第三話 二重に追われる
逃げる時、人間は二種類に分かれる。
何を捨てるかで考える奴と、何を残せるかで考える奴だ。
真壁彰は前者だった。車、荷物、服、連絡先、寝場所、顔。使えなくなったものは順に切る。惜しんでいる余裕があるうちに死ぬ。そういう場所を何度も見てきた。だから残すものを数える習慣がない。切ってもまだ生きる、その線だけを残して前へ進む。
対して二階堂壮也は、切ったあとに何が残るかを先に見る。車を捨てれば監視カメラの導線がどう変わるか。荷物を減らせば次の偽装で何が足りなくなるか。顔を隠せば逆にどう目立つか。真壁の乱暴さを、あとから整理して歩ける形に戻すのが二階堂の役目だった。
そして後部座席にいる九条雅紀は、そのどちらでもなかった。切るものにも、残すものにも、ほとんど執着が見えない。ただ、死ぬ場所だけは見えている。そういう不気味さがあった。
午前四時を少し回った頃、三人は山裾の町へ入る手前の古びた倉庫の脇で、一度だけ車を止めていた。工場地帯のはずれで、夜勤のトラックがたまに通る程度の道だ。照明は少なく、空気は薄く油の匂いがした。完全に安全な場所ではない。だが、この数時間の中ではまだましだった。
二階堂が運転席で端末を開き、真壁は助手席で銃の残弾と周辺の気配を確認している。九条は後ろで、何もない窓の外を見ていた。眠ってはいない。疲れている気配も大きくは出さない。そこがまた真壁には腹立たしかった。
「一時間」
真壁が言う。
「最長で」
「理想は四十分」
二階堂が画面から目を上げずに返す。
「この車、もう生きてないから」
「知ってる」
「ナンバーは二回切り替えたけど、目立ち方が嫌なんだよ。塗装が商用車すぎる」
「贅沢言うな」
「言いたいんだよ、こういう時くらい」
軽口の形はしているが、指は止まらない。画面に流れる文字列を追いながら、二階堂は別の端末も立ち上げた。表の回線ではない。残った噂と、消しきれない情報の端だけを拾うためのものだ。
真壁はポケットからもう一台の薄い携帯端末を出した。登録名もない番号へ短く発信する。三回で切る。待つ。数秒後、折り返しが来た。
「真壁だ」
相手は男だった。声は低いが、寝起きではない。起きていた声だ。
『珍しい時間だな』
「面倒が起きた」
『お前がそう言う時は、たいてい面倒では済まない』
「今日はそれでいい。聞くだけだ。こっちの撤収線、誰かに売られてるか」
通話の向こうで、相手が黙った。真壁はその一拍で顔をしかめる。答えの内容より、遅さが嫌だった。
『……何かあったか』
「聞いてるのはこっちだ」
『確認中だ』
「遅えな」
『確認に時間のかかる話だ』
「そういう返しの時は、大体黒だ」
『そう決めつけるのは早い』
「早いかどうかは俺が決める」
相手はまた黙った。
「もうひとつ。こっちの顔を知ってる動きがある」
『それは』
「答えろ」
『……今は、こちらから触らない方がいい案件がある』
真壁は通話を切った。切ってから一秒ほど、動かなかった。それから端末を膝の上へ投げるように置いた。
「最悪だな」
二階堂が言う。
「聞いてたか」
「顔見れば分かる」
「鈍い」
「そういう時だけ真壁の顔、よく動くんだよ」
真壁は返さなかった。今のやり取りで充分だった。明言はない。だが、遅い。濁す。触るなと言う。つまり、こっちの所属ラインも何かを隠している。少なくとも、今この状況を素直には拾いたくないらしい。
一方の二階堂は、まるで別の温度で調べていた。顔写真の断片。都市監視の抜け。処理済み記録。別名義の古い事故記事。死体よりも記録の死角を見るような調べ方だ。
「へえ」
短く言って、画面を拡大する。
「真壁」
「何だ」
「九条、ずいぶん広いとこから嫌われてるな」
真壁が振り向く。
九条は後部座席で、まだ黙っている。
「何が出た」
「嫌われてる、というか……きれいに残ってない」
「意味が分からん」
「こっちの方がもっと嫌だよ」
二階堂は画面を見たまま言う。
「名前の綴り、表ではちゃんと出てこないのに、裏でだけ何回か顔に近い断片が引っかかる。で、所属と処理の欄だけ、妙に荒れてる」
「敵か味方かは」
「まだ分からない。でも普通の目撃者処理じゃない」
真壁は小さく息を吐いた。
そこへ後ろから九条の声が落ちる。
「もうここも長くは使えない」
真壁は振り返らずに言った。
「今その話してねえ」
「この道、五時台で流れが変わる」
「何だと」
「物流が動く」
九条は窓の外を見たまま続ける。
「大型が増える前に抜けた方がいい。ここは止まる場所じゃない」
真壁は舌打ちしたくなった。だが九条の言い方は、知識の披露ではない。ただ、そこが死ぬ場所に変わる時間を知っている人間の声だ。
「お前、何でそういうのが見える」
「見えるというより、そういう順番だから」
「その返し、気に入ってんのか」
「そういうわけじゃない」
二階堂が画面から目を上げた。
「九条」
「何だ」
「自分の説明する気ある?」
九条は少しだけ考えるように目を伏せた。
「必要か」
「ほら、それなんだよ。必要かどうかを、毎回こっちに返す」
「必要なら聞いてくれ」
「聞いてる」
「答えている」
「答えてねえだろ」
真壁が低く言った。
九条は真壁を見た。
「必要な範囲では」
その静けさに、真壁の苛立ちはさらに増した。こいつは自分のことを話さないのではない。説明という行為そのものが薄いのだ。
「ここで下ろすなら今だ」
真壁が前を向いたまま言う。
二階堂がすぐ反応する。
「それで終わる?」
「終わらせる」
「終わらないよ」
二階堂は即答した。
「こっちを知ってる線は、九条抜きでも生きてる。逆に九条だけ追ってる線もある」
「まだ確定じゃねえ」
「確定じゃない。でも、そう読んだ方が自然だ」
真壁は鼻で息を吐いた。
「情が移るには早いぞ」
「情じゃない。計算」
そこで真壁は後ろを見る。
「お前は」
九条は少しだけ首を傾けた。
「何が」
「切られる話してる」
「そうだな」
「それで終わりか」
「お前たちが決めてくれ」
その一言で、車内の空気が一段冷えた。
「自分のことだぞ」
「分かっている」
「分かってて、それか」
「俺が決めるより合理的だろ」
真壁はそこではっきり苛立った。九条は自分の生死や処遇を、まるで荷物の置き場みたいに他人へ預ける。その冷たさが気に入らない。
「勝手に捨てられる側へ回るな」
真壁は吐き捨てた。
九条は一瞬だけ黙った。それから視線を窓の外へ戻す。
「……なら、置いていかないでくれ」
それは取りすがる言い方ではなかった。願いでも懇願でもない。ただ、事実を置いた声だった。
真壁は返答を一瞬失う。
二階堂だけが、小さく息を吐いた。
「はい、今のはずるいな」
「そうか」
「自覚ないのか」
「ない」
真壁はエンジンをかけた。
「もういい。ここを出る」
商用車は倉庫脇の道をゆっくり抜け、大きな国道へは入らず、山沿いの地方道へ切った。東の空はまだ暗いが、底の方だけ少し薄くなっている。夜が完全に明ける前の時間帯は、一番人目に触れにくい代わりに、待ち伏せには向いている。
二階堂は運転を代わり、真壁は助手席で外を見る。九条は後ろにいる。しばらくは誰も喋らなかった。
町を抜け、橋を渡り、小さなバイパスへ入る。給油所、コンビニ、閉まった修理工場。どこにでもある風景だ。だからこそ、待ち伏せには使いやすい。
「この先、給油する?」
二階堂が言う。
「残量は」
「三分の一」
「まだ行ける」
「次の町まで行くなら入れても」
「だめだ」
後ろから九条が言う。
「そこは死ぬ」
「またそれか」
「正面から見えすぎる。出入口が一つしかない。裏も狭い」
二階堂が速度を少しだけ落とす。
「確かに逃げ道は悪いな」
「給油だけなら充分だ」
真壁が言う。
「給油だけでは終わらない」
九条が答える。
「入った瞬間、止められる」
「根拠は」
「広い場所の後ろに狭い場所が続くから」
「答えになってねえ」
「追う側なら、そこで待つ」
真壁は歯を食いしばった。九条の言葉には、いつもこの質がある。全部は説明しない。だが、追う側、待つ側、切る側。そっちの発想で物を見ている。
「通り過ぎる?」
二階堂が言う。
「半歩だけだ」
真壁が言った。
「半歩だけ信じる」
二階堂は軽く笑う。
「嫌な信頼のされ方だな」
「信じてねえ」
「知ってる」
給油所を通り過ぎる。
そのまま百メートル。二百。三百。
直後、バックミラーの中で白いワゴンが給油所の横から動いた。客の車ではない。止まり方が違う。さらに反対車線の軽自動車がわずかに速度を落として、こちらの後ろへつく。
「……当たりか」
二階堂が低く言う。
「うるせえ」
真壁が返した。だが声の底に、九条への小さな苛立ちが混ざる。
また当てた。
当てるからこそ、気味が悪い。
「まだ正面は詰んでない」
九条が言う。
「次の橋は渡らない方がいい」
「何で」
「向こうからも来る」
「見えないぞ」
「見えなくていい。あそこは挟む形になる」
二階堂がハンドルを握り直す。
「信じる?」
「半歩だけだ」
真壁がもう一度言う。
橋の手前で二階堂はわずかに速度を落とした。真壁は前方を見る。普通の橋だ。小川を跨ぐだけの短いコンクリート橋。両脇にガードレール。渡れば次の集落へ入る。どこにでもある景色だ。
だがその瞬間、向こう側の脇道から黒いセダンが頭を出した。完全に道を塞ぐほどではない。だが、橋に入っていれば詰んでいた。
「右」
九条が言う。
「今」
二階堂は橋の手前の細道へハンドルを切った。軽ワゴンが軋む。真壁はドアに手をつき、後ろを確認する。追ってくるワゴンも向きを変えようとするが、入り口が狭く、一瞬だけ遅れた。
「二種類いるな」
二階堂が静かに言う。
「後ろのやつはこっちの逃げ筋を読んでる。橋の向こうは待ち伏せ専用」
「分かるのか」
「雑さが違う」
真壁はミラーの中の白いワゴンを睨んだ。後ろのやつは、真壁たちの動きに詳しい。車間の詰め方も、抜け道への反応も早い。一方、橋の向こうに頭を出したセダンは、九条を止めるための位置取りだった。
「……おい」
真壁が後ろへ言う。
「お前、敵を呼んでるのか」
九条は少しだけ目を上げた。
「呼んではいない」
「追われてるのは認めるんだな」
「否定しても意味がない」
「最初から言えよ」
「聞かれなかった」
真壁は本気で殴りたくなった。だが今はそれどころじゃない。
細道は古い住宅地へ抜けていた。朝が近いぶん、まだ人通りがない。だが住宅地は隠れやすい代わりに、抜けた先で詰まりやすい。
「この先、左は使わない方がいい」
九条が言う。
「何で」
「袋小路だ」
「見えない」
「電柱の位置が違う」
二階堂が小さく笑う。
「嫌だなあ」
「何が」
「一般人の観察じゃない」
九条は答えない。
真壁は前方の分岐を睨む。確かに左は奥が見えない。真っ直ぐは少しだけ開けている。右は狭い。
「真っ直ぐ」
真壁が言う。
「その先で一回止まる」
九条が続ける。
「止まる?」
「待ち伏せの読みが速い方を切るなら、一度見失わせた方がいい」
真壁は振り向いた。
「お前」
「追う側だった目だと?」
二階堂が横から言う。
「俺も今ちょうどそれ聞こうとしてた」
九条は少しだけ視線を逸らした。
「……追われたことがあると、分かる」
「違うな」
真壁が言った。
「追われた奴の目じゃねえ」
九条は黙った。その沈黙が答えより悪い。
住宅地を抜け、真っ直ぐ少し走った先に古い配送所の跡地があった。門は開き、敷地がL字に折れている。二階堂がそこへ車を入れる。
「止める?」
「十秒だけ」
九条が言う。
「何のために」
「後ろの一台を前へ出させる」
二階堂は真壁を見る。真壁は短く頷いた。
「やれ」
軽ワゴンを敷地の陰へ滑り込ませる。エンジンは切らない。
五秒。六秒。七秒。
白いワゴンが前の道を通り過ぎた。こちらを見失ったのだ。
「今」
九条が言う。
二階堂は即座に車を出し、反対方向へ切る。
今度は後ろに誰もいない。橋の向こうのセダンも、白いワゴンも、少なくともすぐには追いつけない。
真壁は助手席の窓へ肘をつき、短く息を吐いた。九条の読みを半歩だけ使った。そのせいで生きている。それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
「真壁」
二階堂が低く言う。
「何だ」
「もう荷物って言えないな」
「分かってる」
「でも仲間でもない」
「それも分かってる」
後ろで九条が言った。
「ここで下ろしてもらっても構わない」
真壁は振り向いた。
「まだ言うのか」
「二系統あるなら、分けた方が生きる」
「お前を下ろして終わるならな」
「終わらない可能性もある」
「自分で言うな」
「事実だ」
真壁はそこで、はっきり九条に腹を立てた。こいつは自分が原因で盤面が歪んでいることを知っている。知っていて、その重さを自分で背負うより、処遇だけを他人へ預ける。切るなら切れ、置くなら置け。そういう冷たさを平気な顔で出す。
「勝手に決めるな」
真壁が低く言う。
九条は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、決めてくれ」
真壁は返せなかった。
またそれだ。
自分のことなのに、決定権だけを他人へ渡す。
それが九条の癖なのだと、もう嫌でも分かってきていた。




