『Victims of love』 【大野木 ささめ】
ヒンジのボタンを押しケータイを開けると、ボタンの隙間からプツプツ血の玉が浮かんだ。それは、斑点模様のないテントウムシ。ごぼっと一気に溢れた。ケータイが血の塊を吐いたみたいだった。待ち受けのネココボシシスターズ──音ゲーのマスコキャラで「コボシ」は「オキアガリコボシ」が元みたいだけど、キャラデザにそれっぽい所は見当たんない──が、足からじわじわ蝕まれていく。
尻ポケットに入れてたナイフを抜いた。畳んでた刃を起こし、腕にそっと当てる。切るのはどーせ皮膚一枚、だからビビんな躊躇うな。痛みが跳ねた。傷口を舐めると、舌に目当ての感触。噛んで、引っこ抜いた。
「え……」
蘇子の声。身を起こし、眼を丸くしている。
そりゃそうよね。
今私が咥えてんのは一本の釘で、しかもそれは私の傷口から出てきたんだから。
ナイフでつけた傷はもうない。綺麗さっぱり治ってる。
群がるテントウムシの中から、色の悪い舌が飛び出す。そいつ目掛け、釘をぷっと飛ばすと、一瞬で絡め取り、引っ込んでった。
グリップは──すでにできあがってる。
標的は、蘇子の後ろ。あの娘の腕を奪ったアイツ。
右手で構え、トリガーを引いた。耳をつんざく銃声。けど、姿勢安定装置のおかげで反動はナシ。手首辺りまで覆ってたテントウムシがお弾きみたく散らばって──狙ってた病龍の全長は、半分になった。
肉体的なものから精神的なものまで、ありとあらゆる痛みを釘にして引っこ抜ける。
その力をどうやって攻撃に転じるのか──考えて、辿り着いた結果がコレだった。
※
『まさか痛みの釘をネイルガンの弾として再利用するとはね』
ソイツを品定めするクロの姿は、白手袋してるのもあって余計それっぽい。
今クロが持ってるのは、ガラクタを寄せ集めて作ったような拳銃で、これでも元駄菓子屋の水鉄砲──困るのは携帯してるのバレたとき説明にテンパること。コレみたいに「銃」をイメージしやすく、さらに携帯していて不自然じゃないモノがあればイイんだけど──。ぱっと見レトロな玩具──と思えなくもないけど、バレルに巻かれた朱色のボロ布と、そこに墨で描かれた多分釘抜きと釘なんだろう怪しげな模様、何よりフツーならリアサイトのある辺りにぱっくり開いた〈供給口〉が、コイツはただの拳銃じゃないってことを教えてくれる。
「けど、釘をそのまんま撃ってたんじゃこっちが持たないわ」
『一本につき一発では撃つ度自傷行為に走らなければならないからね。もっとも負傷する──釘を抜く対象は必ずしもささめ君でなければ、というわけではないが』
「そりゃそうだけど……」
何が言いたいの?
『事実を述べたまでだよ。君が望むならこの身を〈弾薬貯蔵庫〉として捧げることも吝かでなし、という意図から言ったわけではない』
クロは、まだ銃を見てる。
そして今、私はクロを睨んでる。そのことにコイツは多分気付いてるはずだ。
こういうジョークは返しに困る。だから──
「弾薬貯蔵庫っていうより工具箱ね。釘なだけに」
誤魔化す。テキトーに。
「それに、放っとけば釘って〈鮮度〉落ちるから作り置きもできないし」
『装填された分は、一度水鉄砲(元)に戻せばリセットされる』
「そ、だから──」
『釘を分解し、より強力な複数の銃弾へと再構成する錬成炉を内蔵した』
ちょっと考えて、頷く。レンセイロってのが未だによくわかんないけど。
『そして、この錬金術と呼ぶに相応しい精製過程が、結果として弾の威力向上に繋がっている』
「……そうなの?」
知らなかった。傷の深さ関係ナシに強力な弾を複数同時精製できる──そんな私の願いから出来たのがレンセイロであって、そういう効果を発揮するスジの通った仕組みなんて、そもそもないと思ってたから。
『仮定の話をしようか。もし今ささめ君が、霊界の精霊によって解体された挙句、腸、眼玉、骨、血液を取り出され、新しいモノに入れ替えられていると最中だとしたらどうだろう? シャーマンの卵が成巫儀礼を経て覚醒する際に見る死と再生の幻視のように』
「そりゃ……痛いでしょ」
『そうだね。解体と再構築の過程にささめ君が痛みを覚えるように、釘もまたそれに痛みを覚える。そして、ダメージの具現である釘にとって痛みと餌はイコールだ。釘が本来持ち得る苦痛の質はこの銃によって数倍以上高められる』
数倍以上、ねぇ。
「つまり、その気になれば掠り傷で象が仕留められるかもってこと?」
クロが、当然とばかりに肩を竦めた。
『ささやかな痛みは細胞の一つひとつが脚を生やして駆けずり回らんばかりの激痛へ、しばし安静にしていれば快方に向かう病み患いは万人が死に至る大病へ、一睡すれば薄れてしまうような苛立ちは親類縁者を総じて眼前で辱められた挙句その命を奪われたかの如き憎悪へ──ダメージを釘として可視し、捉えられるささめ君ならばどれも決して不可能な所業ではない』
何か……チョー怖いこと口走ってるわね、コイツ。
ちなみに身体の傷からはあっても、心の傷から釘を抜いたことはこれまで一度もない。これから先もきっとしない。
『その気になれば逆剥けで雄鶏が仕留められる』
「……何で雄鶏?」
『ささめ君こそ象に何か恨みが?』
「ないわよ。ただ……象の方が強そうでしょ」
この手の例えじゃ、鶏より向いてるわ。絶対。
『強いと判ったらそれだけで引き金を絞るのかい。蛮族か君は』
「じゃあ、アンタは鶏にどんな恨みが?」
『そんなものはないさ』
何せ私の座右の銘は寛仁大度だからねとクロは言ったあと、
『強いて言うなら鱗の青味泥色が癇に障るかな』
銃の先でシルクハットのツバを押し上げながらぼそっと付け足した。
鶏で、青味泥みたいな色の鱗……。
「ソレ……どこの世界の夜店で売ってんの?」
『兆が一誤ってコルク銃で撃ち落してしまったとしても私なら突き返すね』
トリガーガードに指をかけてくるっと回転、グリップを差し出すクロ。随分な嫌われ様ね青味泥の雄鶏。同情するわ。別に会ったことないし、射的で当たっても要らないってあたり同感だけど。それを受け取ろうとしたところで、
『率直な感想がひとつ』
手を止めた。目線を上げ、眼のない顔と見つめ合う。
『釘抜きの能力が持つ特質と君のあり方はよく似ていると思う』
つい眉間にシワが寄った。
「どういう……意味?」
『君ほどこの能力を行使するに相応しい者もそういないだろうという意味さ』
※
──何もその傷口を凝視し続けることはあるまいに。
傷から目を背けないことこそ克服だと信じ、ホントはもういっぱいいっぱいのクセにそれを見つめ続ける私と、眼に見えない傷にまでわざわざカタチを与えるこの力。
言えてる。確かにこの力は、私にお似合いだ。
銃口を、下げた。
「ねぇ」
蘇子がぶるっと震えた。
クロは手遅れだと言った。アンタは消えてしまうと言った。
だから、〈いなくなってしまうアンタ〉のために何ができるのかって考えてた。でも──
「私も、諦めらんないよ」
まだまだこれからも、一緒にいたいの。傍にいたいの。
だからさ。
「だから、助けるよ。蘇子」
言っちゃったよ。無責任だな、私。
でも、この気持ちはホントなの。嘘じゃない。心からホンキの言葉だから。
蘇子が、目を閉じた。頬には、転んだときの苔がついたまんまだった。息を吸う音がして、吐くのと一緒に出てきたのは、ひっ──という掠れた声。何が起きるのかは、すぐわかった。それが込み上げて、どうしようもなくなる瞬間を私は知ってるから。
泣き出した。
哀しくて、悲しくて、聞いてるこっちの胸まで締め付けられるような声を上げて。
さっきまでのどこか人目を意識した、遠慮がちな泣き方じゃなかった。
本当に、見られてるってことを無視した──ひとりぼっちの泣き方だった。
その姿と、
──姉さんが持ってるのが、一番いいかなって思って。
どっかの誰かさんが重なった。
右手を走らせる。撃った。蘇子のすぐ傍、膨らんでいた病龍の喉が裂け、粘ついた炎が噴き出した。大丈夫、その下に蘇子はいない。火は、当たっていない。
「今度は……私の番よね」
提げてんのは日傘と違って、随分物騒なシロモンだけどさ。
──ああ、来てるな。
肩越しに銃だけ向け、トリガーを絞る。熱が背中を叩くけど、つんのめるレベルじゃない。後ろから頬の脇を抜け、ふよふよ現れたソイツをキャッチする。じゅうって音が聞こえた気がした。反射的に開けた手を、もう一回握る。アツアツのスライムみたいなこれは、病龍の残骸。何十秒にも思える一瞬を終え、手を開けると──そこには、火傷に代わる釘が三本。
やって来る病龍を連射で薙ぎ払う。トリガー引きっぱにしてれば、コイツは勝手に連射式へ切り替わる。弾が尽きたとこで、すかさず釘を〈供給口〉へ。三本、立て続けに。
釘一本につき作れる弾数は一五発。試した結果、この数が釘の質──つまりは釘になる傷の深さ──によって変わることはない。質に左右されるのは弾の威力だけ。だから、本来ならこれで四五発分新たに撃てるんだけど、それはしない。
錬成炉のもう一つの特徴──それは、複数の釘を同時分解し、一発の特殊弾を作れること。
ぱん、と一発だけ、撃った。
迫ってた病龍の頭が破裂する。フツーならここでおしまい。けど、コレは違う。
次に吹っ飛んだのは、ソイツの後ろにいた病龍の下顎。後ろつっても真後ろじゃなく、純粋な直線射撃じゃまずヒットしないポジション。やったのは、苔と同じ赤錆色に輝く特製弾。
その次も、そのまた次の病龍も、ときにジグザグだったり、ときに螺旋だったり、ときに地中から飛び出るその閃光によってバラバラにされていく。
思い出すのは子どものお絵描き。まだ鉛筆の持ち方すら知らない子どもが、グーで握ったクレヨンを走らせる。気の向くまま、思うまま、時に画用紙からはみ出すほどの勢いで。その弾道のデタラメっぷりは、まさにそんな感じだった。
赤錆色が、木漏れ陽色を八割方塗り潰したとこで、目の前に着地する。その正体は手乗りトカゲ。トゲ状の背ビレに発光する身体。鼻には長い釘が付いてるっていうか生えている。ソイツを武器に空を翔びながら、一撃必殺で獲物を仕留める小さなハンター。
トカゲが首を振って、釘に付いてた粘液を払う。眼が合った。どーよ、とでも言いたげな眼差し。
私は、ちらっとだけ笑って、見た。
あちこちから性懲りもなく噴き上がった炎が、再び病龍へ変わっていくのを。
「は」
笑えてくる。モチ余裕とは違った意味で。けど──
「行くわよ」
それでも進むのは、自分の意思だから。私が、決めたことだから。
応じたトカゲが、高く翔び上がるのと一緒に滑走スタート。
蘇子の檻を担ってたヤツらが数匹、滑るように迫って来た。
ナイフを取った矢先、その内の一匹が火を吹いた。
軌道を変える。横を火球がすり抜けてった。
肌に感じる余波にヒヤッとしながらも、右手小指をさくっ。ヤバ、切り過ぎたかも。
そこから釘を引っこ抜き、素早く装填。
病龍たちが一斉に首をもたげ、立ちはだかる。
貌が裂けて、口が開いて、燃える涎が飛び散って──
次に飛び散ったのは、ソイツらの頭だった。
トカゲが、横合いから突貫を喰らわせたんだ。
束の間フルオート射撃。頭のないソイツらの残りをかき消す。
道が開けた。直後、いくつもの火球が襲いかかって来る。
けど、どれも私には当たらない。
私目掛けて吐き出される火球の全てを、トカゲが撃墜しているからだ。
あのデタラメな動きからじゃ到底信じられない程の、正確無比さで。
射抜かれ、火の粉となった火球が漂う、その先に──
こっちへ向かって手を伸ばす、あの娘が見えた。
まだ、ある方の手を。
──蘇子!
口を開けると、熱気が喉に押し入って来た。痛くて、声が出ない。
言葉なら、もう充分届く距離だってのに!
手を伸ばした。あの娘の手を掴もうとした。
なのに、指の先すら当たらない。距離が、縮まらない。
ベルトコンベアの上を走ってるみたく、一向に。
──何で?
宙を、ただただ引っ掻いて──
気付く。蘇子は、もう泣きじゃくってなんかいなかった。潤んだ目がまっすぐこっちを見てた。
気付く。蘇子の手首には〈腕輪〉があった。物理的なカタチのない、光る文字が並んで出来たそれは、〈狸〉と地宰が嵌めてたアレにそっくりだった。
気付く。ああ、この手は違うのね。そういう気持で出された手じゃないのね。
目の前が、木漏れ陽色でいっぱいになった。吹っ飛ばされ、苔の上を跳ねるように転がって──止まった。復活しやがった檻の向こう、へたり込む蘇子が、見えた。敵の頭数的な意味でも、距離的な意味でも、またふり出し。チクショウ、銃を手離さなかったのが救いってとこか。
起きようとすると、痛みが脳天を突き抜けた。右脚が、炭みたいにどす黒かった。この黒は……血? それとも焦げてんの? とりあえずフツーに痛いし神経まで死んでるってことは……。目を、逸らした。教室で見たココの腕──とてもさっきまであの娘の一部だったとは思えないカタマリ──を思い出して、吐きそうになったから。
そういえば、トカゲは? 思ってすぐ、頭上で轟音がした。細かい紙切れみたいな炎と一緒に、チカチカ光る赤錆色が落ちていくのが見えた。
──嘘でしょ?
その弱々しい輝きは、正体を確認するヒマもなく、やって来た病龍に一呑みにされた。
火球に追い付かれた? あの猛スピードであんだけ変則的に動いといて? そりゃ多勢に無勢だったけど。それとも、今まで連中がマジじゃなかった?
ゆるゆると目線を下げた。
蘇子が、空に向かって手を突き出していた。さっき私にしてたのと同じように。
「もう……わかっているのでしょう?」
腕が下がる。合わせて、光の腕輪がすっと消えた。
「この子たちは皆私の意思で動いてるの」
……でしょうね。
「貴女を拒んでいるのも私。自分で腕を焼いたのも私」
……でしょうね。
「そして、貴方を傷付けたのも、私なの」
バカね。そんなの──
「わかってるわよ。とっくに」
右脚をそっと撫でる。釘が浮き出てくる感じ。見なくてもわかる。脚の火傷が癒され、元の形へと整えられていってる。パラパラと釘の落ちる音がした。
ホントなら、さっき私に火球を直撃させることだってできたはず。けど、蘇子はそれをしなかった。わざと足許に火球を落として、能力を使えば治せる程度の傷に抑えてくれた。
チャンスを、与えてくれた。
起き上がる。右手には銃、左手にはさっと集めた釘八本。右脚の怪我は言うまでもなく。
「どうして……」
「おんなじよ。きっと」
釘を三本、静かに銃へ込める。
「アンタが氷垣のためにコレを創った理由と多分おんなじ」
言って、ニュアンスはまあ違うでしょうけど、とちょっとだけ笑う。
そう、コレ──蘇子が、ヒトであることを捨ててまで創り上げた、かつて珠置山だったこの砦。
あの娘にとっては、氷垣への想いを形にした大切なモノ。
だけど──
「ごめん蘇子。私今からアンタにとってすごく酷いことをする」
手を広げ、残ってる釘五本を見せ付ける。
諦め切れない。助けたい。
それで動いて、結果、どんなに嫌われたって、軽蔑されたって、絶好されたって。
「この釘で、全部終わりにする。この山の結界、綺麗さっぱり消滅させる」
私の〈好き〉は、もう止まんないから。
※
結界を、消滅させる?
俄かには信じられないその言葉に、つい眉根を寄せてしまいます。
この結界を支えている柱は三つ。一つは地宰。一つは兎の死体。そして、私自身。
地宰には、その身に危機が及ぶようなら、私の身を顧みず力を使いなさいと頼んであります。もし、あの「クロ」と呼ばれていた黒煙の妖人が、あの子に危機を予感させる遑すら与えず、あの子を打倒できる程の腕前だったとしても、結果は同じです。
私に力を与えてくれた、あの昏黒の少女が言っていました。契約した以上、主である私の命が尽きない限り、従者である地宰は死なない。けれども、もし、地宰が倒された──苔によって構成された身体が、自力では修復不可能なほど損傷した──際は、私の精神エネルギーをもって地宰を蘇生させるのだ、と。その「精神エネルギー」が何を指しているのかは、今でもよくわかっていません。それは具体的に何が消費されるということなの、と私が尋ねても、今の貴方にとってはたとえ微々たる量でも失えば酷く困るものよ、としか、少女は応えてくれませんでしたから。あの、加虐的な笑いを浮かべて。ただ、わかっているのは、すでにこの身体が限界だということ。こんな状態で、もし地宰が倒れてしまったら──きっと、それがお終いなのでしょう。
そのシステムを、ささめちゃんはともかくとして、地宰と近しい存在である、あの妖人なら理解しているはずです。そして、ここに来るまでのお互いのやり取りを見ただけでも、あの妖人がささめちゃんのことを第一に考えていることは善くわかります。となると、このタイミングであの子が倒され、柱の一つが欠けてしまうことは有り得ないはずです。
なら、狙いは兎?
兎の死体は、この山の地気を澱ませ、結界の性能を高める役割を担っています。だからこそ、そう簡単に掘り返され、排除されてはならないと、私は、あの少女の協力を得て、兎をゾンビ化することにしました。ゾンビといっても、アニメや映画でよく見る緩慢な動きではありません。彼らは生前と何ら変わらない、命令によってはそれ以上の速度で、半永久的に走り続けることができるのです。そんな、すばしっこく逃げ回る彼らを、山頂にいながら捕捉し、始末する。その術がささめちゃんにはない──と、あの銃を見た今では言い切れません。むしろ、それぐらいあっさりやってのけそうです。
けれど──兎はあくまでオプションなのです。事実、ココさんと一緒に来たあの蛙たちによって、現在兎の数は三匹にまで減らされていますが、結界の維持に問題はありません。一定の空間に一度に召喚できる邪の数と、その召喚までにかかる時間に支障が出始めているくらいです。仮に全滅したとして、ささめちゃんの言う「消滅」に至るとは思えません。
じゃあ、一体どうやって……?
そのとき、乾いた音が響いて。
はっとすると、ささめちゃんが右腕を上げていて。
さっきの音は、銃声だったのだと気付いて。
見上げると──空にはすでに落書きがありました。
枷を外されたことを歓喜する獣のように、獲物を求め、疾走しています。
多くの病龍を一瞬で蹴散らした、あの赤い光が。
一匹の病龍が、それ目掛けて襲いかかります。命令などしていません。異物を排除するためのツールとして、結界が勝手に〈作動〉させたのでしょう。
赤い光も病龍へと向かっていきます。自分より遥かに巨大な相手を避けようともしません。
そして、お互いが衝突したと思ったときには──
一匹だった病龍が、二匹になっていました。頭から、まっぷたつにされてしまったのです。
続けてやって来た他の病龍たちも同様で。
身体を天へ伸ばし、それを一呑みにしようとするけれど。
次の瞬間にはもう、生気のない、たくさんの火の塊となって堕ちていくのです。
──心なしか先程撃ち出されたモノよりも苛烈さが増して見えるのは気のせいでしょうか?
圧倒的です。あまりにも圧倒的過ぎます。
でも──
目をささめちゃんへ向けます。単なる力押しで結界を消滅できない以上、あの光は言わば布石のはず。その証拠とばかりに、ささめちゃんは今、片手ではなく両手で銃を握っています。銃口を下げているせいで狙いはまだ読めませんが、ここにきて両手でしっかり握るということは、次の一撃こそ絶対に外せない──本命だということでしょう。
ならば、取っ掛かりの時点で崩すが最良。幸いにもささめちゃんは先程私がどうやってあれを仕留めたのか、見ていなかったはずです。
もう一度アレを、と右手を上げようとしたところで──
「二本よ」
身体が、ぴたりと止まってしまいます。
一瞬、何のことだかわからなくって呆けている私へ──
ささめちゃんが向ける眼差しは、真っ直ぐで、澄み切っていて。
だから、
だから私は、
「たった今銃に入れた釘の数。だから、残り三本」
誤解してしまう。
ささめちゃんが言った、全てが終わる、という言葉の意味を。
この結界が、シャボン玉のようにぱちんっと弾けて消えてしまったら、氷垣君が犯した罪も、自分が犯した罪も、この身体も、全てなかったことになって、ただの悪い夢になって、またあの幸せな日々が戻ってくるんじゃないかって。
ええ、そう、幸せだった日々が。
──だったら今日の三時間目みたいに、またペアを組んでもらえない?
「もしも──」
軽い頭痛。
「その三本で結界を消せなかったら」
ああ……あれはいつした頼みごとだったかしら。
ただ、あのとき前に座っていたのは、ささめちゃんだったと思います。
「そのときは、私を」
「心配しなくても」
聞き慣れた声が、私の声を思考ごと遮ります。
「ちゃんと取っ払ってみせるからさ」
見えるのは、いつもより──いいえ、いつもと同じで頼もしい、目だけで微笑む貴女の顔。
「だからアンタは、そこで待ってて」
──あぁ、やっぱりこの娘は。
「勿体なさ過ぎるわ。私には」
ゆっくりと右腕を空に向けます。掌を広げると、手首の辺りを温かなものが包んでいきます。眼で見て確認するまでもありません。それは、青く輝く魔道文字──この文字は不思議なことに見る角度によって梵字だったり、ヘブライ文字だったり、とにかくあらゆる文字へと変化するのです──によって造られた光の腕輪。私が力を使う際に現れるもの。
ささめちゃんは、一瞬目を見張りましたが、すぐにどこか呆れた風に頬を緩めました。
だから──もしかしたら私も、つられて緩んだり、しているかもしれません。
「アンタがそんなに強情なヤツだなんて思わなかったわ」
「貴女がそんなに頑固な娘だなんて思わなかったわ」
腕輪をした掌をぐっと握ります。
直後、空が明るくなりました。地面が、翡翠の色に照らされました。
太陽のない世界に現れた、新たな太陽と言わんばかりの輝きを放つそれは──
ここにいる病龍全てを一つにした、ここにある地気全てを収束させた、こうして見上げているだけで創造主である私自身が身震いするほどに、とてつもなく巨大な病龍。
だから当然──と、言うべきなのでしょうか。
空が狭くなったと錯覚させるくらいの巨体をもって尚、彼には顔がありません。
ふと、いつだったか、合体しても顔がないのは変わらないのね、と何気なく呟いた私に、不完全をいくら寄せ集めたところで所詮不完全じゃからの、と地宰が言っていたのを思い出します。いつも通り酷く落ち着いた……いいえ、どこか沈んだ声に聞こえました。
病龍が吼えます。威嚇なのか、それとも痛みの訴えなのか、すでに赤い光の攻撃が始まった今となっては判りません。その猛攻は、病龍の胴体を着々と削っているようですが──やはりそれだけです。ぽろぽろと、降り始めの霰のように零れる火の玉。あれほどの体格差がありながら、その程度の傷を付けるだけで大したものです。
そう、あの赤い光を捕えることが難しいのは、あれが凄まじい速度で、広い空間を動き回るからです。ならば、空間を狭めればいいのです。境内のあちこちにいる病龍という的を一箇所に、それも大きなサイズで纏めてしまえば、必然あの赤い光はああいった動き──行動範囲を狭める他ないのです。
こうなってしまえば、もはやあの赤い光こそが私の的。
ぎしり……と、右の拳が軋みました。この状態を維持できる時間はそう長くありません。
四、五箇所にある残り火を、病龍の身体から零れたモノごと〈目視〉で集め、瞬時に凝縮。空中に火球を形成します。沸々と音を立てるそれらは全部で三つ、あの赤い光を撃ち落とすには充分なはずです。それぞれの火球の周りに、魔道文字で形成された光輪が浮かびました。
あとは、これを、病龍の近くへ。
距離を〈動かす〉だけ。
──光。
一瞬、鼓膜が吹き飛んでしまったと思いました。
気が付けば、身体はうずくまっていて、瞑った瞼が熱くって。
白んだ景色が、徐々に色を取り戻してくると──
病龍が、拘束されていました。全身を覆っている黄金色の格子模様は、まるで電撃の網。身を捩り、呻いているようですが、耳鳴りが邪魔でよく聞こえません。
ささめちゃんは、頭上に向けていた銃を下ろします。そして、残りの釘を詰め終えてから、言いました。その声はとても静かなものであったのに、何故かはっきりと耳に届きました。
「それ……遁甲術でしょ?」
※
「とん……こう」
さっきの閃光のせいだろう。蘇子は苦しそうに目を瞬かせている。
思いの外反応が薄い。もしかして読みを外した? いや、まだ、続けてみる。
「遁甲術じゃあピンと来ない? なら奇門遁甲? それとも八門遁甲? ああ、アンタがもし距離を操ることメインで教わったんなら、やっぱり縮地法?」
蘇子の眼の色が変わった。目は口ほどになんとやら。ユリイカだ。
縮地法ってのは、地脈を操って距離を寄せたり離したりする術で、さっき私が言った遁甲術の応用に当たる。そもそも遁甲術は、天体の動き、山や河の変化から運不運を読む占いの一種のはずなんだけど、それが中国の伝承じゃ、コイツを応用すれば天気や地形を操作する魔法が使えるぞ、的な扱いになってたりする。有名ドコなら『三国志演義』に出てくる宰相──諸葛孔明が遁甲術の使い手で、風を起こして火攻をサポートしたり、縮地法を使って敵軍の追撃を中止させた、なんて話がある。
……で、私が何でそんなに詳しいのかって言うと、それは間違いなくクロのせいだ。
小四の始まり頃から〈アイツら〉が見え出して、程なくしてアイツに会って、それから今日まで、これ系の話はこっちがついて行けてる行けてないを完全シカトしたペースで聞かされてる。しかも何が腹立つって、アイツの話って偶に身になんのよ。そう、今みたく。
「最初から……知っていたの?」
能力の正体を。
気が付けば、蘇子の周りにもう火球は浮かんでいない。
「まさか。アンタを目指して進んでんのに距離は全く縮まんなくて、戸惑ってた矢先足許で大爆発。そうやって体験して初めてアンタが縮地法を使えるってわかったの。爆発の方は……作った火球を私の足許に〈移動〉させたってとこね。ついでに言うと、あのデカい病龍を創んのに使ったのもそれでしょ? 病龍同士の距離を縮めて、ゼロにして、くっ付けた」
蘇子はただ目を泳がせている。いや、そうじゃない。アレは意図的な動きだ。多分魔術で言う呪文の代わりになる仕草。でも、きっと何も起きない。
「残念だけど、病龍ならもう呼べないわよ」
だってアレで全部だからと言って、私は指差す。網に囚われ、もがくしかない病龍を。ソイツの顎には、赤錆色をしたゼラチン質の塊がパチパチ放電しながらへばり付いている。釘二本を使って召喚したその電気クラゲ──ちなみに本物の電気クラゲは放電しない──型特製弾は、私がいつも撃ってる弾と違って誘導性を持たない。だから撃つとき、頼れるのは自分の腕前のみ。けど、当たればこの通り、着弾と同時に広がるエネルギーネットによって、素になる釘の質次第じゃかなりの時間相手を拘束できる。
「この神社の中に呼べる病龍の数って決まってるんでしょ?」
蘇子は何も言わない。ただ、顔を見れば図星だってことは察しが付く。
「トカゲ撃って最初の病龍を粗方削ったあと次のが湧いてきたのを見て、なんとなく気付いたのよ。最初と数が変わってないって。多分今見えてんのがこの神社に呼べる病龍の数の限界なんだろうって。だから、アンタには病龍をひとまとめにしてもらった。ソイツを捕まえて次を呼ばせないためにね」
まさか、と蘇子は眉根を寄せる。
……どうやら気付いたみたいだ。この場に病龍を呼べない、そのワケに。
この空間には、呼び出せる病龍の限界がある。なら、まずはソイツらを全部呼んでもらって、それからソイツらの動きを一匹残らず封じてしまえばいい。そうすれば、もう次は来ない。だって、たとえ身動き取れなくたって、ソイツらは皆そこに〈いる〉んだから。〈いる〉以上は、一匹としてカウントされるんだから。つっても、言うは易く行うは難し。アイツら全部を一気に拘束するなんて手段、私は持ってない。だから、あの娘の技を利用した。病龍を合体させ、撃つべき的が一体で済むよう仕向けた。
「どうして……合体させると思ったの?」
「もちろん確信はなかったわ。でも、病龍が使えて、モノとモノの間の距離が操れて、自分がもしそんなスペックだったらって考えたとき、あのトカゲを墜とすとしたら多分こうするって思ったのよ」
囮をデカくし、トカゲの行動範囲を狭めたトコで、囮ごと吹っ飛ばすつもりで攻撃。私も多分そうする。
「でも、私があれをもう一度墜とそうと思うとは限らないじゃない」
「そりゃね。一度返り討ちにした攻撃を相手がもう一回やってきたら、ヤケになってんのか、それとも何か策術でもあんのか、フツーは勘繰る。アンタの言う通り、墜とさない、自分からは仕掛けないって選択肢だってあり得るわ。……あの前置きナシじゃあね」
「前置き?」
「この釘で全部終わりにするって言ってたヤツよ。ねぇ蘇子。今私らがやってることはさ、結局のトコ、頑固者と強情なヤツの意地の張り合いなワケよ。私はアンタを助けたいけど、アンタは私に助けられたくない。私はアンタを攻撃しないけど、アンタも私を本気では攻撃できない。こんなの……戦いじゃない。戦いなんて呼べない。確かな勝ち負けの条件が全くない」
だから──
「だから──作ったのね」
続けようとしていた言葉は、代わりに蘇子の口から出た。私は、少しだけ驚いたあと頷く。
そう、作ったの。単なる意地の張り合いに勝敗の条件を。八本の釘を見せ付け、これで助けられなかったら諦める、と。言われて、私の撃ったトカゲは、結界を破るための布石──蘇子にとって絶対迎え討たなければならないモノへ、化けた。これさえ攻略すれば勝てる。大野木ささめは諦めてくれる。蘇子は、きっとそう思ったんだろう。
蘇子は溜息をついた。固く張り詰めていた胸から空気が漏れ出るように、長く長く。そのあと、伏せた眼だけで幽かに笑って、
「教えて。……結界はどうやって消すつもりなの」
そう訊いた。
何も言わず、私は銃を構える。そして、トリガーを引いた。
蘇子の背後──珠置神社が火を噴いた。格子戸がぐわっと膨らんで、中から出てきた炎に飲まれた。さっきの落雷じみた銃声よりも、数倍ヤバい音が鼓膜を打つ。なんつー音の暴力。それでも、神社の破片が私たちに当たらず、爆風も蘇子の三つ編みをなびかせる程度でしかなかったのは、そんだけ加減したからだ。トカゲと同じ釘三本から作れるホタル型焼夷弾──時限式でも地面に当たった衝撃で爆発する着発型でもなく、私の好きなタイミングで爆発する「任意式」、しかも爆風の範囲まで自由に設定できるトンデモ爆弾──の火力を。生物みたいな火焔がべろべろ拡がって、空に火の粉を舞い上げていく。そこに、もう病龍はいなかった。やがて、神社は火ダルマになった。
蘇子が上を見ている。私も同じようにした。何か起こりそうな……ううん、もう起きてた。
色ガラスの雪が降っていた。結界の欠片だって直感でわかった。さっきから顔や肩に当たってるのに全然痛くない。蘇子も同じなんだろう、避けようともしていなかった。ただ、蝶の羽みたいな煌めきに見惚れてた。
「本当に……綺麗さっぱりね」
蘇子の呟きに、小さく頷く。
神社が、ごうと音を立てた。
「クロ……相棒から聞いたわ。神社を山頂に建てられたりして傷付いた山のことを風水的には病龍って呼ぶって。あと、病龍を流れる気は地宰にとって扱いやすいってことも。それは、多分結界も作りやすいってことよね? つまりさ、この山が病龍だってことは結界作る上で欠かせない条件の一つだったのよ。なら、そいつを除けばいい。この山を病龍にしてる原因──珠置神社をブッ壊せばいい。そうすれば、アンタに手を出さず……結界を消せる」
ガラスが降り積もり、ゴシック教会のステンドグラスみたくなった地面──ふと、その中にトタンの破片が混じってるのを見付ける。私からは見えなかったけど、あの神社、壁をコレで補強してたのね。そんなにも脆いモノが、この砦の〈心臓〉だったんだ。
顔を上げると、蘇子がこっちを見ていた。柔らかく微笑んだ。
「助け……られちゃった」
眩暈が、した。でも、実際はそんな気がしただけ。ふらついたりはしなかった。
ああ、やっぱ自己満足だったのね、コレは。どんな結末が待っていようと、じっとしていることだけはできない──そんな思いのまま飛び出して、助けるよ、なんて約束して、この娘のホントの目的もわかんないまま〈武器〉取り上げて、結界ブチ壊して……。結局、欲しかったのはこの言葉。助けられないとわかってても、親友を見殺しにするなんてあまりに心が痛いから、せいぜい足掻けるだけ足掻こう。そうすれば、浅い傷で済む。やれるだけのことはやった。何もしなかったよりずっとマシだ。だから──赦されるんだ。私は。私だけは。
──クソ。反吐が出る。
ぶんぶんかぶりを振り、銃を捨てた。足早に蘇子へ歩み寄って、目線合わせて。そっと肩に触れた。もしかしたらまだ、って思って強く念じた。釘は──抜けなかった。蘇子の苦しみを取り除くことはできなかった。震える手に、蘇子の手が重なる。ごめんねって言った。もういいのよって眼で言われた。
「助けてもらったと思っているのは本当よ」
嘘よ。
「だって、藤枝蘇子のままでいられるんだもの」
止めてよ。
「最期まで一緒に……貴女のお友だちのままで」
言い終わるより先に、抱きついた。こうすればお互い顔が見えない。今更泣き顔見られるのが恥ずかしいとか思ったんじゃない。ただ、蘇子がこの時間をいつもの自分として、いつもの私と一緒に過ごしたいのなら、この顔を見られるのはダメだと思った。泣きじゃくってる今の私は、少なくとも蘇子の知ってる私とはかけ離れてるような気がしたから。
蘇子のない方の腕からは、苔が流れている。
「蘇子」
「なあに、ささめちゃん」
「おしゃべり、しよっか……?」
砂時計だ──と思った。
さっきまで神社だったモノが、童話の暖炉みたいに燃えている。
ガラスの雪は、ちらちらと疎らになりだしていた。積もってたガラス片も、いつの間にか溶けるように土……じゃなくて、苔に消えていた。きっと、そう遠くない内に止むんだろう。
今、私と蘇子は、背中をくっ付けて座っている。それは、そうしたいって蘇子が望んだから。このままじゃダメなのって訊くと、蘇子はスカートの端をちょいと摘まんで、引き上げた。腿に、真っ赤な苔がびっしりだった。頭の芯をブン殴られた気がした。ここだけじゃなくて、今も広がってるのよと言って、ぎこちなく笑う蘇子。スカートから離れた手が、今度はスクールリボンへ伸びて──。
咄嗟に、私はその手首を掴んだ。震えてる──と思ったら、震えてんのはこっちの方で。短く千切るように吐いてる息もまた、おんなじだった。そのまま私たちは見つめ合う。つらそうな顔の蘇子が何か言う前に、私は少しだけ笑って口にした。今のスカート捲るの、ちょっとドキっとしたって。蘇子が──目を丸くした。それから、何言ってるのよもうっと困ったように笑った。
──ホント、何言ってんだか。私は。
背中合わせになると、不思議とさっきより蘇子を近くに感じた。抱き合ってると自分の鼓動がデカ過ぎて、蘇子のを聞いてるどころじゃなかったせいかもしれない。ドキドキしてると蘇子が言った。アンタだってと心の中で返して、蘇子の手に触ると、ざらりとした。ヒヒイロゴケ。固まってると、力いっぱい握らないでね、崩れちゃうからと忠告された。どこか冗談っぽい感じだったけど、きっと比喩じゃない。うんと首を縦に振って、私たちは手を重ねるだけにした。
「初めてで、一番だと思ってたの。氷垣君のこと」
けど、と蘇子は続ける。
「あの日、稲荷神社で氷垣君とココさんが一緒にいたのを見て──」
──稲荷神社?
初耳だ。あの二人、マジでそういうカンケーだったの?
「嫉妬……した?」
そうね、と呟くように蘇子が言う。
「ただ、心のどこかで──お似合いだなぁって。氷垣君が幸せならいいかなって。そうも思えたの。けど、それは抱くには遅過ぎる気持ちだった。そのときには私、もう藤枝蘇子を捨てていたんだもの」
藤枝蘇子を捨てる──それは多分、そのときにはもう純粋なヒトの身体じゃなかったってこと。
「彼のことが好き──その一心だったわ。彼のしたこと、見て見ぬふりをして、隠して、罪の肩代わりをしようと、こんな身体になって。それぐらい好きだと思っていたの。この恋に、命を削るくらい価値があるって思いたかった。なのに、それなのに、あの二人が話しているのを見ただけで、呆気なく気持ちは揺らいで……。どうしても、受け入れるわけにはいかなかった。受け入れて、一歩引いてしまったら、私が今までやってきたことには何の意味があるの? この身体には、一体……どんな価値があるの?」
震えている蘇子の声。けど、私には手を〈握って〉やることすらできない。
〈砂時計〉のペースは変わらない。私たちの時間は──止まってくれない。
「そう思ったら、動かずにはいられなかったわ。結界を強固にする努力──その積み重ねをしている内はとても安心できたの。氷垣君のために作ったものだから、これが続く限りは私の恋も終わらない。彼を好きな気持ちは決して色褪せない。そんな風に、気が付けばすり替わっていたのよ。氷垣君のためが自分のために。……いいえ、本当は最初からすり替わっていなかったのかもしれないけれど。氷垣君の罪が暴かれること以上に、自分が彼を好きでなくなることを恐れていたの」
──でも、無理だったの。耐えられなかったの。
埃色の雨が降っていた、あの日。
──いざチャンスを与えられてしまったら、抑えることが出来なかったの。
蘇子は、そう言った。
目を見なくたってわかる。今のこの娘はホントのことを喋ってる。でも、じゃあ、蘇子がココと笹ヶ瀬を襲おうって衝動に駆られたのは、ココがいなくなれば氷垣は自分を見てくれるかもとか、そんなんじゃなくて、
「嗚呼、私──恋に恋をしていたんだわ」
笹ヶ瀬だけじゃない。ココも殺せば、より一層氷垣を好きってキモチを高められる。
決してブレない、色褪せない、確かなモノにできるって思ったから。
歪んでる──のかは、わかんない。恋するオンナノコとして。
そんなにも、誰かを犠牲にしてもってくらい激しい、身を焦がす程の恋ってヤツを、私は多分──。
──それは一番か? さーたんが命懸けて守ったつくしよりもか?
つい、過ぎっちゃうのは、
──ドラマで言ってたろ。美男美女同士友情は有り得ねーって。俺、そういう主義なんだ。
珈琲に角砂糖三つも入れる甘党で、つくしに「かっくいー」とかヘンな言葉を伝染していって、つくしと二人一緒に膝枕してくれて、
──だからよ。一番じゃねぇんなら、俺たちゃもうアカの他人だ。
三人で暮せんならどんな家がイイか、なんて妄想に付き合ってくれて、
──あのショボイ雨ン中、俺とさーたんは……出逢わなかった。
私なんかに人生を台無しにされてしまった、あのオトナ。
「結局、私が一番守りたかったのは初恋そのもので、一番好きなのは自分だったの」
氷垣君じゃなかったのと蘇子は言った。
一番好きなのは。また、一番。順位の話。
「ねえ、蘇子。アンタ、私のこと好き?」
背中越しに、蘇子が唖然としたのがわかった。少し間が合って、
「う……うん」
らしくない……ある意味じゃらしいと言える、年相応の女の子の返事。この娘のきっちりしてるとこも、ちょっと抜けてるとこも合わせて、友だちの私は知ってるから。
「じゃあ、いいんじゃない」
「え?」
「一番じゃなくても、好きなんでしょ。好きな気持ちは嘘じゃないんでしょ。ならいいじゃん」
氷垣が何番だろうと。私が何番だろうとさ。
「好きなら──いいよ」
背を預ける。こつん、と互いの後頭部が当たった。目を瞑ると〈砂時計〉の音が遠のいた気がした。流石に全く聞こえなくなったりはしなかったけど、それでも遠く。
「訊いても……良い?」
「うん?」
「ささめちゃんの一番は……誰なの?」
思わず、目を見開いた。蘇子の声はどこか意地悪な気がする。けど残念。私が目を開けたのは、訊かれたことに驚いたからじゃあなくて、あの娘に呼ばれたような気がしたからだ。
──ささめねーちん。
頬を掻きながら、素直に答える。
「悪いけど……って前置きするのも変か。蘇子は好きよ。けど、きっと一番じゃない」
そう、と静かに頷く気配。
直後、私を支えてる蘇子の背中が、急速に頼りなくなって、すごく嫌な予感がして、
「ふふ、今少しだけ」
蘇子の想いを裏切って、振り向こうって決めたときには、
「悔しいなって思っちゃった」
背中から、ぽふりと。赤い苔の上に倒れていた。顔を傾ければ、当然頬を苔がくすぐる。そこだけが特別温かいとか、紅玉みたいに綺麗とか、そんな風に思いたかったけど、あいにくそんなことはなくて、炎のように赤いクセに、ただただ冷たいばっかで。
──自然と溢れて仕方がないものはそのままにするべきだ。
ははっ──て短く、掠れ切った声で笑ったあと。
──そして今のこの涙は、きっと。
私は、ちょっとだけ泣いた。
空を彩るのは、しんしんと降る紅だけ。色ガラスの雪は、もう降らない。