第七話 売るか、連れていくか
倉庫の空気は、夜が深くなるほど硬くなる。
真壁彰は入口脇の鉄扉を背にしたまま、腕を組んでいた。外では風が薄いトタンを鳴らし、遠くの道路を大型車が一台だけ抜けていく。中には古い蛍光灯の白い唸りと、二階堂壮也が端末を叩く小さな音、それから九条雅紀のほとんど気配のない呼吸だけがある。
もう、第六話までに必要なことは出そろっていた。
九条が何者なのか。
なぜ死ぬ場所が先に見えるのか。
堀島岳斗がなぜ九条を“先生”と呼ぶのか。
そして、今追ってきている線が一つではないことも。
問題は、そこからどうするかだった。
「売るなら今だ」
真壁が言うと、二階堂の手が一度だけ止まった。
「言い方が最悪だな」
「意味は分かるだろ」
「分かるけど、せめて“切る”にしない?」
「同じだ」
二階堂は端末を閉じ、机の端に肘をついた。
「違うよ。切るは距離の話だ。売るは向こうの都合に乗る話だ」
真壁は鼻で笑った。
「きれいに言い換えるな。結局、こいつを抱えたままなら、今後も寄せられる」
壁際に立つ九条は、二人のやり取りを黙って聞いていた。座れと言っても座らない。自分から中心に来ることもない。いつ切り離されても、そのまま一歩で外へ出られる位置にいる。それがすでに癖になっていることが、真壁には腹立たしかった。
「お前はどう思ってる」
真壁が言うと、九条はわずかに顔を上げた。
「何についてだ」
「自分の処遇についてだよ」
九条は一拍だけ黙った。その沈黙が、真壁には気に入らない。こいつはいつもそうだ。即答しない時は、答えを探しているのではない。どの角度で返せば摩擦が少ないかを測っている。
「ここで分けた方が、二人の線は軽くなる」
そう言った時点で、真壁は舌打ちを飲み込んだ。
やはりそう来る。
「またそれか」
「事実だ」
「お前、自分を荷物みたいに言うな」
「荷物ではない」
「じゃあ何だ」
九条は少しだけ視線を落とした。
「引き取られる対象だ」
真壁の奥歯が鳴りそうになった。
二階堂が小さく息を吐く。
「今の、だいぶきついですね」
「何がだ」
「言い方が」
二階堂は九条を見た。
「あんた、自分のことになると急に“処理される側の言葉”になるんだよ」
九条は返さない。
それが肯定に見える。
「だから今ここで決める」
真壁が言った。
「お前は勝手に自分を差し出さない。自分から分離しようとしない。必要なら、先に俺たちに言え」
「俺一人が動いた方が――」
「禁止だ」
真壁が遮る。
「軽くなるとか、残るとか、そういう言い換えも全部禁止だ」
九条はそこで、珍しく少しだけ困った顔をした。
「抽象的だ」
「だったら具体的に言う」
真壁は一歩近づいた。
「お前が“自分が出れば終わる”と思った時ほど、出るな。お前が“自分を渡せば軽くなる”と思った時ほど、動くな。お前の最短手を信用してない」
二階堂が横から口を挟む。
「それは正しいよ。今の九条の最短手って、だいたい自分を消耗品にする方へ切れるから」
九条は二階堂を見る。
「そう見えるか」
「見える」
二階堂は即答した。
「しかも、あんた自分ではそれを“自己犠牲”とも思ってないだろ。単に早いから選ぶ」
九条は少し黙ってから、低く言った。
「……否定はしない」
その返答が、真壁の怒りをかえって鈍らせた。
言い訳しない。飾らない。だから余計に厄介だ。
その時だった。二階堂の端末が細かく震えた。彼は画面を見て、笑みを消す。
「来た」
「何だ」
「協調が進んでる」
二階堂は画面を見たまま言う。
「完全に手を組んだわけじゃない。でも、九条回収に限っては互いの抜けを補い始めた。つまり、向こうは“殺すより生存で取りたい”方へ寄った」
真壁は舌打ちした。
最悪だ。
殺す気ならまだ単純だ。取る気の方がずっと厄介で、ずっと長引く。
「今夜、寄せるはず」
二階堂が言う。
「ここも長くないよ」
真壁は九条を見た。
「聞いたな」
「ああ」
「だから余計に、勝手に出るな」
九条は真壁を見返し、今度は短く答えた。
「分かった」
「本当にか」
「本当に、とは言えない」
真壁は眉をひそめる。
九条は続けた。
「でも、勝手には動かない」
今までよりは、ましな返答だった。
そのわずかな差に安堵してしまう自分が、真壁は気に入らなかった。
*
出発は十五分後になった。
倉庫の外に車を回し、灯りを落とし、必要最低限だけ持つ。二階堂は通信機器を二つに分け、表回線を捨てる順番まで決めている。真壁は弾と導線を確認し、九条には荷物ではなく視界の狭い位置を歩かせた。守っているというより、勝手に前へ出ないように置いているだけだ。
細い市道を抜け、川沿いの県道へ出る。
夜は深いが、もう明け方の匂いが混じり始めていた。トラックが走るまでにはまだ少しある。だが、待ち伏せする側にとってはちょうどいい時間だ。
「右から寄る」
後部座席の九条が言った。
真壁は反射でミラーを見る。
「見えるのか」
「置き方がそうだ」
二階堂が速度を少しだけ落とし、前方の交差点を見る。
「確かに、信号待ちの車にしては揃いすぎてるね」
「切れるか」
「半歩なら」
真壁は短く言う。
「半歩だけ使う。信じてねえ」
「知っている」
九条は淡々と返した。
その直後、交差点の先で白いセダンが一台、わずかに位置をずらした。普通の車ならやらない角度だ。二階堂はハンドルを左へ切る。県道へは乗らず、その手前の配送路へ滑り込んだ。
後方でライトが二つ動く。
「来たな」
真壁が低く言う。
「ええ」
二階堂の声は軽いが、目は笑っていない。
「前一、後ろ二、まだ増える」
九条が続ける。
「知るか」
真壁が返す。
「出るなよ」
「分かっている」
車は狭い配送路を抜け、古い物流団地の裏へ入った。シャッターの下りた倉庫、使われていないトラックバース、白線の消えかけた駐車場。人はいない。だから隠れやすく、だから捕らえやすい。
「前、止め役」
九条が言う。
「横から触りたい」
「お前さ」
二階堂が苦く笑う。
「そういうの、何でそんなに分かるの」
「見れば」
「一般人じゃないなあ、本当に」
真壁は返事をしなかった。
前方のシャッター脇に、一人だけ立っている影が見える。止め役だ。しかも雑ではない。撃ちたいのではなく、止めて取る動きに見える。
「真壁」
二階堂が言う。
「どうする」
「抜ける」
「了解」
真壁は後ろを見た。
「九条」
「ああ」
「売るなよ」
九条は一瞬だけ目を瞬いた。
「……売らない」
その返事を聞いた瞬間、真壁の中で何かが決まった。
こいつはまだ危ない。何度でも自分を差し出す可能性はある。だが今は少なくとも、自分からその理屈を握りしめてはいない。
「二階堂、抜けるぞ」
「了解」
車は一度だけ減速し、次の瞬間に加速した。正面の影が半歩遅れる。横から別の人影が出るが、二階堂はそちらへ車体を薄く振って触れさせない。真壁はドアに手をつき、後方の動きを読む。後ろ二台は追う。だが詰めきれない。
「前の方が雑だな」
二階堂が言う。
「こっちの癖を知ってるのは後ろの線だ」
「分かる」
真壁が短く返す。
そのまま物流団地を抜け、川を渡り、三人はもう一度だけ盤面の外へ滑り落ちるように姿を消した。
売るか、連れていくか。
その二択は、まだ消えていない。
だが今夜の九条は、自分からその二択に乗らなかった。
それだけが、真壁には妙に重かった。




