『夜の終わりを告げる白き怪人』 【大野木 ココ】
ぼーっとしたまま午後の授業を過ごして放課後。
オレンジ色に満ちた廊下を歩く。教室に他の生徒の姿はない。
晶からは一緒に帰るか、なんて誘われたけれど、なんとなく断ってしまった。
本好きでもないのに、よくもあれだけ図書室で時間を潰せたものだと思う。どうせなら、明日の国語の宿題でもやってた方がよかったかも。
それで、どうしてそんな時間の過ごし方をしていたのかというと、それは多分認めたくなかったから。
笹ヶ瀬さんが、〈友だち〉が一人いないだけで学校に居場所がなくなってしまう──そんな現実を。
氷垣先輩と別れたあと、私と笹ヶ瀬さんは晶とお昼を食べた。ささめ姉さんと藤枝先輩はいなかった。何でも昼休みに入ってすぐ藤枝先輩が気分が悪いと言って、ささめ姉さんと一緒に保健室へ行ってしまったらしい。藤枝はともかくささめんは帰ってくるだろ、と晶は言っていたけど、結局二人とも戻ってこなかった。
そういえば、鏡花さんも保健室にいたんだっけ。知り合いが二人同じタイミングでなんて、珍しいこともあるものだと思う。
笹ヶ瀬さんはいつも通りに見えた。お昼を食べていたときも、休み時間に声をかけてくれたときも。まるで、昼休みに私が言ったことなんて全て忘れてしまったみたいに。
もっと怒られると思った。もっと反論されると思った。笹ヶ瀬さんが「ある」と信じて止まないものを、不確かなものだと言って切り捨ててしまったのだから。なのに、それがなかった分余計に──真剣に悩んでいる自分がバカみたいに思えた。
昼休みが終わり教室を出ようとして、晶に呼び止められた。振り返ろうとして、耳打ちされた。
──悩んでることあんなら、言ってもいいからな。今ならほっぺにチュー一回で助けてやっから。
……あの一言さえなければ、割と本気で尊敬できる義姉なのに。そこが晶らしいといえば晶らしいんだけど。でも、あのタイミングで言ったってことは……。
「やっぱり、気付いてたんだろうな……」
私と笹ヶ瀬さんの間に何かがあったことに。
──何か?
ただでさえ他人より遅い歩調が緩む。何かって何だろう……。口ゲンカと呼ぶのは、どうも違う気がする。でも、結果として私は笹ヶ瀬さんを傷付けてしまった。
「じゃあ……、やっぱり口ゲンカだったのかな」
昇降口に辿り着いた。そこから覗く茜色の空を、何気なく見詰める。たなびく雲は赤とも橙色とも紫ともつかない曖昧な色。ふと、下駄箱に笹ヶ瀬さんの靴があるのが眼に止まった。
「笹ヶ瀬さん、まだ帰ってなかったんだ……」
どこかの教室でおしゃべりでもしてるのかな……。
そう思って、下駄箱の運動靴に指をかけたところで、手を止めた。俯き気味のまま、瞬き一つできず、静かに息を呑む。
すぐ傍に──いる。
『……クナ』
不意に、男性とも女性とも付かない声が、頭の中に響いた。
視線をゆっくりと〈彼〉へ移した。空間が陽炎のように揺らめいている──ような気がする。
「大丈夫……、攻撃したりしないから」
そろりそろりと視界を切り替える。
眼に滲むくらい強烈な赤い世界に──真っ白な膚の〈豚〉がいた。
実際には、豚とは程遠い生き物。ただ、太った胴体に短い四肢の付いた姿が、豚を連想させた。顔には目も鼻も口も耳も見当たらない。まるで、あえて細部だけは作らなかった、というより作ってから削ぎ落としたかのような粘土細工。
「あ、あの……」
『近付クナ』
「えっ」
『教室ニ、近付クナ』
教室? それってどこの? そう訊こうとして、ぞっと背筋が震えた。弾かれたように天井を見上げた。幻視する。天井を越えたその先、ニ階にある私の、二年生の教室。そこにいるかもしれない、たった一人の〈友だち〉の姿。
「……笹ヶ瀬さん?」
頭の中を駆け廻る、笹ヶ瀬さんと出会ってから今日までの日々。
──えっ、ココ……ちゃん? うっそぉ! ゆきって名前だからユキンコじゃなかったの?
……まさか。
──だーかーらー、三人で〈のっぺらぼう〉を見に行こうって言ったの。
教室っていうのは。
──きっとユッキーが、ユッキーの言ってることが正しいんだから。
それは、どこか大人びて見えた笑顔を最後に、ぐにゃりと歪んで消えてしまった。
『大野木ココハ近付クナ』
〈豚〉の顔下半分に刻まれる漢数字の「一」。続いて、ぶちぶちぶちっ……とゴムが千切れるような音。「一」が広がるにつれ、上顎と下顎を繋ぐ膚と繊維みたいなものが裂けていく。千切れた繊維が、ぴしゃりと〈豚〉の顔を叩いて、「一」は──口になった。
『笹ヶ瀬衛ニ──近付クナ』
「笹ヶ瀬さんを……どうする気……?」
〈豚〉は応えない。しゅーしゅーという呼吸音だけが聞こえる。
そこで、はっとした。
変だ……。呼吸の聞こえる方向が明らかに多い。辺りを見回して、
「え──」
目を、疑った。
苔に覆われていた地面から、次々と〈豚〉が這い出して来ていた。あっちからも、こっちからも、そっちからも。元からそこに潜んでいたのではなく、今まさにそこから誕生したという感じ。のろのろとどこか安定しない動きには、「生まれたて」という言葉がしっくりくる。
『武器ヲ捨テロ』
武器……? 視線を日傘へ落とす。これが武器になるって知ってるの?
『武器ヲ捨テテ此処カラ去レ』
〈豚〉たちが近付いてくる。チリチリと灼かれるような圧迫感。
「わかった……」
日傘の石突を、大袈裟な動きで地面に刺した。〈豚〉たちの注意が、一斉に日傘へと注がれる。思った通り。この〈豚〉たち、私にはこれしかないと思ってる。つまり〈あれ〉は知らないんだ。
下駄箱に付いた苔を毟り取って、二つに分ける。
一つは家の鍵が入っているスカートのポケットへ。
そしてもう一つは──耳の中へ。脳の奥深くへ。
日傘を手離す。それが徐々に傾いていくのを眺めながら、耳の中を蜘蛛が這い進む感覚に、ああそろそろかな、と思っていると──
来た。地面が割れた。呑み込まれる。ただの浮遊感。現実じゃない。なのに、心臓がきゅうと絞り上げられる。踏み締めている感覚が戻った。わずか一、二秒のダイブを終え、すぐさま駆けた。
イメージするのは──〈狼〉。静寂に満ちた白樺林を駆け抜ける一陣の疾風。仲間がいなくても決して挫けぬ心を持った孤高の獣。
ダッシュの勢いはそのままに、後ろ廻し蹴りを叩き込む。粘土の塊を蹴ったような感触があって、ふっ飛んだ〈豚〉が二転三転する。
と、背後から圧迫感。振り向き様、拳に掌を添えて肘打ち、飛び掛かって来た〈豚〉を地に堕とす。転がってぴくぴくしているそいつの向こうに日傘が見えるけど、拾いに行ってる暇はない。もう、行くしかないんだ。
走り出すと、目前の苔から〈豚〉が飛び出した。その背中を、前廻り受身の要領で転がって、やり過ごす。階段には、数匹の〈豚〉がすでに固まっている。
ポケットから〈それ〉を掴んで抜いた。〈それ〉は、一振りのナイフ──〈豚〉たちが日傘に集中していたあのとき、家の鍵を素体にして作っておいた私の武器。どんな速さの一閃でも空気を抉って食らうという属性だけは、何とか付加できた。
それならもういい。充分だ。充分過ぎるくらい──デタラメだ。
体当たりするような気持ちで、真っ直ぐ突き出す。切っ先が一体の〈豚〉に触れた。刺すまでもなく、そこからざあっと赤が広がって、弾けた。傍にいた〈豚〉たちも、次から次へと破裂していく。どうしてそうなるのかはわからない。でも、どうだっていいと思う。だって、そういうものなんだから。そういう風に出来てるんだから。
頭から苔を被りながら、ナイフをくるりと逆手持ちにする。振り返るまでもない。後ろから来た、さっきやり過ごしたヤツを、殴りつけるように突き刺した。爆発。その勢いに後押しされながら、私は階段を一段飛ばしで駆け上がった。
違和感に気付いたのは、二階廊下で〈豚〉二匹を仕留めたあと。
「どうして──」
誰も追って来ないの?
ズキリ、と頭が痛んだ。酸が脳みそを溶かしているかのような不快感。寄りかかった壁に爪を立てる。
武器の精製に、疑似憑依。どっちもボスたちの助けがあって、ようやく形になるものなのに。
壁に手を付いて歩く。教室に着いたけど、苔が窓に張り付いているから、中は見えない。心持強めに戸を引いた。溝に溜まっていた苔が、じゃりじゃり音を立てた。
そこに、笹ヶ瀬さんはいた。
机と椅子が全て壁際に追い遣られた教室の真ん中、宝物みたいに横たわっていた。
近付いて、ぺたんと座り込んだ。顔を覗き込むと、うっすら苔が付いている。そういえば寝顔見るのって初めてかも。あっ、でも居眠りしてるときのなら見たことあったっけ。場違いな思い出し笑いをする。
視線を胸許に下ろした。小さく上下していた。
「よかった……」
笹々瀬さんが、私の友だちがまだ生きている。私は守ることができたんだ……。
「本当に……よかった」
抱き起そうと手を伸ばして、すぐさま引っ込める。無闇に動かしたりするのはきっと良くない。いくら怪我をしているように見えないからって──
「──────」
ちょっと待って。笹々瀬さんは一体いつからここにいたの? 私が図書室でのんびり過ごしている間もずっとこのままだったの?
じとりとした嫌な汗が浮かぶ。
ああ、そうか……。普通そうだ。笹ヶ瀬さんを傷付けたいだけなら、普通あそこで声をかけたりはしない。ましてや教室に近寄るなだなんて、そんな場所まですぐわかるようなこと言ったりしない。追ってこない〈豚〉の群れ、傷一つない笹ヶ瀬さん、頼れる仲間は傍にいなくて、唯一の武器はナイフのみ。
どう考えたって、これは──。
不意に、右側から吹き付ける風、ひゅんっと空を切る音。
一瞬だった。派手に机の倒れる音がして、気がつけば床に転がっていた。
右の脇腹が熱い。でも、起き上がれないほどじゃない。〈狼〉の効果で、痛覚がマヒしてるんだ。ナイフを握っていることを確認し、顔を上げて──言葉を、失くした。
真っ白な膚をしたニンゲンがいた。
顔に目と鼻はなく、付いているのはあの「口」だけ。毛のない身体に、服を纏ってはいない。身長は多分一七〇と少し。軽く猫背だから、低めに見えるのかもしれない。
会ったのはこれが初めて。でも、私は〈彼〉を知っている。だって聞かされたばかりだから。〈彼〉に纏わる話を。他でもないこの娘、笹ヶ瀬さんの口から。
「のっぺら……ぼう……」
〈彼〉──〈のっぺらぼう〉が両膝を曲げた。両腕を大きく後ろへ反らし、深く腰を落とす。ぎちぎちと白い筋肉が引き絞られ、軋む気配。
直後、消えた。
「えっ」
と、頭上から迫る圧迫感。まずいと思い、力一杯真横に跳ぶ。肩から壁にぶつかった。突然過ぎて力加減ができなかったせいだ。
〈のっぺらぼう〉が、ついさっきまで私のいた所にしゃがんでいた。土埃のように宙を舞う苔。眼が合った。向こうにそれはついていないのだけれど、そう言ってもいいと思う。〈のっぺらぼう〉の両脚が、いきなり伸びた。床を蹴ったんだとわかったときにはもう、目の前に白い貌。退こうとする私の足を刈るように、下段蹴りがくる。ジャンプし、躱せたと思ったところで、ひゅんっという音。そのとき頭を抱えるようにガードしたのは、ほぼ反射だった。
びしゃり、と。鞭を打ったような音。衝撃に、左腕が有り得ないくらいしなる。蹴られたんだ。黒板に叩きつけられ床へ。背中にばらばら降りかかっているのは、黒板から剥がれた苔だろうか。
左腕を見ると、
「ひっ」
骨が外に飛び出していた。込み上げてきたものを顔に力を入れて耐える。それを飲み込んで、飲み切って、咳き込んだ。喉がひり付く。〈狼〉の効果でほぼ無痛なのが、返って怖い。
起き上がり、ヤケ気味に一閃、空気の刃を放つ。〈のっぺらぼう〉が空手の上段受けみたいな動きで腕を振るった。何故か、廊下側の窓ガラスが甲高い音を立てて割れた。もしかして、今ので軌道を?
「嘘……」
笹ヶ瀬さんを見る。独りで逃げるわけにはいかない。一体どうすれば──
と、〈のっぺらぼう〉の身体がぐらついた。頭を抱えると、いきなり蹲ってしまった。
『……イ。……五月蠅イ』
「えっ?」
『五月蠅インダ。凄ク』
「うるさいって──」
何が?
〈のっぺらぼう〉は苦しみながらも、流れるように言葉を連ねていく。
『躰ノ中デ魂ガ騒グンダ。暴レ回ルンダ。ダカラ五月蠅インダ。トテモトテモ五月蠅インダ』
わからない。
『太陽ノ象徴ノ鳴キ声ガ、死ノ夜ノ中デ魂ヲ導ク者ノ吠エ声ガ、羽ガ邪魔デ尻尾ガ鬱陶シクテ、溶ケテ混ザッテ一緒二ナロウト囁クンダ』
わからない。わからない。何のことを言ってるのかちっともわからない。
『ソンナ風二嘯イテ俺ノ居場所ヲ奪ウンダ。合ワセテ十二ノ魂ガ俺ヲ奈落二追イ遣ッテ居ナカッタコト二スルンダ。深イ深イ闇ノ底デ俺ノ名前ヲ奪ウツモリナンダ。ソウハサセナイ。サセルモノカ。コノ躰ヲアケワタスモノカ』
でも、とてつもなく──
『消エテ仕舞エ。コノ夜ノ世界ゴト』
嫌な予感が、する……っ!
駆け出した。とにかく先手を打たないと。〈のっぺらぼう〉が立ち上がる。ふらつきながら、それでも脚を後ろへ引き、前蹴りを放つ。私は跳び上がった。頭が天井に触れるくらい高いジャンプ。落ちながら〈のっぺらぼう〉の顔に膝を押し込み、そのまま圧し掛かるようにして、馬乗りになる。
──勝てる!
両手でナイフを振り上げる。そして、とどめを刺そうとした矢先──見た。
〈のっぺらぼう〉の顔の真ん中に「穴」が開いているのを。
いや、「穴」なんかじゃない。これは「口」だ。さっきまで欠けた月の形をしていたそれが、丸くなっただけだ。それこそ満月のように。視線が吸い寄せられる。歯も舌も付いていない。果てしなく続いている。まるで、井戸を覗き込んでいるみたい──
〈のっぺらぼう〉が、啼いた。
頭の中から響いてくるものではなくて、確かに鼓膜を震わせるリアルの音。
耳を塞いだ。男性とも女性とも子どもともお年寄りとも付かない、とにかくこの世のものとは思えない絶叫が、テレビの砂嵐と混じって聞こえるような気持の悪さ。きつく瞑った目に涙が滲んだ。
ややあって──啼き声が止んで。
「どうして──」
教室にいた。「いつもの教室」だった。〈彼ら〉もいない。赤い苔もない。人間の、私たちの世界。日常の一部。妙に暗いのは、窓の外側に苔が張り付いているせい。教室は私たちの世界、しかし外は〈彼ら〉の世界。
「これじゃあ、まるで……」
私たちと〈彼ら〉の世界。その境界線上にいるかのような──。
がつんっと後頭部に一撃。額から脳みそが飛び出るかと思った。前のめりになったところで、頭を掴まれる。ナイフを使おうとして、気付いた。持っているのは、ただの家の鍵だった。
ああ、そっか。そりゃそうだよね。苔がないんじゃ当たり前だ。人間の世界じゃ私なんて、普通の女子中学生だ。要領悪くて、口下手で、いつも義姉や義妹たちの後ろにこそこそ身を隠している──独りじゃ何にも出来ない、ただの小娘だ。
「ごめんね」
私、誰に謝ってるんだろ。
横へ放り投げられた。壁に背中からぶつかった。
霞んだ視界の中、白い何かが血溜まりに転がっていた。
千切れた左腕だった。肉までボロボロで腐ったバナナみたいだった。
私、死んじゃうんだ。笹ヶ瀬さんを守れずに。
──きっとユッキーが、ユッキーの言ってることが正しいんだから。
どうして、ここで浮かぶかな。
良くないと思う。これだとまるで、笹ヶ瀬さんのせいで死んじゃうみたいだ。
死ぬのは私の責任。私の力が及ばなかっただけ。自業自得だと、そう教わったはずなのに。
「……巧く、いかないね」
だから、現実は怖い。痛いのは怖い。
あなたの決意なんてそんなものだったんだよって、あざ笑われているようで。
目を閉じた。瞼が重くて仕方がなかった。どこからか足音が聞こえる。
──名前を、呼ばれたような気がした。