八 北巻家
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
微かにツンとした匂いが鼻につく。死者を奉る御香の匂いだ。病院と家は別棟らしく、医院の匂いは全くなかった。二人は恐縮しながら靴を脱いだ。母親は丁寧な態度だった。板張りの廊下を抜けると、二階まで吹き抜けている広い応接間に通された。
最初に目に付いたのが、死者が天竺へと登って行くのを描いた仏教の掛け軸。その下に急遽しつらえたと見られる白い仏壇があり、そこに北巻しぐれの生前の写真が乗っていた。サイモンは初めて見るその顔に儚さを感じた。笑っているその顔は、心残りがあるかのように見える。制服を着ている。高校時代の写真のようだ。浪人時代、彼女は笑っていなかったのだろうか。仏壇は洋風の応接間には全く似合わず、違和感だけがあった。遺骨はないな。サイモンは思った。
加賀美が差し出した花は夫人の手に渡り、夫人はその花を持って応接間からいなくなった。勧められたソファの対面には父親と思しき男が既に座っており、サイモンと加賀美を睨んでいた。
二人は座る切っ掛けを掴めず、ただ立っていた。
暫く沈黙が続いた。
父親の視線は不躾で敵意を剥き出しにしていた。加賀美は口を開きかけたが、父親の眼光に気押され、口を閉じてしまっている。サイモンにはその緊張が手に取るように感じられる。サイモンは父親の不躾な敵意に不快感を持ち、何か言おうかと思ったりもしたが、それは加賀美の役目だと思いやめていた。
花を持って行った夫人が帰ってくる気配はなかった。父親の顔付きは厳しく引き釣り、不気味な印象を見るものに与えていた。嵐の前の静けさに似ている父親の沈黙は、不意に破られた。
「何しに来たんだ、お前ら。」
低い声がサイモンと加賀美の心を震わせた。沈黙の中で予期していたものより、遥かに深い怒り。サイモンは加賀美を中心に物事を考えていた不注意を思う。
加賀美は問いの意味が飲み込めず、驚きを口にしていた。
「えっ。………?」
「知ってるんだよ。しぐれが死んだ場所で、言い争いをしている二人組がいるってことはな。」
サイモンは何のことかさっぱり分からなかった。
「しぐれは、妊娠していたんだ………。」
父親の充血したように赤い目は、蔑視と隠し切れない怒り、そして、悲しみを内包させていた。サイモンは気がついた。何の連絡もなく、突然、頃訪ねてくる人間。疑われても当然かもしれなかった。(どちらだ………。)父親の目は、そう問うている。
非常にまずい状況だった。サイモンは思い切って開き直るかといういつもの考えが浮かんだが、人が一人、亡くなられている事実が物事を茶化す余裕を与えていなかった。サイモンも、勿論加賀美も、初めて遭遇する状況に、どうすればいいか分からないのが本当だった。目の端が、庭に咲く昼顔の可愛い姿を捉えていた。しかし、今はそれを楽しむどころではなかった。
加賀美は父親の誘導尋問にさえ気がついていなかった。加賀美がこの北巻家に来たのは、多分だが、北巻しぐれのことを知りたい為のはずだ。何しに来たのか、と言う北巻しぐれの父の問いは、自分の、死んだ人間に対する礼儀を逸した行為を見透かされ、言及されていると感じただけだった。まさか自分が疑われているなどとは思っていない。加賀美はそう言う男だった。しかし、父親の持つ雰囲気が、それだけではないと加賀美が思うに十分なものを持っていた。加賀美は自分が父親に何をしたのか分からなかったが、雰囲気を敏感に察し、体を固くして次の言葉を待つ常識はあった。
三者の間にあった沈黙が緊張に変わる瞬間があった。
しかし、その緊張は一瞬しか続かなかった。
サイモンが口火を切っていた。
慎重に言葉を選びながら口にしたサイモンの言葉は、父親の言い方、誤解を逆手に取ろうとした。
「しぐれさんは、家で、どんな人だったんでしょうか……。」
サイモンの言葉に父親の喉仏が二三度、上下した。目が見開かれ、唇がわなないた。その唇が強く結ばれ、父親は唾を飲み込んだ。
「………しぐれは……良い娘だった。」
(だった?)
サイモンは心の中で反芻した。何の意味もなかった。
「勉強も頑張ってくれた。……私達の期待に応えようとしてくれた。…それが、去年の八月からおかしくなり………それで………。」
サイモンと加賀美は、目の前で人間の顔が豹変する様を見ることになる。それは二人を硬直させ、驚愕に目を見開かせるのに十分だった。父親は、立ち上がるのももどかしそうに拳を握りしめて、二人のほうに身を乗り出した。人間はこんな顔も出来るのかと思わせる顔だった。顔面は蒼白で、目だけが赤く涙目だった。なのに憤怒が押し寄せるかのように表情に表れていた。掠れた声が、喉から無理やり出されてきた。
「どっちだ、どっちの男が……しぐれをたぶらかした。」
「そっそんな。」
加賀美の反応が早かった。誤解を解こうともがく。
「そんなことでここに来た理由ではなくて……。」
「そんな事?」
(来る。)
サイモンは次に来ることに身構えた。サイモンは新しい事実に気がついていたからだ。足下に転がっているウィスキーの瓶。顔色には出ていないが酔っている。危険だった。目が赤いことで、気がつくべきだったのだ。
「ふざけるなっ!お前らぁ!!」
腹の底から響く大声が部屋中の壁を震わせた。突然の大声に、胃が締め付けられる錯覚が起きる。サイモンは下腹に力を入れ圧倒されないように踏ん張る。テーブルが脇に滑った。父親が力任せにテーブルの端をつかみ、そのまま自分の右斜め後ろに引きづったのだ。一輪挿しがコロンと倒れる。
ぽっかりと空間が空いた。
嫌な空間。
二人はソファの前に立っていたままだった。ソファに座る間もなく硬直してしまい、動けない。父親が立ち上がり、一メートルもない空間を更に狭める。
サイモンは目を見開いた。
加賀美が標的になるとばかり思っていた。最初に口火を切った所為なのか。それともほかに理由があるのか。自分の目の前にいる男をサイモンは見つめた。眼が異常だった。酔っているだけでは説明できない何かがある。湧き上がって来たせっぱ詰まった想いが胃を締め付けた。
その瞳から受ける何かが、サイモンを蛇に睨まれた蛙にした。
サイモンは動けない。
その危険な、情緒不安定な男の表情から目が離せない。サイモンは父親の表情を見つめている切羽詰まった想いが、恐怖に変りつつあることに気が付いた。
硬直したまま見上げるその表情は、最初、サイモンを不思議そうに、まるで子供が生まれて始めて見つけた物を見るような面白そうな、それでいて、見下した色をしていた。しかし、その余りにも不自然な表情は、見ていたくないと言う焦りを膨らますだけだ。冷や汗が、背中を濡らす。見ている中、あどけない表情はゆっくりと、敗北の色も顕に悲しみに歪み、二度と戻らない物への郷愁を浮かべる。
その次を見せるな。
その次を俺に見せるな。
唐突に胸の奥からやって来た叫びがサイモンの頭に木霊する。
視線が父親のものと絡む。サイモンの目は父親の表情が総てを知っている卑猥なものに姿を変えた瞬間を見た。
サイモンの頭の中にゆっくりと何か侵入して来た。
ゆっくりと、ゆっくりと、しかし、次第にそのスピードは速くなりついには、頭の中に何匹もの蚯蚓がのたうつ凄まじい感触が襲いかかった。絡み合った視線は、汚れ、のたうち、生温かく泥々に融けた何かだ。サイモンは霊感を持って居る事を後悔した。蚯蚓はものすごい苦痛を携え、全身を総毛立たせる嫌悪感を運んで来た。叫びを押し殺して歯を食いしばり、目を細めて少しでも表情を見ないようにする。
しかし、目を細める事で、見えないものが見えた。
父親の瞳の奥にある激しい嫉妬と憎しみ。
そして、その向こうに見えるどす黒い渦。
サイモンは戦慄した。
憎しみで人が殺せるのだとしたら、こいつは何人も殺している。
サイモンの頭に死という文字が浮かんだ。ジンとする感覚が首筋を通り抜け、サイモンは自分が相手に対して持つ恐怖を知る。
負けてはならない。
カッと相手を睨み付けた。
その瞬間、衝撃が来た。
顎が胸の骨にぶつかり、目の前が一瞬にして暗くなる。額を上から殴り飛ばされた事実に気が付くのに一秒ほど必要だった。愕然とした中、怒りが唐突に湧き上がり、サイモンは躍り上がると目の前に掴み掛かる。まだ視界は闇。分かるのは気配だけ。しかし、何も出来ないうちに、今度は顔面に衝撃が来た。拳らしい感触が頬骨に当たり、サイモンは床に倒れ込んで転げ回った。眼鏡がずれて額に引っかかっているのがやけに生々しい。何かにぶつかって止まった。サイモンは自分の怒りが形を変える瞬間を意識した。目を薄く開ける。
「やめろっ。」
加賀美がサイモンの方を見ていた。そして、我に返ったかのように振り返り、北巻しぐれの父親に掴みかかるのが見えた。しかし、思い切りの良い正豢が加賀美の額に決まり、さらに腹部に三発たたき込まれ床に膝をついてしまう。
次にサイモンの耳に夫人の金切声が聞こえてきた。
「何をしているんですか!」
サイモンはしっかりと目を開けようとした。そうしなければならないような声だった。右の頬骨がズキズキと痛んだ。瞼を開けるのは億劫だった。体を動かすのも厭だった。だが、サイモンはその機会を伺った。怒りの向こうに何かが見えていた。それにもう少しで手が届きそうだった。夫人の声が続いていた。その言葉は、床に突っ伏している加賀美とサイモンに気がついている事を示していた。
「何をしたんですか。こんな………。」
「何だ、お前は。何しに来た。………向こうへ言ってろと!言っておいただろうが!!」
父親は。何も聞こえていないようだった。
「こんな、腐れた屑共が、今頃になってのこのこ現れやがって。……俺の娘を。俺のしぐれを……っ!!」
言い様、足もとに転がっているコーヒーカップを蹴り付けた。それは壁まで飛んで行き、乾いた音を立てて割れる。夫人はその音に顔をしかめ、言った。
「やめて下さい。そういう事は!」
「お前はどこかに行ってろ!」
「行きません!」
夫人の言葉に父親の動きが止まった。なんでも無いような言葉に、信じられないと感じられる言葉が続いた。
「どういう事だそれは。」
夫人は夫の視線にたじろいていた。そして、口から、追い詰められた者の言葉が出てきた。
「こんなことをして!どうなるのよ!昨日も、おとといも、同じような事ばかりして!今はこんなことをしている場合じゃないことぐらい、分かってるでしょう!」
「だからどういう事か聞いているんだ!!」
「こんな事をしてもしぐれは戻ってこないのよ!!」
サイモンは怒りが確実に別の形に昇華する兆しを感じた。会話だけで一人娘がいなくなったこの家庭が想像できた。しかし、それは想像しても何の感慨も湧かない類いのものだった。夫人の声に夫の声が重なった。
「ふざけるなっ!!お前に何が分かる。お前も、こんな何の役にもたたん奴等の同類になりたいかっ!」
夫人は顔をしかめ、嫌々をするように首を振った。
「しぐれが自殺したのはなぜだ!妊娠させられたからだろうが!違うのかっ、芳子!」
「どうしてそんなことばかり言うの!」
「俺の恨みが収まらないからだっ……。収まるものかっ!しぐれはもう俺のものだ、たった一人の娘だっ!」
(俺のもの?)
サイモンはその言葉が引っ掛かりそれを覚えた。しかし、それよりもここから逃げ出さなければならなかった。北巻しぐれは幸せな家庭生活を送って来たようには思えなかった。様々な立場での考えがサイモンの脳裏に浮かんできた。サイモンはその中で父親の誤解を解くことをまず考えた。このままでは悪くすると警察沙汰になり、家族にまで迷惑が及びそうだったからだ。しかし、サイモンはその考えは却下した。この父親は自分の非を認める人間に見えなかった。衝動のままにふるわれる暴力がその証だった。自分に酔っている。非を認めたとしても、それは認めたいから認めているだけだろう。自分が思いたいような、常識と理屈に塗り固められた、愛情を持つ人間だ。そんな人間に義理立てする必要性はない。
昇華した怒りが変えた形は力だった。サイモンは考えることをやめた。そのまま力の赴くままに動く決心をした。
サイモンは痛みを感じながらも、ゆっくりと立ち上がった。
その姿は傍から見ると全く不気味だった。緩慢な動きはかえって肉体的ダメージを感じさせなかった。気配に振り向いた北巻夫妻は、ただ、唖然とした表情でサイモンの動きを見守った。サイモンは二人を視界に収めると口を開いた。
「誤解だよ。おじさん。」
それはいつものサイモンではなかった。サイモン自身が驚く程の相手を呑んだ態度だった。昔の記憶が頭をよぎり、そのまま消えて行った。言葉は考えずとも自然に流れた。
「俺達は関係ない。全て誤解だよ。あんたは何にも聞かずに誤解したんだ。俺達はしぐれさんの友人なんだ。」
父親も、夫人も無言だった。サイモンは二人から顔を背け、加賀美のほうに注意を向けた。加賀美は座り込んでサイモンを見上げていた。
「立てるか。」
加賀美はサイモンを暫く見つめていた。そして頷くと立ち上がった。顔を一瞬しかめるがそれはすぐに表情の中に消えた。サイモンは二人に向き直り言った。
「帰ります。」
父親は苦々しげにサイモンを見ていた。しかし、何も言う気配を見せなかった。サイモンと加賀美は何事もなしに二人の間を抜けた。
入ってきた廊下を逆に進み、玄関に出る。無言で、玄関を出る前に振り返った。しぐれの父が廊下に出掛かっていたのをサイモンは目で威嚇した。父親の低い声が廊下で反響し、サイモンの耳に届いた。
「誰が、しぐれを殺した。」
「しぐれさんは自分で死を選んだんだ。」
サイモンは事実を告げた。父親の顔が、泣きそうであると気がついた。しかし、サイモンはあの時見せたあの卑猥な表情がその顔に重なった。加賀美が扉を開けた。サイモンはそれに従った。
北巻しぐれの父親が、追いかけてくる気配はなかった。
「何のよーなんだよ。俺、勉強するって言っといたろ。」
真実が言った。
サイモンは加賀美を連れ、真実の家に転がり込んでいた。北巻家から出てみると、やはり父親が怖く、疲れと合間って心細くなったからだ。真実はサイモンの顔の青あざをみて、「何しに行ってきたんだよ。」と呆れていたが、「運悪く、壺が顔に落っこちてきた。」と、とんでもない言い訳をしたので笑っていた。
「そういえば、サイモン、高校の時も遅刻の時、宇宙人に攫われてたとか言ってたよな。」サイモンは真実に悪いことをしているなぁとは思っているのだが、そんなことは素振りにも出していない。
「まぁ、こちらの都合で申し訳ないけど、許してもらうしかない。」
サイモンの言いぐさに真実は苦笑しながら続ける。
「最近部活が忙しかったから勉強ほとんどやってないんだよね。だから正直迷惑なんだよねぇ。わかるぅ。サイモン。」
「文芸部だろ。確か。締切りでも近いのか。」
「マージャン。」
サイモンは聞いた自分が馬鹿だったという態度を、真実の肩を叩くことで示した。加賀美は、なんだよそれ、と、それこそボヤいている。真実は笑っていた。
「真実の家って共働きだったっけ。」
「そっ。何か飲む?紅茶しかないけど。」
言うほど、真実は気にしてはいないようで、サイモンの問に答えながら立ち上がった。
「あっ、俺、砂糖多め希望。」
「まかせな。」
加賀美に真実は答えた。
サイモンと加賀美はやっと人心地ついていた。気の置けない友人宅は、落ち着くものだと改めて感じた。真実の人柄にもよるのだろう。良い友人に恵まれた思う。真実は「特製だ。」と言いながら、アイスティーを入れて来た。
「やぁ、有難い。」
「サンキュー、清水。」
二人共、一口飲んで喉を潤した。真実は、「帰るとき言えよ。」と言って居間を出ていった。階段を上がる音がする。二階の自分の部屋で、中断していた勉強を再開するつもりなのだろう。
人が一人、寝転がれるような長いソファーが置かれ、低めの楕円形のテーブル、その向かいに一人用のソファーがふたつ。柱には壁掛け時計が時間を示している。テレビで見るような、趣味の良い大きめの居間に二人は通されている。サイモンは何度か来ているが、なかなか、お高そうなものもあるので、少し恐縮することが多い。
二人ともソファーには座らず、居間に敷かれている大きなラグに直に座って、テーブルにアイスティーのグラスを置いていた。
真実が居なくなって暫くしてから、加賀美が憤りを口にした。
「冗談じゃねぇよ。花まで買って行ったのに、あの親父は。何だか知らないけど、ずーっと俺のこと睨みやがって、挙句の果ては、疑ったりしてっ。」
「さっきもそれは聞いた。」
サイモンは加賀美の憤りに、冷たく簡潔に答えた。真実の家までの道々でその話は、聞いていた。サイモンも相当怒っている。二人の怒りの発散の仕方は対照的だった。内に込めるだけ、サイモンの怒りの方が大きそうだった。加賀美はサイモンの受け答えに一瞬たじろいたが、すぐに立ち直って言った。
「それはそうだけどよぅ。」
「とりあえず分かったことは、一人娘って事と、去年の八月ぐらいに何かがあったって事ぐらいだな。」
加賀美は頷いた。
「それと、夫婦仲もそんなに良くないようだったなぁ。」
サイモンはそれについての自分の考えを述べた。
「医者は忙しいからな。夫婦間の会話も少なくなっていたんだろう。そんな時に、一人娘の不幸があったり、それだけなら兎も角、賠償金なんかもあるからな。人身事故については。飛び込んだほうが全面的に悪いし。お互いに甘え方を忘れたころに起これば、ああなるんじゃないかな。」
じっとサイモンの言うことを聴いていた加賀美は、サイモンの言ってることが良く分からないと言った感じで答えた。
「そんなもんか?しぐれさんが死んで、二人とも取り乱してるんじゃないのか?」
サイモンはそういう言い方もあったかと思っていた。そして、今の会話とは別の事を言った。
「………どちらにしろ、あの父親は何となくな。」
それには加賀美も賛成のようだった。
「………そうだな。」
沈黙が二人に訪れた。それを契機に、加賀美が物思いに沈み始める。視線が固定され、身動きをしなくなる。サイモンはまたかと思い、アイスティーずずっと一息に飲み切った。
階段を下りてくる足音がした。程なく、真実が居間の扉を開けた。
「紅茶、飲み終わったか。」
「真実。いいとこに来たな。」
「あれっ。そう?なんだか、お前等来てるのに一人で勉強してるのって、馬鹿らしくってさ。」
真実は空いているひとり掛けソファーに座った。まだ加賀美の態度には気づいた様子はない。サイモンは真実に聞いてみた。
「そう言えばさ。真実。北巻医院について何か知ってるか?」
「何も知らんぞ。」
真実の答えは実にあっさりしていた。真実の答えにサイモンちょっとむっとした。
「お前、北巻しぐれを妊娠させただろ。」
「はぁ、おまえ、何言い出してんの。」
「言ってみただけだ。」
真実は言った。
「ちょっと待てよ。あそこのねーちゃん、妊娠して死んだの。」
「死んだって言うなよ。」
真実は乾いた笑いを見せた。
「いいよ。お前の霊感どーのって話しは、それは置いといてくれよ。」
真実は高校時代のことを言っていた。一度、言い合ったのだ。最後は真実が、からかって済まんな。と言う結果に終わっている。真実の言うとおり、物的実証は何もない。サイモンも別に蒸し返す気はなかった。
「そんなつもりじゃないよ。嫌いなだけだ。」
「はいっ。で、どーなんだよ。」
「妊娠はしてた。さっきも親が言ってたし。予備校でも有名な話しだ。」
サイモンは話してて、北巻しぐれが可哀相になった。死んでまで目立つのは嫌なものだ。
「へぇ、良くやるよ。」
真実の言葉に、サイモンは何か知ってると感じる。普段なら亡くなった人の話は、好きではないので、そのまま放っておくのだが、今回はそれをしてはいけないと感じた。サイモンが諭すと真実は驚いた顔になる。そして、言った。
「これで二度目だよ。そんな話しは、俺が中学時代にも一度あった。昔はいい人だったんだよな、これが。俺も遊んでもらったからさ。三人で遊んでたんだよね。俺と千鶴ちゃんとしぐれねーちゃんとね。」
真実は、切なそうに上を向いた。上を向いた顔を元に戻して、サイモンが目を剥いているのに気が付いた。
「そんなに驚くなよ。子供の頃に、仲良しだっただけにな、最初は心配とかしてたんだけどさ。どんどん避けられちゃってさ。高校時代にはもう、自分で区切りをつけてさ。なんの思いも抱かないことにしたんだよ。」
「変ったってことか。」
「……そっ。お母さんが再婚してからかな。だんだんだな。まぁ、本当のお父さん、病気でね、で死んでんだ。……と言うか、亡くなってんだ。」
今度はサイモンが鼻で笑った。真実が素知らぬ顔で続けた。
「で……どうなの。聞くつもりはなかったんだけど、なんで、わざわざ来たんだよ。加賀美が親しかったのか。」
真実は今度は加賀美の方を覗いた。しかし、口から出てきたのは全く別のことだった。
「紅茶、ほとんど飲んでないじゃん。せっかく入れたんだぜ。」
加賀美は物思いに沈んでいて、反応をしない。
「おい。加賀美。…………サイモン、加賀美、どうなってんの。」
真実は身じろぎもしない加賀美を見ながら、サイモンに聞いてくる。
「大声出したらどうだ。」
「俺、すんの。それ。」
真実はおどけた顔をする。そして、加賀美を呼んだ。
「加賀美!」
真実の言葉に、加賀美は顔を挙げた。しかし、その顔は惚けている。
「あっ……。何。」
「何やってんの、お前。」
「いや、別に…。何。」
サイモンはそんな加賀美と話していても、不毛な事を知っていた。
「加賀美は、色々あったんだよ。」
真実は、嫉妬したような寂しいような表情を見せた。頷きながら言う。
「まぁ、そうだろうな。……加賀美じゃないんだろ。」
妊娠させたのが、と言う問いだった。サイモンは頷く。そこで思い出して聞いた。
「千鶴ちゃんって、近くにいるのか。」
「いや、引っ越した。十年近くあってない。それこそ、いつだったかな、正月に電話してからは、連絡も取ってない。でも、今年の年賀状に、しぐれお姉ちゃんに会いに行ってあげてねとか書いてあったな。……そういえば去年もあったような。……なにか、二人では話をしてたのかもな。」
真実は最後は呟きのようになり、ますます寂しそうになった。サイモンはこれ以上真実に聞くのが可哀相になってきた。
「年賀状、見せれるか。」
サイモンは聞いた。
「どこにあるかわかんねぇよ。そんなものどーすんだよ。」
「いや、別に。」
「何の話しだよ。」
加賀美が、会話に入ってきた。物思いは終わったようだった。サイモンはこれ以上真実に負担を掛けるのを嫌がって言った。
「帰りがけ、話すよ。」
サイモンは加賀美を諭した。加賀美は頷く。
「ああ、いいよ。」
真実がサイモンにぷらぷら手を振った。サンキューの意味だ。
「勉強の最中だったんだろ。真実。」
サイモンは気にして言った。真実は頷く。
「今度来るときは連絡くれよ。出るとき、鍵は気にするな。」
真実は居間でそう言って、アイスティーのカップを台所に運んで行く。サイモンと加賀美はお暇をし、そのまま清水家を後にした。
結局、サイモンは真実の話しを加賀美には言わなかった。
加賀美の意図が読めないために躊躇したのだ。このままでは、千鶴という人の所に行くともいいだしかねない。
加賀美は、北巻しぐれの事をもっと良く知りたいから、成田に行くと言った。北巻しぐれの、いったい何が知りたかったのだろうか。北巻しぐれについて知る事が出来うるのは、過去の事だけだ。もう亡くなっているのだから。だが、過去を知ってどうするのだ。人生の終わりを選んだ理由か。未練を残している理由か。この世に留まっている未練が知りたいのか。何を知りたい。何をしようとしているんだ、加賀美。俺は、渦間と相談し、加賀美が選ばれる理由が知りたいから、北巻しぐれの情報を集めようとした。加賀美。お前は何のためだ。俺と同じか。それとも………。
『北巻しぐれが自殺するような理由に心当たりがある人に、何でも良いから話を聞いてきてくれない?』
サイモンが荻に頼んだ頼み事だ。
これが分かれば、何かが分かる気が、サイモンにはしていた。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。




