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二十一 結花

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 加賀美がインターホンを鳴らした。

 全くためらいはなかった。自然な動きだった。

 成田の北巻しぐれの実家を訪ねたときの様子とは一変していた。あのときは、サイモンに頼んだのだ。

 扉には、動きはない。

 サイモンは雨音を聞いていた。扉に意識を集中していると苦痛だった。しかし、加賀美はもっと強くそれを思っているはずだった。

 加賀美がもう一度押した。

 扉の内側から、くぐもった音が聞こえる。微かに声が聞こえてきていた。女の声がしていた。サイモンは安堵した。サイモンは加賀美を見た。加賀美は表情を変えてはいない。

 不謹慎なのかもしれない。

 サイモンは一瞬そう思った。

 言語が印象を伴い頭の中に広がる。今日は誕生日だ、そう言っていたのを思い出す。恋人にとって好きな人の誕生日はとても特別な日のはずだ。北巻しぐれのことさえなければ。それさえなければ。せめて、誕生日ではなかったら良かったのに。…もし、この出来事が……。

 加賀美が、躊躇を見せてから、再び押す。

 サイモンは、加賀美を見た。何度も呼び鈴を押すことは苦痛だ。しかし、加賀美は間隔を一定にして、しつこく押すことを続けている。扉の向こうから聞こえる二人の声は、少しずつ大きくなってきていた。

 雨の音が、変わらず続いている。

 嫌な雨だった。

 自分を、雨が咎めている。

 ここで、加賀美を見守ることしか出来ない自分を……。

 加賀美の、呼び鈴を押す手が止まった。

 扉の向こうが静かになっている。先ほどまで争っていた声が、なりを潜める。そして、気配がすぐ側までやってきていた。

 扉を隔てた向こう側だ。

 すぐには開かなかった。

 加賀美は、息を飲んで扉のノブを見つめている。サイモンは瞬きをした。じっと扉を見つめていると、自分の行動が、非現実的な認識に消えていきそうだった。

 雨が、生ぬるく感じられた。

 まだ動かない。

 このまま、出て来ないつもりなのだろうか。

 加賀美は身じろぎ一つしていない。

 北巻しぐれの望みを叶えると先ほど告白があった。同情だけでは無かった。何か、北巻しぐれと会話をしたのだ。そこまでに強い同情とは、何なのか。そして、加賀美はここに来た。その先に何があるのか。なぜ、望みを叶えようと思ったのか。それを聞く暇もなく事態は動いている。

 間違いなく、この一週間で加賀美は、北巻しぐれに一番近い男になっている。

 加賀美の言う事とは別に、北巻しぐれは何とかしなければならない。人を一人、殺してしまっても癒されない悲しみ。そんな、黒い悲しみを背負った彼女を放っておくことは出来ない。

 サイモンには見えている。北巻しぐれが危険な存在になっていることが。このままでは、何人もの犠牲者が出てくる可能性がある。

 扉の動く様子はない。

 しかし、サイモンはその時間に感謝した。

 サイモンは、加賀美の側に近寄った。扉の覗き窓から、竜樹と結花という女が、サイモンと加賀美を見ているはずだった。扉の向こうの気配が、消えてはいないからだ。

「………しょうがないよ。加賀美。」

 サイモンは言葉を選んで声をかけた。加賀美は首を降った。

「駄目だ。俺たちだけじゃ駄目なんだ。」

 サイモンは眉根を寄せた。眼鏡を人差し指でつっと上げる。加賀美は、サイモンのほうを見ようともせずにノブを見つめている。サイモンは口調を変えて言った。

「………加賀美。目的は何だよ。全てが、うまく行くとはかぎらんと思うぞ。」

 加賀美は否定した。

「そんなんじゃない。しぐれさんは、そんな、簡単な悲しみはもっていない。」

 加賀美がサイモンのほうに向いた。

 目が見開かれていた。歯が食いしばられている。サイモンは一瞬、加賀美の瞳の中に決意を見つけ損なった。握りつぶした黒い何かの残滓が見えた気がした。しかし、サイモンの目を見返すその瞳は、理性の光が強い。

 サイモンはゆっくりと頷いた。

「判った。」

 加賀美が、扉に目を戻す。サイモンは言った。

「もう一度、ベルを鳴らせよ。」

 チャイムが、鳴った。サイモンは、扉の向こうの気配が根負けしつつあることに気がついていた。テレビで危険を訴えている勧誘団体みたいだな。俺たちは。

 サイモンは開き始めた扉を見て自嘲的に思った。

 勧誘員に成ったら、成功できるかもな……。


 渦間は、長谷川とゲームセンター内で待ち合わせをしていた。しかし、いつまで経っても長谷川は来そうになかった。渦間はの中に確認したい事が一つだけあった。三人で喫茶店で話していたときは、関係ないとなった真実の事だ。

 渦間は、暇を持て余し真実に電話をした。

 しかし、それは、真実の怒りに触れた。


 扉が、開いた。 

 チェーンの伸びきる音が響く。

 女の顔が隙間から覗いた。それは、昼間に少しだけ会った結花という女の顔だ。結花の表情も強張っていた。加賀美がその顔を見つめ返す。彼女に、会ったばかりの時の激しい感情は表情にはなかった。代わりに全身から発散される頑なな警戒心。

 サイモンは悲しく思った。

「加賀美といいます。夜分遅くに申し訳ありません。山本竜樹さんと、約束しています。」

 加賀美が、慇懃無礼ともとれる言い方で結花に話し掛けた。声は無理に明るくしている。

 結花が加賀美に返事をするまでに間があった。

「山本は、いません。あなたが誰だか知りませんが、私はそんな約束があったなんて聞いていません。」

 きつい口調。加賀美が身体を震わせた。そして、加賀美が口を開く気配を咎め、覆いかぶせるように結花が言い放った。

「帰ってください。」

 にべもなかった。サイモンは扉の側に移動した。扉を閉めようとした時に、足を挟むためだ。ここまで来て、そんな一言で終わってはたまらなかった。サイモンは加賀美を見る。いつもの加賀美なら、ここで気おされるからだ。しかし、加賀美は踏みとどまっていた。サイモンが昼間見た、泣きそうな、そして、哀れみと悲しみを混ぜたような加賀美の瞳が、結花の目を射ていた。結花が心持ち体を引いた。加賀美は言い募った。

「約束したんだ。……山本竜樹さんじゃなきゃ駄目なんだ。」

 結花には理解できない言葉。たとえ、竜樹に昼間の事情を聞いていたとしても、その言葉の意味する所を捉える事は出来ないだろう。結花の顔つきが歪んだ。怒りと悲しみがごちゃ混ぜになった表情だった。たぶん、怒りは加賀美が常識を踏みにじって自分の領域を犯そうとする事の、そして、悲しみはそれを止める事の出来ない自分の非力さへの悔しさ。サイモンは、自分の中に湧き出てきた結花への同情を押し殺した。そして、言い聞かせる。大丈夫。彼女には竜樹が居るのだ。

「山本竜樹さんを呼んで下さい。……お願いします。」

 加賀美の声は、暗い響きに満ちている。無理に明るくしていた声色は既になかった。結花が慌てて扉を閉めようとした。加賀美が扉を掴んだ。引っ張る力の方がはるかに強い。サイモンは間髪入れずに、扉の間に足を滑り込ませた。

「ちっ。」

 サイモンは足に来た強烈な痛みを、その一言で片づけた。

 都会である事が幸いしていた。もし、近所付き合いが親しい所なら誰かが出てきて、取り囲まれていてもおかしくない。俺達はまだ若すぎる。サイモンはその事を忘れていない。

 結花は何度も扉を、力一杯内側に引っ張った。そのたびにサイモンの足に痛みが来る。何度引っ張っても閉まらない扉に気付き、結花の顔に恐怖が走った。加賀美はその顔を見てどう思ったであろう。しかし、後戻りは出来ない。

 加賀美は結花を見ていた。ただ見ていた。

 サイモンは部屋の中にいるであろう竜樹が、どういう考えを持ってこの女の人を、いや、この女の人が自分の考えでであるかもしれない、ここで、俺達の相手をさせようと、しようと思ったのかを考えていた。

 結花が、後ろを振り向いた。

 耐えられなくなったのだ。

 加賀美がつられてその視線を追った。

 サイモンの位置からは、その視線の先に何があるのかまでは見当たらない。

「結花、もういいよ。」

 声が聞こえた。結花の顔が今度は泣きそうになったのにサイモンは驚いた。本当に好きなんだ。サイモンは素直にそう思った。

 扉の隙間から、結花の肩に大きめの手がかかるのが分かった。サイモンは一応、疑い深く扉に足を挟んだままにしておいた。竜樹の整った顔が扉から覗いた。サイモンと視線を合わせても、竜樹は表情を変えなかった。

「……足を退かしてくれ。」

 加賀美がサイモンを見た。サイモンは素知らぬ振りで足を抜いた。ゆっくりと扉が閉まり、チェーンを外す、金属をする音が聞こえた。加賀美は扉から一歩足を引いた。サイモンはそのままその場所に残る。

 扉が開き、竜樹が姿を現わした。

 加賀美よりも、サイモンよりも高い位置にある視線が二人を見下ろしていた。

「悪かったな。……行こうか。」

 既に、竜樹は外出着を着ていた。昼間とは、雰囲気が変わっているようにサイモンには感じられた。竜樹の言葉に加賀美は頷いた。

「タクシーで行きます。済みませんけれども、駅まで来てもらえますか。」

 竜樹が苦笑した。嫌な感じだった。加賀美は顔を強張らしたが、竜樹を促した。

 サイモンは、扉の奥に消えた結花に気を配っていた。竜樹は扉をまだ半開きにしている。竜樹の様子は、最初から行くつもりだったようだ。しかし、あの女の人はどうするつもりなのか。部屋の奥で、彼女が動いている音が聞こえてきていた。

「車なら、俺が出そうか。……行けば、しぐれの気がおさまるのならな。」

 竜樹は加賀美の促しに動かずにそう言った。陰のある口調。竜樹は、誰に会うか分かっている。

 戦慄の感触にサイモンはまた、晒されたのを感じた。河原千鶴は、本当に何者なのだ。生きた人間に、死んでしまっている人間が、まさにいると錯覚させる力があるというのだろうか。『聖痕』その力が解き放たれて、認識が狂わされているのではないかと竜樹の認識を疑わざるを得ない。

「気にしなくてもいい。もう、うんざりなだけだ。早いとこ終わらせてくれ。」

 投げやりな言葉だったが、最後の言葉の時に一瞬、眼が鋭くなった。

 加賀美は頷いた。最後の竜樹の危険な目つきに気がついたのだろうか。しかし、竜樹の申し出を受けた。加賀美にとってはどうでもいい事なのかもしれない。

 部屋の音が止んでいた。サイモンはそれに気が付くと扉の側を離れた。

「待って、竜樹。」

 化粧をし終えた結花の顔が、扉から現れた。

「私も行く。行ってもいいでしょ。」

 強気な言葉だっだが、結花の顔つきは敗北者のそれだった。昔の女に呼ばれて出で行く男を引き止められなかったのだ。その悔しさ、辛さが顔に表れていた。サイモンは再び同情した。化粧した顔つきは、可愛らしさのそのものに感じられた。昼間見ても、夜見ても、美人という形容詞は結花からはなくならない。その彼女が引き止められないのだ。さぞ、悔しいだろうとサイモンは思う。

「好きにしろ。」

 竜樹は結花の顔を見なかった。しかし、サイモンには竜樹が結花の事をどう思っているかが分かった。とても愛しんでいる。その証拠に結花は竜樹の言葉を聞くと安心したように、腕に手を回した。

 加賀美が顔を背けていた。

 加賀美の心にどんな思いが去来しているのかは、サイモンは想像できない。北巻しぐれの事を考えているのだとしたら、その胸は張り裂けそうなはずだ、としか。サイモンは歩き始めた。たとえ、ここでは違ったとしても、結花という女は脇役にすぎない。サイモンはそう考えた。北巻しぐれのために加賀美は、俺は、荻さんも、渦間も長谷川も動いたのだ。

 覚悟は出来ている。

 サイモンは振り向いた。

 加賀美が、竜樹を先導している。結花が、扉の鍵を閉めている。竜樹が、車の鍵を手で弄んでいるのが見えた。

 雨が、激しさを増したようだった。ここの駅に降り立った時より雨音が大きくなっている。空がかすかに光ったのを目の端が捕らえた。そして、ゆっくりと二十数えた頃に空が鳴る。

 サイモンの側を、加賀美が通り抜けた。竜樹が続き、結花がそれに付き従った。サイモンは、三人の姿を少しの間だけ見送った。目を細める。

 別に、何も見えない。

 河原千鶴の強制力が不気味だったが、今は見えない。

 こうやって見ると、普通の、ただの人達だ。何も知らず、何も見えず。もし、あの二人が津田沼駅で北巻しぐれに会った時、もし、加賀美の身に起こったような引き込まれる力が働いた時、自分は何が出来るのだろう。

 サイモンは自分の背中に、冷汗が吹き出るのを感じた。

 背骨から足の裏側を突き抜けていった緊張が、足の動きを止めた。

 何が出来るだろう。

 今まで考えてもみなかったが……。

 サイモンは竦んだ足を、一生懸命動かして加賀美たちを追いながら思った。

 ……もしかして、俺が一番大変なんじゃないのか。

 七月八日、水曜日。時刻は午後十一時半をまわっていた。

1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。

少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。

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