第一話 拾った男
終わった仕事ほど、気を抜くと死ぬ。
真壁彰は、車の窓に流れていく夜の街を見ながら、そのことを改めて思っていた。
雨上がりだった。舗装の黒が街灯を薄く映し、路肩の水たまりが赤信号の色を鈍く返している。フロントガラスの端には、切れ残った水滴が細い筋を作っていた。
運転席の二階堂壮也が、ワイパーの速度を一段落とした。もう本降りではない。だが路面はまだ重い。タイヤの下で、小さな水音が一定の間隔で続いていた。
「ホテル、東口側はやめる」
二階堂が前を見たまま言う。
「さっきのフロント、顔残しそうなんだよね」
「好きにしろ」
「相変わらず丸投げだな」
「お前の仕事だ」
二階堂は口元だけで笑った。軽く見えるが、本気で軽くしてはいない笑い方だった。ハンドルを切る手は安定している。後続車のライト、交差点のタイミング、ミラー越しの死角、その全部を一度に見ている時の顔だ。
真壁は助手席でコートの内側に手を入れ、拳銃の位置だけを確かめた。安全装置、重さ、抜く時に邪魔になる布の感触。そこまで確認して、また手を離す。
仕事は大筋で終わっていた。依頼対象は処理した。受け渡しの段取りも、表向きは崩していない。残るのは抜けることだけだ。いつもなら、そこで気持ちを後ろへ置く。終わったこととして処理し、次の導線へ頭を切り替える。真壁も二階堂も、普段はそうしている。
だが今夜は、どこか薄いざらつきが残っていた。
「連絡、まだか」
「来てる」
「要点だけ言え」
「向こうが少し焦ってる」
「何でだ」
「知らない。だから嫌なんだよ」
真壁は小さく舌打ちした。向こうが妙に急いでいた。急ぐ理由が分からないまま、取引だけが予定どおり進んだ。そういう時は、あとで別の場所が崩れる。
車は大通りを外れ、裏通りへ入った。深夜にしては交通量が多い。配送トラックが二台、客待ちのタクシーが一台、コンビニ前のワンボックス。真壁は視線だけで台数を数える。
「右、白のセダン」
「三台前からいる。さっきの信号でもいた」
「気づいてたなら先に言え」
「まだ言う段じゃなかった」
白のセダンは、一定の距離を保ってついてきている。近すぎず、離れすぎず。偶然でもできるが、偶然にしては素直すぎた。
「切れるか」
「切れる。ただ、一本じゃなくて二本いると面倒」
「二本か」
「いてもおかしくない」
その時だった。
交差点を左に曲がった瞬間、前方の細い路地の出口でヘッドライトが閃いた。黒いワゴンが、路地の口を半分塞ぐように頭を振ってくる。ほとんど同時に、後方で乾いた破裂音が二つ続いた。銃声だった。
「ちっ」
真壁はすでに身を低くしている。
二階堂はハンドルを切りながら言った。
「外れ日だな」
口調は軽いが、目は笑っていない。アクセルを抜き、路肩へ寄せるふりをしてから急に右へ流す。後方の銃声がさらに重なり、リアガラスのどこかが白く弾けた。
「後ろ、二台」
「前は一台。右の抜け道、行けるか」
「行け」
「雑だな」
ワゴンの鼻先をかすめるようにして車が滑る。路地は狭く、両側に古い雑居ビルの壁が迫っていた。ごみ置き場のネット、錆びた室外機、閉まったままの搬入口。逃げるには向いていない。だが追う側も速度を上げにくい。
真壁は窓の隙間から一度だけ後ろを見た。白のセダン、黒の軽、さっきのワゴン。三つだ。最初のざらつきの答えが、ようやく形になった。依頼の後始末ではない。別口だ。こちらが抜ける瞬間を待っていた連中の動きだった。
「どこで漏れた」
「今それやる?」
「今だ」
「じゃあ向こうだな」
「雑だ」
「真壁にだけは言われたくない」
次の角を曲がった時、路地の奥が唐突に開けた。雑居ビル裏の搬入口が並ぶ一角だった。アスファルトの色が少し薄く、雨水が側溝へ流れ込んでいる。車ごと抜けるには狭い。だが徒歩なら切れる。
「降りるぞ」
「だよな」
二階堂はブレーキを踏むより早く動いていた。グローブボックスから薄い帽子を出し、自分の上着を裏返し、スマートフォンの電源を落とす。真壁はドアを開けると同時に外へ出た。
夜気は湿っていて、排気ガスと雨の匂いが混ざっていた。後ろで車のドアが二つ開く音がする。追手も降りる気だ。
「南へ抜ける」
「そっちは表に近い。北へ切った方が」
「押される」
「まあそうだな」
二人は言い争わない。その必要がない。真壁が前に出て、二階堂がその半歩後ろで導線を拾う。その形がもう出来ている。
搬入口脇の細い通路へ入った時、真壁は人影を見た。
男だった。
スーツ姿。濃い色のジャケットに白いシャツ。ネクタイは緩んでいる。片手を壁について立っていた。右の袖口が濡れて見える。怪我はしているらしい。だが血まみれというほどではない。年齢は二十代後半に見える。顔立ちは整っているが、印象が薄い。こういう場にいる人間の顔ではなかった。
「何だこいつ」
真壁は一瞬で分類しようとした。巻き込まれた一般人。取引先の残り。敵側の置き駒。処理対象。切り捨て対象。だが、どれにもぴたりとはまらない。
男は怯えていなかった。助けも求めない。逃げようともしない。ただこちらを見ていた。いや、正確には、こちらと、その奥の出口と、背後の気配を同時に見ている。
「動くな」
男は従った。従うというより、最初から動く気がなかった。
二階堂がその顔と服を一瞬で舐めるように見た。
「知り合いじゃないよな」
「見れば分かる」
「一般人なら厄介だ」
「置いてく」
真壁は即答した。そうするはずだった。こういう場所で余計な荷物を拾うのは、自殺と大差ない。
その時、男が初めて口を開いた。
「ここを出るなら、三十秒後には無理だ」
声は低く、よく通った。助けてくれ、ではない。ただ事実だけを置く声だった。
「何だと」
「右から来る」
「何で分かる」
男は答えない。代わりに通路の出口の少し上、換気ダクトの金属板がわずかに震えるところを見ていた。
その直後、外から車のライトが強く流れ込み、ほぼ同時に複数の足音が路面を打った。右側の抜け道だ。白のセダンと別の増援が先回りしている。タイミングは、ほとんど男の言った通りだった。
真壁は男を見た。ほんの一瞬。それで充分だった。荷物ではなく、情報になる。
二階堂が低く言う。
「助けたわけじゃないからな」
「歩けるか」
「歩ける」
「なら来い」
真壁は男の腕を掴んだ。乱暴に引く。軽い。だが引かれ方が妙だった。一般人ならもっともつれる。恐怖で足が止まるか、逆に暴れる。こいつは違う。引かれる方向へ最小限の力で体を乗せてくる。
通路を抜け、搬入口裏の階段を一気に下りる。後方で誰かが叫んだ。銃声が一発。コンクリートの角が砕ける。
「左」
「根拠は」
「表に出るより生きる確率高い」
真壁はそれ以上聞かなかった。三人で狭い路地を抜ける。男――まだ名前も知らないそいつは、基本黙っていた。息も乱れていない。怪我をしているはずなのに足取りが崩れない。
路地の出口で二階堂が足を止めた。
「車は捨てる」
「分かってる」
「この先タクシーは拾えないな」
「お前が何とかしろ」
「毎回それだな」
男がそこで初めて口を挟んだ。
「右は塞がれる」
真壁と二階堂が同時にそちらを見る。
「またか」
二階堂が言う。
「何で」
「さっきの車、回ってる」
説明はない。だが数秒後、通りの向こうでヘッドライトが一つ、こちらへ角度を変えた。さっきのワゴンだ。
「……当たりかよ」
「嫌だな」
「左だ」
「はいはい」
大通りを横切らず、裏の駐車場を抜け、さらにその先のマンション脇を通る。二階堂は歩きながらスマートフォンを一度だけ入れ替え、眼鏡をかけ、帽子を深くする。追われる側というより、夜道を急ぐ会社員の顔へ自分を滑らせていく。
「これ使って」
二階堂が後ろの男へ薄いキャップを投げた。男は片手で受け、迷いなく被る。
「器用だな」
男は何も答えない。
駅前へ近づいたところで二階堂が短く言う。
「タクシー拾う。偽名、今日の一個前で」
「任せる」
「毎回それ」
三台目でようやく車が止まった。二階堂がドアを開け、営業用の柔らかい顔で運転手に行き先を告げる。言葉の置き方が変わる。警戒のない、少し疲れた会社員の声になる。真壁には、その切り替えが何年見ても気味悪い。
三人は後部座席へ滑り込んだ。真壁が端、男が真ん中、二階堂が反対側。タクシーが走り出してからもしばらく誰も喋らなかった。
窓の外の灯りが流れる。車内には古い芳香剤の匂いがした。真壁は男を横目で見た。正面を見ている。息も整っている。傷口を押さえるでもない。痛みを我慢している顔ですらない。
「名前」
「九条雅紀」
「何してた」
「巻き込まれた」
「どこに」
「さっきの場所」
「見りゃ分かる」
九条は黙った。
二階堂が口元だけで笑う。
「一般人にしては落ち着いてるな」
「一般人だ」
「へえ」
「職業は」
「会社員」
「何の会社だ」
九条は一拍だけ黙ってから言った。
「医療関係」
「何だそりゃ」
「そういう分類になる」
「分類?」
「今はそう言うのが早い」
真壁は顔をしかめた。説明を削るのに慣れている話し方だ。答えないのではない。必要最小限だけ出して、それ以上を切る。
二階堂が横から言う。
「面白いな、あんた」
「面白くはない」
「そういう返しする時点で、普通の一般人じゃないんだよ」
九条は否定しなかった。肯定もしない。ただ、タクシーの進行方向を一度だけ見た。
「この先、右へ曲がるなら降りた方がいい」
二階堂が眉を上げる。
「何で?」
「信号が長い。止まると見つかる」
真壁が前方を見る。確かに、この先の大きな交差点は信号待ちが長い。追手が後ろにいるなら、そこで捕まる可能性はある。
「運転手さん、次で止めてくれ」
二階堂が即座に言った。料金を払い、三人はまた夜道へ降りた。
真壁はそこでようやく認めざるを得なかった。こいつは見えている。だが敵側とも断定できない。敵ならもっと別の動き方をする。こちらを逃がす理由がない。
結局、二階堂が用意していた一時潜伏先へ滑り込んだ時には、日付が変わりかけていた。古い短期賃貸の一室だ。表通りから一本外れ、エントランスの監視も甘い。使い捨てにはちょうどいい。
真壁はドアを閉めた瞬間、まず窓、次に出入口、最後に家具の配置を見た。遮蔽物になるもの、ならないもの。逃げるならどこか。二階堂はすでに通信環境と予備端末を確認している。
九条だけが、部屋の中央に置かれたままだった。
場違いな荷物。
判断保留の異物。
「座れ」
九条は素直に従った。壁際の椅子を選ぶ。窓と出入口が視界に入る位置だった。真壁はその座り方にまた引っかかった。偶然で済ませるには重なりすぎる。
「もう一度聞く。何者だ」
「九条雅紀だ」
「さっき聞いた」
「一般人だ」
二階堂が吹き出す。
「いいな。嫌いじゃない」
「笑ってる場合か」
「笑ってない。本気で面白がってるだけ」
九条は二階堂を見ない。真壁だけを見ていた。いや、見ているようで、その後ろのドアまで含めて見ている。
「巻き込まれたと言ったな。どうやってあの場所にいた」
「仕事帰り」
「何の」
「言っても意味は変わらない」
「変わるかどうか決めるのはお前じゃない」
九条はまた一拍黙った。
「今は、一般人という扱いでいい」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
その言い方が淡々としすぎていて、真壁は余計に腹が立った。怯えていない。反抗しているわけでもない。事実を最小限だけ置いて、説明を拒否することに慣れている人間の沈黙だった。
「本当に面白いな」
二階堂が言う。
「一般人にしては、分類が上手すぎる」
「分類しないと死ぬ場面だったから」
「ほら。一般人じゃない」
真壁は何も返さなかった。返さなくても分かっている。
その時だった。
部屋の隅で、小さく金属の触れる音がした。
逃走のどこかで滑り込んだのだろう。床とソファの隙間に拳銃が一丁落ちていた。真壁がさっき雑に置いたものか、あるいはコートの内側から押し出されたか。とにかくそこにあった。
二階堂が先に気づいたが、手を伸ばすより早く九条が動いた。
速かった。だが速すぎるわけではない。反射の範囲だ。
椅子から立ち上がる。
一歩寄る。
しゃがむ。
拾う。
その一連が、あまりに自然だった。
一般人なら、まず躊躇する。銃口をどこへ向けていいか分からない。持ち上げ方が不自然になる。だが九条は違った。最小の角度で重心を取り、指をかけてはいけない位置を最初から外し、ほとんど無意識みたいにマガジンと安全状態を確認した。構えない。狙わない。撃たない。ただ確認だけして、机の端へ置き直す。
それだけだった。
それだけなのに、充分だった。
真壁は何も言わなかった。
言葉にする前に、確信だけが先に来た。
一般人じゃない。
二階堂も笑わなかった。さっきまでの軽さが消えている。
「へえ」
それだけだった。だがその「へえ」は、さっきまでとは意味が違う。
九条は机に置いた拳銃から手を離した。
「危ないから」
真壁はまだ黙っていた。九条の手元だけを見ていた。安全確認の速さ。指の置き方。置き直す時の向き。どれも、見よう見まねでは出ない。
「お前」
ようやく真壁が口を開いた。
「はい」
真壁はその先を言わなかった。何者だ、と問い直しても同じ答えしか返ってこないと分かっていたからだ。今必要なのは問答ではない。この男をどう扱うか、その判断だけだ。
二階堂が壁にもたれながら言う。
「真壁」
「何だ」
「今日はもう寝ない方がよさそうだな」
「最初からそのつもりだ」
「だよな」
九条はそこで初めて、ほんのわずかに息を吐いた。安堵ではない。だが切り捨てられなかったことだけは理解したらしい。
真壁はその小さな吐息すら気に入らなかった。
助けたわけではない。
拾ったわけでもない。
捨てる暇がなかっただけだ。
それでも、今この部屋にいる。
真壁と二階堂みたいな人間なら、本来ここへ連れてくるべきではない男が、一人いる。
合理なら、もっと前に切れていた。
だが切れなかった。
その小さな狂いだけが、部屋の空気の底に静かに沈んでいた。
真壁は机の上の拳銃を見た。
そして、その向こうにいる九条雅紀を見た。
何者かはまだ分からない。
だが一つだけ、もうはっきりしていた。
一般人じゃない




