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逃走中に拾った男が、どう見ても一般人じゃない  作者: 綾見 恋太郎


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7/11

第七話 売るか、連れていくか

 倉庫の空気は、夜が深くなるほど硬くなる。

 真壁彰は入口脇の鉄扉を背にしたまま、腕を組んでいた。外では風が薄いトタンを鳴らし、遠くの道路を大型車が一台だけ抜けていく。中には古い蛍光灯の白い唸りと、二階堂壮也が端末を叩く小さな音、それから九条雅紀のほとんど気配のない呼吸だけがある。

 もう、第六話までに必要なことは出そろっていた。

 九条が何者なのか。

 なぜ死ぬ場所が先に見えるのか。

 堀島岳斗がなぜ九条を“先生”と呼ぶのか。

 そして、今追ってきている線が一つではないことも。

 問題は、そこからどうするかだった。

「売るなら今だ」

 真壁が言うと、二階堂の手が一度だけ止まった。

「言い方が最悪だな」

「意味は分かるだろ」

「分かるけど、せめて“切る”にしない?」

「同じだ」

 二階堂は端末を閉じ、机の端に肘をついた。

「違うよ。切るは距離の話だ。売るは向こうの都合に乗る話だ」

 真壁は鼻で笑った。

「きれいに言い換えるな。結局、こいつを抱えたままなら、今後も寄せられる」

 壁際に立つ九条は、二人のやり取りを黙って聞いていた。座れと言っても座らない。自分から中心に来ることもない。いつ切り離されても、そのまま一歩で外へ出られる位置にいる。それがすでに癖になっていることが、真壁には腹立たしかった。

「お前はどう思ってる」

 真壁が言うと、九条はわずかに顔を上げた。

「何についてだ」

「自分の処遇についてだよ」

 九条は一拍だけ黙った。その沈黙が、真壁には気に入らない。こいつはいつもそうだ。即答しない時は、答えを探しているのではない。どの角度で返せば摩擦が少ないかを測っている。

「ここで分けた方が、二人の線は軽くなる」

 そう言った時点で、真壁は舌打ちを飲み込んだ。

 やはりそう来る。

「またそれか」

「事実だ」

「お前、自分を荷物みたいに言うな」

「荷物ではない」

「じゃあ何だ」

 九条は少しだけ視線を落とした。

「引き取られる対象だ」

 真壁の奥歯が鳴りそうになった。

 二階堂が小さく息を吐く。

「今の、だいぶきついですね」

「何がだ」

「言い方が」

 二階堂は九条を見た。

「あんた、自分のことになると急に“処理される側の言葉”になるんだよ」

 九条は返さない。

 それが肯定に見える。

「だから今ここで決める」

 真壁が言った。

「お前は勝手に自分を差し出さない。自分から分離しようとしない。必要なら、先に俺たちに言え」

「俺一人が動いた方が――」

「禁止だ」

 真壁が遮る。

「軽くなるとか、残るとか、そういう言い換えも全部禁止だ」

 九条はそこで、珍しく少しだけ困った顔をした。

「抽象的だ」

「だったら具体的に言う」

 真壁は一歩近づいた。

「お前が“自分が出れば終わる”と思った時ほど、出るな。お前が“自分を渡せば軽くなる”と思った時ほど、動くな。お前の最短手を信用してない」

 二階堂が横から口を挟む。

「それは正しいよ。今の九条の最短手って、だいたい自分を消耗品にする方へ切れるから」

 九条は二階堂を見る。

「そう見えるか」

「見える」

 二階堂は即答した。

「しかも、あんた自分ではそれを“自己犠牲”とも思ってないだろ。単に早いから選ぶ」

 九条は少し黙ってから、低く言った。

「……否定はしない」

 その返答が、真壁の怒りをかえって鈍らせた。

 言い訳しない。飾らない。だから余計に厄介だ。

 その時だった。二階堂の端末が細かく震えた。彼は画面を見て、笑みを消す。

「来た」

「何だ」

「協調が進んでる」

 二階堂は画面を見たまま言う。

「完全に手を組んだわけじゃない。でも、九条回収に限っては互いの抜けを補い始めた。つまり、向こうは“殺すより生存で取りたい”方へ寄った」

 真壁は舌打ちした。

 最悪だ。

 殺す気ならまだ単純だ。取る気の方がずっと厄介で、ずっと長引く。

「今夜、寄せるはず」

 二階堂が言う。

「ここも長くないよ」

 真壁は九条を見た。

「聞いたな」

「ああ」

「だから余計に、勝手に出るな」

 九条は真壁を見返し、今度は短く答えた。

「分かった」

「本当にか」

「本当に、とは言えない」

 真壁は眉をひそめる。

 九条は続けた。

「でも、勝手には動かない」

 今までよりは、ましな返答だった。

 そのわずかな差に安堵してしまう自分が、真壁は気に入らなかった。

 出発は十五分後になった。

 倉庫の外に車を回し、灯りを落とし、必要最低限だけ持つ。二階堂は通信機器を二つに分け、表回線を捨てる順番まで決めている。真壁は弾と導線を確認し、九条には荷物ではなく視界の狭い位置を歩かせた。守っているというより、勝手に前へ出ないように置いているだけだ。

 細い市道を抜け、川沿いの県道へ出る。

 夜は深いが、もう明け方の匂いが混じり始めていた。トラックが走るまでにはまだ少しある。だが、待ち伏せする側にとってはちょうどいい時間だ。

「右から寄る」

 後部座席の九条が言った。

 真壁は反射でミラーを見る。

「見えるのか」

「置き方がそうだ」

 二階堂が速度を少しだけ落とし、前方の交差点を見る。

「確かに、信号待ちの車にしては揃いすぎてるね」

「切れるか」

「半歩なら」

 真壁は短く言う。

「半歩だけ使う。信じてねえ」

「知っている」

 九条は淡々と返した。

 その直後、交差点の先で白いセダンが一台、わずかに位置をずらした。普通の車ならやらない角度だ。二階堂はハンドルを左へ切る。県道へは乗らず、その手前の配送路へ滑り込んだ。

 後方でライトが二つ動く。

「来たな」

 真壁が低く言う。

「ええ」

 二階堂の声は軽いが、目は笑っていない。

「前一、後ろ二、まだ増える」

 九条が続ける。

「知るか」

 真壁が返す。

「出るなよ」

「分かっている」

 車は狭い配送路を抜け、古い物流団地の裏へ入った。シャッターの下りた倉庫、使われていないトラックバース、白線の消えかけた駐車場。人はいない。だから隠れやすく、だから捕らえやすい。

「前、止め役」

 九条が言う。

「横から触りたい」

「お前さ」

 二階堂が苦く笑う。

「そういうの、何でそんなに分かるの」

「見れば」

「一般人じゃないなあ、本当に」

 真壁は返事をしなかった。

 前方のシャッター脇に、一人だけ立っている影が見える。止め役だ。しかも雑ではない。撃ちたいのではなく、止めて取る動きに見える。

「真壁」

 二階堂が言う。

「どうする」

「抜ける」

「了解」

 真壁は後ろを見た。

「九条」

「ああ」

「売るなよ」

 九条は一瞬だけ目を瞬いた。

「……売らない」

 その返事を聞いた瞬間、真壁の中で何かが決まった。

 こいつはまだ危ない。何度でも自分を差し出す可能性はある。だが今は少なくとも、自分からその理屈を握りしめてはいない。

「二階堂、抜けるぞ」

「了解」

 車は一度だけ減速し、次の瞬間に加速した。正面の影が半歩遅れる。横から別の人影が出るが、二階堂はそちらへ車体を薄く振って触れさせない。真壁はドアに手をつき、後方の動きを読む。後ろ二台は追う。だが詰めきれない。

「前の方が雑だな」

 二階堂が言う。

「こっちの癖を知ってるのは後ろの線だ」

「分かる」

 真壁が短く返す。

 そのまま物流団地を抜け、川を渡り、三人はもう一度だけ盤面の外へ滑り落ちるように姿を消した。

 売るか、連れていくか。

 その二択は、まだ消えていない。

 だが今夜の九条は、自分からその二択に乗らなかった。

 それだけが、真壁には妙に重かった。


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