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逃走中に拾った男が、どう見ても一般人じゃない  作者: 綾見 恋太郎


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第二話 一般人の手つき

 拳銃を机の端へ置いたあとも、九条雅紀は立ったままだった。

 拾った時と同じで騒がない。弁解もしない。今しがた自分で「一般人だ」と言ったばかりの人間が、床に落ちた銃をためらいなく拾い、最短の手つきで安全確認だけして戻した。普通なら、そのあとに何か出るはずだ。気まずさでも、取り繕いでも、言い訳でもいい。だが九条には何も出ない。

 真壁彰は椅子の背に片手をかけたまま、机の上の銃を見ていた。目の前の男を見ていると、顔より先に手の記憶が残る。あの持ち上げ方。指をかける位置。重心の取り方。余計な力がない。

「もう一回言う。何者だ」

 九条は真壁を見た。怯えはない。挑発でもない。ただ、問いの角度を見ているような目だった。

「一般人だ」

「一般人の定義を今ここで説明しろ」

「必要か」

「いるから聞いてる」

 九条は一拍だけ黙る。黙ったまま、部屋の隅、窓、出入口、また真壁へと視線を戻す。

「武器に触ったのは危ないからだ」

「聞いてねえ」

「落ちていたから」

「それも聞いてねえ」

 二階堂壮也が壁にもたれたまま、小さく息を吐く。

「話が上手いんじゃなくて、ずらすのが上手いな」

「ずらしてない」

「いや、ずらしてる。俺らは“何者か”を聞いてる。あんたは“今やった行為の理由”を答えてる」

「どっちも今必要な情報だと思う」

「その返しする時点で、普通の会社員じゃないんだよ」

 九条は答えなかった。否定も肯定もない。その曖昧さが、真壁の苛立ちを逆に強くする。

「雇われたのか」

「違う」

「どこから来た」

「仕事帰り」

「どこの」

「医療関係」

「それ、さっきも聞いた」

「答えも同じだ」

 真壁は舌打ちをこらえた。この男は嘘がうまいわけではない。もっと質が悪い。核心に触れさせないまま、返答だけは成立させる。質問を潰すのではなく、前提を少しずつずらしていく。

「じゃあこう聞く。今夜、あの場所で死ぬ覚悟はあったのか」

 九条はほんのわずかに目を細めた。

「死ぬ場所じゃなかった」

「答えになってない」

「死ぬなら、あそこじゃない」

 その言い方に、真壁は眉を寄せた。助かりたいとも、怖かったとも言わない。危険の種類を分けているみたいだった。

 二階堂が小さく笑う。だが目は笑っていない。

「怖くなかったのか」

「怖い」

「そうは見えない」

「見せる必要がなかったから」

 真壁はそこで初めて、はっきりと苛立ちの形を理解した。九条は助けられた人間の振る舞いを一切していないのだ。礼も薄い。取りすがりもしない。ここへ置かれたこと自体を半ば前提にしている。放り出される可能性まで、もう計算に入っている顔だった。

「お前、自分が今どういう立場か分かってるか」

「拾われた側か」

「言い方が気に食わねえな」

「正確じゃないか」

「助けたつもりはねえ」

「分かっている」

 その返答が早すぎて、真壁は一瞬言葉を失った。本当に分かっているのだ。助けられた、ではない。捨てる暇がなかっただけ。その温度をきちんと読んでいる。

 二階堂が天井を見上げるようにして言った。

「真壁さん、これどこまで聞いても同じだな」

「だろうな」

「切る?」

 言い方は軽い。だが目は本気だった。面白がっているのではない。危険物の種類を見ている目だ。

 九条はそのやり取りにも反応しなかった。切るか切られるかの話を、自分のこととして聞いていないようにすら見える。真壁にはそこが一番気に入らなかった。

「座れ」

 九条は再び椅子へ腰を下ろした。今度は少しだけ体をずらし、窓と出入口が両方視界に入る位置へ調整する。その無意識の動きに、真壁と二階堂は同時に気づいた。だがどちらもすぐには口にしない。

 部屋は古い短期賃貸の一室だった。ワンルームよりは広いが、潜伏には向いていない。安っぽいソファ、低い机、壁際のテレビ、細いベランダ窓。出入口は一つ。風呂場へ続く短い廊下があり、ミニキッチンの換気扇が低く唸っている。外から見れば、夜勤帰りの会社員が一人使っていそうな部屋だ。

「何見てる」

「ここ、夜までもたない」

 あまりに自然に言うので、一瞬だけ聞き流しそうになる。

「何だと」

「非常階段の位置が見えすぎる」

 二階堂が顔を上げた。

「どこが?」

「あの窓から向かいの建物の踊り場が見える。向こうからも同じ」

 九条は、今度は天井近くを見た。

「あと、監視カメラの角度が悪い」

「どこにカメラがある」

「通路の端。玄関を正面から見てない」

「見たのか」

「エントランスで」

「俺は見落とした」

「そういう配置だった」

 それから九条は、隣室側の壁を軽く見た。

「生活音が薄い」

「空室なだけだろ」

「両隣とも」

 真壁は黙った。入る前にそこまで見ていない。二階堂はわずかに首を傾けている。あの短い導線で、そこまで拾ったのかという顔だった。

「他には」

「建物の反響が強い」

「それが何だ」

「足音が拾いやすい」

 九条はそこでようやく真壁を見た。

「ここは、正面が来る前提の場所だ。抜けるなら早い方がいい」

 誇らしげでもない。脅しているわけでもない。ただ事実を並べただけの口調だ。その淡々とした感じが、真壁には余計に腹立たしかった。

「お前さ。どこの一般人だ」

「一般人だ」

「もうその答え飽きた」

「俺も」

 二階堂が言った。

 真壁は窓へ歩み寄り、外を見た。向かいのビルの非常階段は確かに近い。こちらの窓が点いていれば、人影は見える。カメラの位置まではここから分からないが、九条の言うことは一応筋が通っていた。

 筋が通る。

 だから余計に悪い。

「ここを変えるなら、どこへ行く」

 二階堂が言う。

「今は下に出ない方がいい」

「正面を待っているなら、階段側へ回る」

「で?」

「上へ」

 真壁が振り返る。

「上?」

「屋上まで行く必要はない。二階か三階で抜ける方が生きる」

「何でそう思う」

「下はもう死んでいる」

 その単語の選び方に、真壁はぞくりとした。使うべきじゃない場所を、死んでいると言う。戦闘の場数を踏んだ人間の言い方だった。

「この部屋を選んだのは俺だ」

 二階堂が静かに言った。

「ここまで言われると少し傷つくな」

「そうか」

「そこ、“そうか”で終わるんだな」

「事実だから」

 その会話の途中だった。

 廊下の向こうで、ごく小さく金属の鳴る音がした。

 ドアノブではない。もっと遠い、共用通路のどこかで、手すりか鍵か、硬いものがぶつかったような音だ。

 真壁は反射的に立った。

 二階堂はスマホの画面を見たまま、小さく舌打ちする。

「通信、切られかけている」

 九条が窓から視線を外さないまま言った。

「正面じゃない」

「何?」

「下はもう死んでいる」

「さっき聞いた」

「来るなら、隣の空室を使う」

「どこからそうなる」

「生活音がない。使いやすい」

 真壁は玄関へ寄りかけて、そこで止まった。いつもなら自分で確認に出る。だが今は、九条の言葉が一瞬だけ足を止めた。その遅れが腹立たしい。

「お前の読みが外れたら」

「外れない」

 即答だった。

 その直後、隣室側の壁の向こうで、ごく短い擦過音が走った。家具を避けるような、重みを殺した移動の音。普通の生活音ではない。

「……くそ」

 真壁は一気に動いた。

 二階堂も同時に立つ。

「どっち?」

「上」

 九条が言う。

「今のうち。下は塞がれている」

「信じる?」

 二階堂が真壁を見る。

「信じるな。使うだけだ」

 その言い方で充分だった。

 三人は部屋を出た。玄関の電気を消し、足音を殺して共用廊下へ出る。真壁が前、九条がその後ろ、二階堂が最後尾。まだチームではない。だが配置だけを見ると、妙に噛み合ってしまう。

 階段へ入った瞬間、階下で足音が二つ重なった。下から来ている。真壁は一段飛ばしで上へ向かう。二階堂は途中で一度だけ振り返り、玄関側へ何かを投げた。薄い金属音。簡易の妨害だ。

「三階」

 九条が言う。

「四階まで行くと遅い」

「何で」

「三階の端に共用バルコニーがある」

「見たのか」

「入る時に」

 真壁は歯を食いしばった。見すぎだろ、と思う。だがその読みが役に立つ以上、否定のために止まるわけにもいかない。

 三階へ出る。薄い蛍光灯。長い廊下。古い絨毯。端に非常口。九条が指で示す。

「そこ、鍵が甘い」

「何で分かる」

「色が違う」

 真壁は一度も振り返らず非常口へ走り、ノブを捻った。開く。確かに甘い。

「当たりか」

 二階堂が後ろで言う。

「うるせえ」

 バルコニーへ出る。風が湿っていて冷たい。向かいの建物との間は狭い。隣の非常階段へ渡るほどではないが、下の駐車場へ視界が通る。

 九条が短く言う。

「左の廊下は使わない方がいい」

「またかよ」

「死角がない」

 二階堂が先に覗き込み、すぐ引いた。

「本当だ」

 真壁は舌打ちした。自分の口からではなく、二階堂の確認で確定するのが腹立たしい。

「右へ」

 真壁が言う。

「一階まで降りず、二階で外へ」

「指図するな」

「死ぬよりはいい」

 その返しが妙に自然で、真壁はさらに苛立った。だがここまで来ると、もう苛立ちだけでは切れない。九条の読みを使っている。使ってしまっている。その事実が、三人の位置を少しだけねじ曲げていた。

 右側の非常階段を降りる。下階から人の気配が上がってくる前に、二階で外へ抜ける。二階の廊下の窓は半分開いていた。

「下りるには高いな」

 二階堂が言う。

「落ちても死にはしない」

「その基準、いつも雑だな」

 九条が外を見た。

「正面の植え込みを使えば音は減る」

 真壁は一瞬だけ九条を見た。もうここまで来ると、いちいち驚く方が遅い。二階堂が先に窓枠へ足をかけ、外へ出る。続いて九条、最後に真壁。着地の音は確かに小さく済んだ。土が湿っていたせいもある。

 道路へ出る前に、九条が真壁の袖をほんのわずかに引いた。

「待って」

 その一言で真壁は止まった。止まってしまったこと自体にあとで腹が立つ。だが次の瞬間、通りの角をライトが流れた。追手の車だ。飛び出していれば、正面から見つかっていた。

「……お前」

「今だ」

 三人は車が通り過ぎた一拍あとに道路を横切り、裏の駐車場へ入る。そこから先は、二階堂の仕事だった。薄いパーカーをどこからか取り出して九条へ投げ、真壁には帽子を寄越し、自分は上着を替える。こんな時の手の動きだけは本当に速い。

「この先で一台拾う」

「車?」

「何だと思ったんだ」

「タクシーだろ」

「それだとさすがに今日は楽観的すぎる」

「偽装は」

「もう切り替えてる」

 九条は黙ってフードを被った。被り方が自然すぎる。鏡もないのに顔の線を消す位置へ一度で収める。その小さな動きが、また真壁の神経を逆撫でする。

 駐車場脇に停まっていた配達業者風の軽ワゴンを見つけたのは二階堂だった。鍵の扱いは聞かない。真壁も聞かない。

「後ろ乗って。真壁、助手席。今日は目立つから」

「いつもだろ」

「今日は特に」

 エンジンがかかる。三人はようやく走り出した。建物二つを挟み、裏道から大通りへ抜ける。後続車の気配は薄い。少なくとも今すぐ後ろにいる感じはない。

 しばらく誰も喋らなかった。車内には古い段ボールと洗剤の匂いが残っている。九条は後部座席で、窓の外ではなくサイドミラーの端を見ていた。

「お前さ」

 真壁が前を見たまま言う。

「何で自分では戦わない」

「戦えないわけじゃないな」

「……そうだな」

「じゃあ何でやらない」

「今は、やると邪魔だ」

「誰の」

「二人の」

 二階堂がハンドルを握ったまま笑う。

「そこはちょっと嬉しいな」

「褒めてない」

「分かってる」

 九条は窓に目を向けたまま続けた。

「前に出る人と、後ろを切る人がいるなら、俺は死んだ場所だけ見ればいい」

 その言い方は、役割を知っている人間のものだった。戦い方ではなく盤面の使い方を知っている。自分がどこにいると一番生存率が上がるかを、反射みたいに判断している。

「一般人はそんなこと言わないんだよ」

 二階堂が言う。

「そうか」

「まだその返しするんだな」

 車が大きな通りへ出る。追跡は切れたらしい。だが完全に息を抜くには早い。

「ここで下ろしてもらって構わない」

 九条がふいに言った。

 真壁が振り返る。

「何?」

「一人の方が追われにくい」

「何でそうなる」

「二人は俺を抱える理由がないから」

 その言い方に、真壁は奥歯を噛んだ。やはりこいつは、切られることを前提に話す。助けを求めない。置いていかれることも、捨てられることも、最初から選択肢に入れている。

「投げるの早すぎるんだよ、あんた」

 二階堂が言った。

「もうちょっと普通の被害者っぽくしたらどうだ」

「被害者ではある」

「そこは否定しないんだな」

「事実だから」

 二階堂は小さく笑った。

「真壁」

「何だ」

「この人、嘘のつき方が嫌だな」

「分かる」

「真正面の質問には答えない。でも外してるわけでもない」

「前提をずらしてる」

 真壁が言った。

 二階堂が頷く。

「それ」

 九条はそこで初めて、ミラー越しに二階堂を見た。

「何か問題が」

「大あり」

 二階堂が柔らかく返す。

「俺、嫌なんだよ。質問の前提を勝手に丸ごと持っていく人」

「誤解を減らせるから」

「増やしてるよ」

 真壁は前を見たまま、九条の言葉を頭の中で転がしていた。危険の寄り方と離れ方を知っている。武器の扱いを知っている。場所の死んだ導線が見える。自分から戦わない。切られることを前提にしている。そして、嘘をつく時は質問そのものをずらす。

 一般人ではない。

 そこまでは、もう疑いようがなかった。

 だが何者かは、まだ分からない。

 次の潜伏先は、前の部屋より小さいが、出入りが多い雑居ビルの一室だった。人の気配に紛れやすい代わりに、長居はできない。今夜だけなら充分だ。

 真壁は部屋へ入ってすぐ、窓も見ずに九条を見た。九条もそれに気づいたらしいが、何も言わない。

「さっきの続きだ。お前、何者だ」

「九条雅紀だ」

「もういい」

「医療関係者だ」

「それももういい」

「一般人だ」

 真壁は本気で顔をしかめた。

「殴るぞ」

「やめた方がいい」

「何でだ」

「音が残る」

 二階堂が吹き出す。

「駄目だ、真壁さん。負けてる」

「負けてねえ」

「感情の処理で負けてる」

 九条は壁際へ寄り、椅子にもたれた。疲れていないわけではないはずだ。だが、弱った顔を見せる気配がない。呼吸も一定だ。さっきまで襲撃を受け、窓から飛び、追跡を切ってきた人間とは思えないくらい静かに立っている。

 その沈黙の中で、二階堂が端末を開いた。表向きの回線ではない。暗い画面に短い文字列が並ぶ。顔写真照合、古い名簿、処理済み記録、焼却済みデータの断片。いつもの裏回線だ。

「ちょっと黙ってて」

 二階堂が言う。

「最初から黙ってる」

 真壁が返した。

「真壁じゃなくて、九条の方」

 九条は何も言わなかった。

 数分、キーを叩く音だけが続いた。二階堂の目が少しずつ細くなる。面白がっている時の目ではない。本気の時の、温度のない集中だ。

「……へえ」

 その一言で、真壁は顔を上げた。

「何だ」

「まだ断定じゃないけど」

「言え」

「九条雅紀に似た男の古い処理記録がある」

 部屋の空気が少し変わる。九条だけは動かなかった。

「どういう意味だ」

「名前は違う。顔の一致率が高い。で、記録上は数年前に死亡処理済み」

「死亡?」

「そう書いてある。ただし元データが綺麗に焼かれてる。残ってるのは周辺の断片だけ」

 真壁は九条を見た。

「お前、何だ」

 九条は少しだけ目を伏せた。

「今は、一般人だ」

 その返答が、前よりずっと悪質に聞こえた。真壁はゆっくり息を吐いた。殴らない代わりに、声がさらに低くなる。

「……お前、一般人じゃねえ」

 九条は否定しなかった。肯定もしない。ただ、その沈黙だけが答えより重く、部屋の中央に残った。

 二階堂が端末を閉じる。

「拾っちゃいけない人、拾ったな」

「最初からそう言っている」

 真壁が言う。

「でも、もう荷物って扱いは無理だ」

「知ってる」

 真壁は壁際の九条を見た。

 武器を使わない。

 だが危険を読む。

 切られることに慣れている。

 質問をずらす。

 そして、死んだはずの男の影がある。

 偶然拾った一般人ではない。

 別の戦場から落ちてきた人間だ。

 そこまで来て、ようやく真壁は理解した。今夜から抱えることになるのは、被害者でも、目撃者でも、ただの荷物でもない。盤面を読む危険物だ。

 使える。

 だから危険だ。

 危険だから、切りたい。

 だがもう、切るには知りすぎた。

 その気持ちの悪い位置へ、三人は静かに進んでいた。


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