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二 気持ち

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

(死んだ方がいいんだ。)

 女の気持ちは千々に乱れていた。もう、何が何だか分からなかった。一体いつからこんな気持ちになってしまったのかさえも。……もう、誰にも言えない。前とはちがう。前は、嫌悪が先に立っていたから出来ただけ、二度もしたいとは思わない。思えない。言えない。言えない。親しい昔の親友にも、母親にも。誰にでもいい。言ったら楽になる。それは分かっている。しかし、そのことを口にしようとする度に口籠(くちごもる)るしかなかった。今迄、自分がしてきたこと、されてきたことは他人に迷惑はかけないことだと信じていた。自分さえ耐えていれば何とかなることだと。全然、子供だった。自分を思い知った。

 堕ろせば楽になるの。楽になる。楽になるわ。知ってる。知ってる。でもね。本当は嫌なの。嫌なの。本当に。本当なの。駄目だ。とても一人では決められない。命なのよ。一つの命。何でそんな簡単に決められるの。どうして他の人と比べるの。私には出来ないのに。絶対に出来ないのに。なら、それが幸せの道だと私に信じさせてよ。私一人じゃ決められない。

 どうでも良いってどういうこと。もう忘れたいって何なの。

 あの女の所為だ。私の知らない女。

 出ていけ。

 出ていけ。

 出て行け出て行け出て行け出て行け。

 違う。違う。女の所為じゃない。

 竜樹はそう言う人だった。やさしい。やさしいけど。分かっていた。子供。誰が見ても大人なのに。羨ましがられるほど大人なのに。いつも怒っていた。私には分からないと思っていたのか。いつも、いつも。

 私に言えばいいのに。全部言えばいいのに。言えばよかったのに。

 全部言って欲しいのに。私は全部を話したのに。


 女が、自分のおなかに命が宿ったとわかったのは二か月前だった。茫然とし、泣いて、毎日泣いて、泣き疲れて、男の部屋に行った。女は頭に血が登っていて、何を言ったのかはもう覚えていなかった。しかし、男の言葉だけは覚えていた。

(お前の事などどうでもいい、二度と現れるな。)

 他にも男は多くのことを喋っていた。しかし、女の心にはその言葉だけが残った。

 漠然としていた思いが形を取り始める。

(死のう……。)

 なぜ死ぬのか。女は考えたくもなかった。もう疲れていた。

 頭の中は靄がかかったようで、足下は自分が歩いているということが信じられないほど覚束無かった。そして、いつの間にか、女はいつもの駅に着いていた。もう家は何年も前に帰るところではなくなっていた。頭の靄は消えていたが、何か考えようとすると頭痛がした。吐き気が数度襲ってきたが、吐くまでは行かない。

 駅の改札で、女は人とぶつかった。

「あっ、…………と」

 どこから声が聞こえてきたのかも分からなかったが、反射的に体は落ちた物を拾っていた。単語帳だった。名前が書いてある。

「ありがとうございます。」

「えっ。」

 女は自分がお礼を言われている事実に驚いた。

「えっ。」

 相手が鸚鵡(おうむ)返しをするのが頑なな心を溶かす気がした。素直で、優しそうな男の顔がそこにあった。しかし、自分の大切だった男の顔がそこに重なり、女は表情を無くした。

「あっ、ありがとうございました。」

(どうして……。)

 ずっと、礼の言葉など聞いていなかった気がしていた。女は自分自身を駆り立てる心の焦りを感じた。礼の言葉すら聞けなかった自分の過去を振り返りたい衝動に駆られる。自分の中の何かが最後の悲鳴を上げた。しかし、その男は去ろうとしていた。

(お前の事など……。)

 聞きたくない。女は再び浮かんできた言葉に呟いた。

 電車がホームに入ってきたとき、体は自然に動いた。運転手の強張った顔にも女は無感動だった。好きだった男の顔が浮かんだ。悲しみと共に。そのとき、予期しないような想いが炎のように燃え上がり、女の心を焼き尽くした。

(私が死ぬのは、あの人の所為だ。)

 女の顔が勝ち誇ったように輝き、唇が歪められた。目に狂気の光りさえ灯ろうとしたとき、違う男の声が聞こえた。

 それは、最後に聞いたお礼の言葉だったような気がした。。

(………死ぬことはないのかもしれない。)

 体が線路に落ちた痛みを女は微かに感じた。まるで夢を見ているようだと思った。体が切断される感触を最後に、女の意識は途絶えた。


「あれって、荻さんじゃないか。」

 加賀美の言葉にサイモンは振り向いた。

「荻さんって誰だっけ。」

 加賀美は目を剥く。

「何言ってんだお前。」

「いやね。名前と顔が一致しない。」

 サイモンは人差し指を立てて説明する。これはサイモンの癖だった。気障に見えるのだが、サイモンがすると逆に微笑ましい。

 七月三日、金曜日。晴。

 久方振りの太陽が朝から顔を出していた。サイモンも加賀美も、今日は電車ではなく、自転車で来ていた。無論傘を持ってくることは忘れていなかったが、午後の降水確率は三十パーセントと低く、雨が降る心配は余り無いと言えた。

 晴れている空の所為か、昨日の自殺騒ぎの余韻もどこにもないように見える。ただ、加賀美は寝不足だった。

(駄目だよ。悶々として五時過ぎだったよ。寝たのは。)

(神経質すぎるんじゃないか。)

(お前なあ、死んだの見てないからそう言えるんでなあ。)

 加賀美の言うことは尤もだった。が、サイモンは死ぬという言葉は好きではなく、安易に使ってほしくはなかった。

「おはよう。荻さん。」

 加賀美は陽気にそう声をかけた。荻は小柄でショートの似合う、目のクリクリした女の人だ。加賀美やサイモンの知らない男や女達と一緒に居る事が多いのだが、今日は周りにその人達は見当たらなかった。加賀美もサイモンも荻とは高校時代は同じクラスで友達であったが、予備校に来てからはグループが全く違ってしまい、話す機会がほとんどなく、声をかける事が出来るのは珍しいことだった。

「あっ、おはよう。」

 荻は加賀美の声に振り向いてそう挨拶を返した。

「やあ。」

 これはサイモンの挨拶だった。右手をハイルの形に挙げている。

「おはよう。」

 サイモンにも律儀に挨拶を返してから、荻は笑い始めた。

「おはようには遅すぎだよぅ。」

 時刻は既に十二時を廻っていた。昼休み。予備校の津田沼校、A館の二階の階段前の廊下である。昼食を求めて受講生が混雑する時間は既に過ぎていた。サイモンと加賀美はその時間を嫌って外に出たのだ。

「こんなとこで何してんの。昼飯は?」

 荻は何かを捜しているように左右を見てから答えた。

「えっ、うん。まだ。」

「いつも一緒に居る人達は。」

 加賀美も釣られて左右を見ながら言った。荻は前髪を払いのけた。

「はぐれちゃったみたい。」

 サイモンは荻が変わったなと思った。奥歯に物が挟まったようなところがあったのが、消えている。今一緒に居るグループの人たちは気持ちのいい人が多そうだとサイモンは思った。加賀美は何やってんだよぅと言いながら腕を組んだ。

「そう言う加賀美君なんかは何やってんの。お昼ご飯は?」

 荻の言葉に答えるサイモン。

「あー、俺たちはこれから食事。」

「そうなんだ。」

「ダイエーの地下街にパン屋があるでしょ。そこに行こうと思ってさ。」

 加賀美の言葉に荻が笑顔で柏手(かしわで)を打った。

「知ってる。結構美味しいよね。」

「だろ、高めだけど結構行ってんだよ俺。」

 サイモンはどこかさっぱり分からない。今日、加賀美に連れて行かれようとしていたのだ。

(ふーん、結構うまいのか、楽しみだな。)

 サイモンは思う。

「荻さん、まだなら一緒に行こうぜ。」

 加賀美の言い出した言葉に荻は小首をかしげる。

「うーん。………そうね………。どうしようか。」

「早く食べないと昼休みは終わる。」

 サイモンは人差し指を立てて、突然そう言い始めた。口調は柔らだ。しかし、見下ろしている立場の人の台詞に荻は吃驚したように瞳を大きくした。

 この断定的な言葉遣いは事実関係をはっきりさせることで、俺達のことは気にするなと言っているサイモン流の優しさだ。しかし、たいてい人はその言葉遣いを誤解する。それが優しさから出たものとは取りにくいからだ。サイモンも言い方を変えれば良いと気付いているのたが、癖でこんな時にはつい使ってしまうのだ。

 荻は戸惑った様子を見せながら言った。

「あっ……。うん、そうだね。」

 そして、荻の見せた唇を噛む仕種で、サイモンは自分がまたやってしまったと気が付いた。が、もう後の祭りだった。荻は言った。

「でも、いいや。別に。」

 サイモンは罪悪感に似たものが込み上がるのを感じた。せっかくの機会を自分の所為で逃したと確信したためだ。

 しかし、加賀美はそうは思わなかったらしかった。

「よおっし。そうと決まれば行こうぜ、荻さん。俺、もう腹減って腹減って。サイモン!」

 サイモンと荻はその言葉に呆気にとられた。

「おっ、おお。」

 そう答えるサイモンも何が起こったのか把握していない。加賀美は既に階段を下り始めており、ついてこない二人を待っている。

「えっ。えっ。えっ。」

 荻もパニック状態で、サイモンと加賀美の顔を交互に見て自分の言葉の確認を求めていた。荻の態度を見て、サイモンは加賀美の行動に首をかしげた。

(荻さん、行かないって言ったはずだよな。)

 サイモンは加賀美に真実を告げようと声を上げた。

「加賀美、あのさぁ。今、荻さんが言ったのは……。」

「何だよサイモン。」

 加賀美は苛々したように言った。

(なんだかなぁ。)

 サイモンは思った。

「いや、だからな。今。荻さんは行かないってな……。」

 サイモンの言葉に加賀美は驚きを露にした。

「本当?!本当はそう言ったの荻さん。」

 サイモンはしょうがない奴目と加賀美の事を思った。しかし、そこでサイモンにとっては予想外の言葉が荻の口から出た。

「ううん。そんなこと言ってないよ。」

「ええっ!」

 今度はサイモンが驚く番だった。荻の顔を思わず見据えたサイモンは、そこで荻の面白そうな光を湛えた瞳にあった。そして荻は人差し指を唇に軽く当てる。

(……なるほど。)

「何だよ。どうなってんだ。食べる時間がなくなるぜ。本当に。」

 加賀美はさらに一段階段を下りた。荻が軽々と続く。サイモンは女とは分からないものだ。と、トンチンカンな事を思いながら二人を追った。


 ダイエーはA館の目の前にある。歩いて三十秒程だろう。そこの地下食品街に加賀美の言ったパン屋がある。パン屋なのだが、買ったパンをその店内で食べることができる。オーダーには店内のパンのほかに飲み物やシチューなども楽しめ、ちょっとした軽食屋である。

(でもこういうところのシチューは不味いんだよなぁ。)

 サイモンはカウンター上方のメニュー表を見ながら思う。

「お待たせ致しました。オレンジジュースです。」

「どうも。」

(パンが二つとジュースで480円か。)

 加賀美がテーブルから手を振っていた。荻は既に座っている。

「サイモン、パン二つで腹減らないか。」

 席に着いた途端に加賀美は言った。

「いいんだよ。俺、今日昼飯抜かすつもりだったんだから。」

「何で。」

 荻が言った。

「金がない。」

 サイモンは腰に手を当てて威張る真似をする。荻はふーんとだけ返事をした。サイモンは少しだけ自信をなくす。

「ところでさ。荻さん、この前の模試どうだった。」

 加賀美が聞いた。荻さんは食べていたパンを飲み込んでから答えた。

「んっと。ごめんね。……別に、普通位かな。加賀美君は。」

「俺は数学が全然出来なかった。英語は勉強したからそれだけ点が取れたけど。」

「数学難しかったよねぇー。」

「荻さん。選択問題、何にした。」

「微積。」

 微積とは、微分積分問題の略である。加賀美は荻の言葉を聞いて、嬉しそうな顔になった。

「微積。微積にしたんだ。あの問題最悪じゃなかった。」

「えっ。何番。」

「確か五番かな。グラフ書くやつ。」

 荻は明るい顔になって言った。

「ああ、ああ。あの問題かぁ。」

「そうそう。それそれ。」

(なんか変な会話。)

 サイモンの模試の結果は大したものではなかった。それに、模試は二週間も前のことで、どんな問題が出ていたなど覚えていない。ちなみに言うとサイモンの選んだのは確立問題だったのだが。どういうわけにしろ、良く、加賀美も荻も覚えてるなぁと、感心しながらサイモンは二人の会話を聞いていた。話しを聞いていると、どうやら荻はかなりいい点数を取ったらしかった。

「それでさ、化学の二問目が………。」

(うお。次は化学かよ。)

 サイモンは会話の流れに全く入れない。加賀美は化学の話を終えて物理の問題の話を始めている。そのとき荻が笑いだした。

「どしたの。荻さん」

 加賀美が驚いて聞いた。荻は笑いながら答えた。

「加賀美君って予備校生なんだなぁって思ったの。」

 サイモンは荻の言葉に心から同意する。

「なんで。みんな予備校生じゃん。」

 加賀美は不思議そうにそう問うた。荻はそれに頷くとさり気なく話題を変えた。

「そういえば。昨日、津田沼駅であったこと聞いた?」

 瞬間、加賀美は体を強張らせた。焦ったようにサイモンと目線を合わせる。サイモンはとりあえず目で頷き返すと、荻に言った。

「それって、私鉄の津田沼駅でのこと?」

「そう。」

 昨日、私鉄の津田沼駅で起こったことは一つしかなかった。サイモンは心の中で呟く。大丈夫かよ、加賀美。俺は、どうって事ないけど。当事者じゃないし。

「それで知ってる?私も今日聞いたんだけど。昨日、電車に飛び込んだ人。津田沼校の受講生だったんだって。」

 椅子が床を滑る音がした。加賀美が立ち上がって、目を大きく見開いていた。サイモンはあまりに激しい加賀美の反応に驚いた。荻もそれは同じだった。

「どうしたの。加賀美君。」

 加賀美はその声に我に帰ったようだった。サイモンが人差し指を立てて、荻にフォローを入れた。

「荻さん。実はそのことは加賀美の前では禁句。」

「そうなの。なんで。」

「なんでって………。」

 そう言われてサイモンも思った。

(なんでだろ。)

 加賀美は申しわけない顔を二人に見せながら席に着く。

「ごめん。取り乱しちゃったよ。」

 サイモンは視線で辺りを見た。昼休みの喧噪の中、誰も自分たちに注意を向けてはいない。加賀美が席に着くと沈黙が三人に降ちた。暫くすると荻が身を乗り出して言った。

「禁句ってどうして。」

 加賀美はその分体を後ろに逸らした。

「別に。禁句って訳じゃないんだけど……。」

「じゃ、俺、言おうか。」

 サイモンの言葉に加賀美は慌てて振り向く。

「冗談だろ。」

「実は加賀美は血を見たんだ。」

 突然のサイモンの割込みにさすがに加賀美は声を荒立てた。

「サイモン、御前なあ。」

 言ったほうがいいんだ。サイモンはそう思っていた。軽薄と言われるかもしれないが、誰も傷つかないことを胸に溜めている必要はない。見も知らない、すでにこの世にいない人に義理立てすることはない。加賀美の激しい反応を見て、サイモンはそんなことを思っていた。

「どういうことなの、ね。教えて。」

 荻の言葉に加賀美は絶句してしまう。しかし、加賀美は思った。言ってしまったほうが良さそうだ、と。昨日の出来事は親にも、友達の誰にも言えなかった。なぜか。その答えを言葉にすることを加賀美は出来ない。ただ、観念すると言葉は自然に口から流れ出てきた。

 加賀美の声色は殆ど変わらず、淡々としていた。まるで、今もその状況が脳裏に浮かんでいて、そのままを話しているという感じだった。

 加賀美の話が終わると荻は深く吐息をついた。

「………すごいね。なんか。それって。」

 サイモンがそれに同意を示す。

「そう。加賀美は運がいい。」

「何が良いんだよ。」

 加賀美はうんざりした口調で続けた。

「全然、良くないよ。どういう意味だよ、サイモン、それ。」

「おおっ。」

 サイモンの語尾は上がる。

 思案顔の荻が言った。

「人って、最後の時は、何考えてんだろうね。」

 サイモンは、人生が走馬灯のように流れるという言葉を思い出した。荻もそう思っているようだった。加賀美だけが妙なことを言い出した。

「俺、どうかなぁ。大学に受かりたかった、かなぁ。」

 サイモンがその言葉を補足した。サイモンの話題転換追随能力ともいうべき頭の回転は尊敬に値する。

「加賀美。それは、今ここで、お前が死ぬと想定した場合だろう。」

 加賀美は思案顔をした後、敗北を認めた。ここで奇妙なことがある。なぜ、敗北なのかを誰も疑わなかったことだ。もっと多くの人が居ればそうではないと思われた。そう言う意味で、サイモンはこの場を握っていると言えた。

 しかし、加賀美はそのままではなく、反撃に移った。

「でも、それってどういうことか分からないぜ。一番心に思ってることを思うわけだろう。俺の言うことも強ち間違っちゃいないよ。」

 荻は残っているジュースを飲み干しながら、二人の言うことを聴いている。サイモンは加賀美に何と言うか迷った。そしてギャグを言うことにした。

「……それなら、一人だけ分かるな。」

「なんだそりゃ。」

「渦間。」

「渦間がどうしたんだよ。」

 荻が口を挟んだ。

「誰。渦間って。」

「荻さん一緒のクラスだったじゃないか。」

 加賀美の言葉に荻は納得する。

「あの渦間君ね。」

「で、何て想うんだ。」

 サイモンはタイミングを逸しているのが分かりつつ言った。

「彼女がほしい。」

 言ってサイモンは馬鹿だなぁと想う。荻はなぜか頷いている。加賀美が呆れながら言い返した。

「それだったら俺だって一人分かるよ。」

「誰だ。」

「サイモン。」

 荻は一人笑い出した。落ちが分かったらしい。

「何?俺が何て想うんだ。」

「彼氏がほしい。」

「想うかぁ、そんなん。」

 サイモンは加賀美の頬に軽いパンチを食らわせた。サイモンはまだ笑っている荻に聞いた。

「荻さんはどう想いそうなの。」

 荻は真顔になって首を傾げた。

「その時にならないと分からないよ。」

「そりゃそうだ。」

 サイモンは尤もな答えに頷いた。でも荻さん、ずるいな。とも思う。

「今何時。」

 加賀美が言った。荻が腕時計を見、時間を告げる。

「じゃあ、もう行こうぜ。三限、始まる。」

 加賀美が席を立った。

「次はどこだ。加賀美。」

「B館の三階。サイモンは?」

「A館。」

 サイモンと加賀美の取っている授業コースは違う。四つの授業を除いて二人が校舎で一緒になることはない。加賀美と荻は同じ授業コースなのだが、一緒に居るグループが普段は違う。この食事会は本当に珍しいと言えた。

 サイモンと加賀美が立ち上がったのを機に、荻も立ち上がった。その時、思い出したように言った。

「そういえば、亡くなった女の人、妊娠していたとか、いないとか。」

 加賀美が体を硬直させた。サイモンも思わず体の動きを止める。

「女の人って、幾つ。」

 サイモンがゆっくりと聞いた。

「二十歳……かな。」

 荻が答えた。

(二浪か……。)

「荻さん、なんで年齢まで知ってんの。」

 加賀美が焦りぎみな声で言った。

「今朝の新聞に出てたと思ったけど…。見てないの。加賀美君。」

 加賀美が頷くと、荻が突然身を乗り出してきた。

「ダメだよ。見なきゃ。」

「………って、なんで!」

 加賀美は驚いていた。

「袖触れ合うも宿世の縁って言うでしょう。」

「違うよ、荻さん。それを言うなら、宿世じゃなくて、多生。」

 要らない横槍にサイモンをにらむ荻。そして言う。

「同じよ。大体。」

「……まあ、意味にしたらね……。」

 迫力負けして、同意するサイモン。サイモンにはなぜ荻が突然、加賀美を責めるのかが分からない。加賀美も分かってないだろう。だが、今、加賀美はそれはどうでも良い事のようだった。

「どっちでも良いよ。」

 加賀美は言った。疲れたような声だった。

「じゃあ、荻さんは女の人の名前も分かるんだ。」

「えっ……。ちょっと待って。」

 加賀美は慌てて言った。

「無理しなくていいんだ。もう、授業始まるし。」

 サイモンも頷く。

 パン屋の中の人影は、急速に少なくなってきていた。

 しかし、荻は動こうとしない。

「思い出した。」

 荻が言った。

「確か………北巻しぐれ。」

 外は、小雨が降り始めていた。


 夕方、サイモンは一人で予備校を出た。そして、歩いて駅に向かう。

 予備校の前に止めて置いた自転車がパンクしていたからだ。正確にはさせられたのだが。帰りはバスか電車かを迷ったのだが、足は自然と駅の方角に向っていた。

 傘は持ってきていた。雨の中、自転車で帰る億劫さを考えたら、パンクは好都合だったかもしれない。天気予報は信じられないとぶつぶつ言いながら、駅に着く。

 駅の下りホームから、昨日、北巻しぐれ死を選んだ場所が見えた。

 何かが見える。

 サイモンは目を細めた。

 しかし、それはすぐに消えた。

 サイモンはそれが昨日の朝も見えたことを覚えていた。

(……自縛霊か……可哀相に……。)

 北巻しぐれかもしれない。サイモンはそう考えた。おとといまではそんな気配は微塵もなかったからだ。『ゾクリ』とした記憶がまだサイモンの中に微かに残っている。

 一瞬。

 そのことを思った途端に沸き上がってきた嫌な予感があった。

 サイモンはそれを打ち消した。

1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。

少し手直ししました。よろしくお願いします。

イートインスペースと言う言葉は2000年代から一般的になりました。

1990年当時の学生には、なかなかおしゃれに見えたものです。価格は当時の価格イメージです。

こう考えると、30年で、物価は3倍になっていますね。

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