『告白』 【大野木 ささめ】
ばさり、と乾いた音を立てて、鞄が落ちた。
少年の眼前に、落ちているのは一本の日傘。この日傘の持ち主を自分は知っている。
くるりと身体ごと振り返った。そうしたところで彼女の──二年生の教室の様子が窺えるわけはない。いや、そもそも彼女はそこにいるのだろうか。仮にいたとして無事でいてくれるのだろうか。
不吉な妄想をかぶりを振って追い払う。振り返り、もう一度日傘を見た。
彼女の顔を思い出した。小柄で、儚げで、伏し目がちで、しかし笑うと可愛い女の子だった。名もない小さな白い花が咲くプロセスを、一瞬で見ているかのような気持ちにさせる笑顔。斜陽の下、黄金色に輝く髪が印象的だった。
大野木ココ。それが彼女の名前。
──何故か、泣きたい気持ちになった。
走り出した。来た道を戻りだした。行って、自分に何ができるのかはよくわからなかった。多分何もできないだろうとは思った。けれど、このまま見て見ぬ振りをして、帰宅して、何事もなかったかのように日常を送ることだけは、できそうになかった。
そうだ、わかっていたはずだ。今やこの学校があの魔女の体内に等しいことを。ここで起こった全ての事柄は、あの魔女の監視下にあることを。魔女は聞いていたのだ。自分たちが、自分と大野木ココ、そして笹々瀬衛が昼休みにしていたあの会話を。だから消そうとしているのだ。彼女たちを。珠置山という名の砦に近付き、真実を暴く恐れのある不穏分子を。
階段を上り切ったところで、足を止めた。クラスは三つ。手前から順番に。そう思い、再び走り出そうとして見付ける。一番奥の教室、廊下でキラキラ輝く何か。目を凝らす。夕陽を反射して煌めくガラスの破片だった。
唇が戦慄いた。蘇える不吉な妄想。はたして無事な姿で、自分の知っている大野木ココのままで。
駆け出した。叫びたかった。もう叫んでいたような気もした。教室の扉は開いていた。跳び込むように中に入って、横たわる人が視界に映って、
「大野木さん!」
大声で彼女の名前を呼んだ。返事はなかった。
それは、ココではなく衛。教室の真ん中で眠るように横たわっている。外傷らしい外傷は見当たらない。肩の力が抜けた。ならココは? 何気なく左に視線を移して、そして見付けた。
血だまりに沈むようにして、ココが倒れていた。左腕の肘から先がなかった。少し離れたところに腕らしき肉塊が転がっていた。肉がぐちゃぐちゃに裂け原形を留めていなかった。ただ、表情だけは天使のように安らかで──。
ココに背を向ける。俯いて、吐いた。吐瀉物が床に散らばり、上靴にも数滴跳ねた。吐き気を我慢しようという気は起きなかった。他にやることがなかった。どうでもいい。汚れた口許に苦い苦い笑みが浮かんだ。そのときだった。
しゅー、しゅー。しゅー、しゅー。
凍り付く。そして、気付いた。
自分は暴力の嵐が過ぎ去った現場にいるのではない。ココをこんな惨たらしい姿にした暴力の嵐は、まだここにいる。ここはまだ、嵐の渦中だったのだ。
幽かに聞こえる呼吸音から、位置を探る。来ている。間違いなく近付いてきている。目的はココ? それはそうだろう。あの視えない怪物には自分を攻撃することはできない。なぜならあいつは忠実な魔女の下僕だから。
そう、あいつには、自分を攻撃することはできない。
自身の閃きに息を呑む。もしかしたら、これは過信かもしれない。でも──と強く拳を握る。他にココを救い出す道はない。心を、奮い立たせた。
「待て!」
少年は両腕を広げ、不可視の怪物の前に立った。
来ている。来ている。気配が、あの呼吸音が近付いてきている。
細く長い息が鼻先にかかったような気がした。ぶわっと汗が一気に噴き出した。逃げ出したい。ここから一刻も早く、脇目も振らず逃げ出したい。
しかしそれ以上に、失いたくなかった。ついこの前名前を知った程度の仲であるこの少女を。知人と友人を足して二で割ったようなこの存在を。なぜなら、自分にとってこの少女は、大野木ココは……。
きっ、と正面を見据えた。視えないはずの怪物の姿を確かに捉えた。距離は、もう目と鼻の先。
「お前はあの娘の下僕だろう。だったら、僕を攻撃することはできないはずだ……」
そうだよな? そうだよな? 胸中で、何度も自分に尋ねる。
怪物は反応を示さない。だが、少なくとも問答無用ではないようだと判断し、続ける。
「あの娘に伝えてくれ。大野木さんに、大野木ココさんに手を出すことは僕が許さない。勿論そこの笹ヶ瀬さんにもだ。もし、二人に今後手を出すようなことがあれば──」
一度、言葉を切った。
「僕は、皆の前で、僕の罪を暴く」
それは怪物の主が、あの魔女が──最も避けたい事態のはず。
対し、やはり怪物は反応を示さない。万事休すかと少年が眼を閉じかけるや、
「あっ」
息がかかる程の距離にいたはずの気配が、かき消えた。
立ち尽くす少年と、二人の少女を教室に残して、暴力の嵐は過ぎ去ったのだ。
よろめいて、尻もちをついた。びちゃりという音に驚いて、小さく腰を上げる。尻に触った掌を見ると、案の定血が張り付いていたが、すぐにどうでもよくなった。血溜りの上に座り、両手を着く。顔を上げ、さっきまで確かに怪物がいた空間を見た。
「よかった……」
薄く笑みが浮かぶ。そこで、はたと気付いた。そう、あの怪物が去ったところで、ココが命の危機に晒されている現状は今も変わっていないのだ。
「大野木さん!」
振り向いたところで、額に硬質な何かを押し当てられた。反射的に動きが止まった。
「携帯……?」
見たままの感想が口を突く。それは、紛れもなくただの携帯電話。ミストブルーの折りたたみ式でストラップは付いていない。それが、開かれた状態でさも拳銃の如く額につきつけられている。
客観的には間の抜けた光景。しかし、少年は察していた。今向けられているこれが、正真正銘の〈武器〉であること。そして、それの持ち主であるこの少女が、今自分の生殺与奪を握っていること。
大野木ささめ。あの大野木六人義姉妹の長女であり、ココの義姉であり、自分のクラスメイト。
「アンタ、もしかして視えてないの?」
怒りと焦り、そして疑念に掠れた声。少年はやや戸惑ってから、それの意味するところがなんとなくわかって、ああ、と頷いた。
ささめが眼を剥いた。何故か隣を睨むように一瞥、苛立たしげに舌打ちした。
「とりあえずそこどけっ。邪魔だから」
「邪魔って──」
言われて、ココの様子を再確認する。応急処置でもしようというのだろうか、と思っていた矢先、ぐいと押し退けられた。少年とココの間にささめが割って入る。
「アンタ、氷垣よね」
「えっ」
「話は、アンタの知ってることは全部、ココの怪我を治してから聞かせてもらうわ」
いいわね、というささめの言葉と射抜くような眼差しは、選択肢を与えてはくれない。
少年──氷垣蓮太郎は息を呑んだ。そして、首を──縦に振った。
※
膝の上に乗せたココの頭をそっと撫でる。さっきまで血を吸って真っ赤だった髪は、窓から差し込む夕日を浴びて金色に染まっていた。つくしが、これを「パツキン」と呼んでいた気持がわかったような気がした。
血で黒ずんだ制服も元通り。千切れた左腕も何とか繋がった。
安らかな、眠っているような表情のココがいる。私のすぐ手の届くところで、息をしている。
「人の苦労も知らないでさ……」
ココの頭の重み、脚の痺れまでひっくるめて、この娘が「いる」ってことが、とっても幸せなことに思えた。
ふと顔を上げると、机に腰掛けている氷垣と眼が合った。何とも言えない気まずそうな顔で、眼を逸らされた。別に睨んだつもりはないんだけどねと思いつつ、笹々瀬を見る。
笹ヶ瀬は、学ランを敷布団代わりにして、すぴーすぴーと緊張感のない寝息を立てていた。学ランは言うまでもなく氷垣のもの。……言っとくけど私がそうしろって脅したんじゃなくて、氷垣が進んでやったのよ?
ふと、笹ヶ瀬が寝返りを打った。口の中でもごもご呟いてる。寝言か? じっと見てると、半開きになった口から涎が一筋垂れた。……無意識でも空気読めないのかコイツは。まあ、おかげで少し気分が楽になったけどね。
「悪かったわね」
「えっ」
「さっきのこと。私、アンタを撃とうとしたわ」
言葉にして、少し戸惑う。撃とうとした? 生きてる人間に、アレを撃ち込もうとした? くしゃりと、握り締めた髪の毛から音が鳴る。本気──だった?
「撃とうって──アレはそういうモノだったのかい?」
「まあ、似たようなもんね」
出るのは銃弾とは似て非なるモノなんだけど、と心の中で補足。形ならフレシェット弾ってのに似てるかな。
「そうか──いや、別に気にすることはないよ。僕にはアレが携帯にしか見えてなかったし、それに、悪かったと謝りたいのは僕の方だ」
「え? でも」
ココを〈あいつら〉から助けてくれたんでしょと言おうとして、呑み込む。
そうだ。コイツをイイ奴だと決めるのはまだ早い。例え〈あいつら〉が視えてなくても、こいつは〈あいつら〉の存在を知っている。何かしら関わりを持ってることに変わりはない。
「確かに僕は大野木さんを庇ったよ。でもあれは違う。僕はあの怪物に殺されることがないってわかっていたんだ。だからあんなことができた。もしそうじゃなかったら、多分僕は大野木さんを庇ったりはしなかった──と思う」
殺されることがないって──わかってた?
「それに、大野木さんと笹ヶ瀬さんが襲われるきっかけを作ったのだって、僕なんだ。僕が大野木さんに知って欲しいあまり、あんなことを口走らなければ、今回みたいなことは起きなかったのに──」
氷垣がココと笹ヶ瀬が襲われるきっかけを作った? それは自分がココに余計なことを喋ったせい?
「ちっ、ちょっと待ってよ! アンタ本当に視えてないのよね?」
視えてるか、視えてないか──それが、私なりの関係者か部外者かの判断基準なのに、そうだったのに、何で視えてないコイツが、ここまで大きく事件に関わってくるワケ?
「ああ。でも、最近はどこらへんにどの程度の大きさのモノが『いる』のかってことくらいなら、なんとなく察しが付くようになってきたんだ。そういえば、君はどうやって僕の視えてる視えていないを判断したんだい?」
いきなりの質問に面食らう。内容が内容だけに答え辛いんだけど、まあいいわ。
「ケータイよケータイ」
「携帯?」
「そっ。アンタ言ってたでしょ第一声で。これを見て、『ケータイ』ってね」
氷垣が、少し遅れて頷いた。
「アンタが視えてる人間なら、あそこでこれがケータイに視えてるのはおかしいのよ」
「あそこって──今は、どうなんだい?」
「今はもうフツーのケータイ。元に戻したから」
へぇ、と感心したような氷垣。一応納得したって解釈でいいのよね?
「じゃあ、まず一つめの質問。アンタはどうして〈あいつら〉──視えない怪物を知ってるの?」
一問目とするにふさわしいようで、回りくどいと自分でも思う。
何ビビってんだ私は。本当に訊きたい、核心をついた質問があるってわかってるだろうに。
「教えてもらったからさ」
「教えてもらった?」
予想外の答え。誰からよ、と問うより先に、
「ねえ、大野木さん。いや、大野木ささめさん」
ちょっと新鮮だった。氷垣とは同じクラスだったけど、フルネーム呼びは初めてだったから。
「ささめ」
「えっ?」
「ささめって呼び捨てか、抵抗あるならささめさんで。大野木さんだとココと被ってややこしいし、かといってココを下の名前で呼ばれんのは何か癪。……で、何? 今質問してるのはこっちなんだけど」
私の口調がとがって聞こえたのか、氷垣が少し困った顔をした。
言っとくけど、別にイライラしてるわけじゃない。私はこれで素。ありのままよ。
「ああ。ささめさんはさっき僕に言ったね。僕に知ってることを全て話せと」
「まあ、言ったわね」
「じゃあ、全てを話すよ。──後悔はしないね」
何? この確認を取るためだけに、さっきの話を中断したの? それだけイヤな話なの?
──誰にとって?
ココのお陰で忘れられていた全身を覆う粘っこい空気が、じわじわ戻って来ている気がする。
「そうか」
私の無言を肯定と見なしたらしい。氷垣は、机に腰掛けると脚の間で手を組んだ。まっすぐ私へ目線を向ける。ココに向けていた優しげな眼とは、程遠かった。
「僕は視えない怪物の存在を彼女に教えてもらったんだ」
彼女?
「藤枝蘇子さんだよ」
がつんと、頭の芯を殴られた。そんな感じがして、つい頭を押さえた。
ふじえだ……もとこ……?
「ささめさんは、例の動物盗難──いや、殺傷事件を追ってるそうだね」
「どこで、そんなこと──」
わかってる。本当はわかってる。誰か氷垣にそれを教えたのかなんて、予測が付いてる。
「藤枝さんから聞いたんだ。正しくは聞かされた、注意されたというべきかな」
「注意?」
「ああ、大野木ささめさんが事件を嗅ぎ回っている。だから迂闊に動物は殺すな──とね」
くらくらする。こいつ、今何て?
「悠朝村連続動物盗難もとい殺傷事件。一件目から三件目の犯人は僕。そして四件目の犯人は──藤枝さんだ」
熱があるときみたいな頭で、思い出すのはクロの言葉。
──ああそうだね。そうだった。四件目では──見なかった。
クロのいるだろう空間を睨んだ。あの妙な間は──そういうこと? アンタは全部知ってたの? 蘇子のことを、知ってて私に隠してたの?
「ただ藤枝さん本人がやったわけじゃない。僕は自分の手で動物を殺したけれど、藤枝さんは違う。彼女はあの怪物に命令して殺させたんだ。ウサギ小屋のウサギをね」
「アンタと蘇子がグルでやったっていうの?」
疑問をようやく声にできた。氷垣はかぶりを振った。
「グルじゃないよ。結果として、そういう形になってる。実際僕は藤枝さんがあんなことをするのを望んでいない。でも、藤枝さんはあれが僕のためになると信じている。僕が殺した動物の死骸と現場の痕跡──それらを怪物の力を使って消すことが、僕を護ることになるんだと信じている。だからあの山を砦にしているんだ。僕の罪を誰にも暴かれぬよう、珠置山に閉じ込めているんだ」
砦? 学校の裏山が、氷垣の罪を隠すために作られた砦?
氷垣は、ココと笹ヶ瀬を見ながら続ける。
「二人が襲われたのもきっとそのせいだ。いや、正確には、その、僕が事件の話を振ってしまったというのもあるんだけど、多分会話の中に出てきた〈のっぺらぼう〉と珠置山というワードが引っかかったんじゃないかと思う。それで二人が好奇心から山に近付くことを危惧した藤枝さんは──」
「待ってよ!」
思わず遮った。情けない泣きそうな声だった。
怪物操って動物を殺したり、その死体を隠して証拠隠滅したり、ココや笹ヶ瀬に手を出したり──。
「どうして、そこまでして」
蘇子は。
「好きだからだよ」
呟くような声。苦虫を噛み潰したような顔で、唇をほとんど動かすことなく。
えっ、と訊き返すより先に、それはもう一度繰り返された。さっきよりずっと辛く、苦しげな声で。
「そこまでしても構わない程に──藤枝蘇子は、氷垣蓮太郎のことが好きなんだよ」