二十三 憑依
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
昼間にこの雨の中、空を見上げたならば雨雲の圧迫感に胸が苦しくなる錯覚を覚えたかもしれない。サイモンがそう思ってしまうほど空は暗かった。車の振動が止まった後、車内の沈黙は長く続いた。加賀美も竜樹も口を閉ざしている。いや、どう切り出せばいいのかを迷っているのか。
車が停まって既に、五分を過ぎようとしていた。車の屋根を雨が叩く音が絶え間無く続き、その沈黙の気まずさを逸らしている。フロントガラスの向こうにはクレストホテルの小さな入り口が見え、申し訳程度の街灯がその入り口を照らしている。この場所からはロータリーの植込みにある女の彫像も見えない。タクシーの姿も今はなく、夜遅くまでは、ネオンで明るいはずのロータリー周辺も、この時間になるとその殆どがその明かりを消していた。
車のデジタル時計は、今が午前二時五分前である事を告げている。
加賀美が口を開いた。
「……駅の中で、しぐれさんが待っています。」
声の震えはなかった。今までの沈黙は、総てをもう一度整理して自分を冷静にするための時間だったようだ。竜樹の身体が、不自然に強ばったのが分かった。
「お前、何考えてんだ。……ここにしぐれを連れて来いよ。ここまで……。」
竜樹の言葉は、唐突に尻切れで止まった。
サイモンは、それより早くに車に近づいてくる人影に気が付いていた。女であるシルエット。傘を差していて、顔は分からない。どの道、夜であるのと雨がひどくいので、よほど近くに来てもらわなければ顔など分かりようがあるはずがない。しかし、サイモンはその歩き方ですぐに分かった。瞬間、怒っているのではという場違いな想いが湧いた。湧き上がった瞬間、場違いだと分かったにもかかわらず、その想いが自分の背中に冷や汗をかかせたことにサイモンは驚いた。
(……荻さんだ。)
竜樹は身構える素振りを見せた。「しぐれか。」という呟きがサイモンの耳に聞こえた。瞬間、結花が扉を開けた。結花の座っている方は荻が近づいて来ている方向と逆になる。顔が見えているわけではないのに、竜樹の一言で結花は雨の中に降り立った。
「まてっ、違う。」
扉が閉められる前にサイモンは大声を上げた。加賀美が振り向く。
「荻さんだ。北巻しぐれじゃない。」
サイモンも扉を開けた。
雨の音が、辺り一面に響き渡っていた。車内で感じた焦りを、雨が全て流してしまいそうに冷たい雨だとサイモンは思った。荻はサイモンの姿を認めると、雨の中を小走りに近づいて来る。振り向くと結花は、降り立った場所から一歩も動かずに近づいて来る荻を見ていた。雨が既に彼女の髪をあらかた濡らし、顔を幾筋も水が伝っていた。結花の口が動いた。雨でほとんど聞き取れない声が言った。
「ほんとだ、……違う。」
サイモンはほっとして、荻に注意を戻した。
すぐ側に荻は居た。
唇がへの字に曲がっていて、瞳が潤んでいた。渦間と長谷川はどうしたんだ。不意にサイモンは苛駄々しく思った。こんな雨と、雷の中で一人では恐くないものも恐くなるに決まっている。
荻の顔が、サイモンの顔を見ているうちに微笑みを浮かべた。ひょい、と言った感じでサイモンの頭上に傘を差し掛ける。
「濡れちゃうよ。」
背後とすぐ隣で、扉の開く音と、傘を差す鈍い音が響いた。目の端に竜樹が結花に傘を差し掛けているのが分かった。加賀美が、側に居た。
「山本竜樹を連れて行け。……お前にしか出来ない。」
サイモンは竜樹が外に出たのを見て、加賀美に囁いた。加賀美が頷く。そうして、サイモンは荻に聞いた。
「渦間達は。」
「長谷川君、目が良いみたいですぐに車に乗っているのが恭神君達だって分かったみたい。」
サイモンは頷いた。
「どうせホームに入るんだろうから、見張りが居た方がいいんじゃないかって思ってるみたいで、駅員が宿直する建物が見える場所に移動してる。」
「そうか。ありがとう。」
渦間と長谷川が考えそうなことだとサイモンは思った。
そのとき、竜樹の怒りの言葉が聞こえた。
「ここに連れてこいって言ってるんだ。」
サイモンは振り向いた。加賀美は傘で隠れて見えないが、その言葉に微動だにしていない。しかし、その態度に更に竜樹は怒りを感じたらしく言い募った。
「手前らな。警察呼ばれないだけでも有り難いと思えよ。人の個人的な事情に勝手に口を挟んで来やがって、礼儀もないのか。」
本性が出たか。サイモンは思う。
それとも、俺達がそこまで追いつめたのか。
多分後者だな。サイモンは心なしか近くなった荻の気配にそう思った。
「しぐれさんは、あんたを待っているんだ。」
竜樹に答えた加賀美の言葉は返事ではない。
「ふざけてんじゃねえぞ。」
声は、雨の音を圧し始めていた。しぐれの名が出る時の結花の表情をサイモンは見た。悲しみを押し隠した無表情。竜樹が更に言い募ろうとしたのを、結花が遮った。
「もういいわよ。竜樹。」
それは呟きだったが、竜樹の耳に届いたようだった。言いかけて止まった竜樹と、加賀美に言い聞かせるように結花が言った。
「あの女の事で、感情を剥き出しにしないで。」
空が光った。整った結花の顔の優越感に歪んだ笑顔が見える。
サイモンは雨の音を聞いておけばよかったと思った。竜樹が結花の腰に手を回し、引き寄せた。
空が鳴る。
「早く。……連れてこい。」
怒りを押さえた声色。しかし、加賀美は言った。
「ここじゃ、濡れます。ホームまで来てください。すぐそこです。……そこに、連れて来ます。」
結花の存在が、加賀美を救ったといえる。びくりと震えた竜樹の肩の動きは、それだけで止まったからだ。結花に廻した手への力が強くなったように見えた。ゆっくりと呼吸を整えて竜樹は言った。
「案内しろ。」
結花が今度は、微かに笑った。笑うってなんだ。サイモンは不思議だった。荻がほっと肩の力を抜いたのが分かる。加賀美がサイモンの方を向いた。瞳は、行くよと言う合図だった。サイモンは頷く。
「……こっちです。踏み切りから、ホームに行きます。」
加賀美が歩き出す。
竜樹はしばらく加賀美を見送り、サイモン達を見ていた。しかし、サイモン達が動き出しそうにないのを見て取ると、結花を促し、加賀美の後についていった。
サイモンと荻は、その後ろをついてゆく。荻の差し出した傘は、既にサイモンの手にあった。大きめの傘は二人が入っても十分な広さがある。サイモンの傘は竜樹の車の中だった。取っている暇はなかった。雷の音は、既に遠かった。しかし、まだ雨の勢いは止まない。雷が鳴り終わるまでは止もうとしないのかもしれない。サンロード津田沼のビルの脇を通る時、サイモンは入り口の張り出し屋根で雨宿りしている二人組に気が付き立ち止まる。渦間と長谷川だ。すぐ目の前に居る二人に少々驚く。長谷川が親指を立てて見せた。にやりとしている。しかし、渦間はそんな長谷川に気がつかないように一心に遠くを見ていた。視界を遮っているはずのサイモンと荻にも気が付かないような集中振りに、サイモンは怪訝に思って渦間の視線を追った。駅員の宿舎である建物が目に入った。窓に、明かりが点いている。そして、黒っぽい人影がある。それが今、窓を離れた。
「恭神君、加賀美君達行っちゃうよ。」
「えっ。」
サイモンは荻の方をむき、加賀美を視線で追った。踏み切りから、砂利の敷き詰められた線路の敷地内に入る加賀美が見える。それを追う竜樹と結花。それはビルの陰に隠れて見えなくなる。長谷川がさっさと行けとばかりに親指で進行方向を指差す。
「恭神君。」
「……あっ、ごめん。行こう。」
サイモンは荻の促しに従う。所詮身体は一つしかない。渦間と長谷川だ。何とかしてくれる。サイモンは加賀美に注意を戻し、三人を追う。最後に振り替えると渦間と長谷川は、立ち上がっていた。
渦間と長谷川は、立ち上がった。長谷川が言う。
「お前、サイモン達に気が付いてたか。」
「当たり前だ。」
長谷川が憤慨したように言う。
「そう言う、詐欺師みたいな性格、何とかしろよ。」
「いいんだよ。友達だし、いつでも会えるんだから。」
駅員宿舎の窓の光は「ふざけてんじゃねえぞ。」という言葉が、雨音響く夜の闇を圧して聞こえて来た時に点いた。はっきり言って二人はその事についてどうする事も出来ない。宿直員が一人いる事は既に確認していた。一人だけである事が幸いか、災いかは分らない。ただ、事実は今まで明かりが点いていたのが消えたと言う事だけだ。
しばらく間があった。
緊張しているのに疲れたのか渦間が言った。
「出てこないでさ、寝ちゃっただけだったりして。」
しかし、その言葉は、あっさりと覆された。雨の中、合羽を来て駅に向って来る姿があったからだ。
「お前はいっつも適当だよ。」
「それをどーにかするんだろ。」
渦間は悪びれることなくそう言った。長谷川が反論する。
「どーせ力わざに頼るんだろーが。」
「悪いかよ。」
「お前の計画、うまく行った試しが無いよ。」
「失礼な。最後までうまく行った試しが無いだけだ。途中までは絶対うまく行ってた。」
「でも最後は駄目じゃんか。」
こそこそと話しながら二人は、雨の中傘を差さずにゆっくりと歩き出した。長谷川は千鳥足を装う。小声で言い交わすのは、これまでもそんなことをやって来たような口調だ。
「腰周りに手を廻させるなよ。緊急呼び出しベルがあるはずだ。」
「わかってるよ。それより有無言わせずにやんのか。」
「そっちの方が楽だろ。」
「ちぇっ。いい気なもんだよな。」
渦間が、駅が閉まる時に会話をしていたのが幸運だった。その時に会話をした駅員が歩いて来たからだ。駅員が踏みきりに入る前だった。ここから見える場所に加賀美もサイモンももう居ない。懐中電灯が二人の顔を照らす。
「お前ら、まだこんなとこにいたのか。」
「えきいんさーん。きいてくださいよー。」
渦間が情けない声を出して、そう声をかけた。長谷川は顔を俯けたままだ。
「なんだ、忙しいんだから、そこを退きなさい。」
駅員は全く相手にしていない口調だ。
「つめたいなぁー。」
「うるさいぞ。いいから……。」
そう言って、苛々しながら二人の脇を通り過ぎる。
その瞬間、二人は駅員に襲いかかった。
雨に濡れた砂利を踏みしめる音が聞こえる。加賀美が先を行き、竜樹と結花が足元を確かめながらそれに続く、雨は歩く事じたいを億劫にする。街灯の明かりだけが薄暗く駅構内を照らしている。加賀美がホームの突端にある駅員用の階段から駅のホームに登り、柵を乗り越えた。竜樹がそれを追う。柵の手前で止っている結花の体を、竜樹は軽々と持ち上げホームに下ろした。サイモンは荻にそれは出来ないのでどうするかと思ったが、スパッツ姿の荻はやすやすと柵を超えてしまう。駅のホームは、後にして来た路上の街灯でかろうじて明るいだけだ。前を進んでいる加賀美の姿も、竜樹と結花の姿も闇の中に消えそうに見える。目が慣れれば少しは違うのかもしれない。雨がホームの天井を叩いている。耳に木霊しているその音は、夜の静かな闇が禍々しいものに姿を変える前兆のようにも思える。サイモンは傍らにいる荻の手を握ってやりたいと、不意に思った。それとも自分が握りたいのだろうか。
加賀美はホームの奥へ奥へと進んでいく。
始発の上野と、乗入れている都営地下鉄線の終着駅である押上へと向う一、二番ホーム。加賀美はホームの中ほどにある改札へ登る階段を二つとも通り抜けた。サイモンも知っている場所がそこなのだ。
北巻しぐれが、自分の命を投げ出した場所。
そこに何の恐れも無く近付いてゆき、立ち止まる加賀美。
そして、そのまま全員がこの場所に来るのを待つ。
……何も起らないのか。
サイモンは驚いた。竜樹と結花の二人も加賀美に追いついた。どんな表情をしているのかは見えない。後ろの方で、何かの殴られるような鈍い音を聞いたように思った。しかし、はっとして荻の方を見ても、荻は何も気が付いていないようだった。そんな余裕がないだけなのだろうか。身体中が強ばっているような雰囲気、それを肯定するように瞳は加賀美の立つ場所を凝視している。
「荻さん。」
サイモンは囁いた。聞こえていないようなのでもう一度囁く。荻が吃驚したように振り向いた。
「大丈夫そう。」
荻は唇を引き結んで頷いた。
二人は最後にその場所の前に着いた。
雷の音はもう、ほとんど聞こえて来ていなかった。雨も朝にはやんでしまうかもしれない。非常灯が階段の側にあるせいで、ほかの場所よりも弱冠ここは明るい。サイモンは闇に目が慣れて来たせいもあって、加賀美の表情を見る事が出来た。
竜樹の表情も結花の表情も。
荻もそうだったようだ。そして、加賀美の表情を見て荻は低く驚きの声を上げた。
「加賀美君が……。」
サイモンも驚いていた。竜樹と結花の表情も同じ事を語っていた。顔面蒼白な加賀美の顔。この一週間、サイモンは様々な加賀美の表情を見て来た。その中でもこんなものは最悪だった。荻が自分の服の裾を掴み、引っ張っているのが分かった。無意識の行動だとサイモンは確信する。それほどの何かが加賀美の表情にある。サイモンは恐れと共に目を細めた。柔らかく大切な何かがつぶされた加賀美のあの時の感覚が脳裏を過ぎる。あれは許せる事ではない。許してはならない。二度と。
しかし、何も見えなかった。
何が起きているのか。
それとも、何かが起きようとしているのか。
「おい。いい加減にしろ。しぐれはどこだ。」
竜樹が誰よりも早く、驚きから立ち直ったようだった。苦々しげにそう口にする。サイモンはそちらを見た。開き直っているのか。それとも自分の女が側にいるせいなのか。その姿は昼間の喫茶店で見たような弱々しく、恐れを持っている男ではない。
加賀美の表情は変らない。
そして、首が動き、竜樹の顔を凝視した。
「いま、会えます。」
暗闇に浮かび上がる加賀美の白い顔が、そう竜樹に告げた。竜樹は加賀美を睨み付けた。サイモンはそれが今の加賀美に何の影響も持たないと分かる。サイモンは全身がぴりぴりしていた。いつのまにか自分が歯を食いしばっている事に気が付く。荻の引っ張る力が強くなったのが分かった。目を細める。何も見えない。何も見えない。いや、感じる。気配がある。どこから来ているのだこの気配は。
「……この場所で、先週の木曜日。北巻しぐれさんが死を選びました。」
沈黙があった。
竜樹が口を開いた。
「……知っている。……そろそろ言えよ。お前ら、何なんだ。」
加賀美の顔が、微かにほころんだ。
「……知ってたんですか。……。」
サイモンは、気配がすぐ近くにあると気が付いた。
「よかったですね。」
加賀美が言った一言は余りにも自然で、誰に声を掛けのか怪訝に思うものはなかった。いや、サイモンだけは違った。サイモンは加賀美の口からその言葉が出て来た瞬間に、その気配の出所に気が付いたからだ。
加賀美が言った。ゆっくりと、自分に言い聞かせるように。
「……しぐれさん。」
サイモンはその開いた口の中に、北巻しぐれの姿を見た。
気温が下がった感じが周囲に漂った。
五感に訴えかけるのではない。六感でしか感じられないはずの感覚が、鋭い感性を持っていない人々に影響を及ぼすほどはっきりとこの空間に現れた。風が、加賀美の場所から風が吹いて来ていた。いつから吹き始めたのか。何の風なのか。その風は人肌の温かさで、耳元を聞き取れない囁きを持って吹き抜けてゆく。そして、鼻が曲がりそうな腐った匂い。風に邪魔をされて、サイモンはうまく加賀美を見る事が出来ない。サイモンは北巻しぐれの姿を探す。加賀美の中にいた。加賀美の中に巣くったのか。加賀美は操られていたのか。思考がまとまらない。サイモンは感じた。この風のせいだ。この風の囁きに思考が乱される。何を言っているのだ。駄目だ。聞いては駄目だ。服の裾が強く引っ張られたのが遠くに感じられた。視界がぶれている。俺は何を見ているのだ。加賀美だ。加賀美を見なければならない。サイモンは上半身を持っていかれてしまいそうな風の強さに怯んだ。馬鹿な。こんなはずが無い。ここは津田沼駅のはずだ。誰かが俺を呼んでいる。くそ、この匂いは何だ。
「竜樹っ、どうしたのっ。」
切羽詰まった叫び。結花と言う女の叫びだ。なんだって、竜樹がどうしたって。
サイモンは無理矢理、加賀美から顔を背けた、首を声の聞こえた方にねじる。
竜樹が見えた。薄明るいだけのホームでさえ、その瞳が見開かれ、恐怖に慄いているのが分かった。その瞳は何を見ているのか。何を見ているのだ。
「恭神君!!」
荻の叫びが、サイモンの耳をうった。サイモンは荻の顔を見下ろした。すぐ側に、自分の顔を見上げる荻の顔がある。
「どこ見てるのぉ。加賀美君がおかしくなっちゃってるよぉ。」
荻は瞳が潤み今にも泣きそうな表情をしている。サイモンは、荻に詰め寄る必要も無く、彼女の言った言葉と自分の感じたものにずれがある事を感じた。
どこを見てるの?
俺はどこを見ていたのだ。
サイモンは加賀美の姿を探した。
加賀美は今までいた場所を移動し、ゆっくりと竜樹に迫っている。サイモンは背中に冷や汗が吹き出すのを自覚した。身体が恐怖を感じる事を止められない。サイモンは自分が今まで見ていた場所に振り向く。
何も無い。
残留思念に惑わされたのか!
サイモンは、加賀美を呼んだ。喉が掠れて声にならない。
「加賀美……。」
加賀美は竜樹の半歩前で立ち止まっていた。竜樹は動こうとしない。それとも動けないのか。額には脂汗が見える。口が酸素を求めるようにぱくぱくしている。
「あんた。竜樹にっ。」
結花が声を振り絞った感があった。しかし、それは途中で途切れてしまう。加賀美は、結花など見ていなかった。しかし、何かが直撃したように、結花は体を強張らせた。
加賀美が口を大きく開けた。
大きく。大きく。
その喉の奥から、愛しい人を呼ぶ声が聞こえてくる。
「た、つ、き……。」
荻さんが小さく悲鳴を上げた。サイモンは、荻の見た目によらない気丈さに感謝した。加賀美の喉の奥から聞こえてた声は、ねっとりとした液体が泡を吹くようなゴポゴポという異音を伴い、加賀美が既に人としてこの世にいない象徴のようだったからだ。サイモンは加賀美を睨んだ。目を細める。
加賀美は加賀美だ。
しかし、どうすればいい。
竜樹の呼吸は荒くなる一方だった。結花が恐怖に顔を歪めながら、一生懸命に竜樹にしがみついている。視線が加賀美から離れない。
視線を放せ。
サイモンは声にだそうとして、出ていない自分に驚愕した。いま、この空間に何が起っていると言うのだ。
「た、つ、き……。」
大きく開けられた口から、加賀美の物ではない声が竜樹を呼ぶ。竜樹の右手が、ゆっくりと上がった。助けを求めるように加賀美に掌を向け、押し出すような仕草を見せる。
そして、声が出された。
「あ……。」
その瞬間、加賀美の左手が凄まじい速さで動いた。
竜樹の喉がくぐもった音を発する。
加賀美の左手が竜樹の喉を締め上げたのだ。
「かぁっ。」
竜樹の喉から漏れる空気の音がサイモンの耳にまで聞こえて来た。結花の恐怖に戦く表情が変化を見せた。首が小刻みにゆれはじめ、口が何かを言いたそうにわななく。その首の揺れはやがて嫌々をする変化を見せた。そして、涙とともに声が絞り出された。
「やめてぇっ。」
加賀美の右手が結花の左頬をひっぱたいた。その時、信じられない光景がサイモンと荻の前に現れる。結花は竜樹の身体に押し付けられたようになり、そのまま身体が一回転してホームに転がったからだ。
荻が叫びをあげた。
サイモンの中で、何かが膨れ上がった。それが、サイモンの眼前に今の光景を見せる。
竜樹の首を絞め上げている加賀美。
その手を放そうともがいている竜樹。
ホームで気を失った結花。
うずくまってしまった荻。
そして、加賀美の中に透き通る身体を重ねるようにしている二体の『もの』。憎悪の波動が、この空間に北巻しぐれの意志を還元させている。それを押さえようとする微かな波紋。加賀美に身体を重ねている二つの『もの』のうちの一つが、サイモンに崩れた顔を向ける。顔が、首が伸びる。眼孔が鼻孔が口がたてに引き伸ばされた。それが、サイモンに語り掛けようとする。何かから逃れようとする動きを見せる。
自分の意志なのか、そうではないのか。
吐き気が、膨れ上がる。
『あれ』はここに居るべきものではない。
『あれ』はここに居させてはいけない。
その瞬間、サイモンは自分を縛っていた北巻しぐれの憎悪の波動から抜け出した。
サイモンは、身体中に力が漲っていると感じた。人が怒りと呼ぶその力だ。
「あああああああっっっっ!!」
意味不明なその音は、空間を振動として伝播し北巻しぐれの創り上げた空間を崩してゆく。サイモンは竜樹の首を締め上げている加賀美に駆け寄る。左腕が振りかぶられ、そのままサイモンの拳は加賀美の頬を打ち抜いた。
加賀美の首が、一回転するようなスピードで左にまわった。しかし、その身体は微動だにしない。サイモンの全身に悪寒が走る。加賀美の顔に重なるように、あの『もの』がサイモンを見た。
嘲笑うような表情。
それは、北巻しぐれか、河原千鶴か。
竜樹の顔は、赤く染まりはじめていた。唇が苦しげにうめき声をあげ、眼が眼球が飛び出すかと思われるほどに見開かれている。サイモンは加賀美の顔には嘲笑が張り付いている。それを見ると悪寒が尾骶骨から背骨を一瞬にして痺れさせた。体を漲らせそれを振り払い、加賀美の腕に取り付いた。
「加賀美、しっかりしろ。」
加賀美の顔を見る事が出来ない。今見た嘲笑が、自分の敗北を示しているようでサイモンは呼吸を荒くした。せめて、せめて竜樹の首に掛かっているこの手を引き剥がさなければならない。しかし、すごい怪力である。サイモンがいくら引っ張ろうとも、びくともしなかった。
渦間と長谷川は、雨に濡れていた。服も髪の毛も身体にぴったりと張り付き、眉毛を乗り越えて瞳に入って来る雨を拭い拭いしている。駅員は渦間に後ろから羽交い締めにされ、その後長谷川に鳩尾へ強烈な一撃を食らわされて気絶をしていた。十秒として掛らなかった早業は、長谷川が空手を長くやっていたお陰である。気絶した駅員を、長谷川が背負って宿舎の入り口にまで持って来た。渦間が駅員の腰を触り鍵を探る。長谷川は、渦間の行動を見ているだけだったが、ふと、サイモン達が向った駅のホームに顔を向けた。しかし、ここからは建物に遮られ何も見えない。
「どうしたよ。」
渦間はこういう時、目敏いのが神経質なほどになる。しかし、長谷川は特に気にするでもなく答える。
「いや、サイモン達大丈夫かなってさ。」
「分かんねえな。なにしろ、当の北巻しぐれは死んでるからな。」
いいながら、探し当てた鍵束で当てずっぽうに鍵を合わせてゆく、やがて当てると駅員を宿舎の中に押し込んだ。扉を開けたすぐは階段で、お世辞にも寝転がりたい所ではなかったが、渦間は軽く合掌をして扉を閉めた。
長谷川が濡れた髪の毛を上に掻き上げながら言う。
「ほんとに良かったのかね。こんなことして。」
「いや、でもほかにどうすればよかったのかな。」
渦間は不安そうに答える。
「それが分かんなかったから、お前の案に従ったんだがね。」
長谷川は唇をへの字に曲げた。どうやら自分のやった事に気が付いたらしかった。渦間は最初から気が付いていたので平気なものである。長谷川に言う。
「琢磨が空手やってて助かったよ。目が覚めるのにどれぐらいかかるんだ。」
長谷川は上を向きながら渦間の問いに答えた。雨の降りが弱くなってきていた。
「人によるけど。二十分か。今、夜だからそのまま寝入ってくれりゃあ朝まで。」
「いいんじゃないかな。」
何となく、気まずいような沈黙が流れた。この行動を評価してくれる者など居ないのだ。ほんとに良かったかと言う事は、小心者と言われても、重要な事であった。
その時、声が聞こえた。
「あああああああっっっっ!!」
渦間と長谷川は、顔を見合わせた。
「加賀美、しっかりしろ。」
微かに聞こえるサイモンの声。そして、吹いて来た風。長谷川は、その場所で生温かく腐った匂いを嗅いだ。
「やばいな。」
渦間が囁く。長谷川は走り出していた。
「おいっ。置いてくなって。」
長谷川は、宿舎から踏み切りまで、約五十メートルを走りきり、砂利の敷詰められている線路敷地内に入った。渦間は長谷川よりだいぶ遅れている。長身の長谷川が本気を出して走ったなら、渦間は追いつくことが出来ない。しかし、長谷川はその場所で立ち止まった。いや、立ち止まざるを得なかった。
渦間が追いついて来て言った。砂利を踏みしめる音が響く。
「何だよ。サイモン達はもっと奥だぞ。」
「……お前何も感じないのかよ。」
長谷川が、渦間に振り向いた。
「何を。」
「変な感じしないか。なんか、めちゃくちゃやばそうだぞ。」
渦間は顔を顰めた。
「はぁっ。お前、何言ってんの。」
渦間は一瞬躊躇した。しかし、長谷川を置いてホームに登った。
「先、行くぞっ。」
そう言って、ホームを走りはじめる。長谷川は、自分が感じた事を大切に考える。その感覚が、今までに無い感触を与えていた。身体中に立つ鳥肌と、重たくなった足取り。
(寒いのか。)
長谷川は、渦間が駆けていく方を見た。一歩、足を動かしてみる。動く。特に身体能力に影響があるわけではなく、心理的か何かの問題らしい。長谷川は、無理矢理ホームに取り付いた。何とかホームに登ると、覚束ない足取りで渦間を追いかけ始めた。
「サイモンっ。」
渦間の大声が、サイモンの耳に響いた。サイモンは一瞬ほっとしてから、渦間が来たからといって何の解決にもならないと気が付く。竜樹の息はもたないのではないかと思われた。口の端から泡を吹き始め、加賀美の手に掛っている両手の力が弱まって来ている。渦間は、この光景を見てどう思うのだろうか。加賀美が男の首を絞めているのだ。案の定、渦間は叫んだ。
「なにやってるっ。加賀美っ!!」
「渦間。加賀美をひきはなせっ。」
サイモンが間髪入れず、渦間に声を張り上げる。渦間は何も言わず、何の躊躇も見せずにサイモンと反対から加賀美に飛びついた。どうやら考えて行動する事を止めているようだ。しかし、二人かがりでも加賀美はびくともしない。と、見るや渦間はそのまま身をかがめ、加賀美の両足に自分の両足を押し込むように強烈な足払いキックを食らわせた。
渦間の足払いは功を奏した。よっぽど強烈な足払いだったのだろう。重心の崩れた加賀美の体は、竜樹の首に掛った手を緩めたからだ。そのままサイモン共々ドウとばかりにホームに転る。サイモンは加賀美の身体から手を放し、すばやく起き上った。加賀美は、何者かが動かしているとしか思えない緩慢さで起き上がろうとしている。サイモンは下唇を噛む。竜樹の身体はしばらくそのままだったが、やがて力尽きたようにその場に倒れ込んだ。荒い呼吸音は生きている証拠だ。サイモンは渦間と目が合った。渦間は脅えた眼を向けて、サイモンの次の言葉を待っているように見える。しかし、サイモンもどうすればよいかなど分かりはしない。ここで、霊感を発動させればいいのか。どうやって。どうやって。見るのだ。加賀美を見ろ。加賀美に居た『あれ』を見ろ。
ここに居てはならない『あれ』を見ろっ。
サイモンは加賀美に目を向けた。
その時、加賀美もサイモンを見ていた。
サイモンの視線が、加賀美の眼孔を見下ろす。サイモンは戦慄した。
(何だこの眼は。)
白く濁っていた。瞳が無い。それは白目ではない。そこには何も見つけられない。そんなはずはない。サイモンは目を細める。見えた。何かが下腹から競りあがって来る。それは今迄に二度感じた感触だ。
この場所で、加賀美を救った感触。
全身が震える。自分の中からもう一人の自分が、肉体と言う殻を破って生まれて来る瞬間。それが、加賀美の中から北巻しぐれの憎悪の波動を弾き出したのだ。世界がぶれる。この現世と、それに重なり合って存在する多次元、その中でも第六感、七感として知覚される次元が目の前に広がる。そこに、より高次元の存在に成る事を拒む程の思いを残した北巻しぐれが、河原千鶴が存在するのだ。しかし、サイモンが肉体を抜け出す事は叶わなかった。今迄と一つだけちがっている事があった。
加賀美が北巻しぐれの支配下にあるのだ。
北巻しぐれが危険を感じたのか、怪力がサイモンの横っ面を張り飛ばした。
「ごわっ。」
悲鳴すらくぐもって声にならない。そのままサイモンはホームの奥に吹っ飛んだ。渦間が荻が声にならない叫びをあげる。それは、恐怖か。常識では考えられない距離をサイモンは滞空し、そのまま背中から落ちる。
ドッ、ズササササササ、ゴッ
瞳がホームの天井を見つめている。耳は嫌な音を聞いていた。自分の後頭部がホームに打ち付けられた音だ。視界が上へ上へとせりあがる。気をしっかり持たないと意識を失うぞ。そう自分に言い続けるが、視界は闇となった。
渦間は声も出せず目を見開いていた。辺りを見渡して逃げ場所を捜しはじめる。加賀美は目の前に居て、今まさに自分が転ばしたばかりなのだ。自分が次の標的だと考えるのは当然だった。しかし、荻と目が合ってしまい。ここに止まらなければならないと瞬時に判断を下す。荻は渦間と目が合った事で恐怖から脱した。あまりにも渦間の表情が恐怖を現わしていたので、かえって冷静になったのだ。荻はすぐにサイモンの所に向おうとした。
「あれっ。」
荻は自分の腰が、半砕けになっている事に気が付いた。へたり込んでいて分からなかったのだ。よろよろとサイモンの方に向う。加賀美が立ち上がった。その喉の奥から、不気味な声が響いた。
「邪……魔。」
渦間は加賀美から目が離せない。長谷川が現れたのにも気が付かない。
長谷川は顔をしかめ、辺りを見わたした。
「なんだ。今のは。」
長谷川は、視界が若干明るくなった事に気が付いていた。どこから一歩踏み出した時か、妙なめまいを感じた。その感触を嫌がって目を瞑り再び開けた時、目の前に見えるものが奇妙な現実味を帯びたのだ。その、目の前に加賀美が居た。
渦間が声に振り向いて、長谷川を見た。
声が響いた。
「邪……魔。」
加賀美は渦間と長谷川の方を見ていた。渦間がゆっくりと、距離を置くために下がる、頭がパニックになっている渦間は、手の動きで長谷川に下がれと合図する事しか思い付かない。しかし、長谷川は分らない。分かるはずもない。
長谷川が加賀美に声をかけた。気のいい声だ。
「どうした、加賀美。」
その言葉が加賀美の発した声に凍り付く。
荻はサイモンの側にたどり着いた。荻は、サイモンが頭をホームに打ち付ける音を聞いていた。白目をむいて倒れているサイモンに涙ぐみながら、後頭部にそっと手を差し入れる。既に大きな瘤が出来ている。しかし、それだけのようだ。荻は泣き出した。頭蓋に影響はないみたいだったからだ。
「邪……魔。」
「琢磨っ。加賀美はまともじゃねぇっ。」
渦間が声を振り絞って叫んだ。ホームの屋根の雨音が煩い中、それは確実に長谷川の耳に届いたはずだった。渦間は自分の失敗を悟った。長谷川は今までの一部始終を何も見ていないのだ。加賀美に警戒心を抱くわけがない。加賀美の手が動いた。それが長谷川の肩口を掴む。長谷川が痛さに悲鳴を上げた。加賀美の腕を引きはなそうと長谷川が加賀美の腕を掴む。しかし、渦間の見ている前で、長谷川の身体は加賀美の右腕一本の力で持ち上げられた。
「うわっあ。」
渦間が駆け寄る前だった。長谷川の体はまるでゴミの様に投げ飛ばされた。
「ぎゃっ。」
驚きの叫びは、悲鳴で締めくくられる。長谷川は受け身を取る暇も無く屋根を支える鉄骨にぶつかった。辛うじて体を捻るが肩口が柱との接触時にグキンと言う硬い音をたてる。痛みで長谷川がうめき、ホームに崩れ落ちた。渦間が驚愕して長谷川の名を呼ぶ。そのまま加賀美の脇を摺り抜けて駆け寄ろうとした目論見は果たされなかった。
「うっわっあぉぉぉぉぉ。」
意味不明なその叫びは大きく尾を引いた。加賀美が脇を摺り抜けようとした渦間を線路に向って張り飛ばしたのだ。渦間の軽い体は、そのまま線路を飛び越え、三、四番ホームに背中から突っ込んだ。三回転半して止まる迄に渦間の意識はない。
「邪……魔。」
加賀美ではない声が喉の奥から発せられる。その首が振り向き、荻を見つめる。荻が抗い難い視線を感じて、恐る恐る振り向く。荻は、自分の歯が音を立てはじめるのを止められない。加賀美の視線は、ホームに崩れ落ちている竜樹と荻を交互に見つめた。荻への距離は遠い。しかし、加賀美はもう一度不気味な声を出すと、荻へ歩を進め始める。
荻が我知らず、サイモンの手を握り締めた。
強く。
強く。
強く。
荻は、近付いて来る加賀美をただ見る事しか出来ない。操り人形のようなぎこちない動き。サイモンを、長谷川を、渦間を何のためらいも無く這い屈ばらせたその力。荻は何も考えられなかった。頭に浮かんだ強い思い。
ありえない。何かがおかしい。恭神君はこのおかしさに気がついているのだろうか。
加賀美が荻の目の前に居た。
涙が眼に溢れて来た。自分の恐いシーンを見ないためだろうか。それは自分の瞳に見る間に膜を作り、現か夢か分からないほど視界をぼやけさせる。荻の頭に言葉が新たに浮かんだ。
もし、これが本当の事ならば。
なぜこんなことになったのだろう。
どさりと、重い物が倒れる音が聞こえた。荻は眼を拭いた。加賀美が倒れている。長谷川の呻き声が聞こえる。竜樹と結花の姿が荻の目に映った。そして、すぐ側に倒れているサイモン。
あれっと荻は思った。
加賀美は倒れ、微動だにしなかった。
加賀美は、北巻しぐれに言葉を発してからの全てを見ていた。
竜樹の首を絞めた事を。結花を叩いた事を。危険を感じ、サイモンを殴り飛ばした事。長谷川を投げ飛ばした瞬間。渦間を向こうのホームへ張り飛ばした事実も。しかし、頭は竜樹の事でいっぱいだった。思考が、自分の体が自分以外の力で行動を重ねるごとに混乱して来る。千々に乱れる。竜樹と一緒に居たい。竜樹は私の事を分かってくれる。なぜ邪魔をするの。誰が邪魔をする。やめてくれしぐれさん。この女か。取り付いている男か。駄目だよ。駆けてきた奴か。背の高い奴か。あの女か。
私は連れて行きたいだけなのに。なぜ皆分かってあげないの。違う。もう、いらないのだ、私と竜樹以外は。助けられなかった。そうじゃない。まだ言ってない、竜樹に言ってない。
思考が混乱を来たす。
『気が付いて、私に気が付いて、竜樹 ここに居るわ、一緒に行こう。一人は寂しい、一人は寂しい、誰も気が付いてくれない。皆、私から離れてゆく、何で気が付いてくれないの。私は無理してるのに、辛くても、他人に、八つ当たりしないようにしてるのに。自分が辛いと笑えないのか、あなたも、あなたも、弱い』
「俺は、こんなことをして、欲しかったんじゃない。悲しみを、癒して、欲しかったんだ。駄目なのか、こんな方法しかないのか。怒りしかないのか、憎しみしかないのか。自分の中に取り込む事でしか、おさまらないのか。怒りを発散させるしか、もうないのか」
(私が、悪いの、分かってあげなかったから、助けを求めていたのに、逃げたの。気付いてあげられたのに、そのままにしていたの。だって、分らない、言ってくれなきゃ分からない。何を考えているかなんて分からない。私も、自分の事で、精いっぱいだった。自分の幸せでさえ、見つけてたどり着くのに大変なのに)
『弱い、自分に優しすぎる。自分の感情を、発散できる場があるなんて。思い通りにならないとすぐに感情を爆発させるなんて。何を考えている。あんた達の発散。たかがそんなことで笑っちゃう。何の苦労もしないで、耐える事を嫌がって他人のために、他人の重荷にならないために、自分を殺して。生きている意味さえ、分からなくなるまで自分を追いつめる、勇気さえないくせに』
「心に溜まっていた、ずっと溜めていたものを吐き出すのに、こんな方法しか取れないのか。どれほど追いつめられた、どれほど追いつめた。辛かったのか、悲しかったのか。自分の、一番大切な何か、その心が、死んでしまって。他人を害するしか出来ないままで、放っておかれたのか。愛しい人の優しさまでが、気を使う重荷に、なってしまったのか。怒りを発散させる方法は他になかったのか。他人を傷付ける、方法しかもうないのか」
(言ってくれなきゃ、無理。考えている事を、思いつくことはできない。あの時、わかってあげられなかった、分かってあげなきゃ、いけなかったの?目を見れば分かったの?何に、気が付けば、分かったの?お姉ちゃんの閉ざされた気持ちに。誰も信じれなくなっていた、誰も信じなくなっていたその心。死ぬなんて、死ぬなんて。なんでもっと、きちんと相談してくれなかったの)
『自分の苦労ばっかりを、発散して、自分が幸せなのを、いい事に。他人が、私が、自分のように、苦しさを、我慢ばかりしている事を。高みから、見下ろすように、教えているつもりか。励ましてるつもりか、その、まるで、何様のような言葉。信じないといいながら、自分こそが悟ったと言う顔をして、自分のいいたい事に、目隠しを掛けて、見せかけの、からかいを含めて、御教授たれる姿が私の怒りに触れているのを、私に怒りを、覚えさせているのを。分かり合えない事実に、身悶えするほど、悲しんでいるのを、なぜ気が付かない。』
「なんで言わなかった、何で言ってくれなかった。ここに俺は居るのに、こんなに近くに居るのに。今ここに、すぐ側に居るのに、しぐれさん。心を、癒してくれ、心を、見せてくれよ。ここに居る、ずっと居る。言ってくれるまで待つ、待ったのに俺なら待ったのに、あんな、瞳の色を、俺に見せたまま心を閉ざさないでくれ。あんなに細い腕を見せたまま追いていかないでくれ。」
(逃げたのは私、立ち向かったのはお姉ちゃん。私に何が出来たの、昔、話してくれたね。教えてもらった、信じられ無い体験を。人でなしに振り回されちゃ、駄目、みんな自分勝手なことは分かってる。私には分かってる、分かってることを、お姉ちゃんは分かってくれた。私の想いを、お姉ちゃんのほうが、一番、つらいはずなのに。私に、お姉ちゃんの感じた事を、支えきれない私にとても優しかった。もしあの時、わたしも支えられたら)
『あんた達の分かっている事を聞くために、私は生きちゃいない、笑っていれば、気付かないのか。冗談で軽くいなすから、気に留めないのか。目を見れば分かるはずだ、本当に見ていれば分かるはずだ。私の心が死んでいるのに、あんた達の見え透いたその優しさ。何も気が付かなければ、許されると思っているその理論。馬鹿の振りをした責任逃れ、上っ面の人生を謳歌しているその幼稚さ』
「人は、そんなんじゃ、生きてゆけない。そんなんじゃ生きてゆけないはずだ、自分を殺すな。思い出したくもない何かなのか。何がしぐれさんを、そうしてしまったんだ。何が、君の心を殺した、何に殺された。原因は何だよ、そんなに全てを閉ざした心じゃぁ自分自身に、殺されたも同然だ。」
(お姉ちゃんは死ななくてすんだの。どんな時でも、優しい言葉は、かけれたはず。優しい言葉は、かけれたはず。優しさに、甘えてしまった、こんなくらい気持ちを抱えた優しさに。自身を殺してしまう、危険な優しさに、甘えてしまった。分かってたのに、分かっていたのに)
『あんたの責任があるんだ。あんたが責任を取るんだ、自分の責任がない事を、わざわざ確認しに来るな。笑ってくれた、私を無視しないでくれた。俺を無視しないでくれた、なら大丈夫、まだ、大丈夫。そう、思わせてあげている、私の怒りのもとになっている者ども全部。母親、義父、友人、消えてしまえ、皆そうだ、全員そうだ。消えろ、消えろ。消えないのか。消えないのか。消えないのなら……………』
「何を溜めてきた、何に傷ついてきた。どんな記憶が、君の心の中を少しづつ、そんなにしてしまったんだ。何を封じ込めた、心の中に封じ込んだ、怒りしか見えない。ここからじゃ憎しみしか見えない。俺に言ってくれ、言ってくれ」
(お姉ちゃんの気持ちは、想像ついていたのに。自分の体験じゃないから、結局、分からなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、誰にも話すこと出来ないのに。私を選んでくれたのに、力になれなかった。力になって、あげられなかった。何かが出来たはず、何かが出来たはずなのに)
『自分の笑顔が好き、どんな時でも、どんな苦しい時でも』
「本当の事を言ってくれ、怒りで包み込むな、憎しみで包み込むな、激情の源はどこだ、何が殺した、何が壊した、君の一番大切なものを、大切な心を、他人に対する、優しさを、お願いだ、お願いだよ、そんなにも、そんなにも、誰にも、理解されずに、孤独に、死んでいくな」
(ちょっとした仕草、ちょっとした眼の動き、それでも慰められたはずなのに、何もしなかった、私は何もしなかった、手後れになった、言わなきゃ気が付かないと、甘えていた、もっと私が、しっかりしていたなら、お姉ちゃんは死なないでくれた?)
『何で皆笑わないの、なんで、竜樹、笑ってくれないの?つらい、体が、心が、誰にも会いたくない。竜樹だけでいい、信じられるのは竜樹、竜樹は、私が一番幸せだった頃の、匂いがする』
「本当の事だ、感情の原因は何だ、死んでいくな、死んでいくな、死なないでくれ」
(死ななくてもいられた?死ななくてすんだの?死ななくてすんだの?)
『お父さん、本当のお父さん、パパ、温かい、温かいよう、パパは竜樹の匂いがする、無くしたくないよう、幸せな思い出なんだよう、私はそれしかすがれるものがない、それがなくなった、笑えないよう、なくなった、笑えない』
『なくなった、笑えない、笑えない、笑えない、笑えない、笑いたいよう』
頭の中が悲鳴を上げているように痛んだ。自分の考えをまとめようとしても、思考が途切れ途切れになってしまう。見えている。自分のやっている事が見えているのに、自分のやっている事が分かっているのに、何も出来ない。自由にならない。サイモンを殴り飛ばした。長谷川を投げ捨てた。渦間を張り飛ばした。
邪魔、邪魔、邪魔。
「邪……魔。」
視界が赤く染まった。加賀美は倒れているサイモンを見た。脅えた顔をした荻を見た。それが見えなくなってゆく。視界がない。何も見えない。眠りにつく前のようだ。眠ってしまっては駄目だ。赤い視界が、黒く塗り替えられてゆく。微かにある自分である証が、憎悪に包まれてゆく、侵食される。
光が。
光が。
光が。
加賀美の視界に光が差し込んだ。憎悪に包まれた心に、亀裂のように射し込んだ一条の光。
その光が、爆発したかのように膨れ上がった。
加賀美は、その光に見覚えがある。しかし、凄まじい衝撃が加賀美の身体に襲いかかった瞬間、それが今迄にあったものと違うと分かった。精神が、肉体から無理矢理引き剥がされる感覚。
(う、わ、あ、……。)
叫び声は、加賀美のものだけではない。
そして、サイモンが立っていた。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。ここからの場面を書きたくて、書き始めた覚えがあります。




