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二十六 暗闇の中に一人

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 目を開くと、目の前に荻の顔があった。

 後頭部に感じる柔らかな感触は、小学校時代の耳かき以来感じたことの無いものだった。自分の頬を小さな手が撫でている。心地よいような、くすぐったい様な感触だ。眼鏡がはずされていても、これだけ近ければ荻の表情はよく分かる。サイモンは目の前の荻に声を掛けた。

「荻さん。」

 荻は頷いた。目に涙を溜めている。

「よかった。」

 荻の目から、サイモンの顔に涙が落ちた。人の涙は本当に温かいと分かりサイモンは驚いた。ホームは静かになっていた。自分はどのくらい気を失っていたのかが気になる。まだ、肉体を離れていた経験が体に残っているようだ。全てが覚束なく感じられる。しかし、その覚束なさが全てが夢だったようにも思わせる。サイモンは意識をはっきりさせる為に体を起こした。荻の手が背中を後押ししてくれるのに、サイモンは任せる。

 雨の音のない、静かな津田沼駅のホームがそこにあった。

 ホームに立ち尽くしている加賀美が居た。

 鉄骨柱に体を寄りかからせて、右肩を押さえている長谷川が見える。

 竜樹がホームに倒れている結花を起そうとしているのが分かる。その体の動きは、遠くから見ても凍えたように震えていた。結花はまだ倒れたままだ。もしかしたら、何かやばいのかもしれない。しかし、サイモンは北巻しぐれがあの時、結花の体から抜け出たときに何もしていないと思い出す。どうやら、霊体から肉体に戻ってからの意識のない時間はほとんどないようだった。まだ、覚えている。初めてのことだ。

 息を大きく吸い、吐く。

 サイモンは振り向いて、荻に声を掛けた。

「どれぐらい、俺は気を失っていたかな。」

 サイモンは荻を見た。荻はサイモンの言葉を聞いていたのか、いないのか分らない。首を振っている。目から涙が溢れている。サイモンは戸惑った。予想をしていた行動ではない。荻は泣いているのだと分かるのに何秒もかかる。サイモンは体の向きを変えて、荻の肩に手を掛ける。荻が言った。

「恐かったよぉ。」

 サイモンは荻を引き寄せた。

 荻はそのままサイモンに体をあずける。ただただ泣いている荻をサイモンは抱きしめた。それゃそうだ。サイモンは半分惚けている頭で思った。今の出来事が、恐くなかったわけがない。自分の行動が照れくさくて、サイモンは思わず辺りを伺った。ホームに根が生えたように立っている加賀美が、不思議な微笑みを見せてこちを見ていた。長谷川が、人差し指と親指で輪を作って振りながら、サイモンの行動をにやにやしながら肯定している。竜樹とも、視線が合った。恐怖が色濃く出ている表情が、荻の泣く声に反応するように薄れていく。サイモンは視線を荻に戻した。小さな頭がすぐ、目の前にある。肩口で広がっている髪の流れを、サイモンは手で追ってみた。荻の声が、鳴咽になってゆく。竜樹が結花を起す声が聞こえてきた。

 案外そうなのかもしれない。サイモンは思う。男は、何だかんだ言って女に認めてもらって一人前なのかもしれない、と。

 雨はやんでいた。雷は梅雨の終わりを示している。天気予報が当ることは、信じていた場合においては嬉しさがある。まだ、駅構内は暗い。しかし、非常口を示す明りの他に光のなかった先程に比べ、厚い雲がなくなっただけ明くなっている。星の瞬きと、月明かりが戻ってきているのだ。

「ごめんね。サイモン君。」

 暫くして、荻がサイモンから体を離した。鼻声で、顔が火照ってしまっている。

「私、泣いちゃうと鼻声になるんだ。」

 サイモンは、頷く。

「大丈夫?」

「平気、です。」

 荻は、力強くそう答えた。

「サイモン。」

 長谷川がサイモンを呼んだ。サイモンは振り向く。長谷川が指差している方向を見る。長谷川が言った。

「あの二人、帰るっぽいぜ。」

 結花が目を覚ましていた。竜樹の言葉に答えている。サイモンは立ち上がった。気だるさが、まだある。立ち上がることが億劫だ。少し荻と離れるのが名残惜しくて、サイモンは視線をさまよわせる。

「いってらっしゃーい。」

 小声が聞こえた。サイモンは笑いそうになる表情を引き締めた。

 加賀美が、二人の側に既に居た。サイモンが来ることで、場の緊張が高まる。一番最初の四人だからか。結花はまだ座っている。竜樹がサイモンが来ることで立ち上がっていた。サイモンは、加賀美の弱冠後ろに陣取る。加賀美が竜樹に言う。

「……どうも、ありがとうございました。」

 そして、頭を下げる。竜樹が答えた。

「もう、……帰ってもいいよな。」

「……どうも、すみませんでした。」

 竜樹が結花を抱え上げた。座っていた結花は、軽々と持ち上げられる。竜樹が言った。

「お前、しぐれがどんな女だったか知ってるのか。」

 加賀美への問いだった。加賀美が答えた。

「えっ。」

 サイモンは、自分の心臓がドクンと脈打つのを感じた。何かを竜樹は言おうとしている。それは、奥歯にものの挟まったような嫌な言い方だ。竜樹は加賀美を試していた。そして、既に加賀美には聞く権利がないと決めているのに、敢えて不信の種を蒔こうとしていた。サイモンの心臓の鼓動が大きくなる。

 加賀美が言った。

「知っている……と、思っています。」

 それは正しい答えだとサイモンは思った。竜樹の顔が悲しみを押し隠す。

「そうか。……なら、いい。」

 結花が竜樹の顔を心配そうに見ている。竜樹はそれに気がついて、結花を諭した。サイモンは焦った。妙な使命感が、竜樹の仕舞った言葉を聞かなければならないと命じた。

「あっ、送ります。」

 結花が、きつい目付きでサイモンを睨んだ。事が終わった後も強気でいられるほどには、サイモンはふてぶてしくない。サイモンは怯んだ。ほんとにこの人は気が強かったんだ、とサイモンは気が付く。自分の足が震えそうになったからだ。結花は、今、自分を正しいとして人を傷付ける事が出来る位置に居ると思っているようだ。つまり、怒っている。逆らうのは得策ではないが。そう、思いながらサイモンは竜樹に視線を転じた。

 竜樹は、不思議そうにサイモンを見ている。竜樹は、何かを見たのだろうか。

「じゃぁ、来いよ。」

 竜樹の言葉にサイモンは安堵する。結花が顎を突き上げた。この場を後にする為に二人はサイモンに後ろを見せる。加賀美が二人に御辞儀をした。礼の気持ちだ。長谷川はホームに座り込んでいた。荻が、寂しそうにサイモンを見ている。そう言えば、渦間はどうしたのだろう。いない。助けに来てくれた所までしか、サイモンは覚えていない。少し不安になる。

 サイモンは二人を追う。距離の保ち方が難しかった。近づきすぎず、離れすぎず。そして、後ろから見る二人の姿に驚く。二人の後ろ姿は痛々しいほどに弱々しい。今さっき、結花の見せた怒りは虚勢なのかもしれなかった。ホームの端まで来るのに、十分近くかかった。それだけ二人の歩みは遅い。そして、何も話していない。竜樹がホームから岩砂利の敷かれているレールに飛び降りた。差し出された腕に結花が従う。ロータリーに向う二人に続きながら、サイモンは自分が何も考えていないことに驚いていた。ロータリーの時計は、午前三時をまわっていた。雨の上がった後、人気のないここは広々として見える。竜樹が、結花を助手席に入れた。サイモンは、二メートルほど下がって二人を見ている。竜樹が車をまわって運転席の扉の前に来た。

 サイモンに振り向く。

「……お前は、知ってるのか。」

 竜樹の言葉は、サイモンの耳に言葉以上のものを運んできた。サイモンはどこかで聞いたことのある声の種類に耳を澄ます。竜樹が、サイモンの答えを待たずに言った。

「あいつは、最悪な女だぞ。」

 サイモンは何も言わない。

 竜樹が自分を見ているサイモンの目に言った。

「お前等は、知らないからこんな事が出来るんだろうな。」

 竜樹の目の色が変った。サイモンは、北巻しぐれの父親と同じ瞳の色を竜樹に見た。瞳の奥に渦巻くどす黒いもの。それは、全てを手に入れたと信じている者の目だ。竜樹が言う。口の形が歪んだ。顔が醜悪さを見せた。整った顔は作り物で、今迄のが仮面だったとしか思えない。眼が見開かれた。心地よい快感とともに宣言するように。自分を自慢する言葉がゆっくりと紡がれた。

「あいつは、自分の父親と寝る女だぞ。」

 しぐれの父親との場面で頭に引っかかっていた一つの言葉がサイモンの頭に浮かんだ。

(しぐれは、俺のものだ。)

 サイモンは驚きすら、表情に見せない。竜樹が怯んだ。自分の言葉の持つ力を過信していたせいだ。瞳が潤む、優位に立てると信じていた言葉は、サイモンに何の影響も及ぼさない。竜樹が言った。それは言わなくても良い、竜樹の本音だ。

「貴様等に、俺の苦しみが分かるか。」

 サイモンは、視線を逸らさない。目を、細める。

「救おうとした。俺の気持ちが分かるか?」

 サイモンはその言葉に心の中で疑問符を発する。

「あいつは、結局何もしようとしなかったんだ。自分の都合だけだ。あいつは苦しんでいたさ。俺も苦しんだ。でもな、その苦しみはあいつにしか分らないことだ。俺のものじゃないんだよ。」

 竜樹は冷静を取り戻そうとしていた。サイモンは自分の中にある疑問符を追う。言葉になりそうで言葉にならない。大切なことだ。しかし、サイモンの中で言葉が意味を持つ前に竜樹が言った。

「あいつが、しぐれが死のうが死ぬまいが、俺には関係ない。……分かっていながら、全てを他人の所為にしやがって……っ。」

 竜樹の眼が、狂気を浮かべた。目が見開かれる。サイモンは、自分の目を疑った。しぐれの持っていた狂気がここにもあるのだ。愛と言うものゆえのものか。他人に求める過剰な理解欲求。サイモンは戦慄した。特殊な資質、霊感を理解してもらいたいと自分が切に願ったならば、もしかしたら、この呪縛に囚われてしまうのかもしれないからだ。

 サイモンは視線を逸らした。北巻しぐれは、まだ居る。別の形で存在している。理解されないゆえの歪んだ優越感。それは本人のものではない。

 運転席のドアが閉められる音がした。

 エンジンがかかる。御丁寧にもアイドリングをした後、二人を乗せた車は津田沼駅を後にした。サイモンは、車がロータリーを出てから顔を挙げた。それは、有り難いことに、すぐに見えなくなった。

 サイモンは、しばらくロータリーでポツンとしていた。サンロード津田沼とかかれた看板を仰ぎ見る。抜けるような夜空がそこにはあった。星が振ってきそうだ。もう、重苦しい雰囲気は、心の中にしかない。雨に洗われている辺りの空気を思いっきり吸い込む。サイモンは息を少し止めた。そして、はく。

「あっ、傘、車におきっぱじゃん。」

 誰にとっても、何の得にもならない事実に気が付いて、サイモンはちょっとだけ落ち込んだ。

 待っても誰も来そうになかったので、サイモンは駅に戻る為、踵を返した。


 ホームは変らず静かだった。しかし、明るさは先程まで見えなかったものを見せた。サイモンは別路線の方を見て民家が思ったより近いことに驚いた。よく、何の通報もなかったものである。北巻しぐれの結界がなせる業だったのだろうが、不安は隠せない。こんな力を持つものがこの世には居るのだ。サイモンは眼鏡をつっと上にあげた。何となく落ち着かない気分だ。今しがたの場所に戻ると、まだ、加賀美も長谷川も荻も、先程の場所からほとんど動かないままでいた。

 加賀美が放心しているのは今に始まったことでもないので、サイモンは気にしない事にした。心配なのは肩を押さえている長谷川と、ここに居ない渦間だ。サイモンが長谷川に近づこうとすると、長谷川はいらないと言う手振りをして、荻の方を指し示した。何かを勘違いしているようだが……とサイモンは無理矢理思いながら荻に近づいた。荻はまだ座り込んでいた。見上げている荻にサイモンは手を差し出した。

「立てる?」

 荻は微笑んでサイモンの手を握る。荻を立ち上がらせながら、サイモンは加賀美に声を掛けた。サイモン自身も自分の声の大きさにに驚く。

「加賀美!!」

 加賀美が振り向く。失ってしまった人への哀愁が浮かぶその顔に、サイモンは朗々と宣言した。

「終わったな。」

 それは、様々な意味を示していた。どうにもとれるその断定的な言い方はサイモン流の優しさだ。加賀美は、それを理解した。

「ああ。終わった。」

 加賀美は、笑い顔を見せた。

 サイモンがそれを見て、本当に笑い声を上げた。荻が吃驚した顔でサイモンを見た。加賀美が触発されたように笑いはじめる。笑いは一頻続いた。やがて、深夜の近所迷惑と言う常識が、二人の笑い声を静めた。長谷川は苦笑した。緊張がきれたことを意味しているこの行動が分かったからだ。

 笑いおわってすっきりしたのか、加賀美が言う。

「そういえばさぁ、渦間は?」

 一瞬、沈黙が走った。

「あれっ、そう言えば渦間は?」

 サイモンは、ついさっきまで心配していた自分があるにもかかわらず、すっかり失念していた。

 長谷川は背中で鉄骨の柱を支えに立ち上がりながら言う。

「俺、知らねえぞ。」

 やばい雰囲気が辺りに漂う前に荻が声を上げた。

「あっ。渦間君、加賀美君に殴られて、あっちのホームに飛んでいってたような……。」

 最後は、余りにもありえない事実の為に小声になる。加賀美の表情が変る。身に覚えがあるからだ。

「やべぇ、大丈夫かな。」

 加賀美が焦って言った。

「いや、結構大変だぞ。それが本当なら。」

 長谷川が冷静に言う。

「俺、見て来るよ。渦間が心配だ。」

 加賀美が線路に飛び降りた。そうすると、向こうのホームからも線路に飛び降りて来る影がある。

「うおぁ。」

 加賀美が真剣に驚いた。小柄な影から声が聞こえた。

「もっと、早くに気付いてくれよ。」

「わりぃ、大丈夫か。渦間。」

 加賀美は言った。

「気を失ってたけどな。……お前等の笑い声で気が付いたよ。」

 渦間が加賀美を見て、そして、ホームの上のサイモンを見た。

「どーやら、終わったのか?」

「ああ。」

 渦間は振り向いて加賀美を見た。

「終わったよ。」

 渦間は言った。

「そいつぁー、良かった。……で、琢磨。どうしたんだよ。肩なんか押さえて。」

 渦間は目敏い。長谷川が答えた。

「めちゃくちゃいてえけど。筋を痛めただけだと思うんだけどな。」

 加賀美が泣きそうに言う。

「わりぃ、ほんっと。」

「いや、気にするなよ。それよりお前はどうなんだよ。加賀美。」

 長谷川が、さらりと言った。加賀美が言葉に詰まりながら言う。

「俺は、大丈夫なんだよ。」

「荻さんは平気なの?」

 サイモンが荻に聞く。荻は頷いた。サイモンは自分の後頭部を撫でてみた。でかいたん瘤がある。触れると痛いが、それでも長谷川ほどではない気がした。

 渦間がひとしきり辺りを見渡して言った。

「なんだか、俺と琢磨だけ怪我してるって言うのも割に合わないな。」

「えっ、お前も怪我してんの?」

 加賀美が驚いた。

「いや、受け身に失敗したのか、息すると胸が痛いんだな。」

 加賀美が涙ぐんだので渦間が慌てて言った。

「すまん。これは言ってみたかっただけだ。大した事はないよ。」

 加賀美が心底ほっとしたようで、肩を落とした。

 荻が、言った。

「ねぇ、そろそろ行かない?」

 それは、サイモンに言ったようだったが、全員に聞こえた。サイモンは渦間、長谷川、加賀美と視線を移動させた。

 加賀美が言う。

「ああ、皆、先に行っててよ。」

 渦間と長谷川が顔を見合わせた。サイモンは事情の本当の所を理解していない二人をこんな目に合わせたので後ろめたい。だが、加賀美の言うことも分かる気がした。サイモンは荻を見た。

 荻が言った。

「うん。分かった。先に行ってるね。」

 渦間が、荻を驚いてみている。しかし、納得したのか「先行ってるぞ。」と加賀美に言い置いた。長谷川が鉄骨から身を放す。サイモンは荻に道を譲った。歩いている途中で渦間が長谷川に「終わったって言ったくせになぁ。」とぼやいた。長谷川が「お前、馬鹿だね。」と流している。線路の岩砂利から道路に出る所でホームに振り返ると、加賀美はまだ線路に立っていた。

 その視線は空を見詰めている。

 いつまでも、いつまでも、見詰めているように思えた。


 四人は、ロータリーに戻った。

 ロータリーはぐるりと、バス停やベンチ、タクシー乗り場が巡っている。長谷川が、肩を庇ってベンチにゆっくりと座った。渦間とサイモンが荻に座るように薦める。荻は首を振った。渦間はちょっと躊躇したが「じゃぁ。」と長谷川の隣に腰を下ろした。渦間もやけにゆっくり座る。胸が痛いのは本当なのだろう。

「なぁ、何が起ったのか、教えてくれよ。」

 長谷川がサイモンに向って言った。渦間は首を振っている。

「んだよ。渦間。」

 長谷川はそれに気がつく。

「サイモンも、多分説明できないと思うぞ。……お前が感じているそのままでいいんじゃないのか。」

 渦間が言った。

「ハッピーエンドなのか。」

 長谷川が言ってから少し照れた。サイモンは心で呟いた。ある意味では、と。

「それは知らないよ。それならサイモンか加賀美に聞けよ。」

 渦間がサイモンに話題を振る。一瞬、サイモンの脳裏に竜樹の言葉が浮かんだ。「あいつは、父親と寝る女だぞ。」あの戦慄が駆け抜ける。成田で感じたあのおぞましい感触。こちらまで発狂しそうな思い込み。勝ち誇った卑らしい表情、それは、北巻しぐれの全てを手に入れたと信じていた者の瞳だったのだ。そして、竜樹もそれを持っていた。

 サイモンの口は勝手に動いた。

「まぁ、そうだね。もう、北巻しぐれはあの場所には居ない。……たぶん、幸せに昇天したよ。」

 サイモンは自分の思考と言葉が遊離しているのを感じた。

「加賀美の、お陰でね。」

 渦間がにこにこ笑って首を縦に振った。渦間が言う。

「喉乾いたから、なんか飲もうぜ。」

 長谷川が立ち上がった。

「なんだよ、長谷川。買ってきてくれんの。」

 渦間が財布から千円札を取り出しながら聞いた。

「座りっぱなしだとかえって痛くてさ。……荻さん、一緒に行こうよ。」

 長谷川が荻を誘う。荻は戸惑った顔をした。サイモンは、何で荻が戸惑うのか不思議に思う。サイモンと渦間が二人を見送る。自動販売機に向う二人を見ながら渦間が言った。

「そんで、……何かあったのか?」

「えっ。」

 サイモンは聞き返した。

「言っとけよ。自分一人の中に仕舞わない方がいいぞ。」

 サイモンは焦った。

「何をだよ。」

 渦間は眉を顰めた。

「ならいいけどさ。お前、今さっき全く表情なかったぞ。幸せに昇天したって言いながら。荻さん、ひびってたよ。」

 サイモンは絶句する。気が付かなかった。唇を舐める。荻がいる前で言いたい類のことではなかった。言ったからといってすっきりするかは分らない。しかし、渦間の言うとおりだとも思う。

 サイモンは迷った。

「北巻しぐれ……しぐれさんは……。」

 言葉か途切れる。渦間は缶ジュースを買う二人を見ている。そのまま言う。

「言いたくなきゃ、いいぞ。」

 サイモンは微かに首を振りながら答えた。

「いや、……。」

 サイモンの心の中で、膨れ上がって来る思いがある。渦間が振り向いた。その、まだ何も知らない顔がサイモンには眩しかった。思いが、縮まる。

「……すまん。言える事じゃない。」

 サイモンは答えた。渦間は真剣な顔で頷いた。

 二人が戻って来るのが見える。荻は、両手一杯に缶を抱えている。長谷川が渦間におつりを渡し、荻がジュースを配る。

「はい、恭神君はポカリでいい。」

「あっ、いいです。」

 ふたを開ける炭酸ジュースの小気味良い音がする。渦間が長谷川にジュースを渡した。長谷川はメッツを飲みながら、何を見つけたのか伸び上がった。

「加賀美だ。」

 渦間がそちらを振り向く

「あいつタイミングいいな。」

「加賀美君の分も買ってあるよ。」

「あっそうなんすか。」

 荻に渦間が答えた。

 加賀美は四人を見つけると、小走りにやって来た。途中から手まで振り始める。だいぶ向こうの方から謝る声が聞こえて来てた。

「わりぃわりぃ、みんな。」

 加賀美がその表情まで分かるほど近くに来た。全員が自分を見ていることに加賀美は照れた。

「何だよ。みんな、俺見て。」

 その後、表情が変る。

「あっ……と。皆、ごめん。遅くなって、その……。」

 何を勘違いしたのか謝り始める加賀美に、サイモンが言った。

「ああ、別にそんなんじゃないよ。」

 四人は、それぞれの想いを持って加賀美から視線を外した。ジュースを全員が同じようなタイミングで口にする。荻は取っておいた缶を、加賀美を見ないように渡した。見たら、自分もその思いを貰ってしまいそうだった。加賀美の眼は、泣きはらしたそのままに真っ赤になっていたのだ。

「これから、皆、どうすんの。」

 皆の想いにはまるで気が付かない様子で、加賀美が聞いた。自然と視線はサイモンに集まった。

「お開き……だな。」

 サイモンは東の空を見た。薄明るくなっているようだ。夏至を過ぎたばかりの一日は長い。はかったように、新聞配達のカブが甲高いエンジン音を発てて、目の前の道を通り過ぎた。ロータリーの時計を見ると四時まで十五分ほどだ。もう少し明るくなれば、雀の声も聞こえて来るだろう。

「サイモンはこれからどうすんの。」

 加賀美が聞いた。

「家帰って、朝まで起きてか寝るかして、予備校かな。そういえば加賀美。お前、家抜け出して来てんじゃなかったか。」

 サイモンが思い出して言った。加賀美があからさまに仕舞ったと言う顔をした。

「やべぇ、そうだった。」

「ここまできてりゃぁ、いつ帰っても同じだろ。」

 長谷川が言う。浮き足立った加賀美はその言葉で落ち着いた。

「そうだな。」

「荻さんは。」

 サイモンが聞く。荻は聞き返した。

「始発は何時だっけ。」

「四時二十六分だよ。確か。」

 サイモンが財布から時刻表を取り出すのを加賀美が制して答える。

「それで帰って、恭神君と同じで、予備校にいくよ。」

「みんな行くんだ。……俺、どうしよう。何でそんなに行きたがるかね。」

 長谷川が言っている。渦間が揶揄するように言った。

「まぁた、朝っぱらから彼女に会うのかよ。」

「あっ、テメエ。そういう言い方ありかよ。」

「えっ、何だよそれ。」

 加賀美が好奇心を剥き出した。

「こいつ、よく予備校に行く前に、自転車で彼女の家に行くんだよ。彼女、自営業の手伝いしてっからさ。」

「ああっ、だから、おとといの朝タイミング良くあんな場所にいたのか長谷川。」

 サイモンが納得した。

「まあね。……内緒だったんだぜ。渦間。言うなよな。」

 長谷川が、まぁ、いいか。と言う顔をしながら言う。荻は何も言わずに黙って聞いているだけだ。サイモンは荻の態度に感心しながら渦間の噂を肯定した。なるほど、噂が集まっているわけだ。にこにこしながら聞いてんだもんな。長谷川も渦間も荻さんが聞いてるのに、全然セーブしてないしな。荻さんもそんな人に見えないしね。サイモンはそこで荻と目が合った。荻は笑いを堪えた唇でサイモンを見詰め返す。視線を逸らすと荻は言った。

「渦間君は。」

 渦間はその言葉に「おお。」といいながら右手を挙げて言った。

「長谷川。お前の家で寝て良いか。」

「はぁ、何時まで。」

「デートまで。」

 長谷川は呆れた顔をした。

「じゃぁ、少し寝て行けよ。」

「……いくか。眠いよ。」

 渦間が唐突にそう言って立ち上がった。渦間は加賀美、サイモン、荻と見た。

「じゃ、また。」

 長谷川が仰々しいなぁ、と呆れた目で渦間を見ているのが端でも分かる。長谷川が言った。

「夏期講習でな。」

「おお。」

 加賀美が答えた。どこに向ってか、歩いてゆく二人を見送って、加賀美がサイモンと荻に振り向いた。

「俺も、帰るよ。母さん、心配してるだろうしさ。」

「どうやって帰るんだ。」

 サイモンが聞いた。

「歩いてでも良いさ。」

 加賀美の瞳の充血はまだ引いていない。そっちの方がいいかもしれない。

「気をつけてね。」

 荻が言った。

「サイモン。荻さんを送れよ。」

 加賀美が荻に頷いてから言う。

「分かってるよ。」

 サイモンは答えた。加賀美がいなくなり、ロータリーには二人が残された。


 長谷川と渦間の二人は、歩いていた。二人とも歩くと痛む場所がある為、無口になっている。大通りに着いた。タクシーを待っている間に、長谷川が言った。

「サイモン……なんだって。」

「いんや、なぁんにも言わなかった。あいつらしいよ。」

「まじかよ。」

 長谷川が言った。しばらく沈黙があって、振り払うように渦間が言う。

「あんな顔されちゃぁ、大丈夫かなって思っちゃうよなぁ。」

 渦間の性格を知っている長谷川が、それには答えないで言った。

「俺のタイミング、ベストだったろ。」

「まぁね。俺の金は無くなったけどね。」

 渦間が言った。長谷川が続けた。

「まぁ、今回でサイモンの霊感については、分かったよ。ちょっと痛ぇし、説明も出来ないけど。持ってるって、大変そうだな。何にも出来なかった。」

 今度は、渦間がその問いには答えない。しばらくして、言った。

 なぁんとなくっといった口調だった。

「北巻しぐれ……可哀相な奴だったらしいぜ。」

「何だよ改まって。」

「たぶん、……。」

 渦間は首を振った。

「んだよ。言えよ、言いかけって最悪だぜ。」

 渦間は身じろぎした。

「父親と何かあったんじゃねぇかなってさ。」

 一瞬、長谷川の中で時間が止まった。その意味するところを長谷川なりに考える。

「……お前、マンガの見過ぎ。」

 長谷川の言葉に、渦間は情けない顔をした。

「だぁーかぁーら。言いたくなかったんじゃねぇか。」

 タクシーの姿を長谷川が捉えた。長谷川が渦間を小突く、わかってるよとばかりに渦間が手を挙げた。止まったタクシーに乗り、二人は帰路についた。


 荻は、目の前のベンチに座った。

「恭神君も座ったら。」

 サイモンは荻の勧めに従う。時刻は四時。始発まで時間をつぶす必要があった。荻が、沈黙を嫌ったのか声を掛けて来た。

「頭は、平気?」

 本当に心配をしてくれているのだろうか。荻の声は優しい。

「大丈夫みたいだ。自分で触って驚いたけど。」

 サイモンは答える。そして、言った。

「荻さん。さっきの出来事。どう、思った。」

「んっ?」

 荻は答えない。そう言ったっきりサイモンが話し出すのを待つているようにも思われる。ふと、サイモンは気が付いた。自分は荻に言葉のキャッチボールを強制していた、と。別に、相手の言葉を待つ必要は何もない。いや、それとも荻は自分と親しくなろうとしてくれているのだろうか。それとも、泣いてしまったことで気まずいのか。

「いっつも、考えてるね。」

 気が付くと、荻が顔を覗き込むようにしていた。サイモンは心持ち身を引いてしまう。しかし、慌てて元の位置に体を戻した。

「そう。」

 少しおどけていってみる。荻は騙された様子を見せない。

「疲れるでしょ。」

 荻の言葉は、他人に言われたならば憤りを感じる類のものだ。しかし、今は心地よい。サイモンは荻と視線が絡んでいることに照れて、違う方向に向いた。ふと、北巻しぐれは馬鹿だなぁと感じた。何でそんな風に感じたのかが、すぐには分らない。しかし、荻が側にいるからだと納得した。そして、独り言のように呟く。それは、霊感とずっと向き合っていた自分から離れた素直な疑問だった。

「……北巻しぐれさんは救われたかな。」

 荻は言葉に詰まった。サイモンが何を言わんとしているのかが分からなかったからだ。サイモンは続けた。

「幸せになれるのかな……。」

 荻はさっき、加賀美が北巻しぐれを救った事実を、それと認識するだけのものを持ってはいない。さっきの出来事は、霊感を持っていないものには、訳の分からないとしか感じられないはずだ。だが、荻は言った。

「……分らないけど。北巻しぐれさんは、救われたかったわけじゃないと思う。」

 荻の思いもしない発言に、サイモンは驚いた。荻は俯き加減だった。サイモンには頭と肩まで流れる髪しか見えない。荻の言葉に、サイモンは聞き入る。

「暗闇を一緒に歩いてくれる人を、探していたんじゃないかと思う。不幸を撥ね退ける強さは持っていて……。でも、弱いから……、自分が弱いって知ってたから……。暗闇の中に一人で居る時にも、自分を見つけ出してくれる人を必要としていたんじゃないかな。どんな時でも、自分らしさを思い出させてくれるような。そんな、優しさを持っている人……。」

 サイモンは呆然自失としている自分に気が付いた。そして、頬を触ってみる。泣いているわけではない。だが、涙が頬を伝い、流れていた。自分の声色に注意を払いながら、サイモンは言った。

「荻さんは自分らしさ、分かってるんだ。」

 荻が顔を挙げた。

「私の自分らしさは、気持ちに余裕がある時の自分。」

 敢えて、サイモンの方を見ようせずに続ける。

「自分の好きなことをして、楽しいと思えるときが、一番自分らしいと思える。……他にも、例えば、自分の好きな人といて、幸せって思えるときとか。」

 荻は、サイモンに振り向いた。そして、驚きの声を上げる。

「恭神君。泣いてるの?」

 サイモンは否定した。

「いや、違う。」

 そして、続けた。

「たぶん、……嬉しいんだと思う。」

 駅が騒がしさを取り戻したのは、それから二十分ほどしてからだった。二人は踏み切りが最初の鐘を鳴らし始めても、まだ座っていた。しかし、パトカーのサイレンが近付いて来たときには、さすがに何かが変だと感じて、慌ててその場を後にした。見計らって電車に飛び乗ったことは、言うまでもなかった。

最終話です。のこりは エピローグ、後日譚です。

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