十六 竜樹
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
小雨の中、傘を差し、十分程歩く。
三人共に、無言。雨音だけが聞こえてくる。路上の雨を弾く車のタイヤの音が遠くに聞こえた。水たまりは、昨夜から休みなく振り続いている小雨で、それなりの大きさに育っていた。
その喫茶店は、サイモンがマンションに来る道程にあったものだった。手作りの外見。明らかに素人が塗ったものと分かるペンキの跡。住宅街の合間にこぢんまりとしてある。駐車場として開けている店の前の空地。そして、少し奥まったところにある入口は周りの家と比べて、開放的であるだけ、異質だった。
「ここだよ。」
竜樹はそう言って扉を開けた。来客を告げる扉の鈴が澄んだ音をたてる。加賀美はそう声をかけられて表情を固くした。竜樹は気にした様子も見せずに店の中に入る。加賀美が一瞬遅れて、滑るようにして扉をくぐり、サイモンが後を追った。
「竜樹ちゃん。珍しいね。」
マスターは髭面の男だった。目がクリクリしているのが目立つ。頭に絞めているバンダナはトレードマークのようだ。加賀美は扉をくぐってから、滅多に出入りしない類いの店の造りに戸惑った。天井が高い。雪が降る国をイメージしたのだろうか。梁がこれでもかと張り巡らされている。スケルトンと言われる内装で、電気のケーブルや、空調の丸ダクトまでもが剥き出しだった。しかし、視線の位置から見える店内は落ち着いている。焦げ茶を基調。出窓が多く、そこにはベンジャミンなどの観葉植物。テーブルクロスも厚手の凝った模様のものだ。昼は明るく、夜は薄暗く店を演出できそうだった。しかし、それ故、客層が絞られている感じがした。昼下がりのこの時間に、客はカウンターのカップル、一組だけだった。
「今まで忙しくてね。マスター、あそこの窓際の席、いい?」
「どうぞ、何にする。」
「いや、今日は連れがいるんだ。」
竜樹は振り向かずにそう言った。加賀美からは竜樹の表情は見えない。しかし、マスターは竜樹の態度、または表情に招かれざる客だと気がついたらしい。加賀美には、お情け程度に微笑えんだだけだった。
加賀美は別にそれは気にしなかった。
冷汗が出ていた。
山本竜樹の隣に結花という女がいた瞬間を思い出した。
加賀美の中に間違いは許されないという思いがあった。間違った瞬間にこの空間から抹殺されてしまう恐怖にも似た感覚。もし、間違っていたなら、自分が北巻しぐれと関わりあえなくなるという確信があったのだ。ここに来るまでも気が重かった。昨夜の疑問がもう一度浮かぶ。
………俺は何を考えているんだ……。
「おい。加賀美。山本さん座ってるぞ。」
サイモンが加賀美に声を掛ける。加賀美は声にはっとして振り向いた。穏やかな顔がある。サイモンが加賀美を諭した。
「行かないと。」
「あっ、……悪い。ちょっと考えてた。」
「時と場所があるだろ。」
「悪い。」
加賀美はそうとだけしか答えられない。いつも本当に悪いとは思っているのだが、直せない。サイモンに何かを言おうとしても、言葉が浮かんでこない。加賀美は歩き出したときに、自分が息を殺していたことに気がついて、深呼吸をした。
竜樹は一番奥のテーブルに壁を背にして座っていた。マスターとカップルの喋っている脇を通りすぎるとき、声の調子が低くなったのが、加賀美に分かった。いい気分はしない。サイモンもそうだろうと思う。加賀美は、でも、自分がここに来た理由が、竜樹にとっては迷惑以外の何物でもないことも理解していた。テーブルは四人掛け。竜樹は通路側に座っていた。すぐに立ち上がれ、帰れる位置。サイモンが加賀美の側を無言ですり抜け、窓際の席を取った。サイモンの座ったのを見て、加賀美も座る。テーブルクロスが腿を擦った。
「何を飲む。」
竜樹の声が低いバスだと加賀美は気づいた。声は包んでくれそうな、暖かい印象。容姿は、紛れもなく良かった。加賀美は自分の顔が恥ずかしくなったのは生まれて初めてだった。気後れがあった。視線が合わせられない。
「いや、俺は……。」
サイモンは何も答えない。加賀美が横を伺うと、サイモンは外の景色を眺めていた。加賀美は慌てて竜樹の顔を見た。弁解のつもりだった。
「マスター。コーヒー、三つお願い。」
竜樹は加賀美に一瞥をくれただけだった。
「はーい。」
加賀美は竜樹の行動を見守った。竜樹は胸のポケットに手をかざしたが、止めて椅子に深く腰を掛けた。右手であごに触りながら、加賀美とサイモンを改めて見た。
「…しぐれがどうしたって?あいつ、まだ何か言ってきているのか?」
失笑していた。
加賀美は、竜樹が何も知らないのかな、と思った。
加賀美はふっと迷った。何も知らないのに、あえて教える必要はないのではないか、と。しかし、北巻しぐれの叫びが耳に残っていた。加賀美は山本竜樹ではないのだ。その差は歴然としていた。
「いえ。」
加賀美は竜樹の目を真っ向から見つめた。
最初の言葉は、選んだ。
「しぐれさん。……死にました。」
サイモンは加賀美の声を聞いた。怒りが含まれているのではないかと錯覚するほど挑むような声だった。本当に怒っているのかもしれない。サイモンはそう思って加賀美の表情を見たが、そんな兆候を表すものは何もなかった。加賀美は無表情だった。そして、竜樹の表情も。
「いつ。」
サイモンは竜樹の言葉に何の感情も読み取れない。
「一週間前です。」
傍から見ているサイモンにしてみたら、異常だった。一人の身近な人間の死が、世間話の如くに語られている。加賀美の言葉のあと、時が止まったような沈黙があった。
「コーヒー、お待ちどう。……どうしたの、竜樹ちゃん。」
竜樹は固い微笑みを見せただけだった。マスターはサイモンと加賀美を横目で伺って去った。暫くして、後ろのほうから低い声が聞こえてきた。こちらの噂をしているような調子の声だった。沈黙に耐えられなくなったのか、竜樹が言った。
「コーヒー、飲んでくれ。」
しかし、そこで竜樹の言葉は止まった。
加賀美は無言だった。サイモンは加賀美と竜樹の顔を伺う。竜樹は無理をして笑っていた。加賀美の表情はますます固くなっていた。誰もコーヒーには手をつけようとしない。竜樹の笑いは張り付いたようなものになり、そのまま消えた。能面が口を開いた印象があった。声には抑揚がない。
「わざわざ、悪かったな。伝えてくれて……。」
加賀美が微かに頷いた。加賀美の緊張は、ますます強くなっているのにサイモンは気づいた。表情が固いまま、唇が振えている。それは、加賀美が口を開く前兆だった。何を、言うつもりなのだろうか。
竜樹の手がカップに触れた。カップとソーサーは、三度触れ合った音を立てた。
「そういえば、名前もまだだったな。」
竜樹が言った。加賀美がびくりと体を震わせて竜樹を見た。
「…あ。すみません。加賀美剛と言います。…こっちの人は恭神斉門。」
加賀美は竜樹に気を飲まれたように、おどおどとした態度で言った。サイモンは視線を合わせずに軽く首を下げた。サイモンには分かっていた。加賀美は今の一言で、言いたいことを封じられた。
「きょうじん……。なんて書くんだ?珍しい名だな。」
年上だからと言って、すぐに馴れ馴れしくしてくる人にサイモンは違和感を持つ。尊敬しているわけではない。信用しているわけではない。人を死を選択するように追い込んだかもしれない人間。サイモンは答えないことを選ぶ。
気まずい雰囲気が流れた。竜樹は今のこの場を仕切っている気で居るのか……。サイモンは、加賀美に悪いことをしたかと不安になった。
いらない心配であった。
加賀美の意識は既に違うところにあったようだった。
加賀美が言った。始めの第一声が掠れていた。
その内容を推し量ることが困難な言葉が並べられる。
竜樹が目を見開く。サイモンは何を言ってるのか分からなかった。
気まずい雰囲気は四散し、違う言語を持つ人間がその言語をもって日本人と話しているときのような奇妙な印象、感触。
「今日の深夜、津田沼駅に来ていただけませんか。」
空白。
サイモンはそうとしか表現できない。それは沈黙ではない。
竜樹もサイモンも加賀美に注目した。
「……どういうことだ?」
竜樹の質問はサイモンの質問だった。
「何で俺がそんなところに行く必要がある。」
コーヒーは下ろされた。竜樹は一口も口をつけていない。加賀美は無言だった。それとも言うべき言葉を探しているのだろうか。サイモンは竜樹と視線が合わないように二人に意識を集中する。
カップが持ち上げられたときと同じように、ソーサーと不自然に触れ合う音をさせて降ろされた。
腫れ物を触る視線だった。竜樹は加賀美をそう見た。サイモンは見て分かる。竜樹は加賀美を持て余していた。
「……駄目だよ。」
竜樹はしかめた顔で言った。脅すような声色に変わった。急な変化だった。
「駄目だ、今日は。明日も。俺の仕事は夜が多い。今も帰ってきたばかりなんだ。駄目だ。」
反論を許したくない声だった。サイモンは今しがたとは打って変わり、横柄な態度に出始めた竜樹の人間性を疑う。だが、確かに加賀美の言ったことは理不尽で、不自然だった。サイモン自身がその言葉を聞いたら、同じ態度に出るとも思った。そう、言うならば、戸を叩く、勧誘しか考えていない団体に対する態度。
加賀美の顔がゆがんだ。悲しみの所為だとサイモンに分かった。
「……でも。」
加賀美の切羽詰まった声。
「すまないがっ……。」
竜樹のイラついた口調が遮る。
その口調は加賀美を傍目に分かるほど侮っていた。加賀美の声が足掻くようにもう一度くり返される。竜樹はそれを無視した。
サイモンは竜樹の気持ちがわかっていたが、それと加賀美が侮られるのは別問題だった。今、加賀美は竜樹と話さなければならない。加賀美はもう三度、命を賭けている。その権利は確かにある。サイモンは身を乗り出した。
「ちょっと待ってください。」
横槍だった。
「あなたには、聞いてもらう必要があるんです。」
竜樹が顔を向ける。
「ああっ」
語尾が上がった。サイモンを睨みつける。
しかし、一瞬で満足したのかそのまま加賀美のほうに向き直る。無視されたのだ。サイモンに、それは間違いだと伝えねばならない。一瞬、景色がぶれた。自分の気持ちをしっかりと掴みながら、サイモンは言った。
「………誤魔化すなよ。………あんた。」
加賀美がサイモンに振り向いた。竜樹も険しい顔を向ける。サイモンは竜樹を見る。竜樹が口を開こうとする。サイモンはその前にさらに言葉を発する。静かな呼吸音のようなあたりに聞こえないような小声となった。
「誤魔化すなっていったんだ。」
竜樹の表情が強張った。言葉にできない知覚が、竜樹の言葉の嘘を見抜いていた。それは、誠実ではない。公の場ではないと使えない言葉だが、侮辱だと感じた。サイモンはこんな男に加賀美を侮られる筋合いはないと思った。
ゆっくりと顔を竜樹の鼻にくっつくほど近づける。その姿勢のまま、サイモンは囁いた。
「北巻しぐれは、子供を孕んでいた。あんた、無関係じゃないんだよ。」
ゆっくりとサイモンは椅子に戻る。竜樹の口が微かに言葉を発するかに見えた。サイモンはその前に視線をそらした。
竜樹を睨んでいようかと言う思いは頭をよぎっただけですぐに否定した。そこまで自分に迫力はないはずだった。そのまま、窓からの景色を見る。雨はまた、小降りになっている。
加賀美の、狼狽えた声が聞こえた。
「あっ………、今のは……。」
「お前ら、………誰だよ。」
竜樹は警戒も顕な声で言う。その言葉には戦慄きがある。
そして、沈黙。
「………逢わせたい、人がいるんです。」
不自然な雰囲気。不自然な温かみがある。そして、あるはずがないと信じていたことを経験するときの緊張感。加賀美の声が震える。
「僕は、そのために………、」
サイモンは窓を見つめながら唖然とした。加賀美の声が涙声になり始めていた。震えた声は言葉を最後まで発しえない。サイモンは我慢できなくなって加賀美を見る。耳が真っ赤に染まっていた。竜樹は加賀美を不気味なものを見るような瞳で見ている。その瞳に見える光は脅えだと思った。加賀美が口を真一文字に結んだ。溢れ出し、頬を伝うのは涙。加賀美は駄目だと観念したのか、涙声で言い切った。
「そのために来たんです。……くっ……。」
嗚咽をこらえていた。サイモンは言うべき言葉を持っていなかった。
何で泣くんだ?と。
「誰に会いに行くんだ。」
竜樹の声は無理やり平静さを装ったそれだった。語尾が震えている。
「会えば………、分かります。」
静かだった。
「どういうことだ……。」
加賀美は答えない。力がこの、ここの空間に働いているような奇妙な既視感をサイモンは感じた。北巻家のときにも感じた気がする。あの時は、自分の中で昇華した怒りの力だと思った。しかし、違う。いや、違ったのか。あの力は、何だったのか。誰に会いに行くのか。会えば分かると言う、意味していることは一つしかない。サイモンの考えが正しいならば、加賀美の言葉は正しい。
北巻しぐれは、まだ、いる。
この世界に。この空間に。紛れもなく。
生きていない、そして、死んでもいない。
サイモンは加賀美の言葉を待った。
「迎えに来ます。僕が。十一時にあなたの部屋のベルを鳴らします。」
その言葉と共に、強い怨念の力が場を支配した。サイモンはいきなり冷えた体感に固唾を飲んだ。北巻しぐれの力が場を支配したと同時に、竜樹にむかって加賀美からぬっと違うものがあらわれた。それは、戦慄をサイモンの視界に映し出した。長い首、ろくろ首、竜樹が北巻しぐれとは別の力に取り込まれたのを見た。戦慄の時間はどのぐらいあったのだろう。サイモンは呼吸を忘れていた。
じっと、竜樹の中に入っていく「もの」を見ていた。
それは、たぶん、河原千鶴だ。
竜樹の反応には時間がかかった。しかし、その後、出てきた言葉は肯定だった。
「分かった。」
答えを聞く加賀美は厳しい顔をしていた。竜樹の表情も、加賀美の表情も、緊張があるだけで何を思っているのか分からなかった。しかし、互いが何かの決意を秘めていることだけは確かだった。
いや、決意を秘めることを強制させられたのかもしれない。
サイモンは今まで経験したことがない事実が次々と起こることに対応が出来ない。起こっていることは見えた。しかし、本当に良いのか、判断が出来ない。サイモンは河原千鶴が何者なのか知らないのだ。
竜樹が立ち上がった。伝票を取る。声がしっかりしていた。
「マスター、コーヒー、ありがとう。」
「あれっ?竜樹ちゃん、もう帰っちゃうの。」
「また、ゆっくり来るよ。」
サイモンは竜樹の後ろ姿を見送る。竜樹は代金を払うと扉を開けた。鈴が澄んだ音をたてる。心なしかその音が儚く聞こえた。
マスターが近くまでやって来た。
「代金、みんな、竜樹ちゃん払ってったよ。」
皮肉に聞こえた。サイモンは軽く御辞儀をする。そして、加賀美を立たせると、そのまま連れて、店を出た。
加賀美の足取りは確かではなかった。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。




