第四話 死んだはずの男
死んだことになっている人間は、たいてい二種類いる。
本当に死んだ人間と、死んだことにしておきたい人間だ。
真壁彰は、車の助手席でそう考えていた。
夜明け前の空はまだ暗く、フロントガラスの向こうに走る国道沿いの街灯だけが、等間隔に白く流れていく。運転席では二階堂壮也がハンドルを握り、後部座席には九条雅紀がいた。三人とも、しばらくまともに寝ていない。だが疲労の出方はまるで違っていた。真壁は苛立ちが前へ出る。二階堂は口数が減る。九条は、ほとんど何も変わらない。
そこが、真壁には気に入らなかった。
「もう一回見る?」
二階堂が言った。
「何を」
「死んでる方」
真壁は短く息を吐いた。言い方まで気に食わない。だが、見ないわけにはいかない。二階堂がダッシュボードの上へ薄い端末を置く。画面には、粗い画像と数字の並んだ古い処理記録が出ていた。名前は九条ではない。姓も違う。写真も鮮明ではない。だが輪郭が嫌に似ている。鼻梁の形、頬の削げ方、目元の沈み方。
さらに処理欄には、数年前の日付と短い文言がある。
対象確認終了。
照合処理済。
関連ログ閉鎖。
それだけだ。
それだけなのに、嫌な感じがした。普通に死んだ人間の記録なら、もっと整っている。照合箇所、発見場所、処理者名、関連ファイルへの導線。そういうものが最低限は残る。ここにはそれがない。あるのは、終わらせたかったという意志だけだった。
「雑だな」
真壁が言う。
「消し方が?」
「死体の扱いが」
「同じ意味だよ」
二階堂は画面を切り替えた。
「こっちは別経路で拾った断片。顔照合の補助ログだけ焼き切れてない。で、こっちは旧い管理番号の控え。たぶん同じ案件の残りかす」
「断定できるのか」
「したくない。でも似すぎてる」
真壁は端末から目を離し、バックミラー越しに九条を見た。
九条は窓の外を見ていた。顔色は悪くない。悪くないのに、生きていること自体が少しだけ異物に見える。画面の中では処理済み。後ろには平然と座っている。その矛盾が、目に痛かった。
「お前」
真壁が言う。
「死んだことになってるのか」
九条はすぐには答えなかった。視線だけを一度こちらへ寄こし、それからまた窓の外へ戻した。
「そういう人間がいたんだろう」
「お前のことを聞いてる」
「俺の話だけじゃないから」
真壁の眉が寄る。
またこれだ。
本人の話なのに、主語が少し外れる。自分を説明するより先に、自分を説明したがる側の都合を口にする。
「死んでた方が都合よかったのか」
二階堂が軽く言った。
九条は少しだけ目を伏せた。
「そういう人間がいた、って方が正確だ」
「お前のことだろ」
「結果としては」
真壁は本気で舌打ちしたくなった。だが、その不機嫌さ以上に嫌だったのは、九条が泣きも怒鳴りもしないことだ。死んだことにされていた記録を突きつけられて、平然としているわけではない。ほんの一拍だけ沈黙が長い。言葉を削る。視線が泳がず、むしろ余計なことを削る。その沈黙の仕方が、腹立たしいほど慣れていた。
「これ、単なる偽名生活じゃ済まないよな」
二階堂が言う。
「名前をずらすだけなら、もっと綺麗にやる。身分を消すにしても、照合欄だけこんな雑には壊さない」
「誰かが急いだか」
真壁が言った。
「急いだというより、雑に触れない場所だけ先に焼いた感じです。残るところに残り方の筋がない。つまり普通の死亡処理じゃない」
真壁はまた九条を見る。
「誰に消された」
「分からない」
「嘘つけ」
「本当に、そこは一人じゃない」
「またそれか」
九条は返事をしなかった。
真壁は鼻で息を吐き、前を向いた。こいつは秘密主義なんじゃない。履歴を話す人間の喋り方をしていないのだ。記録される側の黙り方をする。だから、何を聞いても少しずつずれる。
「ここを降りた方がいい」
九条が不意に言った。
「何だと」
「この先、見られる」
「根拠は」
「道路の流れが変わる」
「それだけか」
「それで充分だ」
二階堂が速度を少し落とした。
「どっち側?」
「正面からじゃない。追うというより、待っている方」
真壁は舌打ちを飲み込んだ。まただ。追う、待つ、切る。九条はいつも、そっちの言葉で危険を読む。追われる側の怯えではなく、追う側の配置で喋る。
国道を外れ、古い市街地へ入る。朝の色が薄く上がり始めているせいで、路地の奥まで妙に見えた。シャッターの閉まった店、信号待ちの軽トラック、新聞配達のバイク。人が動き出す直前の街は、隠れるには遅く、見張るにはちょうどいい。
「前の宿、もう使えないな」
二階堂が言う。
「分かってる」
真壁が答える。
「次、どこ行く」
「お前が決めろ」
「嫌な丸投げだな」
「慣れてるだろ」
「それはそうだけど」
軽口の形にしているが、二階堂の目はミラーと交差点と標識の順に忙しく動いていた。九条の言う「待っている方」がいるなら、今必要なのは派手な逃走じゃない。いったん視線を切り、次の位置へ滑り込むことだ。
「左」
九条が言った。
「何が」
「そっちは切られている」
「見えねえよ」
「だからだ」
二階堂は一瞬だけ笑った。
「真壁」
「何だ」
「信じる?」
真壁は前を睨んだ。前回もそうだった。半歩だけ信じたせいで生きた。それが気に入らない。だが完全に無視する気にもなれない。
「半歩だけだ」
「はいはい」
次の角を、二階堂は左ではなく直進した。直後、左の細い道の奥に黒い車の鼻先が見えた。停車しているだけにも見える。だが停め方がきれいすぎる。すぐ出られる角度で待っている。こちらが入れば、挟むための位置だ。
「……当たりか」
二階堂が低く言う。
「うるせえ」
真壁は短く返した。
九条はそれ以上何も言わない。
自分の読みが当たったことに、誇る気配もない。そこがまた嫌だった。
市街地を抜け、小さな橋を渡りかけたところで、今度は反対車線のワゴンが不自然に減速した。車種も色も目立たない。だがこちらを見てから減速する。運転が雑ではない。気づかれない前提の距離の取り方だ。
「二系統いるな」
二階堂が言う。
「今のはこっちの逃げ筋を読んでる方。さっきの路地は待ち伏せ優先」
「分かるのか」
「動きの癖」
真壁は舌の奥でその言葉を転がした。こっちの所属ラインを知っている動き。九条だけを押さえたい動き。両方が同時にいる。
「お前、敵を呼んでるのか」
真壁がまた後ろへ言う。
九条は少しだけ考えるように沈黙した。
「原因の一部ではある」
「一部?」
「全部じゃない」
「つまり何だ」
「俺を下ろして終わる話ではない」
真壁は歯を食いしばった。最悪な答え方だった。認める。だが全部は言わない。しかも「俺が悪い」でも「違う」でもない。状況の構造だけを置く。
「最初から言えよ」
「聞かれた範囲では答えている」
「そういうとこだよ」
二階堂がぼそりと言う。
そこから先は、大きな交戦にはならなかった。だが嫌な接触が二度続いた。
一度目は、古いモーテル跡へ滑り込む直前、裏手の自販機の前に立っていた男だ。携帯を見ているふりをしていたが、車のライトを浴びた瞬間だけ顔が上がった。こちらを認識した反応が速すぎた。真壁が降りようとした時には、もう男は走っていた。追えなくはない。だが、その動きは「確認して離脱する」訓練のそれだった。
二度目は、部屋へ入ってから十五分後だ。窓の外に一度だけ、光が切れた。通路の端を誰かが横切ったのだ。覗くでもない。立ち止まりもしない。存在だけを置いていく通り方だった。
「雑じゃないな」
二階堂がカーテンの隙間から外を見ながら言う。
「普通の追い込みなら、もっとせっかちだ」
「殺す気がないのか」
真壁が言う。
「優先順位が違うんだよ」
九条が壁際で言った。
「回収の手順だ」
真壁は振り向く。
「何だ」
「追われているというより、そういう扱いだ」
「知ってる言い方だな」
「見れば分かる」
「見てきた側の目だろ」
九条は否定しなかった。ただ、その沈黙のあとで少しだけ言った。
「雑に殺していい相手ではなかった、というだけだ」
「お前がか」
「そういう人間がいたんだろう」
真壁はそこでとうとう舌打ちした。
「何でお前は、いつも主語を外す」
「外してない」
「外してる」
「一人の話ではないから」
二階堂がベッド脇の椅子へ腰掛けた。
「真壁」
「何だ」
「この人、自分の履歴を喋ってないんじゃなくて、履歴にされる側の喋り方してる」
「どういう意味だ」
「本人の話なのに、本人のものとして返ってこない。誰がどう処理したかの話になる。記録の中で生きてる人の喋り方じゃなくて、記録に潰された人の喋り方」
九条はそれを否定しなかった。沈黙が短い肯定みたいに部屋へ落ちる。
真壁はしばらく九条を見ていた。
この男は危険だ。
だがそれは、銃が上手いとか、人を殺せそうだとか、そういう単純な危険とは違う。履歴の壊れ方も、敵の反応も、言葉の運びも、全部が一度処理された人間のそれに寄っている。
「お前」
真壁が低く言う。
「俺と二階堂を見て、何が見えてる」
九条は少しだけ目を細めた。
「真壁は前で切る人だ」
「それは見りゃ分かる」
「危険を踏んででも先に形を変える。だから、撤退の時に引き剥がしが遅れる」
真壁の眉が動く。
「何だと」
「二階堂が後ろを整えるから、今は噛み合ってる」
二階堂が小さく笑う。
「へえ」
「でも、真壁が前に出すぎると、二階堂の嘘が間に合わない」
真壁は返事をしなかった。
二階堂はその横顔を見て、さらに面白くなさそうに息を吐く。
「人の機能配置を見る人なんだな」
九条は短く答えた。
「そういう仕事はある」
真壁はそこでようやく分かった。
九条は受動的な謎の男ではない。前に出ないだけで、人の役割を見ている側にいた。切る人間、整える人間、待つ人間、回収する人間。そういう配置で世界を読んでいる。
部屋の外で、また一度だけ足音が止まった。今度は真壁も反応した。銃を握る。二階堂は電気を落とした。九条は動かない。ただ、低く言う。
「今のは確認だけだ」
「何で分かる」
「踏み込みの前の呼吸じゃない」
真壁はそこで本気で顔をしかめた。一般人ではない。それどころか、追う側の呼吸を知りすぎている。
五分ほど待ったが、踏み込みは来なかった。完全に囲われたわけではない。だが距離は近い。この宿も、もう長くは保たない。
「移る」
真壁が言う。
「賛成」
二階堂が即答する。
「夜明けの交通が本格化する前に」
九条は無言で頷いた。
荷物は少ない。もともと持っているものが少ないからだ。着替え、偽装用の上着、最低限の端末、弾、鍵。九条だけが、自分の荷物をほとんど持っていない。本当に巻き込まれただけなら、それは不自然だ。だが今の九条は、その不自然さすら説明しない。
車へ戻る前、真壁は廊下の先に一瞬だけ人影を見た。若い。背格好だけなら、そこらにいそうな男だ。だが止まり方が綺麗すぎた。こちらを見た時間が短い。見たのに、見ていないような顔で角を曲がる。その動きに無駄がない。
「何だ」
二階堂が気づく。
「……若いのがいる」
「どっち系統?」
「分からん。ただ、慣れすぎてる」
後ろで九条が、一瞬だけ視線を止めた。ほんのわずかだ。だが真壁は見逃さなかった。
「知ってるのか」
九条はすぐには答えない。その沈黙が、今までのどれよりも具体的だった。
「まだ、分からない」
「今のは嘘だな」
二階堂が言う。
「断定してないだけだ」
「似たようなもんだ」
真壁は人影の消えた角を見ていた。若い。だが動きに余計な力がない。こちらの癖を知っているみたいな距離感で、一度だけ顔を見て消えた。あれはただの監視じゃない。知っている誰かが近づいている気配だった。
車へ戻り、山側へ切り返す。夜明けが完全に始まり、空の下の方だけ青くなった。町が目を覚まし始める前の時間に、三人はまた盤面から滑り落ちるみたいに移動する。
二階堂が端末をもう一度開いた。
「真壁」
「何だ」
「さっきの処理記録、さらにひどいの見つけた」
「ひどい?」
「死亡確認の欄はあるのに、検視担当が飛んでる」
「そんなことあるか」
「普通はない。でも、これにはある。あと身元照合も妙だ。別の番号に吸われてる」
「事故死扱いか」
「そういうふりをしたんだろうな。でも、やり方が雑だ」
真壁は画面を見ない。先に九条を見た。後部座席で、朝の薄い光を受けている。死んだ記録の方が嘘だと、身体は勝手にそう感じる。息をしている。返事をする。疲れもする。黙る癖もある。
生きている。
だからこそ、記録の方が不気味だった。
「なあ」
真壁が言う。
「お前、何で今そこにいる」
九条はしばらく黙った。その沈黙のあとで、やっと口を開く。
「死んだことになっていた方が、都合のいい人間がいたから」
「またそれか」
「それ以上は、まだうまく言えない」
「言えないのか、言わないのか」
「……両方だ」
真壁はそこで返す言葉を失った。怒るには情報が足りない。信じるには何もなさすぎる。だが危険だけははっきりしている。
二階堂が窓の外を見ながら言う。
「拾った一般人じゃない、はもう確定だな」
「知ってる」
「しかも、ただ危険なだけじゃない」
「知ってる」
「外の方でも整頓されてる」
真壁は小さく息を吐いた。そうだ。九条は今現在危険な男であるだけじゃない。過去に一度、誰かに消されている。死んだことにされ、処理済みにされ、それでもなおここにいる。
現在の銃撃より、過去の処理失敗の方が、じわじわと追いついてきている。
そしてその過去は、記録の中だけじゃない。
若い、手練れの影。
知っている誰かの視線。
人の形を取って、もう追いついてきている。
真壁は前方の白み始めた空を見た。
切るには重すぎる。
使うには危なすぎる。
しかも過去の方から追ってくる。
嫌な確信だけが、朝へ向かう道路の上で静かに固まっていった。




