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エピローグ

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 七月九日。木曜日。快晴。午前八時。

 サイモンは一時間だけ布団に横になって起き出した。高校卒業してから放任主義になった母親は、特に何も言わない。いつものように朝食を済ませ、サイモンは予備校に向うことにした。天気は、目が痛くなるような日差しを伴った快晴。眩しさに目を細めながらサイモンは自転車に飛び乗る。そして、気が付いた。

「そうだった。まだ、パンクしたままだった。」

 サイモンは悪ガキめと、今更ながらに悪態をつくがどうしようもない。ここ一週間の通りに、電車を使って予備校を目指すことにする。眠い気もするが、徹夜明けの興奮が抜けきっていない状態なので、特に不快でもない。頭がぼうっとしているせいで何かを考えることもない。駅につき、改札を抜ける。サイモンは騙されたような状況にうんざりした。

(なんだよ。雨の日と人の多さは変わらないじゃんか。)

 皆、傘を持っていないことが救いか。ここしばらく、電車に乗るときに離れることのなかったむっとする不快感は、ないと思われたからだ。日差しは眩しいと言うより、既に暑い。アナウンスが電車の停車を告げる。サイモンは身を滑り込ませる。そんな日に限って、更に後ろから乗って来るような輩が居るのだ。満員電車で、座席近くの位置に場所を占めるのは自殺行為だ。しかし、人の流れに逆らえず、サイモンは押されるままに、座っている人の頭を見下ろす位置まで移動してしまった。寝不足のせいだろうか。全くついていない。この場所は吊革に掴まってなければならない。サイモンはヘッドホンステレオを聞こうと思うが諦めた。

 線路の隙間をまたぐ車輪の最初の音を合図に、電車が速度を上げて行く。案の定、カーブで人の重圧がサイモンの背中に圧し掛かった。

(くくっ。ここを踏ん張って……と。)

 サイモンは目の前に座っている男性に対して、無様なことにならないように足に力を入れる。体が、座っている人に触れんばかりに乗り出される。えびのように背中を反りながらサイモンは頑張る。それにしても、座っている人間の余裕さはどうだ。眠っている奴、新聞を読む奴。なんて奴だ。目の前の人間は余裕をぶっこいて、小説を堪能しているではないか。こんな奴の為に俺は頑張っているんだなぁと、サイモンはしみじみ思いながらも頑張らざるをえない。そう思っていた所だった。

(ちょっと待ってくれよっ。)

 サイモンは心で叫んだ。人の重圧が耐え難いほどサイモンの体に圧し掛かって来た。周囲では、その心の言葉を実際に口にしている人が何人も居る。「うわっ。」とか、「あっ、ごめんなさい。」と言うものだ。サイモンはそれを背中で聞きながらまたかと思う。

 電車が急停車したのだ。

 アナウンスが速やかに状況を報告する。

「乗客の皆様には大変ご迷惑をおかけしております。ただいま、赤信号の為に停車致しております。しばらくお待ち下さい。」

 サイモンは疑念を持つが、すぐに打ち消した。有り得ることではないからだ。北巻しぐれは昇天した。それは、紛れもない事実だ。人の重圧が緩くなってゆく。皆、どこかしらに自分の足の踏み場所を見つけたらしい。サイモンはほっとして。

 驚いた。

 目の前に真実が居たからだ。

 それも、いつからかサイモンを見上げていたらしい。サイモンが呆気に取られていると、真実が皮肉げな笑いを見せている。目付きが何となくおかしい。しかし、出て来た言葉はいつもの真実のものだった。

「うんうん、変わらないね、サイモンは。目の前に居るのに全然気がつかないんだよねぇ。」

「チビは良く見えん。」

 サイモンのぶっきらぼうな言い方も変らない。真実も悟っているようである。全く気にした様子を見せずに続けた。

「うんうん、面白かったぜ。お前の耐えてる姿。」

 サイモンは憮然とした態度を見せるしかない。真実は鞄を膝に本を手に、悠々とサイモンの目の前に座っている。サイモンはこれ見よがしに真実の膝に鞄を載せた。

「あっ、何すんだよ、サイモン。」

「別にへるもんでもない。」

 こんな事をして、よく、サイモンも友人が減らないものである。サイモンは真実にそれ以上言われない為にも、気がついていた事を言った。

「なぁ、先週会ったときにも思ったんだが。なぜ真実は特急に乗らない。」

 真実の住んでいる成田からこの私鉄を使うならば、特急に乗って津田沼駅に出た方が、三十分近く時間の短縮になるはずだった。真実は手に持っていた本を誇らしげにサイモンの目の前にあげた。

「じゃーん。電車の中は本を読む時間って、決めているんですよねぇ。」

「お前、テスト中だろ。勉強したらどうだよ。」

 サイモンの言葉に真実は言う。

「やだねぇ、これだから予備校性は。俺は大学生よ。大学生。」

 それを言われてしまうと、何も言い返せないサイモン。そして、自分が真実に対して話すべきことがある事に気がついた。しかし、それは言うべき事なのか。真実は全く霊など信じていない。河原千鶴のあの気持ち、言うべきか、言わざるべきか。しかし、その前に真実がサイモンに言った。

 言葉が、きつい。

「昨日。渦間から電話があったぜ。」

 サイモンは寝耳に水の言葉に驚いた。

「何でだ。」

 真実は何と話そうか逡巡したように見えた。サイモンの驚きが意外だったらしい。

 電車が動き始めた。サイモンは、再び体に圧し掛かって来た重圧に顔をしかめる。車内アナウンスが、津田沼駅を告げた。電車がゆっくりとホームに入っていく。真実がサイモンに鞄を渡しながら言った。

「……『今晩、深夜、津田沼駅に来い。』ってさ。」

 サイモンは言葉なく、目を見開いた。

「お前等、まだ、くだらない事してんのな。」

 サイモンはショックを受ける。昇天した二人は、真実にとって幼なじみと聞いている。それだけにそれは尚更だった。いつもの、そんなものかな、と言う思いが全く浮かんでこない。しかし、これが普通の人間の当然の反応かもしれない。サイモンは、自分の中にある河原千鶴の想いを封印した。自分や加賀美、荻、長谷川、渦間。この五人の中でしか大事件ではないのだ、他人はそうでもないのだ。それが普通なのだ。サイモンは思わず言った。

「俺は、渦間がそんな事言っていたとは知らなかったよ。」

 電車が駅につき、扉の開く空気音が響いた。人波に逆らわずにサイモンと真実はホームに足を着く。サイモンが途中で足を止めて、真実に言った。

「だけど、確かに俺達は昨日の晩この場所に居たよ。」

 真実の顔が歪んだ。嘲笑と冷笑を混ぜたような顔があった。

「おまえ、それが死者の冒涜だって気がついているのかよ。」

 サイモンは足を止めた。

 真実は足を止めない。

 サイモンは勇気を振り絞って言った。

「じゃあな、真実、テスト、頑張れよ。」

 思わず吹き出したような呼吸音の後、真実が振り返った。

「サイモン。先週も同じ事言ったの覚えているか。」

 河原千鶴が想い続けていた男がホームの階段を登って行った。

 電車が人を飲み込み発車する。サイモンは、つい何時間か前の出来事を思い出そうと、その場所に歩み寄る。次の電車がホームに入って来ていた。

 その場所は、ホームのどことも全く変らない。

 終わったことは、もう、懐かしい思い出に過ぎない。サイモンは自分の頭に去来した情景が、足早に過ぎ去ってゆくのを感じた。目を細める。辺りを見渡す。

 何もない。

 安心感と共に、少しの寂しさが胸に疼いた。

「サイモンっ。」

 と、肩を叩かれた。すぐに分かる。

「おはよう。」

 振り向いたサイモンに荻が言った。サイモンも挨拶を返す。二人で、何となく歩き出した。

「今の電車?」

「そう。」

 階段を上がり、改札を抜ける。サイモンが言った。

「……ところで、聞いていいですか。」

「なぁに。」

 サイモンは人差し指を振りながら、心持ち荻の視線に合わせようと身を屈める。

「恭神って、呼んでくれるんじゃなかったっけ。」

 荻は含み笑いをする。

「なんだかね。言ってて恥ずかしくなっちゃって……。気にしないと言えない自分に気が付いちゃったしね……」

 梅雨明けの陽光が二人を包んだ。サイモンは荻の話しを聞きながら空を見上げる。辺りには、同じように予備校を目指している学生が何人も居る。一人の者、グループで居る者、恋人らしき者。男女の会社員の姿も道の先には見うけられる。サイモンと荻も、そこを歩いているのだ。

(これで、……よしとするかな。)

 青空は抜けるようで、サイモンは今迄こんなに空を奇麗だと思ったことはなかった。太陽の光が、道端の緑すら鮮やかに映えさせる。多分、このそよ風が、夏の香りなのだ。

 サイモンは荻に注意を戻した。荻は、なんだか一生懸命話している。サイモンは話題展開追随能力をフルに発揮して瞬く間に荻の会話の趣旨を捕らえると、そのまま会話に没頭した。

 二人は、緩やかな人の流れに逆らわずに歩き続けた。

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