二十二 駅
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
荻が津田沼駅に降り立ったのは十二時三十五分だった。
服装はTシャツに、スパッツ。よくよく思ってみると、女は自分だけだった。スカートにしようかと迷ったが、自分の淡い思いはとりあえずしまった方がいいなと荻は思ったのだ。
こんな時間では、上り方面の電車は全くなくなる。津田沼駅より成田側に住んでいる荻は、最終電車に乗って来ていた。余り乗りなれている時間とは言い難く、乗っている人種も酔っ払いや、眠っている人が多い。平日でよかったと荻は思っていた。これが、金曜日や土曜日だったのなら、もっとひどいのだろうと想像できたからだ。
家を出で来るにあたってはやはり、親への言い訳に一番骨が折れた。考えた末、昔やっていたバイトの人達と久々の飲み会という事にした。先月の模試で結構いい点を取って親に自慢をしていた直後でもあったので、たまにはという事になったのだ。しかし、出る直前に、雨脚が強くなり一度父親に止められた。
「こんな中、行く必要はないんじゃないのか。」
「そんなことないよ。それに、みんなに行くって約束しちゃったから。」
そこで荻は何かを感じて、言葉を付け足した。
「ごめんね。父さん。」
父親は少し怯んだように見えた。言葉を少しの間無くしていたが「わかっていればいい。」と呟くと、そのまま居間に戻って行った。母親が出てきて、気を付けてね、と荻に言った。それは楽しんでらっしゃいという意味だ。
傘をさして、荻は家を出た。
その時、時間はまだ九時をまわったばかりだった。待ち合わせの時間までにはだいぶ間がある。でも、それは荻にとっては丁度良かった。すこし、考えたい気分だったのだ。荻は、営業時間の長いファーストフードに入った。コーヒーを手に、知り合いに見つからないようにな席につくとほっとして、溜め息をついた。
考えたい事は、恭神斉門と加賀美剛の事だった。高校時代から面識はあった。恭神が霊感を持っているという噂ぐらいは知っていた。しかし、こんなことになるなんて予想もしていなかった。
最初は偶然だった。
別に一週間前の昼休みに、恭神と加賀美と一緒に食事をしなくてもよかったのだ。そう考えるとなぜか荻は楽しくなった。しなくても良かったことを、結果、している事が自分の新たな一面と感じたからだ。荻はその時の会話を思い出してみた。加賀美が、北巻しぐれの自殺に強いショックを受けてしまっていた事、その会話を聞いていて、自分が思わず人の気持ちを分かろうとしない二人に強い口調で言ってしまった事。今考えてみるとなんだか馬鹿みたいと思うけど。そして、その後の恭神のフォローを荻は思い返した。
「あー、それを言うなら宿世じゃなくて、多生。」
荻は目の前のコーヒーを一口飲んだ。それでも足りなくてもう一口。大きな溜め息をつく。大変だったのはそれからだった。真剣な顔をされて、二人に北巻しぐれの事を調べてくれないかと言われた。なんで私がと、思わなかったわけじゃ無いけれど、悪い気はしなかった。本当に真剣だったせいかも。(そうだ、色々聞き出した時に中野ちゃんに奢ったケーキ代、恭神君に出してもらわなきゃ。)荻はここで、恭神にパフェを奢ってもらう約束を思い出した。加賀美が奢ると正確には言っていたが、それは変である。(やっぱり奢ってもらおうかな。でも嫌いって言っちゃってるしな。)
そして、津田沼駅であった時の恭神の表情。恐い顔をしていた。霊感があると、はっきり自分で言っていた事を肯定する行動だった。あれを見て、ほんとにただ事じゃないんだなって思い、二人は自分が調べてきた山本竜樹のマンションに行った話しを聞いた時、自分もこの一連の件に深く関わっていると分かったのだ。
十一時半をまわって、荻はファーストフードを出た。午前二時までやっているこの店にお客なんて来るのかな、と店の前を通るたびに思ったが、結構来るものなのかも、と今の自分を省みた。
外に出ると、雨脚が更に強くなっていた。遠くで、空が鳴っている。
荻は、店内で少しずつ育てていた淡い気持ちが、雨に吸い取られるような錯覚に落ちた。北巻しぐれの事を思う。
全くの他人。既にこの世にいない他人。
これを真剣に救おうとしている恭神と加賀美。
ありえない。
荻は、唐突にそう思った。何かがおかしい。恭神君はこのおかしさに気がついているのだろうか。荻は電話をしている時に言えなかった事を悔やんだ。雨は、荻の足の歩みを遅くしていた。
荻が津田沼駅に降り立った時には、更に雨がひどくなっていた。荻は霊感などない。北巻しぐれの気配を、荻は感じた事はない。でも、今日だけは不吉な予感がして荻は足早にホームを後にした。
渦間と長谷川は、津田沼駅で荻を見つけた。一時までには、まだ二十分ほど時間がある。始め二人は何気なく、近寄ってくる荻を見ていた。しかし、すぐにそのありえなさに気がついた。渦間が立ち上がって、荻を待ち構える。長谷川は腕を椅子の背に回した大臣座りのまま、固まっていた。二人は荻がこちらに気がついて、手を振るまでそのままの体勢だった。
「二人とも、もう来てたんだ。」
荻の言葉に直接答えないで、長谷川が見上げる形で聞いた。
「荻さん。……来たんだ。」
荻が頷く。普段は口数の多い渦間は、呆気に取られすぎて言葉が出ないようだった。長谷川は、大臣座りの姿勢を正すと、荻に椅子を勧める。荻か椅子に座っても、渦間は立ったままだった。雨の音が聞こえて来る。その単調な音は、人気の無い改札入り口の高い天井に反射して、耳障りな不協和音をつくりあげている。渦間が、椅子にゆっくりと腰を下ろした。渦間が今まで座っていた所は、長谷川が荻に薦めてしまったため、その隣だ。何となく白けた時間が流れたが、それは、荻が二人に話しかける事で四散した。
「二人で、今まで何してたの。」
「ああ、ブラブラしてただけだよ。こいつと居るといつもそんな感じでさ。」
長谷川が、気の置けない話し方でそう言った。
「着いたのは、二十分前ぐらいかな。なんか、雨が強くなってきちゃったじゃんか。だから、慌てて駆け込んだよ。」
渦間がそうそう、と肯定してから荻に言った。
「サイモンが、荻さんも誘ったの?」
「えっ。」
渦間の問いに荻は戸惑った。突然の問いに、不躾な感じを受ける。渦間の口調はやはり、余り好きになれそうに無いなぁと感じる。しかし、荻は答えた。
「ううん。」
「じゃあ、自分から来たの。」
荻はちょっと渦間の言葉に引っかかった。
「加賀美君から誘われたとは思わないの。」
渦間は言葉に詰まった。口の中でゴニョゴニョと言葉をこねくり回したまま沈黙してしまう。荻は、その渦間の姿に苛々して言った。
「恭神君に、行ってもいいかって聞いたの。」
渦間は頷いた。
「うん。まあ、そうとしか考えられないから。」
荻はその言葉にカチンときた。その荻に雰囲気に気がついたのか、そうではないのか、長谷川は荻が自分の気分を言葉として認識する前に言っていた。
「まっ、渦間。自意識過剰な発言はそこまでにしとけよ。」
そう言って、荻の後ろ越しに渦間の肩をたたいている。
「お前の発言は回りくどすぎていけない。もっと、そういうのは有益に使ってくれよ。ほら、たとえば、……駅員さん、改札のシャッター、もう閉めるみたいだぞ。」
長谷川の言う通りに駅員が見えた。しばらく前に階下の線路を通っていった電車が、下りの最終だった。駅構内の電灯は非常用の明かりを残すのみで、既に暗かった。改札の周りがまだ明るかったが、それは、改札のシャッターを閉めながらこちらをチラチラ見ている駅員の顔を見れば、すぐに消えるという事が分かった。渦間が言った。
「琢磨、今、何時だ。」
「一時、ちょい前。」
荻はこんな時間に駅にいたことはなく、シャッターが閉まる所は始めて見て、驚いていた。荻が黙っていると、渦間が考え深げに言った。
「多分だけど、遅れてくるだろうな。西葛西だろ。十一時に待ち合わせてるといっても、そう簡単に行くとは思えないしな。……、あと、荻さん。俺と琢磨は、実は隠れて見張りでもしてようかと思ってるんだよ。」
「えっ。どういう事。」
ちょっとばかし荻は話しを聞いていなかったが、渦間の質問にそう答えた。
「山本竜樹は一人だけど、こっちの人数がこんなに多いんじゃ、警戒すると思うんだよね。こいつは特にのっぽだしさ。つまり……、えー。」
「皆まで言わなくても、荻さんは分かってるよ。」
どういう事だろうと荻は考える。長谷川が言った。
「俺達は隠れてるって事。」
渦間が引き継ぐ。
「つまり、この雨の中、一人で居る事になるけどいいかな。……俺達はすぐそばにもちろん居るけどさ。」
「ええっ。」
荻は、驚いてから、その事を考えた。そして、その怖さが分かるといった。
「途中まで一緒に居て、恭神君たちが来たら、私だけが出て行くじゃ駄目なの。」
渦間と長谷川はその言葉を聞いて、二人ともに納得して言った。
「あっ、そういう手もあるか。」
改札前のシャッターを閉めおわると、駅員がこちらに近づいてきた。荻は立ち上がろうとしたが、後の二人が座っているので、そのまま腰をまた下ろした。
「君達、もう電車はないよ。」
「あっそうですか。分かりました。」
渦間が言って立ち上がる。長谷川は顔を俯けて座ったままだ。渦間が言った。
「おい、帰るぞ。」
「あー、分かった。」
渦間が駅員に白々しく言った。
「すみません。ちょっと酔っ払ってしまっていて、……駅員さんなんかはこれから帰るんですか。」
駅員は顔をしかめて言った。
「宿直以外はみんな帰るよ。別に、座ってるだけならいいがね。」
線路をまたぐこの改札前の通路は、駅が機能を終えても利用する事が出来るのだ。
「すみません。」
渦間が言う。長谷川は顔を挙げない。
荻は当惑したように二人を見ていた。
外の雨は、どしゃ降りだった。時折の雷がかなり近い。駅で話している時も窓が何度か光っていた。荻は時計を見た。一時十分。遅い。加賀美君と恭神君は何をしているのだろう。荻はその思いを忘れるように聞いた。
「ねぇ、なんで駅員さんにあんな事言って芝居したの。」
三人は改札前のベンチを離れ、クレストホテルと南口階段の繋がる場所に移動していた。タクシーで来るのなら南口のロータリーで下ろされるはずだからだ。こんな土砂降りの中でも看板を出している居酒屋がを見ながら、長谷川が呑気に答えた。
「一応ね。何かが、起ったとしても酔っ払ってりゃ、しょうがない予備校生って思うだろうけど、酔っ払ってないのに、駅の前でたむろったりねぇ。それに、まだ人は増えるんだぜ。まぁ、迎えに来てくれた人達って思われればしめたもんだけど。」
渦間が頷いている。
「宿直の人は、必ず居るからな。一応ね。」
そんなものかなぁ、と荻は思った。考えすぎな気がする。(……これが、恭神君の友達かぁ。)荻はもう一度時計を見た。一時十五分。時計の中の日付は、七月九日、木曜日に変わっている。渦間も長谷川も、それからは一言も口をきいてこない。雨の降りだけが、荻の耳の中に木霊していた。
ワイパーが、フロントガラスを叩き続けている雨に抗議の悲鳴を上げている。せわしなく動き続けているそれを、サイモンは後部座席で固まって見つめていた。雨は土砂降りに変わっていた。稲光の後に続く雷鳴が、雷が近くに迫ってきている事を示している。ドアガラス越しの空気の匂いは、この土砂降りがまだまだ続く事を物語る重い湿気を含んでいた。
(最悪だ。)
サイモンはそう思った。
車の運転手は、竜樹だった。その隣に加賀美が座っている。後部座席には結花とサイモン。「習志野の方には何度か行っている。近くになったら指示くれ。」そう言った竜樹の言葉に嘘はなかったようだ。車は雨の夜を、目の前の闇に吸い込まれるように進んで行く。ギアチェンジの音が車内に響き、クラッチと連動する時のエンジンのうなりと振動だけが、車内に響く。結花は車に乗ってからは、惚けたようで瞳を虚ろに外の景色に向けたまま身じろぎをしないでいる。加賀美は、いつ方向指示の言葉を出すかで精一杯のようだ。免許を持っていないのだ。車慣れしていないため、緊張しているのだろう。余計な事を考えずに済むとサイモンは思った。竜樹の顔が、たまの信号の光でフロントガラスにかすかに映し出される。しかし、この暗さでは表情から何かを読むなどという芸当は不可能だ。そうして、車内の暗がりに浮かび上がっているデジタル時計を見る。
一時二十五分。
荻さんは、来ているのならもう津田沼駅に居るはずだ。
渦間と長谷川が居るから大丈夫だと思うが……。サイモンは思った。あの二人で心配なのは、渦間が余計な事を言わなければいいが、という事ぐらいだった。良く考えれば、渦間の一言が一番危険な気がする。ただ、そこは長谷川が流れを戻してくれるだろうと信じるしかなかった。
サイモンは外に目を向けた。窓に張り付いてくる大粒の雨。隙間から漏れる湿った空気が鼻につく。隣の結花の存在に居心地悪さを感じないわけではなかったが、今更どうしようもない。車の振動が、単調な刺激となって自分の緊張をほぐしてくれるようだ。
目は、窓の外を流れる夜の景色を追っている。
しかし、頭には、河原千鶴と思われるもの、あの情景が広がっていた。
不自然に伸びた首。
助けを求めて開かれ、歪んだ黒い穴。
『あれ』は、あそこに居てはならないものだ。サイモンは自分の考えを整理するために思い返した。……もし、自分の考えが正しいのならば、少なくともあの場所には三つのものがいる可能性がある。北巻しぐれ。河原千鶴。そして、北巻しぐれの子供。しかし、子供の気配を感じない。再度、サイモンは整理する。そう、もし、自分の霊感が正しいとするならば、あの場所には二つのものがいる。いいかえれば、二つのものしかいない。北巻しぐれと河原千鶴。子供は居ない。
サイモンは少しだけほっとした。しかし、その事実はサイモンの身体が、あの時の悪感を思い出し怖気を震うのを止る役には立たない。サイモンは強烈に思った。
危険だ。
危険なのだ。
加賀美が近づく事は、竜樹が近づく事は。しかし、このまま北巻しぐれを放っておいたならば、今よりもっと危険な事になりかねない。北巻しぐれは、河原千鶴を取り込むほどの想いをこの世に残している。これ以上、あそこに『あれ』が止まれば、全く関わりのない人間までがその想いにひきづられる事になる。
サイモンは暗い予感を意識した。
暗い予感。
それは、人を不幸にしてしまう原因に出会う悲しい予感。
北巻しぐれの望みを叶えたいと加賀美は言った。
そのために、山本竜樹を連れ行くのだ。
もし、北巻しぐれが死を選んだ理由が竜樹にあるのなら必ず何かが起こる。原因と結果の法則は、霊感が伝える真理だ。しかし、それが北巻しぐれの望みを叶えたい事、その結果。全く想像が出来ない。
そして、付いて来てしまった結花という女。
稲光が、サイモンの目を射ぬき、瞬間、真上で雷鳴が唸りを上げた。
サイモンは我に帰った。はっとして前席の二人に注意を向ける。暗がりの中、加賀美が、竜樹に向って人差し指で前方を指差しているのが分かる。車が点滅している信号を抜けて、左に曲がった。辺りは見なれているJR駅近くの国道だ。再び稲光が車内を明るくする。真上の炸裂音に、空気を切り裂く鋭い音が聞き取れる。雷は、ついにこの車に追いついてしまったようだ。
このまま通り過ぎてくれればありがたい。
サイモンは思う。
隣に座っている結花には、相変わらず変化はない。全く微動だにしないで座っている。女とは、こんな風に自分を内に封じ込めてしまう事が出来るのか。サイモンはそう思ったが、すぐに自分の偏見に気が付いた。加賀美もそうだった。加賀美も、しばらく自分の考えの檻から戻ってこない日々が続いた。その胸に去来していた想いは、そして、彼女の胸に去来している想いは何なのだろう。
それは想いか。
想像か。
自分だけの思いがかなう幸せに満ちた結末を思い描いているのか。それとも、自分自身を守るために、どこまでも深く暗い嫉妬の海をたった一人で渡っているのだろうか。何かが、自分の中で生まれて来るまで。
加賀美がそうだったように。
サイモンは加賀美が体験したと思われる、柔らかい何かを握り潰され感触を思い出す。あれは、ひどすぎる。あんな感触を食らっては一溜りも無い。
しかし、なぜ、加賀美はあの感触を無視したような動きができるのだろう。本来ならば、恐怖で身がすくみ、家から、全く動けなくなるほどの酷さだ。
ありえない事が起こっているとサイモンは改めて思った。しかし、分かってもどうすれば良いかは考えつかない。既に事態は最終局面であると言う思い。
車が、踏み切り手前で一時停車をした。線路を踏み越える揺れが、乗っている四人の身体を揺らす。その目の前に、ほんの五メートル先に、雨に霞んで津田沼駅のホームが見える。明かりは全て消えている。線路の向こうは暗闇に消え、サイモンの目には虚空が口を開けて、総てを飲み込もうとしているかに見える。
そこに、北巻しぐれが居るのだ。
加賀美が竜樹に静かに言うのが聞こえた。
「……つきました。そこの、ロータリーに止めてください。」
加賀美の声から抑揚が消えている。ひどい緊張のせいか、掠れもある。
車が振動を止めると、忘れていた雨の音がサイモンの耳に絶え間無く響き出した。疲れがあるのか、自分の後頭部にかすかにある痺れは、まるで自分の行動総てが夢現で終わってしまうような危うさを持っている。
闇を彩る稲光と雷鳴は、そんなサイモンを嘲笑うかのように鮮やかだった。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。




