いをし、室内を見回した。窓のカーテンが全て閉められているためか、二階なのに部屋の中は薄暗く、辛うじて窺える。

 やはり、今まで見た部屋の中で一番綺麗だ。荒れた様子もない。まるで、誰かが住んでいて毎日掃除でもしているかのよう。

「……?」

 ジークハイドは訝しげに目を細めた。薄暗くてよくわからないが、部屋の片隅にあるベッドが人の形に盛り上がって見え、油断することなく剣を構え直し、足音を忍ばせて静かに近寄った。その間に、「ひょっとしたら……」という言葉がふと、頭の中に浮かび上がっていた。

 城主の遺体……じゃ、ないよなぁ?

 見るのをやめようかと戸惑ったが、それにしては異臭もないし、そしてこの部屋があまりにも綺麗すぎる。

 息を潜め、ベッドの側に寄ると、ソロ……と枕元を覗き込んだ。

 暗さに慣れてきた目が捕らえたのは……

 ――あの子!?

 廊下で見た、絵画の少女が眠っている。ジークハイドは、「えぇっ?」と驚きを露わにウロたえた。

 ど、どういうことだっ? なんで……この子が!?

 ベッドの中、柔らかそうな白い布団に包まれて横たわる彼女を、足下の方から頭上まで目で辿った。

 ここはどう見ても廃墟だ! 誰もいないし……。なのに、どうしてこの子は……。

 焦るように考えていたが、ハッと息を止めた。

 ……死んで……るのか……?

 薄暗くて顔色まではわからない。ゆっくりと、触れないように枕元に近寄り、彼女の鼻へと手を近付けた。……手に感じる。暖かい息。

 ――生きてる。

 ジークハイドは唖然とした。

 漆黒の森の中、そびえ立つ廃墟の中に女の子。しかも……

「……」

 ……やっぱりかわいい。

 絵画で見た顔と同じ。眠っていても、その顔から見て取ることのできる、あどけなさと穏やかさ。

 ジークハイドは音を立てないように剣を鞘に仕舞って、彼女の寝顔が見える枕元へと腰を下ろし、じっ……と見つめた。

「……名前は? どうしてここに? いつ目覚める? ……待っててもいいかな?」

 小さく問いかけながら、聞いたことのあるおとぎ話をふと思い出した。

 ――永遠の眠りに就いてしまったお姫様。彼女の目を覚ますには、彼女を愛する王子様の……。

 い、いやぁ、初対面でいきなりそれはちょっと……。

 一人、照れ笑いを浮かべる。端から見たら怪しい妄想に耽っている少年その者。だが、生憎ここには我が身のみ。

 照れつつも、再度彼女の寝顔を覗き込んだ。

 ……おとぎ話、通りなんだろうか? 漆黒の森って、眠りの森、か?

 いろいろと疑問が浮かぶ中、「……待てよ!」と、目を見開いた。

 この子だったら、この森から出られる道を知っているかも知れない! ここの住人なんだ! 当たり前だよな!

 ジークハイドは決心した。よし! この子を起こそう!! ――だが、いざとなるとどう起こしたらいいものか。

 とりあえず、声を掛けてみることにした。

「も……もしもし?」

 ――反応はない。

 声が小さかったかな? そう思って、できるだけ耳元に顔を近付けてみた。

「あ、あの……、起きて、くれるかな?」

 普段の声を出してみたが、やはり反応がない。「……ぐっすり寝てるんだなあ」と、なかなか目覚めない彼女に顔をしかめ、一旦腰を伸ばして、肩に手を置いた。

「あの……ごめん」

 ユサユサと体を揺すってみた。……起きない。

「……あの」

 揺さぶりを少し強くしてみたが、それでも彼女の目は開かない。

「あの、すみません。起きてください」

 ちょっと意地になって、少し大きめの声と同時に体を揺するが、それでも彼女はウンともスンとも言わない。目を開ける気配すらない。

 ジークハイドは怪訝そうに手を引っ込めた。

 どれだけ眠りが深いんだ? 眠りキノコでも食べたのか? そう思いながらじっと彼女を見つめた、その目が動かない――。

 ……眠りの森の伝説……か。

 ジークハイドは意を決し、彼女へと体を向け、両手をそれぞれ彼女の頭を挟むように枕元へと付けた。目の前には穏やかな寝顔……。高鳴る胸を押さえながら、息を止め、ゆっくりと顔を近付けた。

「……グルルルル……」

 ジークハイドはピタッと動きを止めた。

 腹の音か? 低い呻り声のような。そう、まるで獣の……。頭の中でそう言葉が過ぎった途端、ゾッと悪寒が走った。

 ……け……もの……?

「グルルルル……」

 確認したくなかった。できることなら無視したかった。けれど、背後に何かの気配がするのは確かだ。緊張で喉が渇き、「……ゴクン」と唾を飲むと、その低く唸る物へと視線を、そしてそれに合わせて顔を向けた。

 今まで気が付かなかっただけなのか、それとも知らない間に入ってきたのか。部屋の隅、影になっている暗い部分から、二つ、何かが光っているのが見えた。硬直して目が離せないでいると、それは唸りながら、ゆっくりと姿を現した。

 ――黒ヒョウだ。

 ジークハイドは息を止めた。黒ヒョウが金色の目を光らせ、シッポを大きく左右に振りながら彼を見ている。

 見開いた目を動かせず、額からは冷や汗が流れた。頭の中で「逃げなくちゃ!」と、もう一人の自分が叫ぶが、ここで背中を向けてはいけないような気がした。恐怖に打ちのめされながらも、なんとか手を動かしたとき、少女のぬくもりに少し触れ、眉を動かした。

 ……待てよ。この黒ヒョウ、ひょっとしてこの子を狙ってるんじゃ。

 一人逃げることは可能だろう。しかし、そうなったらこの子は――。

 心の中で「……クソ!」と吐き捨てた。

 漆黒の森の中、助かるかも知れないって時に……!

 ジークハイドは身を翻らせると、素早く剣を抜き、少女が眠るベッドの前に立ちふさがって黒ヒョウに向かって構えた。

「こいつっ……! 晩飯にしてやるぞ!!」

「グルルルル……」

 黒ヒョウは眉間にしわを寄せ口を開けると鋭い牙を抜き出しにした。「晩飯になるのはどっちだ?」と、露骨な敵意に、ジークハイドは一瞬恐怖を感じたが、しかし、ここでそう簡単にエサになるわけにもいかない。

 剣を構える手に力を入れ、ジリジリと間合いを計る。だが、黒ヒョウは身動きせず、ただ彼の動きを見つめているだけだ。馬鹿にされているような、見下されているような状況に、「くそっ、こいつっ。もう斬ってやろうか!」と、そう思った次の瞬間、黒ヒョウが足を踏み出した。低く唸り、にらみ付けながらものんびりとした足取りで近寄ってくる。驚いたジークハイドは、咄嗟に、脅そうとして剣を振り上げて見せた。だが、黒ヒョウはそんな彼の行動にビクともしない。逆に剥き出しにしていた牙を引っ込め、そして……

「!」

 突然ジャンプした。その大きな体からは想像も付かないくらい軽々と。

 一瞬怯んだジークハイドは、「しまった!」と、愕然とした表情で振り返った。

 黒ヒョウがジャンプして向かった先には彼女が……!!

 「殺してやる!!」と、剣を振り上げ、刺し殺そうとしたジークハイドは慌ててその行動を自制した。黒ヒョウが、ストン、と彼女の体を避けるようにベッドの上に降り立ち、静かにその傍、足下に寝そべったのだ。その姿は、まるで“飼い猫”がご主人様に添い寝するよう――。

 ジークハイドは剣を構えたままでキョトンとし、瞬きを数回した。何が起こっているのか、理解不能なまま、身動きできずに見つめていると、黒ヒョウはジークハイドに興味はないのか、無視するようにゆっくりと目を閉じてしまった。

 ……その後、沈黙が数十秒続いた。

 考えがまとまらないまま、ジークハイドはソロ……と足を動かした。すると、黒ヒョウが微かに目を開けて小さく唸った。威嚇しているようだ。だが、その様子でやっと悟った。

 ジークハイドは「……あ」と、何かに気付いて声を漏らし、言葉を詰まらせた。

「お、お前、ひょっとして、この子が飼っている……ペット、なのか?」

 どう見ても彼女を護っているとしか思えない。番犬ならぬ“番黒ヒョウ”といったところか。

 黒ヒョウは、不思議な顔をしているジークハイドを見て、再び目を閉じた。

 食い殺される心配はなさそうだ、と感じたジークハイドは、ホッとしつつ剣を下ろしたが、「……ん?」と、訝しげに眉を寄せた。

 ――待てよ。こいつ、ひょっとして……オレから彼女を護ってるのか?

「ご、誤解だぞそれはっ。その子に悪さしようってワケじゃなくってっ……早く目を覚まして欲しかったんだよっ、ホントっ、ただそれだけっ」

 黒ヒョウ相手にブンブンと首を振って、慌てて弁解し出す。

「オレ、迷ったんだ。この森の中で。黒猫の後を付いてきたんだけど……。帰りたくても帰り道がわからない。ン、その子なら知ってると思ったんだ。……目、覚まさないかな?」

 端から見れば「何、動物相手に話をしているんだ?」と怪訝に思うだろう。しかし、生憎ここには“他の人”なんていない。話し相手がいない空間では、例え相手が動物だろうが絵画だろうが石ころだろうが、心の拠り所になるのだ。混乱している時は、余計にそう。

 情けない口調で身振り素振り、困っていることを表現すると、黒ヒョウはまた目を開けた。表情はわからないが、上目で見つめられる目が面倒臭そうな光を帯びている。それでも、ちゃんと向き合うため、ジークハイドは剣を鞘の中に直して顔を上げた。

「オレの名前はジークハイド。シュレル王国に住んでいる。キミ達は……ここで何をしているんだ?」

 問いかけたって答えが返ってくるわけはない。何しろ相手は動物だ。人間と会話ができる訳はないのだから。

 静まりかえった部屋の中、ジークハイドはため息を吐いてガックリと肩を落とした。

「……どうしたらいいのかな……オレは……」

 すっかり弱気になったのか、項垂れて黙りこくってしまったジークハイドを見ていた黒ヒョウは、しばらくしてモゾ……と足を伸ばし、ゆっくりと体を起こした。「やれやれ……」と呆れて重い腰を上げている、そんな雰囲気だ。そして、毛繕いをすることも欠伸をすることもなく眠る少女を踏まないようにベッドの上で立ち上がると、トンっ、と、軽くジャンプして床に降り立った。

 長くて大きなシッポをグリンと振りながら真横に立つ獣の気配に、ジークハイドは心臓を高鳴らせて硬直した。

 ……今更、喰おうなんて……ことは、ない、……よな?

 黒ヒョウは、顔から血の気をなくすジークハイドを窺うことなく、クワッと口を開けた。

 ……く、喰うのかっ!?

 口の中の鋭い牙と糸を引く唾を直視してしまったジークハイドは、愕然と息を止め、逃げることもできずにギュッ! と目を閉じた。

 ここまで来たら、もう覚悟を決めるしかない――!

 グイッ。

「……」

 ――腕を引っ張られている。

 そっと目を開けて確認すると、黒ヒョウが彼の袖を噛み、グイグイと引っ張っているところ。

「……え?」

 予想もしていなかった状況に戸惑うと、黒ヒョウは更に力強く引っ張り、有無を言わさず歩き出した。躓くように足を踏み出したジークハイドは、「えっ? ち、ちょっと……!」と困惑しながらも黒ヒョウに合わせて引っ張られる腕を伸ばし、腰を曲げて歩くが、ベッドに眠っている少女が気になって気になって仕方がない。

 チラチラと振り返っては、引っ張られるまま足を絡ませ歩いていたが、ドアが迫ると焦りの色を浮かべ、空いている手をブンブンッと上下に振って黒ヒョウの後頭部に風を送った。さすがに頭を叩いて訴えることはできない。

「ま、待てよ! ……あの子は? あの子はどうなるんだっ?」

 黒ヒョウは何も答えない。ただ、ジークハイドを引っ張り歩くだけ。

「ど、どこに行くんだよ! あの子を放って置いていいのか!?」

 少し強めに問うが、「グルルルル……」と黒ヒョウが唸りだしたので、それ以上何かを言うのをやめた。気が変わってこのままガブリとやられたら元も子もない。

 心にわだかまりを残したまま、文句一つも言えずに黒ヒョウに連れられ、結局、城を出ていく。石橋を渡り、森の手前で足を止めた黒ヒョウに倣い自分も足を止めると、彼女が眠っているだろう二階を恋しげに見上げた。

 ……あの子はどうなってしまうんだろう……――

 何をやっても目を覚まさなかった。彼女の身が心配だ。もしかしたら、何か酷い病気にかかっているのかもしれない。

 そんな心配を余所に、黒ヒョウがパッと彼の服を放し、その感触でジークハイドは「……?」と見下ろした。

 黒ヒョウは首を傾げたジークハイドを見上げて、「……グルルルル」と、牙を剥き出しに眉間にしわを寄せた。――間違いなく威嚇の構えだ。その瞬間、ジークハイドは困惑げに首を振り、後退りを始めた。

「ち、ちょっと待てよ……。な、なんだよ……、お、お前、凶暴な奴じゃなかっただろ……、うそだろ……」

「グルルルル……」

 黒ヒョウの爪先から鋭い爪が見え、それが地面に食い込んでいる。

 ジークハイドの顔からサッと血の気が引き、呼吸も段々と荒くなっていく。この時点では、戸惑いよりも恐怖が勝っていた。

 ま、まさか……彼女の部屋を汚したくなかったから、オレを外に出した、とか?

「グルルルルッ……」

 ジークハイドは唾を飲み、敵意を剥き出しにジリジリと近寄ってくる黒ヒョウから少しでも離れようと後退していたが、突然、腰を低くして襲いかかろうと足を踏ん張る黒ヒョウの変貌に驚き、慌てて森の中へと走って逃げた。

 くそ!! なんでこうなってしまうんだ!!

 木々の間を抜け、懸命に走った。背後から、黒ヒョウの身軽な足音と、呻り声が追ってくる――。

 食い殺されるなんてごめんだ!! 絶対嫌だーっ!!

 ジークハイドは全速力で走り続けた。

 こんなトコで死んだら……あの子にもう会えないじゃないか!!

 なんとも低レベルだが、今はそれしか思いつかなかった。

 あの子と会えなくなる……。せっかく会えたのに……――。

「お前は味方じゃないのかよ!!」

 怒鳴るように言い放つと、歯を食いしばり、ひたすら逃げ走った。

 ――ただでさえ歩き疲れていた足。懸命に走っていても、段々とそのスピードも衰えていく。

 ……このまま、あいつに食われてしまうのか……?

 息を切らし、諦めかけていたその時、ジークハイドは顔を上げた。

 ――明かりが見える。……森の出口だ!!

 どこをどう走ったのか全然覚えていないが、木々の影が無くなっていく。頭上からの日差しで段々と目の前が明るくなり、そして……

「やったぞーっ!!」

 太陽の下、ジークハイドは力一杯ジャンプした。そして、思い出したように「うぁっ!!」と、愕然とした表情で背後を振り返った。

 嬉しさのあまりに油断した!! “番黒ヒョウ”に食われる!!

 ――だが、振り返ったそこには追ってきていたはずの黒ヒョウはいなかった。「隠れているのか!?」と、茂みから離れて窺ったが、やはり、どこにもいない。気配もなければ、唸り声も聞こえない。

 ジークハイドは唖然と立ち尽くした。いくら森の中が暗くて、黒い体が溶け込み易いと言っても、これじゃカメレオンだ。……確かに追いかけてきてたはずなのに。

「王子ーっ!!」

「いたぞーっ!! こっちだーっ!!」

 遠くから複数の大声が聞こえて振り返ると、数名の騎馬隊員が馬を走らせてやってくるところだった。その姿に、ジークハイドは嬉しそうに笑みをこぼし、駆け寄った。

「王子! ご無事でしたか!!」

 息を切らせて取り囲む彼らに、ジークハイドは、「……へ?」と首を傾げた。

「城にオーリンだけが戻ってきたんですよ! 落ち着きなく暴れるので、王子の身にもしものことがあったのではと皆で捜索していたんです!!」

「……え? ……ってことは、ひょっとして父さんの耳にも……?」

「ご立腹ですよ!!」

 ジークハイドは、ガクっ……と頭を落とした。

 せっかく漆黒の森を出ることができたのに。番黒ヒョウにも食べられずに済んだのに。最後にまだ“強敵”が潜んでいた……。

 逃げたくても、これだけは逃げられない。

 ガックリと頭を落としてため息を吐き、諦めるように首を横に振った。

「……仕方ない。……大人しくやされるか……」






「この……バっ……カモンがぁ!!」

「あなた、血圧が上がりますわ」

 謁見の間に広がる怒声にジークハイドは身を縮ませ、ソロ……と上目遣いで見上げた。その視線の先では、顔を真っ赤にした国王が拳を握りしめ、にらみ付けている。

「漆黒の森には近付くなと、あれほど言っていたのに……!」

「……はい」

「お前はどうして、そう悪さばかりを積み重ねるんだ!」

「……はい」

「皆がどれだけ心配したか、わかっておるのか!?」

「……はい」

「お前はしばらくの間、外遊禁止だ!」

「……はい。……えっ?」

 素直に返事をしたものの、すぐに焦って顔を上げたが、今ここで反抗したら“しばらくの間”が“一生”に変わってしまう。言葉を飲み込んでグッと身を縮めると、国王は「フンッ!」と鼻から息を吐いた。

「自分の犯したことを反省するがいい! まったく……このバカ息子が!」

 ジークハイドはシュン……とうつむいた。

 国王は鼻息を荒く、怒りを押さえきれないままイスを立ってその場を後にした。老兵たちを連れて謁見の間を出て行くその背中を見送った后は、いつまでもうつむいている息子に目を戻し、苦笑した。

「とても心配されていたのよ」

「……わかってるよ」

 ジークハイドは国王の姿が消えるなり、疲れたようにその場に座り込んだ。いつもの光景に、周りの兵隊達が顔を背けて笑いを押し殺す。

「けど、本当に無事に帰ってきて良かったわ」

 優しい笑顔を見せる后に、ジークハイドは「うっ……」と、少し身動いだ。――グサッと、何かが胸に刺さった。

「……心配かけて、ごめん……」

 改めて申し訳なく謝ると、后は「いいのよ」と微笑みを絶やさぬまま首を横に振った。

「あの漆黒の森から帰って来られたんですもの……。きっと光の神のご加護ですよ。あなたはいつも真面目にご祈祷しているから、光の神はあなたを見捨てなかったのね」

「いや……まあ……はぁ……」

 祈祷している間のほとんどは「早く終わらないかな」って思ってたりするんだけどな。――そんなことは口が裂けても絶対に言えない。

 ジークハイドは何も言えずにポリポリ……と後頭部を掻く。その姿を見て、后は小さく笑った。

「けれど、父様のおっしゃることは守らなくてはいけませんね」

「……はい……」

「早く外遊ができるよう、私からも頼んであげるから、しばらくの間は大人しくしていなさい」

「はい……」

 元気をなくしたジークハイドの小さい返事に、后は苦笑した。

「いたずらは、ほどほどにね」






 小さなロウソクの炎が連なり、ボンヤリと辺りを浮かび上がらせていた。時間はもう夜。ステンドグラスの窓ガラスからは、真昼のようにキラキラといろんな色を差し込んでくれる要素はない。薄暗い大聖堂に並ぶ古びた長椅子の最前列に座り、両手を組んで祈りを捧げ続ける。そんな彼の視線の先には、聖堂の前方中央、金の宝飾を施された女神像が両手を天に掲げ微笑んでいる。

「熱心でいいわね」

 背後から聞き慣れた足音と軽やかな声――。だが、ジークハイドは振り返ることはしなかった。

 政論教師のカーチスは丸眼鏡を上げて苦笑し、彼の隣へと腰を下ろした。

「みんな大騒ぎしてたんだから。ホント、どうしようもない子ねぇ」

「……」

「明日から授業の時間が増えたわよ。おかげで私の自由な時間も奪われたってことね。どうもありがとう」

「感謝しろよ。給料増えるだろ」

「ササルさんにお願いして魔法をかけてもらおうかしら。そのクソ生意気な口を木板で塞ぐ、っていう」

「やってみろよ。オレは仕返しに、お前の歩くところ歩くところに釘を落としてやる」

「……」

「……」

 ――しばしの沈黙。

 ジークハイドは組んでいた両手を解くと、「……ふぅ」と、小さく息を吐いて肩の力を抜いた。

「私の授業の時も、そのくらい熱心だと嬉しいんだけど?」

「熱心になれるような授業をしてみろ」

「……」

「……」

 ――再び沈黙。

「……キリがないわね」

「……そうだな」

 同時にため息を吐くと、カーチスは眼鏡を上げ、横目で彼を窺った。

「どうだった、漆黒の森は。怖かったでしょ?」

「行ったことあるのか?」

「迷ったことはないけどね?」

 ジークハイドはとびきりの笑顔を作るカーチスをにらみ付け、ツンッとそっぽ向いた。

「怖かねーや、あんなトコ」

「でも、ちょっと“どうしようっ”とか思ったでしょ? 半ベソかいてた?」

「……オレ、なんでお前みたいな奴を先生にしてるんだろ?」

「答は簡単。あんたみたいなクソガキの面倒を見れる教師は私ぐらいだからよ」

「それが次期主に向かって利く口か?」

「その次期主になるために私はあんたに知識を叩き込んでるのよ。感謝しなさい」

 背筋を伸ばして顎を突き上げ、上から目線で言われたジークハイドはムスッと頬を膨らました。

 こいつ、嫌いだ!! と、不愉快さを露わにされたが、これもいつもと同じ。カーチスはくすくすと笑って、気を取り直すように小さく息を吐いた。

「まぁ……、できの悪い生徒だけど、無事で何より」

「職を失わなくて済んだなっ」

「……ホント、かわいくないわね」

 目を据わらせるカーチスに、ジークハイドは「イーっ」と歯を剥き出しにする。子どもっぽい悪戯な彼にカーチスは「ったく……」と小さく息を吐き、無視して女神像を見上げた。

「もう漆黒の森には近付いちゃ駄目よ。みんなが言ってるでしょう?」

「言われれば言われるほど、興味をそそられるモンだろ?」

「バカね。みんなが同じことを言うってことは、それだけ危険だということなのよ。そして、みんながあなたを心配しているってこと。ちゃんと心に留めて置きなさい」

 ふざけている様子もなく、真面目に注意され、ジークハイドは視線を落としつつ、素直に受け止めて「……ああ」と返事をした。

「今回のことでわかったでしょ? ……無事に帰って来られたから良かったものの、二度目はないと思わなくちゃ」

 ジークハイドは目を細めて足下を見つめた。

 ……二度目はない……か――。

「……ンなぁ?」

「ん?」

「漆黒の森ってさ、ひょっとして……眠りの森?」

 チラ、と、軽く視線を向けながら問いかけるジークハイドに、カーチスはキョトンとした。

「……え?」

「だからさ……、漆黒の森って、眠りの森なのかなぁ、って」

「ど、ど、どうして? そ、そんなこと、し、知らないわよ」

 フルフルと首を横に振る表情が戸惑っている。

 ジークハイドはじっとりとした目でため息を吐いた。

「動揺するなよぉー」

「ど、動揺? し、してないわよ」

「……。先生、絶対嘘つけない体質だよな」

「な、なんのこと?」

「で、漆黒の森って眠りの森なの?」

 ジークハイドはにっこりと笑って首を傾げた。「答えは?」と目が窺っている。

 カーチスは戸惑っていたが、ふと、訝しげに眉を寄せた。

「どうしてそんなことを聞いてくるの? ……何かを見たの?」

「……。何も」

 ジークハイドはためらうように視線を斜め下に向けた。そんな彼の様子に何か引っかかるものを感じたが、詮索することなく、カーチスは深く息を吐いて口を開いた。

「まぁ、いずれわかることだろうけど。……そうね。漆黒の森は“永眠ねむりの森”とも呼ばれているわ」

「……やっぱり“眠り”の森なのか……」

「そう。だから近付いちゃいけないのよ。漆黒と呼ばれているのも、そういう由縁があるの」

「そうか……。じゃあやっぱり、目を覚ますには……」

 呟くように言った後、じっと考え込むジークハイドにカーチスは首を傾げた。

「何? 目を覚ますには?」

「あっ? い、いやっ。こっちの話しっ!」

 少し頬を赤らめて首を強く振ると、カーチスは「?」と顔をしかめ、間を置いてため息混じりに肩の力を抜いた。

「とにかく、あそこには二度と近寄っちゃ駄目よ。いいわね?」

「はーい」

 聞き流すような空返事だけすると、カーチスは椅子を立ち、「……あ」と、あることを思い出して見下ろした。

「それと、明日の授業は昼食終わって夜食までだから」

「嘘!!」

 愕然とした表情で見上げると、カーチスはニッコリと笑った。

「覚悟しなさい」

 不敵に笑われて、ジークハイドはなんとも言えない情けない顔をしてバタッと長イスに倒れ込んだ。






「ササルぅ~」

 聖堂から出ると、バタバタっと城内を走り、許可もなく一室に飛び込んだ。城の最上階――。ドアを開けた途端に異様な匂いが鼻を突いて、ジークハイドは顔をしかめ、思わず両手で鼻を隠した。

「……ハ、ハハウゥ?」

 壁に付けられているランプの明かりが壁際を埋め尽くす本棚に並ぶ無数の本を照らし、ドアから入ってすぐ目の前、分厚い本や紙やガラス瓶が散乱している大きな長テーブルがあり、足下も、踏み場がないほど散らかっている。

「おやおや王子。珍しい。こんな時間に現れるなんて」

 物陰から見習い魔法使いの青年、ササルが笑顔で現れた。年は十程離れてはいるが、ジークハイドの良き友人で、城内一、心根の優しい男で、城内一、ドジな男だ。

 ジークハイドは奥から漂ってくる匂いに鼻をつまみ、顔をしかめていたが、ササルが持っている“黒い物体”に目を向けて更に顔をしかめた。

「はに? ほれ?」

 ササルはニコリと笑って、手に持つ物体を視線の高さまで上げて見せた。

「大ガエル。トカゲとコウモリのエキスと調合した薬草と、あとお砂糖と塩少々で煮詰めてみたんです。どう? おいしそうでしょ? ベンさんに調理場をお借りしようと頼んだんですが、断られましてね。ここで煮詰めてたんです」

「……は、はへるお?」

「一緒に召し上がってみます? 僕が調べた研究からですね、魔力を高める効果があると思うんですよ」

「……ひ、ひあ。へんりょふる」

「そうですか? じゃあ、僕は失礼して」

 ササルは嬉しそうに、黒くなって姿もわからない大ガエルのお腹にハグッと食らいついた。肉が固かったのだろう。しばらく「うーんっ。うーっ!」と、噛み付いたまま大ガエルを左右上下に動かしていたが、やっと肉片を食い千切ることができてモグモグと口を動かし、笑顔でごっくんと飲み込んだ。

 ジークハイドは「……うげぇ」と顔を歪め、身を引いた。大ガエルも、ちゃんと調理すればおいしい食材なのだが……。

「……どほ?」

 覗き込むように窺うと、ササルは大ガエルを下ろしてニッコリと笑った。だが、その直後、――ドテ! と、笑顔のままいきなり後ろに倒れてしまった。ジークハイドはギョッ! と驚き、慌てて彼の側に跪いて肩を揺さ振った。

「サ、ササルっ? ササルってば!」

 おいおい! 自分が作ったもので死ぬなよ!?

 ――ササルの顔に血の気がない。なのに、口元は不気味に引きつって笑っている。

 ジークハイドは慌てて水貯に駆け寄ってコップに水を注ぎ、ササルの体を抱き起こすと口に流し込んでバンバン! と背中を叩いた。

「ササル! おいっ!!」

「……っ、ゲホゲホっ!」

 背中を叩き続けると、ササルの体がビクンッと反応し、前のめりに咳き込み出した。

 ジークハイドは「……こいつぅ」と目を据わらせながらため息を吐いた。

「ヘンな研究、もうやめろよぉー……」

「ゲホッ……。……お、おかしいっ。何か配合を間違えたかなっ?」

「……。いや、そういう問題じゃぁないと思うよ」

「……ハッ! そうか! オタマジャクシの方だったのかな!? それとも……サンショウウオ!?」

「……材料の問題じゃないって」

「あぁーっ! また研究のやり直しだよーっ!」

 ササルは頭を抱え込んで半べそを掻く。大の大人が情けないが、彼はこういう人間なのだ。

 ジークハイドは呆れつつため息を吐くと、立ち上がって部屋中の窓を全開にした。冷たい風が流れ込み、散乱していた紙が舞い上がる中、ササルはブルっ……と身震いして腕を抱いた。

「寒いですよーっ」

「空気の入れ換えだよ。慣れちゃったけど、この匂い、一生体に染みついちゃいそうだ」

 ジークハイドは「ったく……」と呆れてため息を吐きながら、壁に掛けられていたコートをササルに投げ渡した。

「ほら、着てろよ」

「はぁ……」

 ササルはもぞもぞ……とコートを羽織るが、その間も、

「あーあ。大ガエル、床に落としちゃったよ……。もったいないなぁ……。買うと高いから、沼に罠を仕掛けておかなくちゃぁ……」

 と、ブツブツ呟いていた。

 ジークハイドは彼の机の側にあるイスに腰掛け、窺うように身を乗り出した。

「……あのさぁ、ササル。オレ、欲しいものがあるんだ」

 どこか遠慮気味な出だしに、ササルはキョトンとした表情で首をかしげた。

「欲しいもの? ですか?」

「うん」

「でしたら、国王様に頼んでみてはいかがです? 僕、あまりお金は持ち合わせていないので」

「お金で買えるものじゃないんだよ」

「……ハッ! ひょっとして僕の作った魔法材料が!」

「絶対欲しくない」

 言葉を遮り真顔で即答すると、意気込みかけたササルは笑顔を消してガクンっ、と項垂れた。

「そうじゃなくてさ、その……漆黒の森、あそこの地図とかないかなぁ、と、思って……みたりして」

 ためらって言葉尻を濁すジークハイドに、ササルは少し怪訝そうにパチパチと瞬きをした。

「漆黒の森って……。今日、王子が迷子になられた、あの漆黒の森ですか?」

「うん。ササル、たくさん資料持ってるだろ? ひょっとしたら漆黒の森の地図も持ってるんじゃないかと」

「地図なんて存在しませんよ」

 ササルはあっさり肩をすくめて答え、立ち上がると壁際の本棚へ足を向けた。

「みんな戻って来られないんですから。地図の書き用がないんです。戻ってきた王子が不思議なくらい。光の神のご加護ですよ」

「……母さんにもそう言われたよ」

 背後の声に振り返ることなく、ササルは本棚に並べられた書籍を目で追う。

「漆黒の森に興味をお持ちで?」

「ん? ……んー……ちょっと」

「けど、あそこにはやっぱり近寄らない方がいいでしょう。恐ろしいところですからね」

「そうかなぁ?」

「王子は無事に帰ってくることができたから平気なだけですよ。普通の人だったら死神にさらわれています」

 ササルの言葉にジークハイドは少し首を傾げた。

「……死神?」

「それに、もうすぐブラックゾーンが到来するでしょ? みんな大忙しですよ」

「ああ、一年に一度の暗闇、か」

「ブラックゾーンがやってくるときは必ず何か悪いことが起きるんです。去年もそうでした。あの時はたくさんの人達が犠牲になりましたからね。一大イベントだと思って甘く見ていると、そうやって命を落とすことになるんです」

 ササルの話を聞いていたジークハイドは、「ふうん……」と無関心っぽく小さく言葉を漏らしただけ。

 ブラックゾーン――。宇宙の塵が太陽の光を遮って、数日間、世界を闇に落とす。人々が犠牲になるのは、闇の中をはしゃいだり、楽しんだりして、注意散漫になりすぎるのが原因だと聞いた。

 ……そりゃそうだろう。真っ暗じゃ、頭上から落ちてくるものもわからない。足下が崖になっててもわからない。「家から出ないように」って警告は出ているものの、オレと一緒で、みんな、興味があるんだよな。そうやって「駄目だ」って言われるものには。

「ブラックゾーンが来たときは、我々が崇める光の神のご加護もなくなります。気をつけなくてはいけません」

「わかってるよ」

「漆黒の森についても然り」

 拗ねるように口をとがらすジークハイドに、ササルは真顔で振り返った。

「漆黒の森は、我々とは相反するもの。光を奪う所なんですから」

「……相反するもの……」

「今回は光の継承者である王子の力が勝ったのでしょうが、ブラックゾーンが来ればその当日、そして前後、必ず力は衰えます。……そんなときに漆黒の森に興味を抱くなんて、さすが王子です」

 一人納得するように大きくうなずかれ、ジークハイドは顔をしかめた。

「それって、誉めてるのか?」

「誉めてはいませんが、その無鉄砲さ、何も考えていないところはスゴイです」

 ジークハイドは目を据わらせた。カーチスと違って、彼は本当に、純粋に「スゴイ」と思ってるから、嫌みったらしく反論もできやしない。ササルはそんな気持ちなど知る由もなく、一冊の書物を手に近寄って来た。そして机の上に置くと、パッパッとページを捲る。ジークハイドは机に体を向けると、ササルが捲り続ける本を見つめた。

「これです」

 ササルの手が止まって、一点を指差した。そこにはペンで書かれた森の風景があり、そして、走り書きされたような文字が……。

「唯一、漆黒の森について残されている手がかりです。読めますか?」

「古代文字だろ? 読めないよ」

「……闇成る闇に集い集まりし者共を、深き牢獄にて封ずる」


闇成る闇に集い集まりし者共を、深き牢獄にて封ずる。守護神に導かれ命運を共にせよ。鍵生る者、息の緒を捧げよ。二は一に成らず。一は二に成らず。開け放たれし扉の奥、討ち滅ぼされるは我が身なり。


 ジークハイドはじっと聞き入っていたが、読み終えたササルを見上げて顔をしかめた。

「で、どういう意味?」

「さぁ?」

「……じゃ、なんでオレに見せたの?」

「なんとなく内容が怖いから、見せれば怖がるかな、と、思ったんですけど」

「……」

「……だめ?」

 ジークハイドは、じっとりと目を細めた。「馬鹿にしてるのか?」と言わんばかりの雰囲気に、ササルは、「あ、あはは……」と笑って誤魔化した。

「と、とにかく、こういう意味深な古代文字もあるんですから。漆黒の森はただの森じゃないんですよ」

「眠りの森だろ?」

「アレ? 知ってるんですか?」

「うん。カーチス先生から聞いたよ」

「カーチス先生、元気!?」

 突然身を乗り出して表情を輝かせる。そんなササルにジークハイドは体を背後に反らすと、「う、うんうん」とうなずいた。

 ササルは「はぁぁー」と恍惚な表情を浮かべ、両手を組んで天井を仰いだ。

「いいなぁ~。カーチス先生と一緒に勉強なんて。いいなぁ~」

「……オレも羨ましいよ、何も知らないササルが」

「え?」

「ううん。なんでもない」

「きっと教え方も優しいんだろうなぁ……。ホント清楚な人だよなぁ……。女性の中の女性だよなぁぁ~」

 清楚な奴が「あんたみたいなクソガキ」とか、言うか? ……カーチス先生の本当の姿を教えたら、さすがのササルもショック死するかも知れないな。と、脳裏で思いながらジークハイドは大きくため息を吐き、そして、ブルッと身震いした。……段々と寒くなってきた。

「……そろそろ部屋に戻るよ」

 何も収穫が得られなかったことに、内心、ガックリしながらイスを立った。

「あ、王子」

「ン?」

 歩き出した彼を呼び止める。ジークハイドは振り返ると、真面目な顔をしているササルを見て首を傾げた。

「なに?」

「漆黒の森が永眠ねむりの森だと知っているのなら尚更。絶対に近寄っちゃいけませんよ」

「……ああ、わかったよ」

「それと」

「ん?」

「カーチス先生によろしくね」

 ジークハイドは笑顔で手を振るササルを見て目を据わらせ、「……わかったよ」と背中を向けた。

 ササルの部屋を出て、のんびり自分の部屋に戻る間、じっと足下に視線を落としていた。

 眠りの森、か。……相反するもの……。

 足を止めて、廊下の窓から外を見つめた。夜の訪れで、暗く、何も見えないが、視線の向こうにはあの森が――。

 ……あの子とは、もう会えないのかな……。

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