十 加賀美
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
アナウンスが、朝の混雑した電車内で津田沼を告げた。
加賀美の心は非現実的な期待に対する恐怖と、自分に似つかわしくない事をしていると言う認識から来る気後れで、染まっていた。加賀美の目は暗い決意の光を湛え、その姿影は観るものが観たならば、消える様に薄くなっていた。後戻りは出来ない。今朝、新聞の記事を観、家を飛び出して来たのが何時間も前である錯覚があった。
どうして、こんなに胸が痛んでいるのか。
なぜ切なくて心が苦しいのか。
自分自身に対する問い掛けは、電車に揺られ初めてから、混乱する程、加賀美の頭の中で廻っていた。明確な答えは、言葉として認識出来るようには顕れてこない。しかし、分かっていた。津田沼駅に、この場所に来ればそれは和らいでゆく。そして、それは加賀美の心を凍らさずには置かない暗い確信だった。
電車がゆっくりとホームに入ってゆく。
加賀美の思いの中に幾つかの言葉が生まれかけ、形にならずに消えた。事実が頭の中を走馬灯の様に走り抜けたが、どれ一つとして残ることは無かった。
電車の扉が開いた。
いつもは不快な人息れが、今日は全く気にならない。加賀美は、ホームに降り立つ人を誰一人として意識しない。ホームに降りる人に押される格好で、加賀美は頼りなく電車から一歩踏み出した。
二歩。三歩。目は、瞳は五日前に真紅を観た場所を探していた。後ろで扉の閉まる空気音がした。構内アナウンスが電車の発車を告げる。
加賀美は絶叫を静かに口にした。
「……………しぐれさん。」
頭蓋に鉛が入ったような重さがのしかかる。眼前が闇に包まれ、体の自由が奪われる感覚。
三度目のあの感触が、加賀美に襲いかかって来ていた。
冷汗が噴き出した。身の毛のよだつおぞましい気配。地獄の底から響く声。冷汗が脂汗に変わる。しかし、加賀美はその気配と声に、最初に観た悲しみ以上のものが潜んでいることに気付き始めていた。
人を一人、道連れにしても癒されていない。
それは、一体何なのだろう。
加賀美は涙していた。気付かなかった自分に。その気持ちに気付けなかった自分に。
忘れないで……。
聞こえてくる声。
忘れないで……。
加賀美の体は自由になる気配はなかった。しかし、心は既に自由になっていた。大きなショックから立ち直る術を身に付けていた。加賀美は問い掛けた。恐怖に飲み込まれないように、慎重に。
(何………が………。)
……………忘れないで……。
(何が………。そんなに………。)
……………。
声が沈黙した気配に、加賀美は問いを言い切った。
(……君を悲しませるのか……。)
身の毛のよだつ気配が微かに和らいだ。心を飲み込む恐怖が動きを止める。目の前の闇。静寂が辺りを包み込むかと思えた。
(………俺に話してくれ……ないか……。)
見えない手が、体に入り込んで行く妙な感触。加賀美は恐怖を噛み殺した。加賀美は言葉を続けた。
(俺が、力になってやる!!)
見えない手の感触が消えた。しかし、加賀美の緊張は解けない。北巻しぐれは答えを言っていない。
……………あなたは、あの人じゃない………。
(あの人?)
気配が、その言葉に反応して揺れた。それは北巻しぐれの怒り。
何の前触れもなかった。
感情の固まりが、加賀美を直撃した。
脳髄が痺れた。指先が、足先が、唇が、鼻腔が呼応する。加賀美の意思ではない。激しい心臓の鼓動。毛細血管を破裂させるような血液の流れが、金槌で殴られたような頭痛と耳鳴りを運んできた。呼吸が肺に酸素を運ばない。目の前が真紅に染まった。そして、それらを圧倒する憎悪。叫び。
どうして……どうして!!
憎悪の波動は加賀美の心の奥底に何かを植えつける。
どうしてそんなことが言えるの。何でそんな言葉が出てくるのよ!私が聞きたいのは………!!
(飲み………込まれる…。)
……もっと私を観て。私のことを考えて!私にはっ!……
加賀美の体が二番ホームに動いた。素早い動きだった。何も見えない。何も感じない。加賀美は思った。自分の意志じゃない。止まらない。恐怖も……ない。……すまん……。
二番ホームには電車がゆっくりと入ってきていた。加賀美の動きに周りの人々が叫んだ。止めようと走り出す二、三人の人達。赤旗を振る駅員。驚愕に変わる運転士の顔。つんざく警笛音。ブレーキの音。サイモンの怒りの絶叫がそこに重なった。そして……。
加賀美は衝撃を受け弾き飛ばされた。
そのまま後ろに倒れ込む。背中が痛んだ。目を開く。視界は闇ではなかった。体は自由だった。ホームの天井を仰ぐ。全ては正常に戻っていた。加賀美を取り巻く人々の心配そうな顔がある。
その中にサイモンの顔があった。
サイモンは肩で息をし、疲れた表情に目だけをぎょろつかせていた。その顔に、恐怖の表情を見え隠れさせながら、どう見るべきか分からない様子で、加賀美を見つめていた。
大変なのはそれからだった。
一週間も経たぬうちに、同じ駅で自殺が未遂を合わせて三回。そのうちの一人は昨日亡くなったばかりなのだ。駅員達の対応は激しく、早かった。無理やり加賀美を抱え、起き上がらせる。サイモンは加賀美を見送るはめになりそうだった。
そのとき、加賀美が言った。
「サイモン。来てくれよ。」
駅員の奇異の目と、周りの人々の好奇の視線がサイモンに集中した。サイモンはその中、表情を変えないように気をつけながら、加賀美を追いかけた。
駅員室で一時間程待たされた。加賀美はサイモンに「電車止めちまったんだよな、俺。」と言って沈黙した。一時間を過ぎたころ、加賀美の母親が血相を変えてやってきた。サイモンには目もくれず、加賀美をひっぱたいたかと思うと、二人で駅長に会いに行った。
後で聞いたことだが、加賀美が電車を止めたという事実は、公的にはなかった事になったと云う。あまりにも不名誉な事実が続いた所為だった。このことは幸運だった、と加賀美は言った。電車を止めた賠償金の額面こそ変わらなかったが、記録には残らず、大学の受験には何の支障もなかったからだ。
加賀美が母親と出てくるまでに、さらに一時間程間があった。
サイモンは考えていた。
一体、何が起きたのかを。
そして、自分が何をしたのかを。
長谷川に自転車を借りた。その後をあまり覚えていない。気が付いたら津田沼駅に着いていた。自転車を止めた。スタンドを蹴った。そのまま走り出し、バスの定期券を電車の定期券の様に見せかけて改札を抜けた。そして、そのままホームへの階段を駆け下りた。辺りがざわめいた一瞬が、確信の予感を伴ってサイモンの脳裏を横切った。加賀美。サイモンは無我夢中で叫んだ。いや、叫んだつもりになっただけだったのだろうか。瞳に飛び込んできたのは加賀美と、その後ろにいる、もの。はっきりと見えた。加賀美の体に腕がめり込んでいる。そして、加賀美を抱えるようにしていた、もの。それが、ふたつ。
サイモンは寒気をふるって我に帰った。
なぜ、二つ見えたのか……。
……北巻しぐれだけではないのか。
…………昨日死んだ、河原千鶴…か。
……北巻しぐれは、河原千鶴を取り込んだのか。
それを見た瞬間、サイモンは叫んだのだ。加賀美に。無我夢中に、何と叫んだのか。サイモンは思い出そうとした。しかし、思い出せない。昔、一度だけ似たようなことがあった。なんだったっけと思う。たしか、その時も思い出せなかった。サイモンは自分の考えに沈んでいった。
「サイモン。わりぃ。」
サイモンは急にかけられた声の方に振り向いた。声で誰だかは分かっていた。
「……加賀美、終わったのか。」
加賀美は頷いた。
「サンキュー。待っててくれて。」
母親が傍らで泣いている。サイモンは自殺未遂をしたとしか思われない状況に、加賀美の母親がどのような心境でいるのかを慮り、同情の念を隠せなかった。サイモンが何も言わないでいると、加賀美が口を開いた。
「これから、警察に行かなきゃいけないんだ、俺。」
サイモンは驚いたが、どういう事だか分かった。
「そうか。」
「なんでだろうな。電車事故って警察も行く必要があるのな。」
サイモンは顔をしかめる。加賀美はなぜ警察にわざわざ行く必要があるのか、気付いていないようだったからだ。サイモンは加賀美の耳元に囁いた。
「昨日の女子学生や、北巻しぐれとの交友関係なんかを聞く気なんだと思う。何しろ同じ場所で死のうとしたんだからな。さり気なく、情報集めてこいよ。」
加賀美は目を剥いた。
「サイモン。お前すげーな。」
「任せろ。」
サイモンはつい、いつもの調子で冗談を言った。その時、加賀美の母親と視線があってしまい、恐縮した。
「じゃあ、俺、予備校行くから。」
サイモンが言った。それを受けて、加賀美も言った。
「俺も、終り次第行くよ。」
「無理して来るなよ。」
「大丈夫だ。」
加賀美の母親が加賀美を諭した。電話で思った感じの良い様子は、もうなかった。サイモンは加賀美の母親が、自分に何らかの誤解を抱いてることを悲しく想いながら、津田沼駅を後にした。
昼前にサイモンは予備校に着いた。サイモンが取っている講義コースでは二限目の講義はB館である。長谷川の自転車を止め、どうやって返そうかと思案しながら、入口をくぐる。B館の入口からのエントランスホールは二階まで吹き抜けていて、入る人に解放感を与える。まだ二限目は終っていず、ほとんど人影はない。そのホールに長谷川と荻がいた。
二人は椅子に並んで座って世間話をしているようだった。サイモンは驚きながら声をかけた。
「長谷川っ。」
長谷川と荻が振り向く。長谷川が手を振った。
「おー。待ってたんだよ。サイモン。」
「えっ。そうなの。」
サイモンは二人の座っている椅子の傍らに立った。
「どうだった。何か知らんが、間に合ったのか。」
長谷川が問いかけた。サイモンは長谷川が何も知らない人間であることに、今更ながら気づいた。しかし、なぜ荻といるのかが奇妙だった。確かに荻と長谷川は知り合いで、長谷川の性格から考えて一緒に居ることは何の不思議もない。しかし、何で今なのか、とそんな感をサイモンに抱かせた。長谷川と荻は何を話していたのだろうか。
「ああ。間に合ったよ。…それより、何でお前、荻さんと居るんだ?」
荻は二限目がある人間だった。
「私も待ってたの。……ちょっと待って、サイモン君。その青馴染みどうしたの。」
荻は何かを言おうとしたようだったが、急遽変更したように言った。荻の手が、サイモンの頬の方に向ったが、途中で気が付いたように、引っ込められる。サイモンは心なしか身をひきそうになる自分を押さえた。何と説明するか考えながらサイモンは言った。
「昨日、成田に行った時にちょっとね。」
側で長谷川の「全然気にしなかった。」という独り言が耳に入る。荻は口を開いて、しばらく間があってサイモンに答えた。
「……痛くないの。」
「押すと痛いけど、そんなでもないよ。」
荻はほっとしたように見えた。しかし、強い口調でサイモンに言った。
「昨日はサイモン君が怪我で、今日は、加賀美君……。」
サイモンは荻が何と言うのか構えた。荻が続けた。
「何があったの。」
サイモンはまた、言葉を探した。しかし、総てが説明しにくい事ばかりだ。結局、適当な言葉が見つからずに事実だけを言った。
「傍から見ると、自殺未遂に見えることがあって。……今は警察に行ってる。」
「なに……それ。」
荻が茫然として言った。長谷川が身を引く。言葉がないようだった。沈黙があった。しばらくそれが続く。サイモンは何と言葉を続けるか逡巡していた。遠慮するように長谷川が言葉を紡いだ。
「その……さ。変なこと聞いたんなら、答えなくていいんだけどさ。何が起こってんの。」
荻は長谷川に何も話していないようだった。サイモンは荻の口の固さを疑ったことを申しわけなく思った。長谷川がサイモンと荻を交互に見る。荻が助けを求める視線をサイモンに向けた。サイモンが言った。
「長谷川。俺が霊感持ってるって言ったら………。信じるか?」
長谷川は眉をひそめた。
「どういう意味だよ。それ。」
サイモンもその言葉を受けて顔をしかめる。
「………っ。なんて言えばいいのかなぁ。」
沈黙が降りた。暫くして長谷川が言った。
「いや………。渦間がそんなこと言ってたのは、覚えてるがな。」
サイモンと荻は長谷川の次の言葉を待った。
「本当だったのか……。そっか。うん。信じるって言うか。そう言うの信じる気にはなれないんだけど……。荻さんは信じてるの?」
「うん。」
荻の言葉にためらいはなかった。
「ええっ、そうなんだ。」
サイモンは吃驚して荻に言った。思わずを見つめてしまった。荻は本当に信じているのだろうか。長谷川は、そんな二人を見てから、少し考えてから言葉を選んだ。
「……えっと、ごめん。俺が悪いのかな。信じる信じないは、いまは保留だ。」
誰も傷付けたくない長谷川の言葉にサイモンは頷いた。
「で、……何が起こってるんだ?」
長谷川の言葉と同時に二限目の終るチャイムが鳴った。ざわめきと共に生徒たちがホールに集まってくる。昼休みの時間。
サイモンは、話をする前に、加賀美の頑なな態度が頭を過った。登場人物が増えるのは、嫌な場合がある。しかし、事態はそんな状況ではない。それに、渦間にはもう話してしまっている。その渦間が親友と言っている長谷川だ。いずれ、知るのだろう。遅いか早いかであれば、自分の口から言うのがよかろう と結論づけた。
サイモンの説明を聞き終えると、長谷川は「信じられない。」と感想を洩らした。サイモン自身ですらそんな気がしているのだ。長谷川の感想は当然だった。あっという間に一時間ある昼休みが終わり、三限目の始まるチャイムが鳴っても、三人共その場を動こうとはしなかった。
加賀美の来る気配はない。
沈黙が好きではない人なのか、荻が場を繋げるように言った。
「……そうそう。サイモン君。私、調べてきたよ。」
「えっ、もう。」
荻が言うことは一つしかない、昨日頼んだばかりのはずの事だ。サイモンは荻という人間の見る目が変わった。荻が頷くのを見て、つい聞いてしまう。
「いったい、こんな短時間でどうやって……。」
荻は答えた。
「医学部コースのほうじゃ目立ってた人みたい。何だか複雑な事情があるって言うか……。」
荻は口を噤んだ。サイモンは突然荻が口を噤んだのに驚いた。
「…どうしたの。」
「加賀美君が来てからにしない?これは加賀美君の問題だし。」
「いや、加賀美には俺から言ってもいいし、二度手間は懸けさせないけど……。」
言って、サイモンは自分の好奇心の歯止めが利かなくなっていることに気がついた。自分自身への自己嫌悪の念が体中に広がる感触。しかし、表情には出せない。出したら自分が反省していると分かってしまう。サイモンは、自分が何を考えているかを他人に悟られるのは、好きではなかったからだ。荻がそのサイモンの言葉に入れた叱責は、サイモンにとっては初めての経験だった。
「サイモン君。そうじゃないでしょ。」
サイモンは言い澱んだ。荻のはっきりとした物言いは新鮮な気がした。しかし、それにどう対応すればいいのか分からない。笑いながら謝るということだけはしたくなかった。
黙って聞いていた長谷川が、助け船を出した。
「何だかよく分からんが。荻さんの言ってることのほうが正しそうじゃない?サイモン。」
サイモンは渋々と言った風を装って頷いた。そして、言う。
「とにかく、加賀美の帰りを待つか……。」
加賀美が帰ってきたのは最終講義の、終る三十分前だった。サイモンの感覚だと休みそうなのなのだが、加賀美はそう言うところが律儀だった。少なくとも、律儀に思えた。その講義はサイモンと加賀美が一緒になる数少ない四つの講義の一つで、無論、荻もいた。
長谷川は、既に居ない。その時間帯にはサイモンから聞いた自転車置き場から、帰路に着いていた。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。




