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二十四 その心

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 サイモンは、肉体の束縛を抜け出した。

 見慣れているような、懐かしいような、来てはいけないような、複雑な感傷を呼び起こすものがこの空間にはある。目の前には覚束なく存在するぼやけた現実と、現実では知覚できない存在が交錯している白い空間が広がっている。体そのものが眼であり、耳であり、皮膚である。気を抜けばこの空間に混ざってしまうだろう。そして、そのまま意識が希薄になってしまえばもう、今回の人格が目覚める事はないのだ。魂自体は存在したとしても。サイモンは、自分の肉体がホームに横たわっているのを感じて自分がこの空間に四散しない方法を取っていた。

 その、サイモンの前に存在する三つの気配。

 サイモンは、三つの気配に安堵した。それだけは、ここに来てよかったと思った。

 そうだった。生まれてくると決まった命にしか、魂は宿らない。それを知らないことが修行の一つなのだ。サイモンは、安堵したのち、少し悲しくなった。しかし、今はそれどころではない。空間に四散しないように意識を広げていく。

 一つの感じなれた存在と、二つのあるべきでないもの達。加賀美の存在は空間の位置をしっかりと占めている。あるべきでないもの達は、サイモンの発した今の衝撃で、存在を希薄にしていた。その気配は空間に広がっている。しかし、完全に封じ込めるか、この次元から消滅させなければそれはまた、危険な意思を持つほどに濃くなる。他にも選択肢は無数に存在することを知覚することはできても、自分が出来ることはその二つしかなかった。肉体を持っている時点で、限界があるのだ。

 加賀美である存在が動いた。

(ここは、……一体、俺は……。)

 問いが空間に広がる。それは、あらゆる所に伝播していく不安を伴っている。

(気をしっかり持て、加賀美。)

 サイモンは忠告した。

(サイモン?)

 驚きが散った。サイモンの声で、加賀美は自分を認識したようだ。現実世界での加賀美の姿が空間に現れる。サイモンはほっとした。加賀美と言う存在があることは、北巻しぐれに吸収されているのではないかと言う恐怖が去った事を意味していた。

(……覚えているか。)

 加賀美の想いが聞こえる。それとも頷いただけか。

(覚えている。)

 サイモンは自分の中に漲って来る思いを意識した。それは怒りなのだ。サイモンは聞いた。

(解っていたのか。こうなる事が。)

(分かっていなかったといえば嘘になる。……でも、これしか思い浮かばなかった。)

 この空間で、嘘はない。サイモンは言った。

(……しかし、これで分かっただろう。北巻しぐれは、危険なんだ。ずっと俺はそう思っていた。お前に合わせていた。もう、止めろ。やめてくれ。)

 加賀美の存在がぶれた。

(待ってくれ、サイモン。何が言いたい。)

(分かっているはずだ。分かっていなくても、これで解っただろう。北巻しぐれは危険なんだ。人を一人道連れにしても癒されない悲しみが、たった今俺達に襲いかかったばかりだ。)

 サイモンの言葉は力強い。サイモンの存在はこの空間では光を放っている。加賀美はサイモンの言葉が正しいと分かった。しかし、心が悲鳴を上げている。違うと叫んでいる。加賀美は自分の想いを放つ。

(何が言いたいんだ。サイモン。)

 その想いは、この空間に伝播した。希薄な北巻しぐれの気配が動く。サイモンは言う。

(彼女は封じなければならない。さもなくば、消滅させなければ……。)

 サイモンは自分の中から溢れて来る怒りで、自分の言葉を止めた。使命感にも似た高揚感。加賀美はサイモンの輝きが増したのを見た。加賀美は感じた。はっきりと。この空間から北巻しぐれの気配が消えようとしているのを。それは逃げようとしている。それは隠れようとしている。しかし、自分自身が創り上げた結界に阻まれて、逃げ場所はない。加賀美は自分の心にあって、ひた隠しにしていた想いが自分を動かすのを感じた。この空間は自分の心に嘘を付けない。突き上げる想いはサイモンの怒りが不当であるとしか感じられない。逃げ隠れするしぐれの気配。自分の想い。なぜ助けるのか。なぜ助けなくてはいけないのか。

(やめろっ!サイモンっ!!)

 サイモンは衝撃を受けた。自分の存在を強烈に否定する波動。それは加賀美のものだ。サイモンは吠えた。

(まだ分らないのか。お前は死んでいたんだぞっ。)

(そんな方法で、しぐれさんを逝かせないっ。)

 加賀美が、サイモンを呑む。加賀美の発した、闇雲に足掻(あが)くその想いは間違っている。間違っているのだ。しかし、一瞬サイモンを圧倒した。

 その一瞬だった。

 憎悪が、加賀美の存在の後ろで渦巻き始めた。サイモンは歯噛みする想いを覚える。気を抜いたのだ。自分の所為だが言わずにいられない。

(加賀美っ。お前はわかっているのかっ。)

(しぐれさんはやらせないっ。)

 しぐれと言う言葉に波動が呼応する。力強くなる。認められていると言う想いがその存在を強くしてゆく。渦巻く。渦巻く。それは今にも結界一杯に広がりそうだ。加賀美はそれを守っている。

(そんなものを守ってどうする気だっ。)

(しぐれさんはやらせないっ。)

 サイモンの声は加賀美には聞こえない。憎悪が今度こそ加賀美を飲み込もうとその触手を伸ばす。サイモンはもう一度吠えた。サイモンの波動に恐れをなし、憎悪が怯む。サイモンは加賀美に向った。憎悪の向こうに北巻しぐれが見える。北巻しぐれが手を伸ばした。早い。加賀美が持っていかれる。北巻しぐれが笑う。それは、稲妻の光に浮かび上がった結花の笑いと同じだ。間に合わない。サイモンは愕然とした。手を伸ばす。届かない。北巻しぐれの手が加賀美を掴んだ。サイモンの手が虚空を掻いた。憎悪の波動の中から、もう一人の姿が浮かび上がった。

 それは、憎しみに侵食されていない姿。

 サイモンが思うより早く、その手が加賀美を北巻しぐれの手から解放する。

(かれをもとのからだに。)

 何かが破壊されているつたない言葉が、サイモンに聞こえる。結界内に静寂が訪れた。それは、河原千鶴が造り出したものだ。加賀美の動揺が伝わって来る。サイモンは加賀美に言った。

(戻れ、加賀美。)

 サイモンは加賀美を肉体に重ねあわせた。加賀美が言った。

(しぐれさんを消さないでくれ。)

 背後で、蠢く気配をサイモンは感じる。サイモンは答えた。

(わかった。)

 加賀美が、この次元から姿を消したのに安心したのか。河原千鶴の波動が弱まった。憎悪が結界に吹き荒れはじめる。

 サイモンは自分の目を細める感覚を思い出した。サイモンは北巻しぐれが河原千鶴を取り込んでいるものだと思っていた。しかし、それは微妙に違っているようだった。河原千鶴は北巻しぐれと同一ではない。その脳裏に、加賀美の母親の瞳が思い出される。あの瞳は、サイモンを責めていたのではない。傍目にも分かるぐらいに、側に居るだけで居たたまれなくなるぐらいに、自分を責めている瞳だったのだ。

 自分の所為だと。

 自分こそが何とかしなくてはならなかったのだと。

 吹き荒れる波動が、サイモンの存在を揺らしていた。しかし、その奥にある河原千鶴の存在をサイモンは認識した。

 それは、北巻しぐれと完全に融合していない。

 深い悲しみだけが同調しているに過ぎない。その存在に北巻しぐれのような憎しみはない。

 サイモンは手を伸ばした。近付いて来る気配がある。悲しみがある。サイモンは悲しみの深さを分かってあげたいと思った。北巻しぐれの波動が叫ぶ。それは、余りにも哀しい思い。気配が躊躇った。サイモンは強引に手を伸ばしてその気配を掴まえる。

 悲しみが吹き荒れた。河原千鶴が慰めていたものが解き放たれようとしている。憎悪とごちゃ混ぜになったその風は結界内をめちゃくちゃに吹き荒れる。サイモンは微動だにしなかった。

 そして、北巻しぐれの波動から河原千鶴を引き抜いた。

(おおおおおおおおおおおおおおおおお………………)

 何かが叫んでいた。心を乱される叫び。サイモンは河原千鶴に意識を集中した。守ってやらなければならない。再びあの波動に同調させてはならない。河原千鶴がサイモンの腕に引き取られた。その腕の中で河原千鶴はどんどん小さくなってゆく。河原千鶴はサイモンに呟き続けていた。両親の事、友達の事、学校の事、部活の事、一瞬渦間の妹の気配があった。そして、最後に北巻しぐれと清水真実と三人で過ごした日々の事。真実に恋している河原千鶴の想いが、サイモンの胸に突き刺さった。

 サイモンはその悲しみの全てを抱いた。そして、河原千鶴が本当に小さくなった時、囁いた。

(もう、解き放たれたよ。)

 河原千鶴の気配から、全ての力が抜けていくのをサイモンは感じた。儚いそれは、北巻しぐれの悲しみの深さも示している。

(あとは、任せて……。)

 頷きと、友愛の気配がサイモンの胸に広がる。

(本当に、がんばったんだね。)

 最後に泣きたくなるような悲しさと、成就しなかった自分の恋に対するせつなさを包み込む、河原千鶴の不思議な優しさが残った。それは狂おしいほどに秘められていた。そして、諦められていた。彼女は、生きている人間に思いを伝え、幸せを得るよりも、取り返しの付かない死者の慰めに自分の命を捧げてしまったのだ。それが、サイモンに微かに「ありがとう」と言い残して、この空間からうすれてゆく。

 サイモンに後ろ髪の残る思いを残して。

 そして、気が付いた。

 北巻しぐれの気配がない事を。


 加賀美が意識を取り戻したのは、体の節々の痛みのせいだった。瞼を開けるとホームのアスファルトが目に入り、自分が倒れている事に気がつく。体を動かしてみる。動く。何で倒れているんだろう、と今の自分を不思議に思う。思わず呻き声がもれる。頬骨が、ホームに触れた途端に痛みが走ったのだ。ホームに触れた時の感覚が痛感よりも遠くにある。撲れているのだ。

 何が起ったのか。加賀美はホームを一心に見詰めて思い出そうとする。夢を見ていたようだ。長い夢を。

 しかし、それは夢ではない事を思い出させる声が聞こえた。

「加賀美君……。加賀美君だよね…。」

 脅えたような小声。加賀美は顔を挙げた。

「……荻さん。」

 加賀美は荻に膝枕されているサイモンに気が付く。何がおきていたのかがあやふやだ。

「サイモンは、……。」

 荻が涙眼で頷く。大丈夫と言う事だ。何が大丈夫なのかが一瞬分からない。しかし、凍るような悪寒が背筋に走った事で加賀美は思い出した。

 しぐれさんは。

「サイモン、しぐれさんはっ。」

 加賀美はサイモンにその事を聞こうとして、痛みを忘れて立ち上がった。そこで、周りを見渡した。

 呻き声が耳に入った。目をやると長谷川が肩口を押さえている。涙を流している荻。膝枕に頭を預け、白目をむいているサイモン。倒れている竜樹。そこに近付こうとしている結花。見当たらない渦間。ホームは広くはない。ホームの幅は9メートル程だ。真中には鉄骨5メートル間隔で屋根を支えている。こんなに狭かったか。加賀美は不思議に思う。眼がちかちかする。何だろう、この感触は。

「たつき、たつき、しっかりして。」

 結花の声が聞こえる。加賀美はそちらを見る事が出来ない。全て、自分の所為だと知っているからだ。一体自分は何をしてしまったのだ。これが現状だ。これが現実だ。竜樹の意識はなくなっているのか、結花の問う声が聞こえる。

「たつき、たつき、おきて。」

 竜樹のうめく声が聞こえた。しかし、それは次に辛そうだが、しっかりとした男の声となった。

「大丈夫だ。心配するな、結花。」

「あれっ。」

 結花が言った。加賀美は結花の発した言葉が余りにも驚いていたので、思わず振り向いた。慌てて自分の行動に気が付き視線を逸らす。しかし、荻も見ている。自分はおかしくないのかと、加賀美は思った。それよりもしなければならない事がある。長谷川に謝らなければ、渦間にも、荻にも、サイモンにも。そして、今支えあっているあの二人にも。加賀美は、うめいている長谷川に近づく。長谷川が痛みにしかめた顔を挙げて、加賀美を認めた。加賀美は膝を付いた。

「大丈夫か。」

 長谷川は笑う。

「気にすんな。」

「すまない。………わるい。」

 加賀美は謝りの言葉でも足りないこの気持ちを持て余す。

「あれっ。」

 結花の声が、さっきより甲高く響いた。慌てたような竜樹の声が重なる。

「どうした。結花。」

 結花の顔が惚けたようにホームの天井を仰いだ。その顔がカクンと竜樹の方に曲げられる。

「わたし、きたまきしぐれよ。」

 ヴーンと言う低周波が耳に聞こえてきた時のいやらしさによく似ていた。誰も一言も発する事が出来ない。結花の口から放たれた言葉は、今意識のある人間、全員が聞いていた。

「どういうことだよ。」

 加賀美の耳に掠れた長谷川の言葉が聞こえる。加賀美もそれは分らない。分かるのは、まだ北巻しぐれがこの空間に存在しているという事だ。

 竜樹が言う。

「冗談はよせよ。何を言ってんだよ。」

 結花の顔があどけない笑みを浮かべた。

「どうして。」

「冗談はやめろって言ってるんだっ。」

 竜樹が言った。声が大きい。加賀美は嫌なものを見たと感じる。余りいいものではない。だが、今いる場所からも動けない。何が起きるのかを固唾を呑んで見守るしかない。

「ねえ、じょうだんじゃなかったら。」

 結花が言う。

「あなた。いつもそうやってわたしをおこってたね。」

 結花の手が竜樹の両肩を押さえた。竜樹の顔が信じられないものを見る目に変った。竜樹は肩を動かそうとする。しかし、微動だにしない。

(い・う・なっ!)

 空間が音を発した。パシンッとしか認識できないはずの音が加賀美の耳元で言葉になる。

「……しぐれか。」

 竜樹が言った。結花の顔が歓喜に歪んだ。それは喜びを通り過ぎておぞましさを見るものに与える、憎しみの歓喜だ。

「そうよ。しぐれよ。あなたのしぐれよ。」

 加賀美の胸に痛みが走った。体の痛みとは違う痛みだ。

「やっと、会えたね。ずっとさびしかった。」

 竜樹の顔が脅えている。しぐれはそれすも愛しい様に言う。

「わすれないでいてくれたのね。わたしのこと。」

「お前は、……本当にしぐれなのか。」

 竜樹が結花に押さえ付けられる格好のまま聞いた。しぐれの答えは、危険に満ちたものだった。

「わたしのおなかにはねぇ、あかちゃんがいるの。」

 微笑みが結花の顔に浮かぶ。それが張り付いた印象があった。

「あかちゃんがいるの。あなたのあかちゃんよ。」

 ミシリという音が聞こえた。竜樹が顔を歪ませる。

「なのに、なんであんなひどいこといったの。」

 歯を食いしばっている竜樹の姿が加賀美の眼に見えている。しかし、どうする事も出来ない。今の事実が、北巻しぐれの望んでいる事なのだ。北巻しぐれが残した未練なのだ。受け止めなければならない。受け止めなければならない。分かっていたはずなのだ。北巻しぐれが好きなのは竜樹だと。加賀美は北巻しぐれが間違っている事は分かっている。しかし、何とかしてやりたい。それは、罪を犯すなとか、他人に酷い事をするなとか、人の気持ちを分かれとかそう言った思考範囲にはない。

 北巻しぐれに幸せを。今ではない。はるか先かもしれない幸せをあげたい。忍耐の先にある幸せをあげたいのだ。全てを乗り越えた先にあるはずの幸せを。

「……俺は、何を言った。」

 腫れ物を触る竜樹の声。

「わすれたの?わたし、わすれてないよ。」

 息を呑む竜樹、語り掛ける言葉。

「もう、くるなよっていったよ。」

 優しげなしぐれの声は、歪んだ口の端から流れ落ちて来る。

「おろせばいいだろっていったし、かんけいねぇっていった。ふざけるなっていった。どうでもいいって言った。にどとと現れるなって言った。でて行けって言った。」

 ささやく北巻しぐれの言葉が辺りを漂う。存在感が言葉と共に強くなる。涙声を忍ばせた声色。竜樹の顔が、北巻しぐれの言葉に対して反応する。それは、二人が恋人同士だった時に何度かあった風景だったのかもしれない。竜樹の顔が怒りの表情を見せた。大きく開いた口が覆い被せるように北巻しぐれに言い放つ。

「あの時、お前はそうでも言わなけきゃ。別れちゃくれなかっただろうが!」

 北巻しぐれが、竜樹の言葉に怯んだ事が見て取れた。加賀美は悲しみが湧き上がるのを感じた。人は好きになった事でこんなにも不条理な言葉を納得してしまうものなのだろうか。それとも、それは北巻しぐれだけの事実なのか。

 北巻しぐれが言った。声が、震えている。

「……わたしは……そんなにひどいおんなだった?」

 竜樹が顔を背けた。

「……たつき。わたし、は……。」

「そうは言ってない。」

 投げつけるような竜樹の声。加賀美は見ていられない自分に気が付いた。目を、背ける。北巻しぐれの悲しみが流れ込んで来る様な錯覚がある。

(加・賀・美。)

 パシンッ

 空間が鳴る。加賀美は自分の悲しみに水を差されたその音を無視する。

(と・め・ろ。)

 パシンッ

 再び鳴る。加賀美は二人を見た。見詰め合っている。竜樹の言葉から二人は沈黙している。瞳で何を語り合っているのだろうか。付き合っていたその月日の長さは、加賀美では埋められない。分かるはずもない。

(と・め・る・ん・だ。)

 パシンッ

 耳に囁かれる促しの言葉は、加賀美にとっては悲しみの助長しか意味しない。声が言い募る。切羽詰まった響きを持つ。

(こ・の・ま・ま・だ・と・や・ば・い。)

「サイモン。すまん。俺には出来ない。」

 加賀美は思わず口にした。

 その瞬間、サイモンの意識が加賀美の中に流れ込んだ。それは加賀美にとって始めてみる世界が視界に広がった事を意味する。北巻しぐれが竜樹を見詰めている、その気配が加賀美に分かる。サイモンが危険と判断したその訳が目の前にある。結花の姿が、北巻しぐれの姿がぶれている。それは強い感情が引き起こす、拡大自己意識の前触れだ。北巻しぐれが言葉を発する。加賀美にその言葉に含まれる感情が見える。竜樹は視線を逸らした。

「……あのおんなのひとが、すきなんだ。」

 竜樹の沈黙は、肯定に他ならない。加賀美はほっとしている自分に気が付く。自分の中にある意識が驚きの感情を発している。サイモンか。本当にサイモンなのだろうか。北巻しぐれの揺れていた意識が、静かになってゆく。

(終わりなんだ。)

 加賀美はそう思った。悲しみが言葉になって、結花の口からこぼれ出た。

「……ねぇ。たつき、わたしのことあいしていてくれた?」

 竜樹の顔が微かに動いた。微かな期待を込めるて北巻しぐれが言う。

「……すこしでも?」

 竜樹の声がしぐれに答えたのと、しぐれの顔が勝ち誇ったように輝いたのは同時だった。それは結花の顔をしている。だが、その表情は加賀美が一週間前にすれ違った者の面影がある。竜樹の顔が裏切られたもののそれへと変る。北巻しぐれの言葉が高らかに響いた。

「ウソッ。」

 加賀美は、結花に取り付いていた北巻しぐれの姿が輪郭を無くすのを見た。その姿が、一つの言葉を繰り返し、自分の正当性を主張しはじめる。

「ウソッ、『ウソッ』、ウソッ、『ウソッ』、ウソッ、『ウソッ』、ウソッ、『ウソッ』、ウソッ、『ウソッ』、ウソッ、『ウソッ』、ウソッ!!」

 何が嘘なのか、脈絡の無く始まった言葉は北巻しぐれが待ち望んでいた言葉としか思えない。言葉になっていない想いが伝わって来る。それは、サイモンの危惧した事が現実となった事を意味する。

『また、嘘をつくつもりだ。』

『本当に愛してなんか無いくせに。』

『本当にそうなら、こんなに私を追いつめたりしない。』

『全部を知っていながら、あんなことはできないっ。』

『あんなに私は好きだったのに、いつまで一緒に居たいと思っていたのに。』

 加賀美は圧倒される。竜樹の肩に掛った手が更に力を増したようだ。その手が動く。

 北巻しぐれが叫んだ。

『私が死んだのは、おまえのせいだっ。』

「お前のせいだ。」

『おまえのせいだっ。』

「きいてるか。聞いてるのかっ。」

『聞いてっ。聞けよっ。』

「たつき、あんたのせいだ。」

『あんたの所為なんだっ』

「きかないのかっ。」

『聞かないならっ……。聞かないならっ……。』

「きかないならっ。」

 加賀美が一歩踏み出した。距離を縮める。加賀美の眼に見える北巻しぐれは、まるで鬼のように見える。昔、見た、眼から血を流している鬼。

「聞かないなら、どうするつもりなんだよ。しぐれさん。」

 加賀美が、竜樹に馬乗りになって、再びその首に手を掛けようとしている姿に言った。長谷川が、加賀美を見上げている。荻がサイモンの頭を掻き抱いた。ホームの屋根に響いていた雨音さえも聞こえない。やんでいるのか。違うのか。北巻しぐれの力の及ぶこの結界内では、外界のほぼ全てが遮断されているとしか考えられない。あれほど、鳴り響いていた、稲光もその轟きもない。耳に、ヴーンと言う低周波音。鼻には、気にしなければ分らない程だが生臭い魚の匂いがする。

 その全てが、今のこの場を支配しているものが何なのか、誰なのかを示していた。

1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。

少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。この話は、苦しかったと思い出します。

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