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一 自殺

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 加賀美は電車に揺られていた。

 外は雨が降っていた。昨夜の豪雨と比べたら可愛いものだが、雨自体が加賀美にとっては鬱陶しい。雨の日、加賀美は電車に乗って予備校に行くことにしている。

 加賀美は今年の四月から全国規模予備校の津田沼校に通っていた。

 雨の日の電車の中は朝のラッシュと合間ってむっとするような不快感がある。加賀美はいつもの事とは言え、電車に乗った事を後悔していた。

 車内アナウンスが津田沼駅を告げる。電車が一番ホームに滑り込み、扉が開くと同時に人は争うようにホームに降り立つ。加賀美は人の流れに逆らわないようにホームに足をつけ、二、三歩、歩くとすぐにポケットから単語帳を取り出した。

 「recommend………necessity ………easy、なんだよこれ………。」

 一人言をいいながらページをめくり始める。足は自然に遅くなるが、加賀美は廻りの迷惑などは気にしない。ゆっくりと階段を登り始める。昨日の復習だった。

「joint ………futile………encourage ………。」

 そして、改札を抜けようとしたときだった。

「あっ。」

 加賀美は突然ぶつかってきた人に声をあげた。目の端が長い黒髪を捕らえた。女だ。

「……っと。」

 単語帳が下に落ちた。

 加賀美は思い切りよくぶつかられ、体勢を崩していた。

(ちゃんと前、見てくれよな。)

 ぶつぶつと非難めいた気持ちが沸き上がった。加賀美は詫びぐらい言えよと思いながら女の方に顔を向けた。

 体に電流が走った感触があった。

 乾ききっていない髪。華奢な体つき。

 目の下の隈。魂を抜かれた能面のような表情。

 しかし、加賀美はその表情の中で彼女の瞳に吸い寄せられた。

 一度見たら忘れられない瞳の色。強烈な印象に鳥肌が立ち、加賀美は自分の呼吸を忘れた。整い、透き通るような可愛らしい顔立ち。しかし、瞳の色がその事実を痛々しいまでに否定している。何かが彼女の身に起きてしまっている事が分かった。それはもう取り返しがつかなく、彼女の一部と成ってしまっている事も。

 脅えにも似たその瞳の色。

 突然、加賀美の中に胸を掻き毟りたい衝動が生まれた。言葉に出来ない思い。彼女の求めているものが自分にないことが分かった。彼女にかけうる言葉が何もない事実。

 絶望。

 彼女が持つその瞳の色の名は、絶望。

 加賀美が我に帰ったときには、女は加賀美の単語帳を拾おうとしているところだった。加賀美は慌てて彼女を制した。

「あっ、拾います。自分で拾います。」

 女はすでに腰を屈めていて、その手には加賀美の単語帳があった。加賀美は顔を赤らめた。衝動は既に静まっている。

 女は加賀美に単語帳を差し出した。

 腕が青白く、折れそうに細いのが気になる。加賀美は慌てて取りそうになるのをこらえ、心持ちゆっくりと受け取った。

「ありがとうございます。」

 加賀美は頭を下げた。恐縮しているのが自分で良く分かった。その時女の口から言葉が漏れた。

「えっ。」

「えっ?」

 加賀美はその言葉を鸚鵡(おうむ)返しした。女の顔は言葉を発した事実を否定するかのようだった。無表情。だが、確かに彼女はそう言った。今しがた感じたばかりの衝動が胸の奥で疼く。しかし、その言葉を発するには余りにも口が乾き、瞳の拒絶が強かった。加賀美には彼女の言葉を確かめる権利などないのだ。加賀美は自分の感じた押し付けがましい感情にますます恐縮してしまい、さらに頭を下げた。

「あっ。ありがとうございました。」

 返事はない。加賀美は迷ったがもう一度、今度は会釈をすると女に背を向けた。


 女は、背を向けた加賀美の姿に見入っていた。瞳が激しく揺れ、形のよい唇が微かに震えたように見えたが、何かを思い出したかのようにすぐに結ばれた。そのまま身が(ひるが)えされ、足が速められた。くたくたになるまで歩いた。なぜ、自分がこの場所に決めたのかは分からなかった。


 改札の外で、加賀美は後ろを振り返った。無表情な女の顔、瞳の色、そして自分の感じた衝動に後ろ髪を引かれていたのだ。ちょうど女が身を(ひるが)し、足早に一、二番ホームへの階段を下りるところだった。儚く、細すぎるほどの後ろ姿だった。女が視界から消えても加賀美はしばらく女の姿を追うかのように視線を動かさなかった。

 いや、動かせなかったのだろうか。

 加賀美は凍りついたようになっている自分に気がついた。

 深呼吸をする。自分の行動に自分自身で驚きながら加賀美はゆっくりと足を踏み出した。一歩、二歩。

 三歩、歩いた。

「何してんだ!あの女!」

 突然その言葉は空気の中に炸裂し、加賀美の耳を射た。

 駅構内に何度も木霊している錯覚に陥る。

(あの……女?)

 加賀美は再び振り向く。その動きは弾かれたように速い。

「キャーーーーーッ。」

 悲鳴。錯覚ではない。加賀美は頭に血が登り、体が強張る感触を意識した。自分自身がこの空間から隔離して行く気配。

(まさか……?)

「飛び込んだ。飛び込んだ。」

 周りのざわめきが微かに加賀美に耳に聞こえてきていた。視界が急激な緊張に、ぼやける。

「……自殺だ。」

 見知らぬ男の口から漏れた言葉がやけにはっきり聞こえ、その瞬間わだかまっていた思いが一つになった。痛いほどの予感が脳裏を貫く。加賀美は視界がぼやけているのにも構わず、衝動に身を任せた。

(まさか!さっきの人!)

 加賀美が誰よりも速く動いた。改札周りで惚けたようになっている人々の間を縫って走り始める。駅員が止める暇もあればこそ、そのまま改札を走り抜け、女の消えた一、二番ホームへ向かう。下り階段の一番上で、加賀美は歪んだ視界の中、口を手で押さえて駆け上がって来る人達を見た。

 加賀美の頭の中に沸き上がる何かはそのまま形を成さない。歯を食いしばり、覚束無い足取りで階段を駆け降り始める。階段の踊り場に(うずく)り、たまらず吐いている人を横目で見送りながら、必要以上に意識している自分の足裏(あしうら)夢現(ゆめうつつ)を振りはらおうとする。恐慌(きょうこう)をきたしている一団を掻き分ける。掻き分けているのが人である意識は殆ど無い。無理やり体をねじ込み、ぶつかってくる人たちを肩で押し分け、加賀美はホームに降り立った。

 電車は二番ホームの途中まで入ってきて止まっていた。突然の出来事を目の当りにしたためか、泣き出している人の嗚咽(おえつ)が聞こえる。加賀美は歩みを進めた。緊張がゆっくりと醒めるのを感じる。視界が戻り始め、隔離されているような奇妙な感覚が消えて行く。それと共に、車体に雨ではない液体が飛び散っているのが見えた。そして、それはホームにも。

 雨に流されようとしているそれは余りにも赤い。

 加賀美の足が止まった。目を逸らすことが出来なかった。車輪の下からは線路を伝ってまだまだ赤いものが染み出してきていた。それが現実だった。

(なんでだ。)

 加賀美の思考はその言葉を最後に停止した。

 茫然と立ちつくしているその耳に、駅員の怒鳴り声が聞こえた。荒々しく後ろに下がらせた手も加賀美は気にならない。遠くからパトカーのサイレンが響き始め、そこに激しくなった雨音が重なった。


 私鉄の津田沼駅の規模は幹線が二つと複線が一つである。つまり、ホームが三つで、線路が上りと下りを合わせて六つある。しかし、私鉄である故か、それとも場所が悪いのか、くたびれた外観のこじんまりとした駅となっている。それは開けているJR駅と好対称とも言えた。

 サイモンは真実と別れるとそのまま改札口に向い、駅員に切符を投げるように渡して、足早に改札を抜けた。

 予備校は完全に遅刻であった。電車の中では非現実的な事実の前に感覚が麻痺していたが、いざ遅刻だなぁと思うと気が滅入ってくる。人が一人亡くなったところで日常は何も変わらない。駅の機能でさえもが何事もなかったように動き始めている。

 この駅から予備校までは十五分程歩かねばならなかった。

(帰ろうかなぁ。)

 サイモンはやる気なくそう思う。

(でも、親の金だしなぁ。)

 変なところで律儀であった。サイモンは辺りを見渡した。誰か友人でもいるならば気持ちも変わるかもしれなかった。このままでは本当に休んでしまいそうだった。

 そして、いる。

 改札前の溜り場のベンチに知った顔があった。それは高校時代の友人で、同じクラス、同じ部活だった男。身長はサイモンより少し高い。面長。顔つきは純朴そのもので特徴は余りない、あえて言えば純粋そうに輝いている目の光だろうか。サイモンは会えて嬉しいのだが、予備校を休むという安易な道が閉ざされることに複雑な気持ちになりながら、声をかけた。

 かけて、思った。

 何か変な雰囲気をまとっているな。何かあったのか、と。

「よお。加賀美。何やってんだ。」

 サイモンの声に驚いた様子もなく加賀美は顔を挙げた。

「あっ。サイモンか。」

「どうしたよ。お前。」

 明らかに元気がない加賀美の態度にサイモンは問う。しかし、加賀美は無言で答え、そのままサイモンの顔を惚けたように見ていた。そして、はぁと溜め息をつくと顔を俯かせた。サイモンはもう一度どうしたのか聞こうと思ったが、加賀美の頭を抱える行動に躊躇せざるを得ない。

「ああ。」

 加賀美の発した声は予想外に響いた。サイモンは思わず辺りを見が、別にここを気にしている人はいない。サイモンは加賀美に注意を戻した。

「予備校に遅れるぞ。」

「もう遅れてるよ。」

 サイモンの具体的な問には的確に答える加賀美。

「ゲゲッ、親の金が………。」

 サイモンはおどけて見せたが加賀美は無視をする。サイモンはそれは予想していたことだった。

「……もう一度聞くが、どうした。」

 なかなか答えのないことにサイモンは唇を結んだ。自分がしつこかったかと思った。好奇心だけで聞いていると誤解されるのは不本意だったからだ。しかし、加賀美は質問には答えようとしていた。ただ、答えようと言葉を探すが、それが見つからないのだ。

 イメージだけが脳裏に浮かんでしまい加賀美は顔をゆがませた。

「ああっ。」

 サイモンは加賀美の様子に驚いたが続けた。

「『ああ』じゃ、分からんぞ。」

 サイモンの言うことは尤もであった。加賀美は頷く。

 そして言う。

「見たんだ。」

 サイモンは言葉を返した。

「何を。」

 そう言ってからサイモンは馬鹿なことを聞いた自分を嫌悪した。そんなことは考えれば直ぐに分かりそうなものだったからだ。サイモンはためらいがちに続けた。

「………人が亡くなった瞬間を……か。」

 加賀美は首を振った。

「違う。血だ。」

 加賀美は唐突に顔を挙げた。そしてサイモンが驚くのも気付かないようにまくし立て始めた。

「そう、血なんだよ、サイモン。俺にぶつかってきた女の人の血。何だって言うんだ、冗談じゃない。そりゃ、前も見ずに単語帳を読んでた俺も悪かったよ。でもそれだって誰でもやってることだろう。女の人の所為にしたのは悪かったよ。だからって酷いよ。今日の一限目はテストするなんてことを言ってたからさ、予習したんだぜ。全てがパーだ。」

 サイモンは二の句がつけなかった。宥めようと幽かに声を出すが、それはさらに続く加賀美の声にあえなく飲み込まれる。

「俺はこれでも勉強のときは集中する方なんだ。くだらないことは忘れる。むかついたとか、好き……だとか。でも違うだろ。全然違う。こうしてても目の前をちらつくんだ。赤いものが。真っ赤な血が。チラチラチラチラチラチラチラ。俺にいったい……。」

 サイモンは周りの奇異な視線に気が付いていた。慌てて加賀美の肩に手を乗せ、押えつけた。加賀美の顔は酔っぱらっているかのように真っ赤だった。加賀美はサイモンの手を強く払いのけた。

「気持ち悪いな、サイモン。何すんだ。」

「肩に手を掛けるのがそんなに変か。」

 サイモンは、電車の飛び込み事故で血が出るのは、よほどのタイミングであることを知っていた。車輪にきちんと切断させる可能性は、大変低い確率である。だが、そんなことより、今は加賀美であった。加賀美の興奮はゆっくりと治まっていっているようだった。サイモンはそんな加賀美を見つめた。加賀美が顔を挙げた。サイモンの目が加賀美の目をしっかりと捕らえた。

「……熱、あるんじゃないのか。お前。」

 サイモンの問いに加賀美は目を逸らし、首を振った。

 しばらく二人は無言だった。加賀美がサイモンに話しかけるのには十数分が必要だった。

 加賀美は頭をかいた。

「……さっきは、悪いな、サイモン。」

 サイモンは人差し指を立てて左右に振った。

「気にするな。誰にでもそんなときはある。」

 そうかなぁ、と加賀美は言葉を口にした。その姿はいつもの、サイモンのよく知っている加賀美の姿だった。

 加賀美は通路の向こうを指さした。

「予備校、行こうぜ。一限はもう間に合わないけど。」

「おお。」

 二人は歩き出した。

 梅雨の終わりの近い、雨の降る朝の出来事である。


 夏休み前の、二人の忘れられない一週間が始まっていた。

1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。

少し手直ししました。よろしくお願いします。

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