雨を弾く
【440ヘルツの孤独】
世界は、いつからこんなにも静まり返ってしまったのだろう。
東京の雨は、音を立てない。
分厚い防音ガラスの向こう側で、都市の汚れを洗い流すように、ただ無機質に滑り落ちていくだけだ。
僕は仕事道具の鞄から、音叉を取り出し、軽く叩く。
キーンという、一切の濁りがない「ラ」の音。440ヘルツ。
それは世界共通の正解であり、僕がすがりついてきた聖域だった。
ズレてはいけない。狂ってはいけない。
弦を張り詰め、ネジを巻き、すべての感情を「正しさ」という定規で修正し続けてきた。
けれど、最近気づいてしまったのだ。
完璧に調律されたピアノほど、悲しい音を出すものはないということに。
正しさは時に、人を窒息させる。
ふと、耳の奥でノイズが鳴った。
それは16年前の、湿ったカセットテープの音。
あるいは、遠い南の国で聞いた、スコールの轟音。
「レンくんの音は、綺麗すぎて寂しいね」
記憶の中の少女が笑う。
その笑顔は、錆びついた弦のように僕の胸を軋ませる。
僕は目を閉じる。
正解のない場所へ、狂ったままの音を探しに行く。
これは、止まってしまった時間をもう一度鳴らすための、最初の一音だ。
第一章:Aの音(東京・34歳)
東京のコンサートホールは、深海のように静まり返っていた。
ステージの中央には、黒い艶を放つスタインウェイ。
調律師の蓮は、その鍵盤を叩いた。「ラ」の音。440ヘルツ。
完璧なはずの音が、レンの耳にはどこか「空洞」のように響いた。
「技術は完璧ですが、音が……泣いていませんね」
リハーサルを終えたピアニストにそう言われ、レンは言葉を失った。
34歳。絶対音感を持つ天才調律師と呼ばれたかつての自分は、いつの間にか「正しさ」だけに固執する機械のようになっていた。妻との離婚調停も、原因は僕の「正論」による息苦しさだった。
その夜、誰もいないマンションで荷物を整理していると、古いカセットテープが出てきた。
ラベルには『雨のプレリュード』と、不器用な字で書かれている。
カセットデッキに差し込むと、サーッというノイズの向こうから、拙い、けれど力強いピアノの音色が聞こえてきた。そして、曲の合間に録音された、少女の声。
『レンくん、聞こえる? これが私の国の雨の音。いつか、本物の雨の中で弾いてあげる』
16年前。高校の音楽室。
タイからの交換留学生、ナラ。
彼女はピアニストを目指していたが、実家の事情で夢を諦めて帰国した。
テープの最後は、突然途切れている。
レンは衝動的に、チューニングハンマー(調律工具)を鞄に放り込んだ。
彼女を救いに行くのではない。
音が聞こえなくなった自分を、もう一度チューニングするために。
第二章:調律されていないピアノ(高校時代・18歳)
記憶の中のナラは、いつも笑っていた。
放課後の音楽室。西日が差し込み、空気中の埃が金粉のように舞う時間。
「レンくんの耳はすごいね。私のごまかし、全部バレちゃう」
ナラは、古いアップライトピアノに向かっていた。そのピアノは湿気で音が狂いやすく、誰も弾こうとしなかった。だが、ナラだけは「このピアノは正直だから好き」と言って弾き続けた。
レンは調律師の家系に生まれ、音に対して潔癖だった。
「そこ、半音ズレてる」
「ううん、ズレてないよ。これは“揺らぎ”なの」
ナラは鍵盤を優しく撫でた。
「タイの雨季はね、一ヶ月ずっと雨が降るの。雨の音には色んな音階があるんだよ。ドもレもミも、全部混ざったような音。だから、少しズレていても綺麗なの」
彼女の弾くピアノは、技術的には未熟だった。けれど、そこには確かに風景があった。
二人は言葉ではなく、音で会話をしていた。
帰国の日、ナラは言った。
「私、国に帰ったら家業の農園を継ぐわ。ピアノはもう弾かないかもしれない。でも、この曲だけは忘れない」
レンは何も言えなかった。
「行かないでくれ」とも、「待っていてくれ」とも言えなかった。
ただ、彼女が去った後の音楽室で、狂った音のままのピアノを弾いた。
それは、ひどく悲しい和音だった。
第三章:熱帯のノイズ(バンコク〜チェンマイ・現在)
バンコクのドンムアン空港に降り立つと、湿気を孕んだ熱風がレンを包んだ。
タクシーのクラクション、屋台の炒め物の音、人々の話し声。
東京で遮断していた「雑音」が、ここでは奔流となって押し寄せてくる。
レンは北部の街、チェンマイ行きの夜行列車に乗った。
ナラの実家は、チェンマイからさらに山奥に入った村で、コーヒー農園を営んでいると聞いていた。
SNSで検索すれば、彼女の現在を知ることはできたかもしれない。でも、レンはあえてそれをしなかった。
16年という空白を、デジタルの光で埋めたくなかった。
チェンマイに着き、乗り合いバスに揺られること3時間。
緑が濃くなり、空気の味が変わった。土と、草と、雨の匂い。
村に到着した時、空が急に暗くなり、スコールが降り出した。
バケツをひっくり返したような轟音。
これだ。テープの中で聞いていた、あの雨の音。
レンは雨宿りのために、村の小さな集会所のような建物に入った。
その隅に、布を被せられた一台のピアノがあった。
埃を被り、とっくに寿命を迎えているような古いアップライトピアノ。
「誰か、いらっしゃるんですか?」
背後から、タイ語訛りの英語で声をかけられた。
振り返ると、そこには大人の女性が立っていた。
日焼けした肌、目尻の笑い皺、そして記憶の中と変わらない、意志の強い瞳。
ナラだった。
第四章:それぞれの和音
「……レンくん?」
彼女は日本語でそう呟き、信じられないものを見るように目を見開いた。
ナラは今、二児の母となり、農園を経営しながら村の子供たちに音楽を教えているという。
「ピアニストにはなれなかった。でも、音楽はずっとそばにあったわ」
彼女は穏やかに笑った。その笑顔には、夢を諦めた悲壮感はなく、自分の人生を受け入れた人間の強さがあった。
レンは胸が締め付けられた。
「会いに来た」と言えば、何かが始まると思っていた。
だが、彼女の左手の薬指には、素朴な銀の指輪が光っていた。
彼女の時間は進んでいたのだ。僕だけが、18歳の音楽室に取り残されていた。
「このピアノ、もう何年もまともに音が出ないの。湿気がひどくて」
ナラがピアノに触れる。
レンは静かに鞄を開き、チューニングハンマーを取り出した。
「見てもいいかな。仕事なんだ」
レンはピアノの蓋を開けた。
内部は錆びつき、フェルトは摩耗していた。
東京のホールにあるピアノとは比べ物にならないポンコツだ。
でも、レンはかつてないほど真剣に、弦の一本一本と向き合った。
「正しい音」にするのではない。この湿気、この雨音、そしてナラの今の生活に寄り添う音を探す作業。
キン、と澄んだ音が響く。
ナラが息を呑む気配がした。
外の雨音が、ピアノの音と溶け合っていく。
一時間後。
「弾いてみて」
レンが促すと、ナラは躊躇いながら椅子に座った。
彼女が弾き始めたのは、あのカセットテープの曲。『雨のプレリュード』。
16年前より指は動いていない。ミスタッチもある。
けれど、その音は豊かで、優しかった。
夫がいて、子供がいて、生活があって、その中で奏でられる「今のナラの音」。
レンの目から、涙がこぼれた。
音が「泣いていない」と言われた理由がわかった。僕は、人生の雑音を排除しようとしていただけだったのだ。汚れも、ズレも、悲しみも、すべてを含んで初めて音楽になるのに。
第五章:サヨナラの音色
雨が上がり、夕日が村を黄金色に染めていた。
レンは帰りのバスを待っていた。
「ありがとう、レンくん。ピアノ、魔法がかかったみたい」
ナラが見送りに来てくれた。
「魔法じゃないよ。元々、君の中にあった音だ」
「ねえ、レンくん」
ナラが一歩近づいた。
「16年前、言えなかったことがあるの」
レンは彼女を見た。
「私も、レンくんのことが好きだった。あの音楽室が、私の世界のすべてだった」
過去形で語られた愛の告白。
それは、もう二度と戻らない時間への手向けの花のようだった。
レンは微笑んだ。心からの笑顔だった。
「知ってるよ。……僕も、あの音楽室にずっと住んでいたんだ」
バスが来る。
「さようなら」とは言わなかった。
「元気で」
それだけを告げて、レンはバスに乗り込んだ。
窓の外で、ナラが手を振っている。その姿が小さくなり、緑の中に消えていく。
レンは鞄の中のカセットテープを取り出し、握りしめた。
もう、これを聞くことはないだろう。
僕の耳には今、新しい音が満ちているから。
帰国したら、あの若いピアニストに謝ろう。そして、もう一度ピアノに向かおう。
正しい音ではなく、誰かの人生に寄り添う音を作るために。
バスはガタガタと揺れながら、山道を下っていく。
その揺れさえも、今は心地よいリズムのように感じられた。
(終)
【終わらない余韻】
帰国した東京の空は、相変わらず鈍色をしていた。
けれど、空気の味は少しだけ違って感じる。
僕は、いつものコンサートホールの舞台袖にいた。
ステージでは、あの若きピアニストがリハーサルをしている。
僕が調律したスタインウェイ。
彼は一音目を弾いた瞬間、ふと指を止め、不思議そうに鍵盤を見つめた。
そして、満足そうに頷き、再び弾き始めた。
その音には、わずかな「揺らぎ」があった。
数値にすれば誤差の範囲かもしれない。けれどそこには、湿気を含んだ風の匂いや、古い木造校舎の埃、そして通り雨の後の土の匂いが混じっていた。
僕はポケットの中で、あのカセットテープを握りしめた。
結局、これは一度も再生しなかった。
再生する必要がなかったのだ。
彼女の音は、過去という箱の中に閉じ込めておくべきものではなく、僕がこれからの人生で奏でていく音の中に溶け込んでいるのだから。
「さようなら」
僕は心の中で呟き、テープから手を離した。
それは別れの言葉ではなく、次の旋律へと移るためのブレス(息継ぎ)だ。
音楽は続く。
たとえ演奏者が去り、客席の灯りが消えても。
その余韻だけは、誰かの記憶の中で、永遠に震え続けている。
窓の外で、雨が降り出した。
東京の冷たいアスファルトを叩くその音が、今日はなぜだか、優しいピアノの音色に聞こえた。




