『ささめと蘇子』 【大野木 ささめ】
暗い水底のあぶくのように、浮かんでは消え、浮かんでは消え。伝えなければならない言葉は、いつまで経っても形になりません。それはきっとあの娘に嫌われることを恐れているから。
「虫のいい話だわ」
この期に及んで、まだあの娘の心が自分から離れていないと信じているんだなんて。目が合えば、あのどこか大人びた優しい笑顔を見せてくれる。「蘇子」と下の名前で呼んでくれる。そんなあの娘は、もう思い出の中にしかいてはいけないのに。
「ささめちゃん」
──まだ、そう呼んでも構わないのかしら。
あの娘が私のことを「蘇子」と呼ぶようになったのは、いつからでしょう。こめかみに触れ、目を瞑れど、暗闇のカンバスを記憶の画筆が彩ってくれることはありません。ただ、金属を擦り合わせるような音が痛みを伴って頭の中に反響するばかりです。あの娘と出会ったのは中学一年生のときで、その頃から一番の友だちだったはずなのに。そんなにも最近のことを、大切なことを、どうして思い出せないのかしら。内腿に苔が深く根を張っているように、いつの間にか脳までもあれに侵されてしまったのかしら。
「もし、そうなら……」
少しは楽かもしれません。
このままいけば、きっと死ぬまでには、おこがましくも未だ戻りたいと願うあの日常さえも──
背後で、さくりと霜柱を踏み潰したような音がしました。
身を固くします。
振り向かなければ、声にしなければ、形にしなければ。
息が──震える。
※
絨毯から跳び下りて歩き出す。ふわふわとついて来るそいつを手で制した。ありがとうとだけ言って、振り向きはしない。ちょっとでも目を離したら、あの小さな背中が消えてしまいそうだったから。
皮つきの丸木を組んだだけの粗末な鳥居の向こう。社と思しき掘っ建て小屋の前で──
スタンダードな三つ編み。見慣れたセーラー服。薄ら苔の積もった華奢な肩。
蘇子は、まるで彫像みたいにぴくりとも動かず、立ち尽くしていた。
「蘇子」
呼んだつもりだった。でも実際は唇が思っていた通りの形に動いただけだった。ほっとしている自分にムカムカする。振り向いてくれたところで、どんな言葉を続ければいいのかわからなかったから。
鳥居を潜る。出迎えてくれる狐はいない。狛犬がいたような形跡もない。稲荷神社とそう変わらない広さの境内には、社務所や手水舎らしき建物も見当たらなかった。これじゃ神社っていうより寺みたい。いや、寺と神社の正確な違いなんて知らないんだけど。ただ寺の方が鳥居や鈴がない分、地味っていうか、見映えしないっていうか……。
──寂しい。
根を張るように足が止まる。あともう五歩も進めば手が届く。
ここには何もない。塗り絵みたいな空と苔の重みで今にも潰れそうな社しかない。こんなにも寂しい場所に、アンタは──
「いつから……いたの」
たった独り、氷垣のことを想って。
「何をしに来たの?」
蘇子の声は冷やかだった。こっちを見てはくれない。
「私を止めに来たの?」
馬鹿みたいと蘇子は吐き捨てるように言った。
「止めて、連れ戻して、それでどうするの? 兎を殺しただけじゃない。ココさんを、笹ヶ瀬さんを殺そうとした私を貴女は……ささめちゃんは赦せるの? またいつかあの二人に……ささめちゃんにだって手を出すかもしれないのよ? こんな私があの毎日に帰っていいと、これからもささめちゃんたちと何食わぬ顔をして同じ時間を過ごしていいと、本気でそう思ってるの?」
胸の前で組まれているだろう両手は私からは見えない。でも、きつく握り締められたそれが震えているんだってことは何となくわかる。
「そんなわけないわ。そんなわけない。きっと氷垣君だって……赦してくれない」
氷垣君。氷垣蓮太郎。
好きだから。言葉にすればたったそれだけの理由で、蘇子にここまでさせたアイツに腹が立つ。元はと言えば全部アイツが悪い、とまでは言わない。氷垣が事件の犯人だってことは事実で、蘇子がそれに加担したのも事実。でも、蘇子が私と同じ〈眼〉を手に入れたこととアイツは無関係だろうから。けど、やっぱ一発くらいぶん殴っとけばよかったかも。今の蘇子を見てたら尚更思う。
──好きだから、か。
「蘇子。私、アンタに訊かなかったよね。アンタがどうやって私と同じ〈眼〉を手に入れたのかって」
振り向きそうな気配がした。脈絡ない話題を振られて戸惑ってるのかも。
「確かにあれは優先して訊くことじゃなかった。でも、本音を言うと……怖かったの。私の〈眼〉は小四の頃からある日突然視え出して、いきなりだったからこそ、こうなっちゃったワケを詳しく知りたいって思う一方で目を背けてた。もしアンタの経緯が私のと違ったら? しかもとんでもなくおぞましいものだったら? もう……戻れなくなるって。結局、私は自分のホントの姿を知るのにビビって、蘇子の傍を離れたのよ」
だからあのとき手を離してしまった。スカートの中から零れ落ちる苔にアンタの死だけじゃなく自分の未来さえ見たような気になって、怖くなった。
でも。
「もう怖くないとまでは言えない。けど、逃げたくはないの。だから、正直に言うわ。私、アンタのことを赦せる自信がない。アンタを連れ戻せたところで、これまで通りの大野木ささめとして一緒にいられるかっていうとその自信もない」
蘇子が、肩を強張らせるのがわかった。
「でもね……嫌いにはなれないの。アンタは酷いことをしたけど、それでこれまでアンタといた時間を全部帳消しにできるかっていうとそうもいかない。私の思い出の中の蘇子はどのシーンを思い出してもいいヤツで……だから、そう簡単には割り切れないの」
ささやかなあの娘の嗚咽が、胸に沁み込んでく。
「私はまだ蘇子のやったことを赦せない。でも、これだけは確かに言えるの」
アンタが何をしても、何を言っても、何処へ行ってしまっても。
たったひとつだけ、これだけはって誇れるもの。
「今でも変わらず、私は蘇子のことが好き」
三つ編みがふわりと踊った。信じられないものを目にしたような顔だった。何かを伝えようと口を動かして、言葉にならない声を漏らして。出そうとしていた想いを全部呑み込むように歯を食いしばって、俯いて──
「私……もう助からないのよ?」
胸を、撫でるように抉られた。
「ささめちゃんがどんなに優しくしてくれたって、好きって言ってくれたって」
──藤枝蘇子がこの世から消えるという幕引きは、絶対に避けられない。
「私は……消えてしまう」
前髪に隠れた瞳から、真珠色の滴がポロポロと落ちる。
知ってたんだ、そこまで。自分がもう長くないってことまで。
死ぬって、消えるって、わかってて──なのに、ひとりぼっちで、ここにいる。
ひとりぼっちで。
足が独りでに一歩、前へ進んだ。当たり前だけど足の裏に根なんて張っちゃいなかった。触れたい。手を伸ばすと、視界の端から木漏れ日色が覗いた。どっかで見た光だと思って、慌てて後ろへ跳ぶ。着地と同時に滑走、苔を利用してさらに離れる。
「蘇……子……?」
私と蘇子の間に土木機械で抉ったような溝ができていた。あちこちに緑の炎がこびり付いていた。
スカートの端を握り締めたまま項垂れる蘇子。その周りで、蘇子の背丈を遥かに越す火柱がうねっていた。その数は十本の指じゃ足らない。まるで蘇子を捉えている檻みたいに見える。地中から生えているそいつらには、眼と鼻がなかった。病龍。欠陥が生じた龍の具現。
「最初はね……」
蘇子は自嘲気味に微笑むと、語り始めた。
※
これを口にしたら、地宰に頼みささめちゃんをここに通してもらったことを無意味にしてしまう。そんなこと痛いくらいわかっています。それでも尚この気持ちを表に出そうとしている私の何と我儘なことでしょう。結局、あの娘の言う通りだったではありませんか。氷垣君を好きだと言っておきながら、ココさんに嫉妬しておきながら、ささめちゃんに好きだと言わせておきながら、本当に好きだったのは……。
──ああ、今日も私の一途な想いは変わっていないって。
どこまで……最低なのでしょう。
「最初はね……突き離すつもりでいたの、ささめちゃんのこと」
絶対来るなって言ったのに何をしに来たの? 連れ戻すって一体どこに連れ戻す気なの? 今更私が戻っていい場所なんてあるの? 教えてあげるわ。私もう死んじゃうのよ、手遅れなの、そういう運命なのよ。貴女私を助ける方法知ってるの? 今にも崩れてしまいそうなこの身体を元に戻す術を知ってるの? 知らないなら最初から来ないで。何も出来ないくせに期待させないで──って。
「そうすれば嫌ってもらえる。あんな奴いなくなって清々した。死んで良かったと思ってもらえる。そうすればささめちゃんを苦しめずに済む。身近な人を喪う哀しみを味合わせないで済む」
──大野木さんにこれ以上義妹さんを失う哀しみは味合わせたくなかったから……。
そう言ったのは、いつだったかしら。頭が痛い。
「でも、いざ顔をあわせれば口から出るのは貴女の情を誘うような言葉ばかり。本当に狡い。でも、そんな卑怯な私のことを貴女は好きだと言ってくれた。助からないと聞いて尚距離を縮めようとしてくれた。そして──」
一拍間を置きました。言葉が即座に続かなかったのです。
「貴女はこんな私のために涙まで流してくれている」
ささめちゃんの眼に溜まっていた涙が、頬を筋になって流れ出しました。一瞬目を丸くしたのは、泣いているという自覚がなかったのかもしれません。ささめちゃんはそれを拭いもせず、火のように熱く潤んだ瞳で私をじっと見ています。頬が綻んでしまいました。
「そんなにも、私のことを大切に想ってくれてありがとう。貴女の清らかな心の一部に私なんかを友だちとして置いてくれてありがとう。そして、そのスペースには私より遥かに相応しい人がいたはずなのに、私なんかを置かせてしまってごめんなさい」
一匹の病龍に指示を出します。左腕を差し出すように横へと伸ばしました。
道連れにしてごめんなさい地宰。ありがとう。
「私もささめちゃんのことが好きよ。本当に大好き。でもだからこそ、貴女が私の最期を看取るようなことはあってはならないの。だって──」
それは──
「私なんかには、勿体なさ過ぎるもの」
左腕を引っ張られるような勢いに、転んでしまいます。真横を病龍の吐いたエメラルドグリーンの火球がすり抜けていったのです。見ると、左の二の腕から先がありません。痛みどころか血の一滴さえありません。代わりに断面から光り流れるのは焔色の苔。人でないことの証。私にはお似合いの末路です。
蘇子──と呼ぶ声が掻き消されます。ささめちゃんの進行を病龍が妨げたのでしょう。そう、これでいいのです。ささめちゃんは片膝をついていました。目線が高いのは、私の後ろに並ぶ病龍の群れを睨んでいるからでしょう。
目が、合ってしまいました。
「蘇子!」
力強い声に応えなければなりません。
さよなら、と言葉にすればたった四文字。
諦めさせなければ、何より諦めなければ。他ならぬ私自身が。
「ささめちゃん!」
私よりずっと素敵な友だち、貴女ならきっと見付けられるわ。
「 」
──今、私は何と言ったの?
※
蘇子を囲う病龍を睨む。殺意めいたものはあまり感じない。目的はあくまで進行の妨害ってとこか。視線を下げると、倒れている蘇子と目が合った。左腕がない。どうしようもないくらい胸がざわつく。
「蘇子!」
言わなくちゃ。アンタは大きな勘違いをしてるって。アンタは自分には友だちに看取られる資格がないって思ってる。だから私を遠ざけようとしてる。でも、そうじゃないの。本当に私のこと好きって思うんならやっていいのはそれじゃない。私はそれをつくしから教わってるのよ。
「ささめちゃん!」
助けられない命とわかってても傍にいたい。
これは単なるエゴかもしれない、でも、それでも──
たすけて。
声としてはほとんど聞こえなかった。けど、口は確かにそう動いて見えた。
蘇子が口を手で覆った。首をぶんぶん横に振った。もう充分だった。
──私はここに戦いに来たんじゃないって。
ただ近付くために、そこでアンタと話をするために。
私は、〈ケータイ〉を手に取った。