『氷垣 蓮太郎』 【大野木 ココ】
差していた日傘をくるくると回した。もちろん、意味なんてなかった。
枝葉越しの夕日が、足許にオレンジの水玉を作っている。赤い苔のない石段を踏む感触が、返って新鮮だった。
稲荷神社に行く、と決めるのにそう時間はかからなかった。鏡花さんたちにああ言ってしまった以上、家に帰るわけにはいかない。先に帰ってたからって何か言われるだなんて思わないけど、やっぱりダメ。そのあたりは向こうが良くても私が気になってしまう。
途中、パン屋さんに寄ってクリームパン二つとメロンパンを一つ買った。手ぶらで行ったら寂しかったから来たなんて言ってるようなものだから。
──面倒臭い性格。
鳥居をくぐって、瞼に触れた。〈視界〉を切り換えようとして、
「え」
いつもの場所──ケヤキの下に、男の子が座っていた。
年は私と同じかやや上くらい。学ランはウチの中学のものだけど、知らない人だ。柳茶色の髪は女の子みたいに細くて、中性的な顔立ちをしてる。胡坐をかいた膝の上に、黒白の縞模様をした猫が丸くなっていた。
どうしよう。気付かれないうちに帰ろうとしたところで、
「にゃあ」
……猫に気付かれた。
男の子が、顔を上げる。改めてみると、本当に色白だなって思う。でも、この人のは私みたく漂白されたような、濁りのある不自然な白さじゃない。心から綺麗だな、と思わせる純粋な白さだ。
男の子は小さく目を見張って、けどすぐに微笑んだ。
「こんにちは」
少し戸惑った。挨拶のときに使う笑顔は、もっと愛想のないものだと思っていたから。
「こ、こんにちは……」
挨拶と会釈のタイミングが重なり地面に落ちた。
僅かに視線だけ上げると、欠伸をしている猫が見えた。首輪は付けてなかった。
「飼い猫ですか?」
「いいや、野良猫だよ。神社の前をうろうろしているのを偶然見付けたんだ」
男の子が、猫の頭に手を乗せる。猫は、その手に額をこすり付けて甘えてる。
「ただ、ヤケに人懐っこい奴だから迷い猫なのかも。それとも、この種類は皆こんな感じなのかな」
知ってる、と男の子が訊いてくる。
アメリカンショートヘアっていう名前なら知ってます、と言いかけてすんでのところで呑み込む。それじゃあ結局、質問の答えにはなっていないのに。
素直にかぶりを振った。
そっか残念だ、と男の子が大して残念ではなさそうに笑った。
始めから期待なんてされていなかったんだろう──それがわかっていても別に嫌な気分はしなかった。
女の子みたいに細い手が、猫の喉を撫でる。ごろごろと猫の喉が鳴る。気持ちいいのかな。あっ、よく見るとお腹の模様って渦巻きなんだ、なんて見入ってると、不意にその手が止まった。
「触ってみる?」
男の子が、小首を傾げ微笑んだ。
「いいんですか?」
「いいんじゃない。まあ僕は飼い主じゃないし、それに、このままじゃ会話が続きそうになくて」
苦笑交じりのあまりに素直な言葉にびっくりする。
それが顔に出ていたのか、男の子はちょっと慌てた。
「あっ、違う違う。人と話すのは好きな方だし、人の話を聞くのも好きなんだ。でも──」
「得意じゃ……ない?」
「ああそう。得意じゃない。その言い方はいいね。苦手っていうより何だか救いがありそうに聞こえる」
小さく両手を挙げる男の子。どうぞ猫に触って下さいというジェスチャーらしい。
近付いて、スカートを整えながらしゃがみ込む。動物は好きだし可愛いと思うけど、本物に触ることってあんまりない。恐る恐る手を伸ばすと──シャーと鳴かれた。耳は反り、ヒゲはピンっと張っている。どう見ても威嚇されていた。
「嫌われてるみたいですね……」
「まさか。今日会ったばかりで好きも嫌いもないよ。きっと怖がられてるんだ」
今度は男の子の手が伸びる。けれど、それはするりと躱されて。膝の上から飛び降りた猫は、あっこらっという男の子の声も聞かず、軽やかに賽銭箱の上へ跳び乗ると、さっきと同じように丸くなってしまった。
しばし、沈黙が降りた。
「ご、ごめんなさい」
言葉が口を突いて出た。男の子が小さくかぶりを振る。
「謝るようなことじゃないよ。その、ある意味貴重な瞬間というか、獲物を獲る以外であんなに素早く動くところ、初めて見た」
「励まそうとしてくれてます?」
「口下手なりに。でも、困ったな。話のネタがなくなった」
冗談混じりにしては、飾り気がなさ過ぎて。つい笑ってしまった。男の子もつられたように笑う。笑い声が、木々のざわめきと溶け合って消えた。それくらい、ささやかなものだった。
さてと、と言って、鞄を持った男の子が立ち上がる。控え目にお尻をはたいた。
「話のネタも去ってしまったし、僕はそろそろ帰ろうかな」
「えっ、帰るんですか」
「うん。だって君は元々僕が神社にいないと思ってここに来たんだろ? だったらあんまり長居するのも悪いと思って。あっ、別に気は遣わないでくれよ。実際これから用事があるんだ」
それじゃあ、と右手を挙げて男の子はその場を立ち去ろうとする。
その背中に会釈しようとして、でもそれだと男の子には見えないことに気付いて、どう声をかけようか迷っているうちに、
「あのっ、ま、待って下さい!」
呼び止めてしまった。
男の子が、不意をつかれたような表情で振り返った。
どうしよう。もしかしたら本当に「用事」があったかもしれないのに。
考えのまとまらないまま、とりあえず畳んだ日傘を腕に引っ掛け、紙袋に手を突っ込む。出てきたのは──ビニール袋に入ったクリームパン二個。それを背中に隠すように持って、メロンパンが入った紙袋を突き出す。
「こ、これ。よかったら、どうぞ……」
な、何やってるの? 私。
恥ずかしくて、男の子の顔が見れない。くすり、と笑ったような気配。
「ありがとう。大野木ココさん」
紙袋が手から離れる。
……あれ? 驚いて顔を上げる。
「名前、知ってたんですか?」
「うん。有名じゃない。大野木さん」
有名、という言葉に首を傾げる。傾げてみて──すぐにうちの家族構成や自分の容姿を思い出して、納得がいった。そっか、今更だけどやっぱりうちって有名なんだ。
「気に障った?」
「えっ」
「いや、別に何でも。僕は三年の氷垣蓮太郎。学校で会うようなことがあれば仲良く──と無理強いするのは悪いし、挨拶くらいしてくれれば嬉しいかな」
それじゃあ、と男の子──氷垣先輩が踵を返す。
その背中を、結局黙ったまま会釈で見送った。
やや汗ばんだ手の平を、じっと見詰める。
氷垣先輩に紙袋を手渡すとき、ほんの少しだけ手と手が触れ合った。男友達の一人もいない私にとって玲一兄さん以外で初めて触る異性の手。なのに、それを嫌だとは思わなかったし、けど、少女マンガのヒロインみたくときめいたりもしなかった。
それが、不思議と言えば不思議だった。