第五話 追ってくる青年
追跡には、うまい下手がある。
真壁彰は、それを音で判断する人間だった。
タイヤが鳴る。
ドアが閉まる。
足が止まる。
無線が入る。
誰かが角を曲がる。
そういう細かな音の癖だけで、相手がどの程度の腕か、およそ見当がつく。雑な追っ手は、存在を隠そうとして逆に気配を大きくする。数で押す連中は、包囲の継ぎ目に必ず乱れが出る。腕が立つだけの連中は、動きが綺麗でも、どこかで自分の速度に酔う。
だが、この日の追跡には、それらと違う嫌さがあった。
近い。
なのに荒くない。
そして何より、こちらの判断順を知っているみたいに、先回りの位置が嫌に整っていた。
夕方の地方都市は、都会ほど人に紛れられないくせに、田舎ほど視線が単純でもない。駅前を抜ける車の列、コンビニの駐車場、川沿いの遊歩道、古い商店街のアーケード、夜へ向けて少しずつ灯りが増えていく住宅街。どこも逃走には向かないが、どこにもわずかな隙がある。いつもなら、その隙を二階堂が拾い、真壁が前を切る。それで足りた。
今日は違った。
「三つ先、右は塞がれている」
後部座席から、九条雅紀が言った。
運転席の二階堂壮也がミラーを見る。
「見える?」
「まだ。でも、そこを抜けたあとで詰まる」
真壁は助手席で舌打ちしかけた。
またそれだ。
見えていないはずの先を、こいつは“死ぬ場所”として先に言う。
「根拠は」
「右へ寄せたい置き方してる」
「何をだ」
「後ろ」
真壁はバックミラー越しに後方車両を確認した。白いワゴンが一台、距離を取りすぎない位置で付いている。さらにその後ろ、黒い軽が半端な速度で流れに乗っている。どちらも目立たない。目立たなさすぎる。
「気持ち悪いな」
二階堂が言った。
「張りつき方が素直すぎる」
「素直じゃねえ」
真壁が言う。
「素直ならもっと雑になる」
「なるほど。つまり最悪寄り」
「最悪だよ」
二階堂は右折レーンへ入ると見せて、その一つ手前の脇道へ滑り込んだ。タイヤのきしみを出さない程度に速度を落とし、狭い道へ鼻先を入れる。古い民家が並ぶ裏手の通りだ。洗濯物の竿、ブロック塀、軽自動車一台分の空き地。追う側が本気なら、こういう道は嫌う。見失いやすく、詰めにくいからだ。
だが今日は、その嫌い方まで計算に入っている気がした。
路地を抜け、さらに川沿いの小道へ出る。対向車はいない。代わりに、歩道を歩く男が一人いた。フードを被り、スマホを見ている。二人組ならまだ分かる。単独でそこにいることが、逆に不自然だった。
「見てるな」
真壁が言う。
「見てる。しかも“自分が見られてもいい”置き方だ」
二階堂が答える。
「雑魚じゃない」
「誰か一人、頭の回るのが混じってる」
後ろで九条が、ほんの一拍だけ黙った。その沈黙が、真壁には気に障った。
「何だ」
振り返りもせずに言う。
「……前より近い」
「何が」
「追い方が」
真壁は助手席の窓へ視線を流した。店のシャッターに映る車影が、一度だけ増えた。白いワゴンは切れた。代わりに銀のセダンが入っている。車種を変えたのではない。最初から複数で回しているのだ。
「組織の線だけじゃないな」
真壁が言う。
「そう思う」
二階堂が頷く。
「こっちの逃げ方を知ってる線と、九条さんだけ見てる線が混ざってる感じ」
「分かるのか」
「狙う順番が違う。今のセダンは真壁さんの前切りを潰す角度で入ってきた。でもさっきのワゴンは、後ろの視認だけ優先してた」
真壁は息を吐いた。
この男は、何でも説明が耳障りのいい理屈になる。だが今は、それが役に立つのも分かっていた。
「お前、敵を呼んでるのか」
真壁が低く言った。
後ろで九条が、少しだけ視線を上げる気配がした。
「その言い方だと、半分だけ正しい」
「半分?」
「俺だけを拾って切れる話なら、もう切れている」
「何の話してる」
「ここまで追われてない」
真壁は歯を食いしばった。腹が立つ。こいつはいつもそうだ。質問に答えるようで、答えの重心をずらす。自分のことなのに、状況の方から言い直す。
「だから、お前のことを聞いてる」
真壁が言う。
「俺の話だけではない」
「また主語を外す」
「外してない」
「外してる」
二階堂が、そこで小さく笑った。
「まあでも、真壁。この人、秘密主義というより、説明の前提がもう人間向きじゃないんだよ」
「うるせえ」
「本人の話をしてるのに、誰がどう処理したかの話になる。履歴を持ってる人じゃなくて、履歴にされた人の喋り方」
真壁は返事をしなかった。認めたくはないが、その通りだった。
駅前を離れ、車は工場地帯の外れへ出た。日が落ち切る前の光は、金属とコンクリートを鈍く光らせる。古い立体駐車場が見える。営業を終えた複合施設の脇にくっついた、五階建ての古い箱だ。夕方の客はもう抜けている。監視も緩い。車を一度切るには悪くない。
「三十分だけ借りる」
二階堂が言う。
「長い」
真壁が返す。
「分かってるけど、このまま流し続ける方が嫌だ」
車は立体駐車場の二階へ滑り込んだ。薄暗く、コンクリートの天井が低い。蛍光灯は数本おきに死んでいる。車を停めると、外の音が急に遠くなった。エンジンを切った瞬間の沈黙だけがやけに重い。
「五分」
真壁が言う。
「それ以上は使わん」
「了解」
二階堂が先に降りる。周囲を一瞥し、駐車枠の死角、非常階段、出口への角度を確認する。その動きは普段通りだった。真壁はそれより先に、銃を確かめた。九条は最後に降りた。身軽な男だ、と真壁は改めて思う。荷物が少ないのではない。最初から、自分が持つものを最小限にしている人間の身軽さだった。
駐車場の空気は冷えていた。車のない区画が多い。そのせいで、音がよく跳ねる。
「ここはどうだ」
二階堂が壁際へ寄りながら言った。
九条は答える前に少しだけ周囲を見た。上階へ抜けるスロープ。非常階段。車止め。隅の消火器。照明の死んでいる列。
「長くは持たない」
「何分だ」
「もう始まってるなら三分」
真壁は鼻で笑いそうになって、やめた。
「また随分具体的だな」
「音がないから」
「は?」
「普通なら、下で一回鳴る」
九条が言った瞬間、真壁も気づいた。
下階の音が薄すぎる。
完全な無音ではない。だが、車が入ってきた時に一度は鳴るはずの反響がない。誰かが下で止めている。音を殺している。つまり、上げる気だ。
「階段使うな」
九条が続けた。
「一つ目の踊り場で死ぬ」
真壁はその言葉に反応した。
「何で分かる」
「置くならそこだから」
「誰が」
「追う側が」
二階堂は小さく息を吐く。
「この会話、もう慣れたけど、やっぱり嫌だな」
「同感だ」
真壁が言う。
その時だった。下で、金属の擦れる小さな音がした。すぐ後に、足音が一つ。二つではない。一人分だけが、ためらいなくスロープの方へ入ってくる。
真壁の全身が前へ寄る。
これはただの先行確認ではない。
先に出る人間の歩幅だ。
しかも若い。
重さが足に乗りきっていない。にもかかわらず、止める位置に無駄がない。
「来る」
真壁が低く言った。
「見れば分かる」
二階堂が返す。
「黙ってろ」
スロープの影から、男が現れた。
二十代中ごろに見える。細身で、黒のジャケットを着ている。背は日本人の成人男性の平均をやや上回る程度。だが姿勢が真っすぐすぎた。見た目だけなら学生でも通る。実際、通りの雑踏に混じっていても気づかない顔だろう。けれど、その歩き方が駄目だった。身体に余計な力がなく、視線だけが先に置かれている。どこを切れば相手の動きが止まるかを知っている人間の足運びだった。
真壁は一目で悟った。
若いのに、仕上がりすぎている。
男は姿を見せた瞬間に止まらなかった。止まる位置まで計算に入っている動きだった。駐車枠二つ分、三つ分の距離を、呼吸も乱さずに詰めてくる。手元に武器は見えない。だが見えないこと自体が危険だった。
「どこの新人だ」
真壁が低く言った。
「可愛げないな」
二階堂が呟く。
その時、後ろの九条だけが、一瞬だけ遅れた。反応が遅れたのではない。判断が半拍だけ空いた。真壁はそれを見逃さなかった。
男の目が、そこで初めて九条を捉えた。
仕事の顔が、一瞬だけずれた。
本当に一瞬だった。
ただの敵認識なら、もっと均一だ。確認、照準、排除。そういう線の動きになる。こいつの目には、それとは別のものが混ざった。驚きでもない。喜びでもない。怒りに近いのに、そこへ敬意みたいなものが薄く張りついている。そういう、整理の悪い感情の揺れだった。
次の瞬間にはもう消えていた。
だが充分だった。
真壁は動いた。前へ出る。相手も同時に詰める。銃声は一発だけ、真壁の耳のすぐ横を切った。撃ちたいから撃った音ではない。足を止めるための一発だ。
「下がれ!」
真壁が怒鳴る。
二階堂が九条の肩を引いた。
「今日は面会日じゃないんで」
男は返事をしない。だが迷いもない。駐車枠の柱を切る角度、牽制の一発、真壁の体重移動を読んだ間合い。どれも若いのに綺麗すぎる。勢いではない。教わった通りに反復して、身体へ落としてきた人間の動きだ。
真壁は横へ切り、柱を使って距離を潰した。男も退かない。正面から殴り合う気ではない。真壁を前で止め、その奥を読むための立ち位置を保とうとする。鬱陶しい。しかも、九条のいる方向への視線だけが、ほんの少し深い。
「うぜえな」
真壁が吐き捨てる。
男は、その言葉にも反応しない。ただ、二発目を撃つ前に一度だけ呼吸を置いた。そこで真壁は確信した。こいつ、ただ腕が立つだけじゃない。現場のテンポを乱さずに食いついてくる種類だ。真壁が一番嫌う手合いだった。
「二階堂、切れ!」
真壁が叫ぶ。
「もう切ってる」
二階堂は九条を引きながら、反対側の柱列へ滑っていた。
その一歩を見て、男の視線がまた九条へ動く。
真壁はそこを見た。
仕事の優先順位が、ほんの少しだけ九条へ寄る。
だから真壁は逆に踏み込めた。柱の影から体を出し、相手の射線を一度潰す。男は下がった。下がり方まで綺麗だった。無駄に早くない。崩れない。引くための引き方だ。
後ろの暗がりで、別の足音がした。
複数いる。
だが、前へ出ているのはこいつだけだ。
「本隊じゃない」
二階堂が小さく言った。
「分かってる」
男はそこで、初めて口を開いた。
低い声だった。若いのに、妙に乾いている。
「……先生」
その一語で、空気が止まった。
真壁は反射で九条を見る。
九条は、今度こそ確かに動揺した。大きくではない。ほんの一拍だけ呼吸が遅れ、視線の置き場がずれた。それだけだ。だが、今までの九条にはなかった遅れだった。
先生。
その呼び方に、皮肉も、敬意も、怒りも、全部が少しずつ入っていた。
九条は名前を返さない。返さないが、知らない相手を見る目でもない。
真壁の背中を、冷たいものが走った。
男は、それ以上は喋らなかった。ただその一語を置いたあと、他の足音の方向へ半歩だけ退いた。再編する動きだった。勝ちに来ているのではない。確認と、次へ繋ぐ退き方だ。
「真壁、切れる」
二階堂が言う。
「使う」
「三秒だ」
「充分だ」
真壁は柱の向こうへ一発だけ返し、その反動で体を翻した。二階堂はすでに九条を押し出している。スロープではなく、照明の死んだ列の奥にあるサービス通路だ。普通の追っ手なら、そっちは後回しにする。狭く、抜けた先の選択肢が少ないからだ。だが今日は分からない。だからこそ、こちらも読みをずらすしかない。
通路へ飛び込む直前、真壁は振り返った。男は柱の影に立ったまま、追ってはこなかった。追えば詰められる位置だ。なのに来ない。来ないのは、今はそれが最適ではないと知っているからだ。
若いくせに、嫌な引き際だ。




