三 出来事
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
「よお、サイモン。」
サイモンは最寄り駅のホームで掛けられた声に振り向いた。声で誰だかは分かっている。加賀美だ。
「加賀美か。……こんなところで会うなんて久しぶりだなぁ。」
「久しぶりって、初めてだよ。駅で会うのは。俺たち。」
加賀美がサイモンの隣に来てそう言う。
七月四日、土曜日。雨は昨日から降り続いていた。雨のせいで、ホームで電車を待つという行為そのものが憂鬱さを運んでくる。サイモンは傘の先を床でトントンと鳴らした。
「それ、止めたほうが良いぜ。」
加賀美が言った。
「傘。」
「あっ、すまん。」
謝ってからサイモンは思っていることを言った。
「駅で会うのは初めてだったっけか。」
加賀美は怪訝そうに眉をひそめたが、サイモンの言わんとするところが分かったらしかった。
「ああ、確かに高校時代は何度か会ってたよな。俺が言ったのは予備校に入ってからだからさ。」
サイモンは納得した。雨音がなぜか耳をつく。こんな日は碌なことが起きない。
「サイモン、雨の日はバスだよな。確か。」
加賀美がホームの天井に吊り下げられている時計と、自分の腕時計の時刻を比べながら聞いた。サイモンは軽く肩をすくめた。
「バスを選んでいたのは、のんびり座って行きたいからだよ。でもそろそろ駄目だ。一限に間に合うやつの時間は早くて、寝坊すると乗れん。電車で行くことにしようかなって、諦めかけてるよ。」
加賀美は頷いてから言った。
「疲れが出てくるよな、勉強ばっかだと。慣れてくるけどさ。」
サイモンは自分の寝坊という単語から、昨日の加賀美の言葉を思い出していた。
(………悶々として五時過ぎだったよ。寝たのは。)
「昨日は良く寝れたのか。」
サイモンの問いに加賀美は真面目な顔で答えた。
「……疲れてたらしい。ぐっすり六時間寝た。」
「良かったな。」
加賀美は答えない。
構内アナウンスが電車の訪れを告げる。
「……一番ホームに電車がまいります。白線の内側に下がってお待ちください。」
アナウンスに声を重ねながら加賀美は言い始めた。
「予備校生じゃないかと思ってたんだ……何の脈絡もなく。」
加賀美の視線は宙をさまよっていた。
「だから、昨日、荻さんにそうだ、と聞かされたとき、飛び上がるほど驚いた。」
電車がホームにゆっくりと滑り込んで来た。サイモンは返す言葉もなく、ただ電車を見ていた。電車が停まり、扉が開いた。加賀美がポケットから新聞の切れ端を取り出し、「読むか」とサイモンに渡した。サイモンは受け取る。電車から疎らに人が降り、その倍以上の人々が乗り込み始める。サイモンも加賀美も強引に体を割り込ませ、場所を確保する。空気の抜ける音と共に扉が閉まった。外気が遮断され、不快な人いきれが車内を包む。鼻につく湿った匂い。気だるい雰囲気。電車が、停まったときと同じようにゆっくりと動き始めた。
『予備校生、飛び込み自殺。』
小さな見出しはそう書いてあった。サイモンは吊革にも捕まれない不安定な状態だったが、加賀美に渡された新聞の切れ端を読み始めた。
『千葉県習志野市津田沼で、七月二日午前八時三十分頃、私鉄津田沼駅で医師北巻正一さん(五三)の長女、北巻しぐれさん(二○)がホームに入ってくる電車に飛び込んだ。このため私鉄はダイヤが一時間程度乱れ、急停車した電車内では数人の怪我人が出た。警察では自殺に至った経緯を含め、動機を調べている。』
サイモンは二度読むと加賀美に切れ端を返した。加賀美はポケットに切れ端を入れながら言った。
「荻さんの言う通りだったよ。昨日の新聞に載ってた。」
「記事自体は短いな。」
加賀美は頷く。
「昨日、色んな人におとといの事を聞いてみたんだ。噂が飛びかってたよ。でも、やっぱり確からしい。妊娠のことは……。」
「……そうか。」
「彼女は医学部コースに居たらしいよ。」
サイモンは北巻しぐれのことより、加賀美が心配だった。気に病んでいるかのようだ。サイモンは言った。
「………加賀美。気にしすぎだと思うがな。」
「誰だってこんなもんだよ。……と思う。ショックだったのかもしれないけど。」
「まあ、自分でそう判断したんなら、俺は何も言わないけどさ。」
サイモンは口を噤んだ。
電車は津田沼駅に着こうとしていた。サイモンは窓から外を覗いていた。ホームが下を流れている。この電車、二番ホームに停まるのかとサイモンは思い、そこが北巻しぐれが飛び込んだホームであることを思い出した。サイモンは加賀美を見た。加賀美は何も気にしていないようだった。取り超し苦労か。そう考えたが、沸き上がる黒い予感にサイモン自身が驚いていた。
ゆっくりと電車は津田沼駅に停まる。何も起きない。
扉が開いた。何も起きない。
人々が先を争うように降り始めた。
「サイモン、行くぞ。早く降りろよ。」
加賀美が扉のところで振り向いて言った。サイモンはほっとした。そして自分自身に思う。
(そうなんだよなぁ。俺、自意識過剰なんだよなぁ。忘れてたよ。)
勝手に照れながら、サイモンは加賀美の後を付いていった。
それがつもりに過ぎないと分かったのは、加賀美に話しかけようとしたときだ。
「あれっ。加賀美。」
振り返ると、加賀美はホームに降り立ってから二、三歩、歩いたとしか思えないところで立ち止まっていた。
(なにやってんだ、あいつ。)
サイモンは結んだ口を開くときに出る舌打ちの様な音を口から出してから、加賀美に近づいて行く。
(……何か変だ。)
そう思ったのは加賀美の顔が見えてからだった。のっぺりとして、表情がない。友達でなかったら顔を背けただろう。そんな顔だった。サイモンの思考は混乱しようとしていた。やばい。何が。黒い予感が胸の奥から広がってきて、全身を包むかのようだった。一筋の希望を込めてサイモンは言った。腫れ物を触るような声だと自分で思った。
「……どうした、加賀美。」
加賀美は、ホームに足を踏み込んだ途端に背中に走った悪寒に、身を震わせた。かまわず歩を進めようとした思惑は、微かに聞こえた声を契機に果たせなくなる。
………誰………。
(あれっ。)
加賀美は自分の体が硬直していると気づくのに暫くかかった。
………誰………。
(体が、動かないのか。)
目の前の景色が歪んだ。それが自分自身の異常な興奮のためなのか、それとも酸欠が近づいているためなのか、認識できない。惚けてしまいそうな頭で考える。俺、心臓悪かったっけ。
体が動かないもどかしさが加賀美にあった。しかし、それは自分が呼吸をしていない事実に直面した途端に恐怖に変わった。
噴き出る冷汗。赤く染まる視界。
耳鳴りが始まった。そして、聞こえてくる声。
………誰……か……。
加賀美の頭は恐慌をきたした。
………私……よ…。
目の前には誰もいない。いや、目の前などあるのか。目は閉じていないはずだ、しかし、視界は赤く染まったままだった。そして、次第に明瞭になる声。気配。
後ろに居る。
噴き出た冷汗がすべて凍りつくような波動。
押し寄せてくる憎しみ、怒り。
早鐘のように打ち始める心臓の鼓動。しだいにそれが不気味に響き始める。呼吸困難が脳に激しい頭痛をもたらし、頭蓋をつき破りそうな予感がした。そして、その全てが包まれ何も分からなくなる気配。それに包まれては駄目だ。それに包まれては何かが壊れる。
背後から押し寄せる黒い感情の嵐が、加賀美を飲み込んだ。心の奥底の優しく柔らかい何かが握り潰される感触。握り潰されたのは一番大切な何かだ。
加賀美は叫び声をあげた。
忘れないで………。
忘れないで………。
忘れないで………。
違うの。私は、忘れさせない。……忘れさせてアゲナイノヨ………。
その時、衝撃が光となって加賀美の側で爆発した。
「加賀美!!」
サイモンの声に加賀美の体がホームに崩れ落ちた。受け身すら忘れた倒れ方に、サイモンは慌てて加賀美の脇下に両腕を入れた。加賀美はサイモンに支えられたままで大きく肩で息をしていた。何度も肩が上下し、喉の奥からは呼吸困難の鋭い音が漏れて来ていた。
「大丈夫か。お前。」
サイモンの心配気な声に加賀美は頷いた。右手で心臓の方を押さえる。さっきのショックから心身共に抜け出していない。心臓がマラソンをしている。加賀美は、サイモンが心配そうに覗きこんで居るのに気がついた。何が起こったのか。加賀美は聞いた。
「サイモン。……俺は……。」
サイモンは眉を苦悩しているように寄せていたが、加賀美の声を聞いてそれを解いた。そして言った。
「聞きたいのはこっちのほうだ。惚けたような顔になっているから何かと思えば、お前。急に電車の来ている二番ホームの方に歩いて行ってるし。スカイライナーだぞ、分かってんのか。加賀美。」
スカイライナーとは、私鉄の特別特急である。上野、成田空港間を結ぶそれは、成田空港を利用する人のためのもので、日暮里駅以外の駅は通過していく電車だ。
しかし、興奮気味なサイモンの声を、加賀美は夢現のように聞いているだけだった。それより気になる事があるのだ。加賀美は立ち上がろうとして、足が震えていることに気がついた。
「おい、無理すんなよ、加賀美。」
加賀美は答えない。
「大丈夫なの、彼。」
「あっ、はい。大した事はないです。どうもすみません。」
人の良さそうな叔母さんが声を掛けてきたのを、サイモンは礼を言って関わってこないようにする。加賀美は見向きもしない。加賀美は考えていた。しかし、すぐに自分が既に分かっていることに気がついた。
そう、分かっている。
加賀美は自分自身に頷いた。
「サイモン……。」
「何だ。」
加賀美の足の震えは止まっていた。しかし、サイモンは慎重に加賀美の体を支えていた。加賀美が大きく息を吸った。そして吐く。吐くときの呼気と共に加賀美はサイモンに呟いた。
「あれは、北巻しぐれだ……。」
サイモンは目を見開いた。
「俺はどうやって……。……死にそう…だったのか。」
加賀美は最後に爆発したような衝撃を思い出していた。サイモンは固唾を飲み込んだようだった。そして言った。
「……変なこと言うな……加賀美。」
それは加賀美の満足いく答えではなかった。しかし、「そうか。」と云い、そのことにはもう触れない。
「電車だ。」
サイモンが言った言葉に二人はゆっくりと動いた。加賀美の足下は覚束無い。加賀美はサイモンに抱えられたままだ。一度、独りで歩こうとしたが体は言うことを聞かなかった。
「わりぃ、サイモン。」
「別に、気にするな。」
電車がホームにゆっくりと滑り込み、停まった。扉が開き、人が降りてくる。二人は邪魔であり、人波に揉まれた。しかし、足早な周りは直ぐに二人を取り残した。
ほっとした二人に、背後から突然声がかかった。
「なぁにやってんの。」
「わああああ。」
「おはよう。荻さん。」
声を出したのが加賀美で、冷静に挨拶を返したのがサイモンだった。荻は加賀美の態度に驚いていた。
「……怖いよ、加賀美君、そんなに驚かれたら。」
「えっ、そう。」
「うん。」
加賀美は軽く頭を下げた。
荻はそれに微笑む。
「それでさぁ。何で抱き合ってるの。二人して。」
サイモンと加賀美は、その時初めて自分達が人からどう見られうるのかを知った。(もう、立てるか。)(オッケーだ。)瞳で話を交わして離れようとし、互いに荻の誤解を解く最善策を練る。
しかし、それがかえって悪かった。
「なぁに、二人して目で会話しちゃってぇ。」
荻は小首を傾げた。そして二人をじっと見つめた。
「………恋人……なの。」
「何でじゃ。」
二人は声をはもらせた。
「どうしてそうなるんだよ荻さん。」
「いや、荻さん。それが本当ならとても興味深くはあるが、残念ながらそれはだね……。」
「行こう。荻ちゃん。」
サイモンの言い訳は長すぎて遮られた。二人は気付かなかったが、荻の斜め後ろには連れが立っていた。荻は振り向いて言った。
「あっ、ご免。」
そしてサイモン達のほうに笑いながら向き直った。
「そんなこと思ってないよ。早くしないと授業に遅れるよ。」
「サンキュー。」
加賀美がそう言ったのは耳に入ったのか。荻は身を翻した。何か会話を交わしながら二人は階段を登って行く。
しばらくして、それを見送っていたサイモンが手を叩いた。
「思い出した。あれは中野さんだ。」
「一緒にいた女の人だろ。知ってるよ。中野さんは、すげー頭が良いぜ。確か医学部コースだよ。」
加賀美はサイモンに振り向いた。
「……お前、高校時代同じクラスだったろ。何言ってんだよ。」
「いやね。すーっかり、忘れてた。」
「お前らしいよ。」
加賀美は呆れて言った。そして、ゆっくりとサイモンから離れる。もう加賀美の足は震えてなかった。加賀美は自分の足を確かめるような動きをした。それに満足すると言った。
「行こうぜ、本当に遅れる。」
そうして加賀美は今在ったことを無視するかのように、大股で歩き始めた。後ろを振り返る気配もない。
サイモンはその加賀美の背中を暫く見送った。
(………北巻、しぐれか。)
サイモンは後ろを振り向いた。
今は何の気配も感じられない。自分自身に問う。俺が加賀美を助けたのか、と。無我夢中で何も覚えてい。ただ微かに自分自身が何かに感じた怒りの感触が残っている。それが切っ掛けなのだろうか。
目を細めてみる。
何も見えない。姿をくらましたのだろうか。
ふと、気がつくと加賀美はサイモンの視界から消えていた。どうやら今度は、加賀美がサイモンは付いて来ているものだと思っているらしかった。サイモンは慌てて追いかけ始める。追いかけながら思った。
(何はともあれ、何とかしなくては。……いけない気がするんだよなぁ。)
どうするのか迄は、まだ分からない。
(とりあえず、渦間に電話をしてみよう……。)
サイモンはそこで思考を止め、足を速めた。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。よろしくお願いします。




